酒の流れる川で君を待つ

乾為天女

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第10話 クレームと折り目正しさ

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 火曜日の午後、「川べり文庫」はまだ本気を出していなかった。
 川沿いの通りには、スーツ姿がまばらに行き交うだけで、提灯の灯りもまだ控えめだ。
 店の中には、包丁の音と水の音、そしてレジ横の電卓を叩く乾いた音だけが響いている。
 「……今月、油と小麦粉、両方値上がりしてますね」
 カウンターの端で帳簿と仕入れ表を並べていた奏斗が、静かに呟いた。
 数字がびっしり書かれた紙の端を、ぴしっと指先で揃える。
 伝票の角と角がきれいに重なったところで、ようやく息を吐いた。
 「値上がりしてないもの探す方が大変じゃない?」
 厨房から顔を出した絵斗が、手に持った菜箸をくるりと回す。
 「玉ねぎも人参も、ほら、見事に右肩上がり」
 「右肩上がりは売上だけで十分なんですが」
 奏斗は、ため息混じりに電卓を置いた。
 「前菜の原価、ギリギリまで調整しました。鶏ハムとポテトのグラタン、仕込みの分量だけ少し見直しましょう」
 「……味、変わらない?」
 「量は変えません。ただ、無駄を減らすだけです」
 そう言いつつ、奏斗はレシピのコピーを指でなぞった。
 「レシピ通りに作ってくれれば、味は変わらないはずです。いつも通りに」
 「いつも通り、ねえ」
 絵斗は、少しだけ眉を上げた。
 「『いつも通り』って一番難しいんだけどな」
 そうぼやきながらも、コンロに火をつける。
 鍋に湯が沸き、鶏肉が静かに沈んでいった。
     ◇
 夜七時。
 通りの提灯が一斉に灯り始めるころ、店の扉が開いた。
 「いらっしゃいませ」
 花春が、いつもの声で迎える。
 「お、やってるねえ」
 入ってきたのは、見慣れた顔だった。
 グレーのジャケットに、少しよれたネクタイ。
 手には、読みかけの文庫本。
 「佐久間さん、こんばんは」
 奏斗が、カウンター越しに頭を下げる。
 この界隈で働く編集者で、週に一度はふらりと現れる常連だ。
 彼が座るのも、いつも決まって入口から二番目のカウンター席だった。
 「今日もお疲れさまです」
 「いやあ、まだ全然終わってないんだけど、一回ここで休憩入れないと原稿読めなくてね」
 佐久間は、ジャケットを脱いで椅子の背に掛ける。
 「いつものやつ、ある?」
 「あります」
 奏斗は、カウンターの中で無意識に背筋を伸ばした。
 「『いつものやつ』、本日もご用意しております」
 「じゃ、それと……あと、あのポテトのグラタン。あれ食べないと一週間が締まらないんだよ」
 「かしこまりました」
 「いつものやつ」。
 それは、佐久間が初めてこの店に来た日に頼んだ組み合わせだった。
 軽めのハイボールと、ポテトと玉ねぎのグラタン。
 原稿に追われた夜、川沿いを歩いているうちにふらりと入ったこの店で、
 「何か、締めにちょうどいいやつ」という曖昧な注文に対して、絵斗が即興で作った皿。
 それ以来、彼はずっと同じものを頼み続けている。
 「璃音さん、グラタン一つ、いつものサイズで」
 「はい」
 璃音は、オーブンの方に視線を向けながら答えた。
 「ジャガイモ、さっき仕込んだ分、ちょうどいい感じです」
 厨房では、絵斗がグラタン皿にポテトと玉ねぎ、ホワイトソースを重ねている。
 「今日、いつもより表面、ちょっとだけこんがり目にしていい?」
 「レシピに問題がなければ、お任せします」
 「はいはい、『レシピ通りの範囲で』ってことでしょ」
 絵斗は、笑いながらも手元の分量をきっちり量った。
 ホワイトボードには、「ポテトグラタン:原価○○円」と、奏斗の字で小さく書かれている。
 それをちらりと見て、スプーンの山を一すくい減らした。
 (味、変わんない変わんない)
 自分に言い聞かせながら、粉チーズをぱらりと振りかける。
 数分後。
 「お待たせしました、『いつものやつ』です」
 湯気を立てるグラタンが、ハイボールの隣に置かれた。
 「おお……」
