酒の流れる川で君を待つ

乾為天女

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第16話 飲食店スタッフとして働いていた時の思い出・阿紗美

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 阿紗美は、背筋を伸ばしたまま、マグカップの縁に指先を添えた。
 「私は、走るのをやめたあとで働き始めた店の話になりますね」
 その前置きに、テーブルを囲む全員が自然と姿勢を正す。
 「走るの、やめたって……あの、陸上を?」
 花春が、遠慮がちにたずねる。
 「はい。長距離でした。二十四時間、ランニングシューズと一緒に生きてた頃です」
 阿紗美は、どこか懐かしそうに笑った。
 「その頃の私は、『頑張る=走る』と、本気で信じてたんですよ」
     ◇
 陸上を引退したのは、二十歳の春だった。
 最後のレースのゴールテープを切った翌日、靴紐を解いた足が、急に自分のものではないように感じられた。
 長距離走者としての時間が終わると同時に、「これから何を頑張ればいいのか」が、きれいさっぱり見えなくなった。
 そんなとき、元コーチが一枚のチラシを差し出してきた。
 「走るのやめても、『スポーツ』のそばにいられる場所はある。
 ここ、話だけでも聞いてみろ」
 そこには、駅から少し離れたビルの三階にある「スポーツバー・ランナーズハイ」の文字。
 壁一面にテレビ画面。
 ユニフォーム姿の客。
 ビールのジョッキ。
 写真だけ見れば、ただの賑やかな店だ。
 けれど、「スポーツ」という二文字に、当時の阿紗美は弱かった。
 「……ここなら、走らなくても頑張れるかもしれない」
 そう思ったのは、本気のような、言い訳のような。
 面接の日、店長はカウンター越しに阿紗美の履歴書を見て、目を丸くした。
 「ガチの長距離ランナーじゃん」
 「でした、です。過去形です」
 「タイム、すごいね。フル、これ本当に?」
 「一応、公式記録です」
 店長はしばらく欄を眺めてから、ニヤリと笑った。
 「うち、営業時間長いからさ。最後まで倒れないスタミナがある人、歓迎」
 軽口のようでいて、その目は真剣だった。
 「ただし、ここで走るのは口と手だけな。店内走ったら一発退場だかんね」
 「気をつけます」
 そう答えたものの、そのときの阿紗美は、まだ分かっていなかった。
 「走らない頑張り方」が世の中にどれくらいあるのかを。
     ◇
 スポーツバーの夜は、いつも明るすぎた。
 壁のテレビには、サッカー、野球、バスケットボール。
 曜日ごとに流れる中継が変わり、店内の空気もそれに合わせて変わる。
 ユニフォーム姿の客が、得点のたびに立ち上がる。
 負けが決まれば、大きなため息。
 カウンターの奥では、ビールサーバーが休む間もなく唸っていた。
 「阿紗美ちゃん、ジョッキ、三つ先に冷やして」
 「はい!」
 フロアを歩く足は、自然と速くなる。
 注文を聞き、キッチンに通し、飲み物を運ぶ。
 (ここでも、結局走ってるな)
 心の中で思う。
 店長からは、最初のシフトのときにこう言われていた。
 「ここは、頑張り過ぎる奴が多い店だからね」
 「多い、ってことは、店長もですか」
 「まあ、否定はしない」
 冗談めかした言い方だったが、実際、その店には「限界まで声を出す」のが得意なスタッフが多かった。
 選手上がりの元マネージャー、吹奏楽部出身のフロア担当、体育会系の大学生。
 誰もが大きな声で、全力で盛り上げる。
 そんな中で、阿紗美は「走らない代わりに、別の筋肉を酷使する」感覚を覚えつつあった。
 「追加でナチョス入りました!」
 「はーい! テーブル五、ビール二つ上がりまーす!」
