酒の流れる川で君を待つ

乾為天女

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第9話 忙しすぎる金曜日のカウンター

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 金曜日の夕方、川沿いの通りはいつもより少し浮き立っていた。
 駅から川へと続く道を、スーツ姿の人たちが次々に歩いていく。ネクタイを緩める仕草、スマホを耳に当てたまま笑う顔、コンビニの袋をぶら下げたまま足早に通り過ぎる影。
 その流れの先に、「川べり文庫」の小さな看板がある。
 木の板に手書きの文字で「本と酒」と書かれたそれは、給料日帰りの人たちの視界に、いつもより鮮やかに入り込んでいた。
 店内では、開店前の空気が張り詰めている。
 「……これ、マジで全部今日?」
 ホワイトボードに並ぶ予約の名前を見上げて、凱理が素直な声を出した。
 「そうです。給料日の金曜日ですから」
 奏斗は、ボードの下にマーカーで線を引きながら、淡々と答える。
 「予約がカウンター四組、テーブル三組。それに、川沿いの通りの様子を見る限り、飛び込みも多そうです」
 「うわぁ……」
 璃音は、予約表と時計を見比べて、小さく息を呑んだ。
 「カウンター、最大で何人座れましたっけ」
 「詰めれば八人。でも、今日は七人までにしておきましょう」
 奏斗は、席の図を示しながら説明する。
 「無理に詰めると、何かあったときに身動きが取れませんから。カウンターは僕と璃音さんメイン、合間に凱理くん。テーブルは花春さん中心で」
 「了解」
 厨房からは、油の跳ねる音と、フライパンがコンロに当たる音が響いている。
 「前菜の仕込み、あと一トレー分いける?」
 「もういってます」
 絵斗が、オーブンのタイマーを指差しながら答える。
 「根菜のマリネと、鶏ハムと、例のジャガイモのやつ。今日は『すぐ出せる皿』が命だからね」
 「はい」
 洗い場では、阿紗美が空のグラスを素早くラックに並べ、花春がホールの動線を確認している。
 「今日の合言葉は、『止まってもいいけど、固まらない』です」
 花春が、両手をぱんと打ち鳴らした。
 「注文が重なったら、一回深呼吸するのはOK。でも、その場で固まって動かなくなるのはNG。分からなくなったら、すぐ誰かを呼んでください」
 「はーい」
 凱理が片手を挙げる。
 「固まる前にギブアップ申告、ですね」
 「そう。それ、大事」
 全員がそれぞれの持ち場に散っていく。
 そのとき、入口の鍵が回った。
 「開けます」
 奏斗が扉を押すと、外からひんやりとした空気が流れ込んできた。
 給料日の金曜日が、本格的に始まる。
     ◇
 最初の一時間は、「忙しいけれど、まだ余裕がある」時間帯だった。
 予約の一組目が扉をくぐり、川沿い散歩帰りの二人組が続く。
 カウンターには、一人で文庫本を片手に座る常連と、「今日は飲むぞ」といった雰囲気の若いサラリーマン。
 「いらっしゃいませ。お疲れさまです」
 奏斗は、カウンターに水を置いた。
 「今日は何か、頑張ったことはありましたか」
 「え、急にハードル高くないですか」
 サラリーマンが笑いながらネクタイを緩める。
 「とりあえず今週を生き抜きました」
 「それは十分、乾杯する理由になりますね」
 「でしょう? じゃあ、生一つ」
 「かしこまりました」
 そのやり取りを聞きながら、璃音は別のカウンター席でメニューを開いていた女性に声をかける。
 「今夜は、少ししょっぱいものが人気です。今週、頑張った味がするので」
 「そんな味するんですか」
 「はい。塩加減を、一週間分ためておきました」
 冗談半分の説明に、女性がくすりと笑う。
 キッチンにその声が届くたび、絵斗はフライパンを振る手にほんの少し力を込めた。
 「四番テーブル、前菜オールアップ」
 「はーい!」
 花春がトレイを抱え、軽い足取りでテーブルへ向かう。
 ——ここまでは、まだ想定内だった。
     ◇
 七時半を過ぎたあたりから、空気が変わった。
 扉が開く音が、途切れなく続く。