 佐久間は、目の前の皿を見てふっと息をつく。
 「この匂いね。これがあると、『ああ、一週間終わった』って感じになるんだよな」
 「まだ火曜日ですが」
 「気持ち的には金曜日なの」
 そんなやり取りに笑いながら、佐久間はスプーンを手に取った。
 表面を軽く割ると、中からとろりとソースが顔を出す。
 ポテトと玉ねぎが、チーズと絡まり合っている。
 一口、口に運ぶ。
 スプーンが皿に戻るまでの間、数秒の沈黙が落ちた。
 奏斗は、カウンター越しにその表情を横目でうかがう。
 (今日は、原価もレシピも問題ないはず)
 そう思った矢先——。
 「……ん?」
 佐久間の眉が、わずかに寄った。
 「どうぞ、ごゆっくり」
 いつものように声をかけながらも、奏斗の胸に小さなざわめきが走る。
 二口目。
 三口目。
 佐久間は、しばらく無言のままスプーンを動かし、それからハイボールを一口飲んだ。
 「奏斗くん」
 名前を呼ばれ、奏斗はカウンター越しに一歩近づく。
 「はい」
 「……今日の、いつもとちょっと違う?」
 その一言は、クレームというより、確認に近かった。
 それでも、「違う」という単語が耳に引っかかる。
 「具体的には、どう違うと感じられますか」
 奏斗は、可能な限り冷静な声で尋ねた。
 「うーん……」
 佐久間は、スプーンを皿の縁に置いて腕を組む。
 「味が落ちた、とかじゃなくてね。なんかこう、いつもより軽いというか。
 前は一口目で『あー、今週も終わったー』って、胃のあたりにどしっとくる感じだったんだけど」
 胸の前に手を当てて、「このへん、このへん」と指で示す。
 「今日は、『あれ、もうちょっと行けるかも』っていう軽さなんだよな」
 悪意のない顔だった。
 むしろ、自分の言葉選びを気にしているような遠慮が見える。
 それでも、その言葉は確かに「いつもと違う」と告げている。
 「ソースの塩気かなあ。いや、ジャガイモの感じかも。……すみませんね、めんどくさい編集者みたいなこと言って」
 「いえ」
 奏斗は、無意識にエプロンの端を指先でつまんだ。
 「ご意見、ありがとうございます」
 背後で、厨房の気配がぴたりと止まる。
 絵斗も、耳だけはカウンターに向けられているのが、空気で分かった。
     ◇
 カウンターを離れたところで、奏斗は小さく息を吐いた。
 すぐに厨房に向かい、オーブンの奥を覗き込む。
 「絵斗さん」
 「聞こえてた」
 絵斗は、手に持っていたフライパンをコンロから下ろした。
 「レシピ通りに作ったよ。分量も、火加減も。塩も胡椒も、いつもと同じ」
 「ホワイトソースのバターの量は」
 「ちゃんと計ったってば」
 そう言いながら、絵斗はレシピカードを指さす。
 そこには、「ポテトグラタン」の材料と工程が、細かい字でぎっしり並んでいた。
 「ジャガイモの厚さも、ほら」
 まな板の上には、薄く切られたポテトが並んでいる。
 厚さも形も、ほとんど揃っている。
 「俺、むしろいつもより慎重にやったよ。さっき原価の話されたから」
 「原価の話は、味を落とさないための話です」
 奏斗は、淡々と答える。
 「無駄なく使うことで、今の価格で提供し続けるために」
 「それは分かってるって」
 絵斗は、手を止めずに野菜を刻み続ける。
 「でも、『いつもと違う』って、こっちからすると一番困るんだよな。
 違うことしてないのに違うって言われると、『じゃあ俺の舌がおかしいのか』って話になってくるし」
 「……」
 「『味、落ちた』って言われた方が、まだ分かりやすいよ。何かを足せばいいのか、引けばいいのかって考えられるから」
 包丁の音が、少し強くなる。
 「レシピ通りに作って、原価も守って、それでも『いつもと違う』って言われたら、どこを直したらいいんだよ」
 その言葉には、苛立ちと同じくらい、無力感がにじんでいた。
 奏斗は、一瞬だけ言葉を探し、それから帳簿の数字を思い浮かべた。
 「ジャガイモ、今日から産地変えました」
 「え?」
 「価格がかなり上がってしまったので。別の産地のものに変更しましたが、糖度もサイズも、規格上は同じです」
 「……規格上」
 絵斗は、皮のむきかけのジャガイモをじっと見つめる。
 「じゃあ、『いつもと違う』のは、そこかもしれないね」