 声を張り上げると、胸の奥は不思議と軽くなる。
 ただ、それでも。
 忙しい夜が続いたあと、スタッフルームのベンチに座ると、足が勝手に揺れていた。
 (走りたいわけじゃない。でも、体が落ち着かない)
 そんな矛盾を抱えたまま、日々は過ぎていった。
     ◇
 ある日、店のテレビでマラソンの国際大会の中継を流すことになった。
 ランナーたちが街の中を駆け抜ける映像。
 沿道の旗。
 画面の中の世界は、昔自分が立っていた場所とよく似ていた。
 「今日のお客さん、多分泣くよ」
 社員の先輩がぼそりと言った。
 「走るのやってた人、多いからさ。ゴール見ながら泣き笑いするの、何回も見てきた」
 「そんなに、ですか」
 「うん。悔しい日思い出す人もいるし、ただ純粋に応援する人もいるし」
 その言葉は、どこか遠い話のように聞こえた。
 正直、阿紗美自身は、「マラソン中継」を見るのが少し怖かった。
 タイムと順位に縛られていた頃の記憶が、その画面の中にぎっしり詰まっている気がしたからだ。
 それでも、店で働く以上、「怖いから見ません」とは言えない。
 大画面にレースが映し出される夜。
 客席には、ランニングウェア姿の男女が目立っていた。
 「今日、レース出てきた帰りなんです」
 「途中で足つってさー」
 あちこちのテーブルで、そんな会話が飛び交う。
 誰かがテレビの中のランナーの名前を呼ぶ。
 別の誰かが、自分の時計を確認して「あのペースやばい」と顔をしかめる。
 阿紗美は、注文を取りながら、できるだけ画面を直視しないように動いていた。
 (仕事、仕事。今はビールとチキンのことだけ考える)
 そう思っていた矢先だった。
 「すみません、生ビールと……ウーロン茶、あとポテト一つ」
 カウンターに、一人の女性が立っていた。
 年齢は、阿紗美とあまり変わらないように見える。
 髪を後ろで一つに束ね、パーカーの上からゼッケン付きのランニングウェアを羽織っている。
 首には、メダルではなく、参加賞らしいタオルがかかっていた。
 「こちら、ウーロン茶だけ先にお持ちしますね。ビールとポテトは少しお時間いただきます」
 「はい」
 女性は、答えながらも、視線をテレビから外さない。
 画面の中では、先頭集団が三人に絞られていた。
 その中の一人の名前を見た瞬間、阿紗美の喉がカラカラになった。
 (この選手、同年代だ。学生のころ、同じ大会に出てたことがある)
 スタートラインに立ったことはない。
 けれど、同じコースを走ったことはある。
 歓声の中で、画面のランナーたちはゴールへ向かって脚を運んでいく。
 「……ゴールしてほしいな」
 女性が、誰にともなく呟いた。
 その声は、客席のざわめきより小さいはずなのに、阿紗美の耳にははっきり届いた。
 「走ってこられたんですか?」
 気づけば、口が動いていた。
 「はい。途中まで、ですけど」
 女性は、苦笑いしながら自分の膝を軽く叩いた。
 「二十五キロ手前で、足が言うこと聞かなくなっちゃって。そこから歩いたり止まったり。
 最後は、時間ギリギリでなんとかゴールラインをまたいだ感じです」
 「それでも、完走は完走ですよ」
 阿紗美は、とっさにそう返していた。
 自分でも驚くほど真っ直ぐな声。
 「……走ってたんですか?」
 女性が、カウンター越しにこちらを見た。
 その視線は、どこか確かめるようだった。
 嘘をつく理由は、どこにもなかった。
 「はい。長距離です。もうやめましたけど」
 「やっぱり」
 女性は、ウーロン茶のグラスを両手で包んだ。
 「さっきの言い方で分かりました。『完走は完走』って言う人、元ランナーが多いから」
 「そう、なんですか」
