酒の流れる川で君を待つ

乾為天女

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第15話 飲食店スタッフとして働いていた時の思い出・凱理

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 凱理は、椅子の背にもたれたまま、ゆっくりと視線だけをみんなの方へ向けた。
 「……いやその、俺、さっきから聞き役でバランス取れてる感じしません?」
 「しません」
 即答したのは璃音だった。
 「ここまで全員話したのに、凱理くんだけ『ノーエピソードです』は許されません」
 「そうだぞ」
 絵斗も、マグカップを指先で回しながら乗ってくる。
 「この流れで黙ってたら、逆に気になるからな。『あいつだけ過去がない』って」
 「そういう厨二な感じじゃないんで」
 凱理は、両手を挙げて降参のポーズをした。
 「分かりましたよ。言えばいいんでしょ、言えば」
 花春が、期待を隠さない顔で身を乗り出す。
 「どこの店で働いてたんですか?」
 「駅前の、あのチェーンのハンバーガー屋です。
 改札出てすぐ右の。やたらポテトの匂いさせてるところ」
 「ああ、分かります」
 璃音が、すぐに頷いた。
 「高校のとき、よく友達と行ってました」
 「俺はカウンター側でしたね。制服の帽子かぶって、『スマイルなんちゃら』とか言わされるやつ」
 凱理は、頭の上で空中にキャップの形を描いてみせる。
 「『いらっしゃいませ~!』ってテンションで言えと言われるけど、心の中では『バイト代早く振り込め』しか思ってなかったです」
 「正直だね」
 絵斗が苦笑した。
 「で、その店で、一発目からやらかしたわけ?」
 「一発目じゃないです。二発目くらいです」
 「そこは誇るところじゃない」
 奏斗の静かなツッコミに、テーブルの空気が一度和んだ。
 「えっとですね……」
 凱理は、マグカップを指先でくるくる回しながら、少しだけ目を伏せた。
 「問題を見なかったふりして、さらにでかくした話、してもいいですか」
     ◇
 高校を卒業してすぐの春。
 凱理は、「楽そう」という理由だけでハンバーガー店のアルバイト募集に応募した。
 ふわふわのパン。
 揚げたてのポテト。
 マニュアル完備。
 (メニュー少ないし、ボタン押せばなんとかなるだろ)
 面接のときも、そこそこ愛想よく受け答えしたつもりだった。
 「シフト、土日の昼入れる?」
 「入れます入れます。がっつり稼ぎたいんで」
 そう答えた自分を、未来の自分は全力で止めたくなる。
 初出勤の日、店長は、やたら元気な声で言った。
 「今日、クーポン配布の最終日だからね! お客さんいっぱい来るよ~! 大丈夫、すぐ慣れるから!」
 (いや、それはたぶん慣れてから聞きたい情報)
 心の中でつっこみながら、凱理はレジの前に立った。
 制服の帽子をきっちりかぶり、胸の名札には大きく「かいり」と書かれている。
 「最初はオーダーだけ取ればいいから。ボタンは横でフォローするからね」
 先輩のバイトが隣に立ち、にこにこしている。
 (心強い。……はず)
 昼近くになると、入口の前にあっという間に行列ができた。
 「いらっしゃいませ~!」
 「お持ち帰りですか、お召し上がりですか~?」
 店内には、あちこちのレジから声が飛び交う。
 紙袋の音。
 ポテトフライヤーの油の音。
 ドリンクマシンの氷の音。
 その全部が重なって、頭の中がぐらぐらしてくる。
 「次のお客さま、どうぞ~」
 いつの間にか、自分の番が回ってきていた。
 「えっと、てりやきバーガーのセットを二つと……」
 「はい、セット二つで……」
 ボタンを押す指が、わずかに滑った。
 本来押すべき「セット」のキーの隣。
 「単品」という文字が、チカチカと光る。
 (……今、単品押した?)
 確認する前に、背後から店長の声が飛んできた。
 「ドリンクは何にしますか~?」
 先輩の助け舟に乗り、会計まで強行突破した。
 トレイの上には、バーガー二つ、ポテト二つ、ドリンク二つ。
 見た目だけなら、何の問題もない。
 が、レジの画面には「単品×2」と「ポテト×2」がバラバラに打ち込まれている。
 (まあ……出てるのは合ってるし、よくない?)