 「でも、レシピ通りに作れば——」
 「レシピは、ジャガイモの顔までは見てくれないよ」
 絵斗は、苦笑しながら肩をすくめた。
 「俺たちが『同じ』と思っても、食べる人の『いつもの味』って、たぶんレシピじゃなくて、記憶の方に積まれてるんだと思う」
 その言葉に、奏斗は返す言葉を失った。
 数字で見れば、今日のグラタンも「許容範囲内」だ。
 原価も、味付けも、提供時間も。
 それでも、「いつもと違う」と感じさせてしまった。
 (折り目正しくしていれば、同じものが出せると思っていた)
 揃えられたレシピと帳簿の角が、急に心もとないものに思えてくる。
     ◇
 「ねえ」
 そのとき、ホールから顔を出したのは花春だった。
 「厨房会議は一回切り上げていい? カウンター、ちょっと空気が止まりかけてる」
 「……すみません」
 奏斗は、慌ててカウンターへ戻ろうとしたが、花春に肩を軽く押しとどめられた。
 「先に、私にちょっとだけ時間ください」
 そう言って、花春はカウンターへ向かう。
 佐久間は、グラタンを前に、まだスプーンを握ったままだった。
 「佐久間さん、お口に合いませんでしたか」
 花春は、少しだけ首をかしげて尋ねる。
 「いや、決してまずくなったとかじゃないんだよ」
 佐久間は、慌てて手を振った。
 「ただ、なんか、今日の一口目が、『今週終わったー』じゃなくて、『まだ半分くらいかな』って感じで」
 「なるほど」
 花春は、皿を覗き込み、残っているグラタンの表面を眺めた。
 「今日、まだお仕事残ってます?」
 「まあ、そりゃあ」
 「原稿、あとどれくらいですか」
 「う……聞く?」
 佐久間は、少し顔をしかめる。
 「図星ですか」
 「今日中に読み切らなきゃいけない原稿、あと三本。
 しかも、そのうち一本は、『今月中に直らなかったら企画ごと飛ぶかも』ってやつで」
 「でしたら」
 花春は、グラタンの皿をそっとカウンターの端に寄せた。
 「もしかしたら、『まだ半分くらいかな』って感じの味で正解だったのかもしれません」
 「え?」
 「いつものグラタンは、『今日ここで全部下ろしてしまってもいい味』なんですよね」
 「まあ、そうだね」
 「でも今日は、まだ持って帰らなきゃいけないものがある。
 ここで全部下ろしたら、家に帰ってから机に向かえなくなるような夜です」
 花春は、穏やかな声で続けた。
 「だったら、グラタンの方が気を利かせて、『今日は軽めにしとくよ』って言ってくれたのかもしれません」
 「グラタンが?」
 「はい。ジャガイモたち、空気読みますから」
 冗談めかしたその一言に、佐久間の口元が緩む。
 「……そう来る?」
 「もし、『今日は全部ここに置いていきたい』って夜なら、そのときは『いつもの』よりちょっと重ためにします。
 キッチンと相談して、佐久間さん専用の『全部下ろしていいやつ』に」
 「そんなオーダー、ありなの?」
 カウンターの端で聞いていた璃音が、ふふっと笑った。
 「ここ、そういう店ですから」
 彼女は、温かいお茶を小さなカップに注ぎ、グラタンの隣にそっと置いた。
 「途中の水分補給も、大事ですよ」
 「……なんか、編集部の休憩室より、よっぽどケアが手厚い気がする」
 佐久間は、肩の力を少し抜いた。
 「じゃあ、今日のこれは、『まだ半分くらいかな』って味で、ちょうどいいのかもね」
 「もし、本当に『違う』と感じられたら、そのときは教えてください。
 『今日の自分には、どんな味が必要だったか』を一緒に考えます」
 花春の言葉に、佐久間はスプーンを取り直した。
 「じゃあ、とりあえず、あと半分は『今日の残りの仕事のために』食べることにするよ」
 「はい。残りの半分は、きっと『今週終わった』って言わせる力がありますから」
 カウンターに、静かな笑い声が広がった。
     ◇
 その様子を、カウンターの奥から見ていた奏斗は、ふと胸の奥をつかまれたような感覚に襲われた。
 花春は、原価の話を一言もしていない。
 レシピの細かい分量にも触れていない。
 代わりに、「今日の佐久間さん」が何を抱えてここに来たのかを聞き出し、その夜に必要な味の意味を言葉にしていた。