 「タイムとか順位とかより、『最後まで行ったかどうか』を大事にする言い方っていうか」
 その指摘に、胸の奥が少しざわつく。
 (私は、今の自分の何を大事にしてるんだろう)
 答えはまだ出ない。
     ◇
 レースは、終盤で思わぬ展開を見せた。
 先頭を走っていた選手が、足を止めたのだ。
 画面の下に、「棄権」の文字が小さく映る。
 店内に、ざわめきとため息が混ざる。
 「うわ……マジか」
 「調子良さそうだったのに」
 女性は、口元をぎゅっと結んで画面を見つめていた。
 阿紗美は、ビールサーバーのレバーを引きながら、かつての自分のレースを思い出していた。
 途中棄権。
 足を引きずりながらトラックを去る背中。
 (あのとき、客席の誰かが、どんな顔をして見てたんだろう)
 ふと、そんなことが頭をよぎる。
 ジョッキをテーブルに運んで戻ってくると、女性はまだカウンターに座っていた。
 グラスの中身は、ほとんど減っていない。
 「棄権、見てるの、つらいですか」
 阿紗美がそう聞くと、女性は少し考えてから答えた。
 「……前は、つらかったです。
 自分が走ってたころは、『最後まで行けなかった』っていう事実が怖くて」
 「今は?」
 「今は、『ここまで走ったんだな』って思えるようになりました」
 女性は、テレビから目を離さないまま言った。
 「仕事でランニング教室を持ってるんです。
 走るのを仕事にしてる側になってから、スタートラインに立っただけですごいって思えるようになって」
 「ランニング教室……」
 その言葉は、どこか眩しく聞こえた。
 「あの選手、きっと今、めちゃくちゃ悔しいと思います。
 でも、画面の外側で、『ここまで走ってくれてありがとう』って思ってる人もいっぱいいるんですよね」
 女性は、そこで初めてグラスに口をつけた。
 「見てるだけの側に回ってみて、やっと分かりました」
 その言葉が、丸ごと胸に刺さる。
 (見てるだけの側……)
 阿紗美は、自分の手を見下ろした。
 ここで自分が持っているのは、ストップウォッチでも、ラップタイムの表でもない。
 ビールのジョッキと、注文のメモだけだ。
 「応援するだけじゃ、物足りなくないですか」
 気づけば、本音がこぼれていた。
 「自分で走りたくなったり、しません?」
 「しますよ。めちゃくちゃ」
 女性は、あっさり認めた。
 「でも、自分が走るのと同じくらい、『誰かに走り切ってほしい』って思うのも楽しくなってきたんです」
 そこでようやく、女性はカウンター越しに阿紗美の目を見る。
 「さっき、注文取るときの走り方、見てました」
 「走り方?」
 「足音、すごく軽かったです。
 脚の使い方が、完全にランナーのそれで。
 きっと、今でも全力出せば、かなり速く走れるんじゃないですか」
 「……どうでしょう」
 阿紗美は、曖昧に笑った。
 「でも、それを『店の中で』やったら、店長に怒られます」
 「ですよね」
 女性は、くすりと笑った。
 「だから、その代わりに、『ここでは誰かの背中を押す役を全力でやればいいのかも』って思ったんです。
 走る場所を変えるだけで、頑張り方は続けられるんじゃないかなって」
 その一言が、頭のどこかにすとんと落ちた。
 走る場所を変える。
 頑張り方を変える。
 (私は、どこで何を押したいんだろう)
 静かな問いが、自分の中に残る。
     ◇
 マラソンの中継が終わったあと、店はいつものスポーツバーの顔に戻った。
 別の試合のハイライトが流れ、歓声とため息が入り混じる。
 先ほどの女性客は、会計のときに「ごちそうさまでした」と深く頭を下げた。
 「また来ます。次は、教室の人たちと一緒に」
 「お待ちしてます」
 その言葉には、一切の社交辞令の気配がなかった。