 その瞬間、凱理の中の「問題から距離を取る癖」が顔を出した。
 (忙しいし。いちいち直してたら回らないし。後で先輩がなんとかするだろ、多分)
 そうやって、自分の中で強引に納得させた。
 ——それが、油断の一歩目だった。
     ◇
 昼のピークが落ち着いたころ。
 店長が、レジ横の棚から何かの紙を引っ張り出して、「ん?」と眉を寄せた。
 「今日、クーポン使用率高いねえ。いいことだけど……あれ?」
 横で見ていた先輩が、画面を覗き込む。
 「店長、この時間帯、セットの数よりドリンクの数が妙に多くないですか」
 「ほんとだ。なんでだろ」
 嫌な汗が、背中をつっと伝う。
 (あ、これ、さっきの『単品×2』を無理やりセットっぽく出したやつ……だけじゃない気がする)
 強引なごまかしをしたのは、一回ではなかった。
 似たようなミスをするたびに、頭の中で同じ言い訳を繰り返していた。
 (見た目合ってるし。お客さん困ってないし。後でまとめて直せば……)
 しかし、「後で」はいつまでたっても来なかった。
 その結果、「ドリンクとポテトだけ妙に多いレシート」が数枚重なり、売上の数字と在庫の数が微妙にずれ始めていた。
 「凱理くん、ちょっとバックヤード来れる?」
 先輩に呼ばれた瞬間、心臓が嫌な跳ね方をした。
     ◇
 バックヤードの空気は、店内よりひんやりしていた。
 ソースのボトルや紙袋のストックが整然と並んだ棚の前で、凱理は立たされる。
 向かい側には、店長と先輩。
 (うわ、完全に『反省会』の配置)
 頭の中で変なナレーションが流れる。
 「今日のレジ、どうだった?」
 店長は、普段と変わらない調子で尋ねた。
 「えっと……まだ慣れてなくて……。でも、先輩がフォローしてくれて」
 「そうだね。最初にしては頑張ってたと思うよ」
 褒められた。
 そこだけ聞けば安心できるはずだった。
 が、店長はすぐに続けた。
 「ただ、『単品押してからセットっぽく出す』の、何回かやったよね」
 先輩が、申し訳なさそうに横から口を挟む。
 「レシート、ちょっと変だったから、気になって」
 「……すみません」
 認める言葉は、意外とすぐ出てきた。
 問題は、そのあとだ。
 「どうして、その場で言わなかった?」
 店長の声は、怒鳴るでもなく、淡々としていた。
 「忙しくて……直す時間が、ないかなって」
 「忙しいのは分かる。
 でも、君が『まあいいか』と思って通した一回が、何枚も重なると、こうなる」
 店長は、数字の書かれた紙を一枚見せた。
 「この時間帯、本来出ているはずのセット数と、実際に打たれた数が合ってない」
 「……」
 「お客さんの目には見えない。けど、数字には全部残る。
 それを、レジ担当の君が一番よく知ってるはずだよね」
 ぐうの音も出なかった。
 (そうなんだよな。レジって、全部残るんだよな)
 問題を見なかったふりをしても、記録の中からは消えてくれない。
 「間違えたこと自体は、そんなに珍しいことじゃない」
 先輩が、少し柔らかい声でフォローする。
 「私だって最初の頃、バグレベルで打ち間違えたし」
 「ただね」
 店長が言葉を引き継いだ。
 「『間違えたの、バレなきゃいいや』って思うとさ——」
 そこで、一度だけため息をつく。
 「だいたい、バレたときに面倒くささが十倍になる」
 それは、怒鳴り声よりよほどこたえる言い方だった。
 「……はい」
 「君が『楽な方に逃げた』結果、今こうして、わざわざ時間を取って話してる。
 この時間、別の仕込みに使えたかもしれない」
 その指摘は、妙に具体的だった。
 何に使えたかまで想像してしまうから、余計に刺さる。
 「じゃあ、どうするか」
 店長は、紙を指で折り曲げながら続けた。
 「このズレを、一緒に埋めてもらう」
 「……え?」
 「在庫の数、全部数え直す。
 ポテトも、ソースも、バンズも。今日の分のレシートも見直す」
 「全部、ですか」
 「全部」
 先輩と視線が合う。
 彼女は、苦笑いを浮かべて肩を竦めた。
 「一人でやると朝になりますから、私も付き合います」
 「すみません……」
 「謝る相手は、最後まで付き合う人じゃなくて、ミスを隠された人の方ですよ」
 その一言は、ぐさりと来た。
     ◇
 その日の閉店後。
 他のスタッフが帰ったあと、バックヤードには三人だけが残った。
 「ポテト、冷凍庫から一袋ずつ出して確認ね」
 先輩の指示に従い、凱理は箱を開ける。
 冷気が顔に当たる。
 袋の端に書かれた個数を確認しながら、数を合わせていく。
 バンズの袋。
 紙ナプキン。
 ドリンクのシロップ。
 地味な作業が延々と続いた。
 「……俺、今まで、こういうの全部『上の人がやること』だと思ってました」
 手を動かしながら漏らすと、先輩は軽く笑った。
 「まあ、そう思いたくなるよね」
 「思いたくなる、ってことは違うんですよね」
 「そうだね。
 でも、『違うよ』って言われるまでは、自分から気づかないことの方が多いかな」
 先輩は、バンズの袋を一つ手に取り、指先で軽く叩いた。
 「私ね、前のバイト先で、レジの差額千円をごまかしたことあるよ」
 「え」
 思わず顔を上げる。