 (俺はさっき、『ジャガイモの産地が変わりました』って説明しようとしていた)
 それは正しい情報だ。
 帳簿にも仕入れ表にも、きちんと書かれている事実。
 でも、「いつもと違う」と感じている人の前で、それはどれだけ役に立つのだろう。
 「……奏斗さん」
 隣に立った璃音が、小声で話しかけてきた。
 「さっきのジャガイモの話、佐久間さんには言わないんですか」
 「聞かれたら、正直に話します」
 奏斗は、少し間を置いて答えた。
 「ただ、今は必要ないと思います」
 「必要ない?」
 「『いつもと違う』と言われたとき、僕はいつも、どこがどれだけ違うのかを数字にしたくなります。
 塩が何グラム増えたのか、原価が何パーセント変わったのか」
 カウンターの木目を指でなぞりながら、言葉を続ける。
 「でも、今の佐久間さんが感じていた『違い』は、『今日の自分には重すぎるかどうか』だったのかもしれません」
 「……たしかに」
 璃音は、先ほどの会話を思い出すように目を細めた。
 「だったら、原価の話より、残りの原稿の話の方が大事ですよね」
 「ええ」
 自分で言いながら、少し苦笑する。
 「折り目正しくいることは、悪いことではないと思っていました。
 レシピ通りに作ってもらい、帳簿の数字を守る。きれいに揃えた方が、安心しますし」
 「でも、揃わないものもある」
 「はい」
 窓の外を見ると、川面に映る灯りが、風で少しゆらいでいた。
 「今日、初めて思いました。
 『折り目』の外側にこぼれるものを一緒に受け止めるのも、この仕事なんだって」
 璃音は、静かに頷いた。
 「じゃあ、その『こぼれる分』、私は甘いもの担当で受け止めますね」
 「甘いもの担当?」
 「はい。今日みたいに、『まだ半分くらいかな』って夜には、重くないデザートを。
 『全部ここに置いていきたい』って夜には、ちょっとだけべた甘なやつを」
 そう言って、にやりと笑う。
 「そのぶん、奏斗さんは折り目をきれいに揃えておいてください。
 こぼしても大丈夫なように、皿の枚数とかタオルの予備とか、ちゃんと用意しておく役」
 「……そういう折り目なら、任せてもいいかもしれません」
 奏斗は、少しだけ肩の力を抜いた。
 カウンターでは、佐久間がグラタンを最後の一口まで食べ終え、「よし、じゃあもう一仕事するか」と立ち上がろうとしている。
 「お会計、お願いします」
 「かしこまりました」
 レジで会計を済ませるとき、佐久間はふと振り返った。
 「ねえ、奏斗くん」
 「はい」
 「もし、また『いつもと違う?』って思ったときはさ」
 少し照れたように笑う。
 「まず、『今日はどんな一日でした?』って聞いてくれると嬉しいな」
 その言葉に、奏斗は目を瞬いた。
 「味の話の前に、こっちの話を聞いてくれたら、それだけでだいぶ違う気がするから」
 「……承知しました」
 深く頭を下げると、佐久間は文庫本をジャケットの内ポケットにしまい、店を出て行った。
 扉のベルが鳴り、外の空気が少し入り込む。
 川の音が、いつもより近く聞こえた。
     ◇
 閉店後。
 帳簿を閉じ、レシピカードを揃えて棚に戻したあと、奏斗は一冊のノートを取り出した。
 黒い表紙に、「君に恋する確率」と書かれたあのノートだ。
 今日の日付のページを開き、ペンを走らせる。
 「・ジャガイモの産地が変わった日。
 ・『いつものやつ』が、『まだ半分くらいかな』の味になった。
 ・原価の話より先に、今日一日の話を聞く必要があると学んだ。」
 その下に、小さくこう書き足した。
 「折り目正しさだけでは、救えない夜もある。
 でも、折り目が揃っているからこそ、こぼれるものを受け止める余白も作れる。」
 ノートを閉じたとき、外から微かな笑い声が聞こえた。
 川沿いのどこかで、誰かが一日を終えようとしているのだろう。
 「……明日は、どんな『いつも通り』になるんでしょうね」
 誰にともなくそう呟き、奏斗はカウンターの照明を一つ落とした。
 酒の流れる川のほとりで、クレームと折り目正しさのあいだにある小さな揺らぎを、彼はようやく少しだけ受け入れ始めていた。
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