 女性が扉を出て行ったあと、店長がカウンターの中から声をかけてきた。
 「さっき、いい顔して話してたね」
 「そうでしたか?」
 「うん。走ってた頃より、今の顔の方が多分いいよ。見てないけど」
 店長は、瓶ビールのラベルを拭きながら続けた。
 「ここで客の背中押すのも、立派な『スポーツのそばにいる仕事』だ。
 走ってるのは選手だけど、ゴールまで届く声を出すのは、こっちの役目だろ」
 「ゴールまで届く声……」
 「お前、声通るし。注文聞くときの返事とか、やたら気合入ってるし」
 「ただ大きいだけだと思ってました」
 思わず漏らすと、店長は笑った。
 「自分の声を軽く見るな。
 それで立ち上がれる奴もいるかもしれないんだから」
 その言葉は、それまでのどんな「頑張れ」よりも、静かに胸に響いた。
     ◇
 「それ以来ですね」
 阿紗美は、「川べり文庫」のテーブルの上で指先を組んだ。
 「自分の頑張り方を、『走る』から『背中を押す』に切り替えたのは」
 川の向こうのビルの明かりが、ゆっくりと少なくなっていく。
 「ここに来てからも、基本は同じです。
 誰かが倒れそうなときに、『まだ行けますよ』って言う役。
 逆に、限界を越えそうなときには、『今日はここまでにしませんか』って止める役」
 「それで、私たちは何度救われてるか分かりません」
 花春が、心からの声で言う。
 「忙しい夜に、『あと一時間なら走り切れます』ってさらっと言ってくれるの、すごく助かってます」
 「走ってはないですけどね」
 阿紗美は、照れくさそうに笑った。
 「でも、あのスポーツバーで学んだんです。
 『全力で声を出すこと』も、『誰かの頑張りの一部』になれるって」
 「今でも、マラソン中継見るとドキドキします?」
 璃音が、興味深そうにたずねる。
 「しますよ。
 でも、あの頃みたいに『自分ならどう走るか』じゃなくて、『この人たちがどう走り切るか』の方を見てます」
 そう言いながら、自分の胸にそっと手を当てた。
 「たぶん私は、自分の限界を越えるのが好きなんじゃなくて、
 誰かが限界を越える瞬間のそばにいるのが好きなんだと思います」
 その告白に、テーブルの空気が柔らかく揺れた。
 「だから、ここでも。
 お客さんが『なんとか今日を走り切った』って思える一杯を出すの、手伝いたいんです」
 窓の外の川には、遅い時間の電車の灯りが一瞬だけ映り込む。
 酒の流れる川のほとりで、元ランナーはもう走ってはいない。
 けれど、誰かの背中を押す声だけは、今も変わらずまっすぐに届いていた。
     ◇
 「……というのが、私の『飲食店スタッフとして働いていた時の思い出』ですね」
 話を締めくくると、誰からともなく拍手が起きた。
 「なんか、みんな『過去に一回どこかで全力出して燃え尽きてる』感じですね」
 凱理が、マグを傾けながら言う。
 「ファミレス、カフェ、レストラン、喫茶店、ハンバーガー屋、スポーツバー……。
 ここ、そういう履歴書の人しか採用してないんですか」
 「たまたまです」
 奏斗が、少しだけ口元を緩めた。
 「でも、そのおかげで——」
 「『最高の思い出』の種類が、だいぶ増えましたね」
 花春が、ぽつりと続ける。
 「どの話も素敵ですけど、できればここで、それを更新していけたらいいなあ」
 その一言に、カウンター奥の黒いノートが、ふと阿紗美の視界に入った。
 「君に恋する確率」と書かれた表紙。
 そこには、まだ書き込まれていないページが、いくつも残っている。
 誰の心の中にも、「まだ更新されていない最高の思い出」があることを、
 この場の全員がなんとなく感じていた。
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