 「『自分のミスかどうか分かんないし』って思って、黙ってた。
 そしたら翌月、謎のマイナスが積み重なってて、社員さんが徹夜で原因探してた」
 「……」
 「そのとき、めちゃくちゃ怒られた。
 『千円で済んだ話を、一ヶ月放置したら、もう千円じゃ済まなくなる』って」
 先輩は、少しだけ苦笑する。
 「だから、今日凱理くんのレシート見た瞬間、昔の自分思い出したんだよね」
 「俺だけじゃないって聞いて、ちょっと安心しました」
 「安心するポイント、そこじゃない」
 そこでようやく、三人の間に笑い声が生まれた。
 全部数え終わる頃には、時計は日付の境目を少し越えていた。
 「ふう……お疲れ」
 店長が、冷蔵庫をそっと閉める。
 「数字は何とか帳尻合わせられた。
 でも、一番大事なのはここからだ」
 「ここから?」
 「次、同じことが起きそうになったとき、どうするか」
 その問いに、凱理は少し考えてから答えた。
 「……その場で『間違えました』って言います」
 「嫌でも?」
 「嫌ですけど」
 一瞬、黙る。
 「でも、今日みたいに残業で在庫数えるのは、もっと嫌なんで」
 正直な答えだった。
 店長は、ふっと吹き出した。
 「まあ、それも立派な動機だ」
 先輩も笑いながら頷く。
 「『面倒なことを増やしたくない』って気持ちを、ちゃんと未来の自分の方に向ければ、わりと使えるよ」
 「今日までの俺、使い方間違えてたってことですね」
 「そういうこと」
 その会話で、ようやく背中の強張りがほぐれていった。
     ◇
 「……というわけで」
 凱理は、「川べり文庫」のテーブルに肘をつきながら話を締めくくった。
 「俺の『飲食店スタッフ時代の思い出』は、『レジのミスをごまかしたら地獄の在庫カウントが待っていた』っていう教訓話です」
 「タイトル、長いですね」
 璃音が、肩を震わせる。
 「でも、すごく凱理くんらしいです。
 『怒られたくない』より、『残業が嫌』で学ぶタイプ」
 「結果オーライってことで」
 凱理は、居直るように胸を張った。
 「それからは、ミスったらすぐ言うようにしたんですか?」
 花春が尋ねる。
 「……九割くらいは」
 微妙な数字に、テーブルがざわついた。
 「残り一割は?」
 「『いや、気のせいかも』って思って様子見してるうちに、先に誰かが気づいてくれることもあるんで」
 「それ、人任せって言うんですよ」
 奏斗の落ち着いたツッコミが飛ぶ。
 「でもさ」
 凱理は、少しだけ真面目な顔になった。
 「ここに来てからは、前よりマシになったと思います」
 「ほう」
 「この店って、誰かがミスしたとき、『犯人探し』じゃなくて、『どうやって片づけるか』の方に話が進むじゃないですか。
 それ見てると、『とりあえず言っといた方が被害少なそうだな』って思えるんで」
 それは、凱理なりの最大級の評価だった。
 「この前も、オーダー伝票一枚飛ばしかけたときに、すぐ言ってましたね」
 絵斗が思い出したように言う。
 「『今ならまだ間に合う気がします!』って、めちゃくちゃ元気に」
 「元気だけはありましたね」
 璃音が笑う。
 「だって、あのとき黙ってたら、絶対またバックヤードで『在庫の数え直し大会』になると思ったんで」
 「トラウマの活用法としては、わりと健全ですね」
 花春が感心したように頷いた。
 「少なくとも、『問題を見なかったふりした結果、面倒くささ十倍』は回避できてるわけですし」
 「まあ、まだ三倍くらいにはなってますけどね」
 凱理は、自嘲気味に笑った。
 「ほんとは、最初からちゃんと向き合えればいいんですけど。
 俺、根本的に『楽な方に逃げたい生き物』なんで」
 「自分で分かってるだけでも一歩前進ですよ」
 奏斗が、穏やかな声で言う。
 「逃げ癖がある人は、『今逃げたら、あとでどれくらい面倒になるか』を一度味わっているかどうかでだいぶ違いますから」
 「味わいましたね、冷凍ポテトの箱の前で」
 凱理は、肩をすくめた。
 「だから、ここではできるだけ、逃げる前に一回誰かに相談するようにしてます。
 どうせ一人でごまかそうとしても、あとでバレるんで」
 「いいですね、その方針」
 花春が、嬉しそうに頷いた。
 「『逃げるときは、誰かと一緒に』っていうのは、ある意味この店らしいかもしれません」
 「それ、ちょっといい言い方に聞こえますけど、内容的には問題あるやつでは」
 璃音の指摘に、テーブルの笑い声が一段高くなる。
     ◇
 窓の外では、川面の灯りがさらに少なくなっていた。
 終電の時間が近づき、街の明かりそのものが、少しずつ寝支度を始めている。
 「……じゃあ、ラストは阿紗美さんですね」
 璃音が、マグカップを持ち上げながら言う。
 「走り続けてきた人の『飲食店時代』、気になります」
 視線が、今度は阿紗美に向かう。
 彼女は、少しだけ背筋を伸ばし、照れ隠しのように笑った。
 「私は、走るのをやめた場所で働き始めたので、その話になると思います」
 酒の流れる川のほとりで、閉店後の小さな座談会は、
 まだもう一つ、「働いていた頃の自分」の物語を待っていた。
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