 予約の二組目が入り、電話が鳴り、さらに飛び込みの三人組が現れる。
 「すみません、入れます?」
 「少々お待ちください、席を確認いたします」
 花春はホール全体を一目で見渡し、空いている椅子の数を素早く数えた。
 「カウンターなら、お一人ずつお席ご用意できます。三人バラバラになってもよろしければ」
 「全然大丈夫です!」
 三人組は、むしろ楽しそうに頷いた。
 「じゃあ、真ん中あたりに挟みますね」
 花春は、カウンターの椅子を手際よく動かした。
 「奏斗さん、カウンター三席追い込み入りまーす」
 「了解です。メニュー三冊、お願いします」
 その間にも、レジ横では電話のベルが鳴っている。
 「はい、『川べり文庫』でございます」
 璃音が受話器を取り、予約の相談を受ける。
 「本日ですと、テーブルは少しお時間いただくかもしれません。カウンターでしたら——」
 言葉を交わしながら、受話器を肩に挟み、片手でグラスを拭く。
 背後では、洗い場で阿紗美が水しぶきを飛ばしながら皿を回していた。
 「グラス、追加で二ラックいきまーす!」
 「助かる!」
 絵斗が叫ぶ。
 「一番カウンター、生ビール二つと、ハイボール一つ!」
 「はいはい、入ってます!」
 奏斗は、伝票を見て、手を止めずにグラスに氷を入れた。
 カウンターの上には、次々に新しいグラスと皿が並んでいく。
 その一方で、空になった皿も増えていく。
 「凱理くん、空いた皿、全部一回カウンターに寄せて」
 「了解! ……って、うわ、もうこんなに」
 凱理は、両手いっぱいに皿を抱えて洗い場へ向かう。
 「洗い場渋滞でーす!」
 「あと二分で流れます!」
 阿紗美が、泡立てたスポンジを握りしめたまま答える。
 視線を少しだけ右にずらすと、ホワイトボードのオーダー欄がほとんど埋まりつつあった。
 (これは……久々に、完全に「流れ」側だな)
 奏斗は、心の中でそう呟く。
 自分のペースで仕事するのが好きな彼にとって、流れに飲み込まれる感覚は、本来あまり得意ではない。
 けれど、今夜ばかりは、その流れに身を任せるしかなかった。
     ◇
 八時を回ると、店内のざわめきはピークに達した。
 「二番テーブル、追加の唐揚げ入りましたー!」
 「カウンター三番、白ワイン一杯追加でーす!」
 「五番さん、『おすすめで何か一品』って言ってます!」
 「おすすめって何!」
 「今の気分で!」
 「キッチンの気分を勝手に代表しないで!」
 絵斗のツッコミが、フライパンの音にかき消される。
 「じゃあ、ジャガイモのやついきます! 今、一番出てるから!」
 「それなら許す!」
 そんな叫び声と笑い声が、油の跳ねる音と混ざり合う。
 カウンターでは、少し酔いの回った客たちが、店内の混雑ぶりを面白がっていた。
 「うわ、なんかすごいな。カウンターの中、ずっと誰かが走ってる」
 「ライブキッチンってこういうこと?」
 「いや、これはもう、ライブ戦場」
 「戦場って言わないでください」
 奏斗が、グラスを差し出しながら苦笑する。
 「ここはあくまで、飲み終わった一日を下ろす場所ですから」
 「でも、こっちはまだ降りてないっすよ。今日の愚痴、あと五キロ分くらいある」
 「でしたら、グラスをもう一杯分だけ使ってください。それ以上は、また来週のお楽しみで」
 「うわぁ、上限設けられた」
 カウンターの会話は、忙しさの中でもいつも通りだった。
 ただ、水を置く手、グラスを差し出す手、伝票を受け取る手。その全てが、いつもより少しだけ早く動いている。
     ◇
 九時半。
 キッチンの奥で、絵斗が小さく「あ」と声を上げた。
 「どうしました?」
 阿紗美が、泡立てた手でシンクの水を止める。
 「前菜の仕込み、ラスト一皿分」
 「マジですか」
 「今日、出だしから飛ばしたからね。ハムも根菜も、ほぼ予定通り。でも、もう追加は仕込めない」
 「ってことは……」
 「前菜付きのコース、あと一組で打ち止め」
 その声がホールに届いた瞬間、花春がホワイトボードの前に走った。
 「次の予約、二人組のコース一つだけ。ギリギリ行ける」
 「じゃあ、それで終わりです」
 奏斗は、マーカーで「終了」の文字を小さく書き込む。
 「アラカルトはまだ行けますが、前菜盛り合わせは『本日分すべて出ました』ということで」
 「了解!」
 花春は、入口近くに小さな札を置いた。
 『本日の前菜盛り合わせは、すべてお出ししました』と、手書きの文字で。
 「これ、なんか売り切れなのに嬉しいですね」
 璃音が、その札を眺めてぽつりと言う。
 「ちゃんと『今日の分を全部出し切った』感じがして」
 「まだ終わってませんよ」
 奏斗は、レジに新しい伝票を打ち込みながら笑った。
 「終わった気になれるのは、閉店後です」
 「ですよね」
 璃音は、トレイを持ち直してテーブルへ向かう。
 その背中を、カウンター越しに見送った客が、小さな声でつぶやいた。
 「なんか、観てるだけでこっちも頑張った気になってくるな」
 「分かる。帰ってから家計簿つけられそう」
 「それはそれで現実」
 そんな会話に、奏斗は思わず吹き出しそうになりながら、グラスを磨く手を止めなかった。
     ◇
 十時を過ぎると、ざわめきに少しずつ隙間が生まれ始めた。
 最初に入った会社帰りの四人組が、「二軒目、どうする?」と話しながら席を立ち、女子会らしいテーブルも、「デザート食べたら帰ろっか」と笑い合っている。
 「本日はありがとうございました」
 花春が、入口まで見送りながら一人一人に声をかける。
 「今週もお疲れさまでした。また来週も、生き抜いたあとに寄ってくださいね」
 扉のベルが鳴るたび、店内の空気が少しずつ軽くなっていく。
 それでも、カウンターにはまだ二組の客が残っていた。
 一方は、さっきのサラリーマン。
 もう一方は、文庫本を読んでいた常連だ。
 「ラストオーダー、お伺いしてもよろしいでしょうか」
 奏斗が声をかけると、サラリーマンは少し考えてから言った。
 「じゃあ、あと一杯だけ。今日の自分をほめられるくらいのやつで」
 「かしこまりました」
 常連は、本から目を上げて、静かに首を振った。
 「私は、今日はこれで。十分、いい時間をもらいましたから」
 「ありがとうございます」
 二人のグラスの中身が、少しずつ減っていく。
 その間に、ホールの片付けは着々と進んでいた。
 「四番テーブル、片付きました!」
 「五番も終わりました!」
 「洗い場、あとグラス一ラックで全部回ります!」
 阿紗美の声が、少しだけ高く響く。
 やがて、最後の客が席を立った。
 「ごちそうさまでした」
 サラリーマンが、勘定を済ませながら笑う。
 「今日、会社で嫌なことがあったんですけど、ここに来たら、『まあ、いっか』ってなりました」
 「それは、何よりです」
 奏斗は、レシートを渡しながら深く頭を下げた。
 「来月の金曜日も、たぶん何かしらあると思うので、そのときはまた寄ってください」
 「ありますね、絶対。じゃあ、そのときもよろしくお願いします」
 扉が閉まり、ベルの音が消える。
 店内が、急に広く感じられた。
     ◇
 「……終わったぁ」
 花春が、カウンターの端の椅子にどさっと腰を下ろした。
 「足、棒だこれ」
 「棒ならまだいいですよ。私、さっきから記憶がところどころ飛んでます」
 璃音も、隣の椅子に腰かける。
 「注文受けてたら、気づいたらグラス拭いてて、『あれ、いつ間に移動したっけ』って」
 「それはちょっと怖い」
 阿紗美は、モップを壁に立てかけてから、そっと足首を伸ばした。
 「でも、誰も転ばなかったし、皿も割れなかった」
 「奇跡だね」
 洗い場から戻ってきた絵斗も、カウンターに肘をついた。
 「俺、一回フライパン落としかけたけど」
 「そこは黙っておいていいやつです」
 凱理は、レジの横に座り込んだまま、天井を見上げている。
 「今日、『やばい』って何回言いましたっけ」
 「十五回は聞いた気がします」
 璃音が即答した。
 「でも、誰も途中で『無理』って言わなかった」
 「言う暇なかっただけですよ」
 凱理は、そう言いながらも、どこか満足そうだ。
 全員がそれぞれの場所に座り込み、しばし無言になる。
 厨房の火は落とされ、ホールの照明も一段階暗くなっている。
 しばらくしてから、奏斗がレジの前に立ち上がった。
 「お疲れさまでした」
 その一言に、全員がゆっくりと顔を上げる。
 「今日の売上は——」
 奏斗は、手元の帳簿を一度だけ見て、数字を確認した。
 「悪くありません」
 淡々とした声だったが、その言葉に、ホールの空気がふっと緩んだ。
 「『悪くない』って、どれくらいなんですか」
 凱理が、椅子からずり落ちながら聞く。
 「この規模の店で、給料日の金曜日に目指していた数字には、届いています」
 「届いてるなら、『いい』って言いましょうよ」
 花春が笑う。
 「そういうときくらい、素直に」
 「そうですね」
 奏斗は、少しだけ考えるように目を伏せた。
 「では——いい売上でした」
 言い直した瞬間、厨房から小さな拍手が起こる。
 絵斗が、手に持っていたタオルで軽くカウンターを叩き、阿紗美がそれに合わせて手のひらを打ち合わせる。
 「いい売上、いただきましたー」
 「よかったです」
 璃音も、胸の前で小さく拍手をした。
 「でも、数字よりも」
 奏斗は、帳簿を閉じてカウンターに置いた。
 「今日、一人も席を立つときに不機嫌そうな顔をしていませんでした」
 その言葉に、全員が少しだけ姿勢を正す。
 「忙しすぎると、どうしても『回す』ことばかりを考えてしまいますが」
 奏斗は、カウンターに並ぶグラスをゆっくり見渡した。
 「今日は、誰かが誰かのフォローに回るたびに、表情が少し柔らかくなっていたように見えました。ホールも、キッチンも」
 「……例えば?」
 璃音が、興味深そうに身を乗り出す。
 「璃音さんが、電話を受けながらグラスを拭いていたとき。阿紗美さんが、手が空いた瞬間にレジ横のメニューを整えていたとき。
 花春さんが、満席のホールを見渡しながら、入口で立ち尽くしそうになっていたお客さんに一声かけたとき。
 凱理くんが、洗い場で泡だらけになりながら、『これはこれで楽しい』と言っていたとき」
 「言いました?」
 「言ってました」
 全員からの総ツッコミに、凱理が耳まで赤くなる。
 「……あれ、聞かれてたんだ」
 「そういう、一見どうでもよさそうな一言や動きが、今日の数字に全部つながっていると思います」
 奏斗は、窓の外の川に目を向けた。
 「だから、『悪くない』じゃなくて『いい』夜でした」
 その言い方は、いつもの彼にしては珍しく、はっきりしていた。
 花春が、ふっと笑う。
 「じゃあ、今日のまかないは、『よかった夜』記念で、ちょっとだけ豪華にしません?」
 「豪華って、どのくらい」
 絵斗が警戒するように眉を上げる。
 「冷蔵庫の残り物を使い切る範囲で」
 「それ、いつもです」
 「じゃあ、『よかった夜』って名前を付けるだけでも豪華ってことで」
 そんなやり取りに、疲労で重くなった空気が少しだけ軽くなる。
 外では、川の音が変わらず流れている。
 提灯の数は減ったが、水面にはまだ灯りが揺れていた。
 「来月の給料日も、こんな感じですかね」
 凱理が、天井を見上げたままぽつりと言う。
 「分かりません」
 奏斗は、正直に答える。
 「でも、今日の夜を一回経験したので、少なくとも『初めての忙しすぎる金曜日』ではなくなります」
 「二回目の方が怖いときもありますけどね」
 璃音が、冗談めかして言う。
 「『あのときみたいにできるかな』って思うと」
 「そのときは、そのときのペースで」
 阿紗美が、足首を軽く回しながら微笑んだ。
 「今日と同じじゃなくてよくて、『今日も悪くなかったな』って思えれば」
 「いいこと言うじゃん」
 絵斗が、タオルで頭をくしゃくしゃにする。
 「じゃ、とりあえず今日のところは、座っててもいいけど寝ないように。片付け、あと十五分で終わらせましょう」
 「りょーかいです……起きていられれば」
 凱理の弱々しい返事に笑い声が起きる。
 給料日の金曜日の夜。
 忙しすぎるカウンターをようやく乗り切った「川べり文庫」には、数字と同じくらい、いやそれ以上の「よかった」が静かに積み重なっていた。
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