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第16話 飲食店スタッフとして働いていた時の思い出・阿紗美
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阿紗美は、背筋を伸ばしたまま、マグカップの縁に指先を添えた。
「私は、走るのをやめたあとで働き始めた店の話になりますね」
その前置きに、テーブルを囲む全員が自然と姿勢を正す。
「走るの、やめたって……あの、陸上を?」
花春が、遠慮がちにたずねる。
「はい。長距離でした。二十四時間、ランニングシューズと一緒に生きてた頃です」
阿紗美は、どこか懐かしそうに笑った。
「その頃の私は、『頑張る=走る』と、本気で信じてたんですよ」
◇
陸上を引退したのは、二十歳の春だった。
最後のレースのゴールテープを切った翌日、靴紐を解いた足が、急に自分のものではないように感じられた。
長距離走者としての時間が終わると同時に、「これから何を頑張ればいいのか」が、きれいさっぱり見えなくなった。
そんなとき、元コーチが一枚のチラシを差し出してきた。
「走るのやめても、『スポーツ』のそばにいられる場所はある。
ここ、話だけでも聞いてみろ」
そこには、駅から少し離れたビルの三階にある「スポーツバー・ランナーズハイ」の文字。
壁一面にテレビ画面。
ユニフォーム姿の客。
ビールのジョッキ。
写真だけ見れば、ただの賑やかな店だ。
けれど、「スポーツ」という二文字に、当時の阿紗美は弱かった。
「……ここなら、走らなくても頑張れるかもしれない」
そう思ったのは、本気のような、言い訳のような。
面接の日、店長はカウンター越しに阿紗美の履歴書を見て、目を丸くした。
「ガチの長距離ランナーじゃん」
「でした、です。過去形です」
「タイム、すごいね。フル、これ本当に?」
「一応、公式記録です」
店長はしばらく欄を眺めてから、ニヤリと笑った。
「うち、営業時間長いからさ。最後まで倒れないスタミナがある人、歓迎」
軽口のようでいて、その目は真剣だった。
「ただし、ここで走るのは口と手だけな。店内走ったら一発退場だかんね」
「気をつけます」
そう答えたものの、そのときの阿紗美は、まだ分かっていなかった。
「走らない頑張り方」が世の中にどれくらいあるのかを。
◇
スポーツバーの夜は、いつも明るすぎた。
壁のテレビには、サッカー、野球、バスケットボール。
曜日ごとに流れる中継が変わり、店内の空気もそれに合わせて変わる。
ユニフォーム姿の客が、得点のたびに立ち上がる。
負けが決まれば、大きなため息。
カウンターの奥では、ビールサーバーが休む間もなく唸っていた。
「阿紗美ちゃん、ジョッキ、三つ先に冷やして」
「はい!」
フロアを歩く足は、自然と速くなる。
注文を聞き、キッチンに通し、飲み物を運ぶ。
(ここでも、結局走ってるな)
心の中で思う。
店長からは、最初のシフトのときにこう言われていた。
「ここは、頑張り過ぎる奴が多い店だからね」
「多い、ってことは、店長もですか」
「まあ、否定はしない」
冗談めかした言い方だったが、実際、その店には「限界まで声を出す」のが得意なスタッフが多かった。
選手上がりの元マネージャー、吹奏楽部出身のフロア担当、体育会系の大学生。
誰もが大きな声で、全力で盛り上げる。
そんな中で、阿紗美は「走らない代わりに、別の筋肉を酷使する」感覚を覚えつつあった。
「追加でナチョス入りました!」
「はーい! テーブル五、ビール二つ上がりまーす!」
声を張り上げると、胸の奥は不思議と軽くなる。
ただ、それでも。
忙しい夜が続いたあと、スタッフルームのベンチに座ると、足が勝手に揺れていた。
(走りたいわけじゃない。でも、体が落ち着かない)
そんな矛盾を抱えたまま、日々は過ぎていった。
◇
ある日、店のテレビでマラソンの国際大会の中継を流すことになった。
ランナーたちが街の中を駆け抜ける映像。
沿道の旗。
画面の中の世界は、昔自分が立っていた場所とよく似ていた。
「今日のお客さん、多分泣くよ」
社員の先輩がぼそりと言った。
「走るのやってた人、多いからさ。ゴール見ながら泣き笑いするの、何回も見てきた」
「そんなに、ですか」
「うん。悔しい日思い出す人もいるし、ただ純粋に応援する人もいるし」
その言葉は、どこか遠い話のように聞こえた。
正直、阿紗美自身は、「マラソン中継」を見るのが少し怖かった。
タイムと順位に縛られていた頃の記憶が、その画面の中にぎっしり詰まっている気がしたからだ。
それでも、店で働く以上、「怖いから見ません」とは言えない。
大画面にレースが映し出される夜。
客席には、ランニングウェア姿の男女が目立っていた。
「今日、レース出てきた帰りなんです」
「途中で足つってさー」
あちこちのテーブルで、そんな会話が飛び交う。
誰かがテレビの中のランナーの名前を呼ぶ。
別の誰かが、自分の時計を確認して「あのペースやばい」と顔をしかめる。
阿紗美は、注文を取りながら、できるだけ画面を直視しないように動いていた。
(仕事、仕事。今はビールとチキンのことだけ考える)
そう思っていた矢先だった。
「すみません、生ビールと……ウーロン茶、あとポテト一つ」
カウンターに、一人の女性が立っていた。
年齢は、阿紗美とあまり変わらないように見える。
髪を後ろで一つに束ね、パーカーの上からゼッケン付きのランニングウェアを羽織っている。
首には、メダルではなく、参加賞らしいタオルがかかっていた。
「こちら、ウーロン茶だけ先にお持ちしますね。ビールとポテトは少しお時間いただきます」
「はい」
女性は、答えながらも、視線をテレビから外さない。
画面の中では、先頭集団が三人に絞られていた。
その中の一人の名前を見た瞬間、阿紗美の喉がカラカラになった。
(この選手、同年代だ。学生のころ、同じ大会に出てたことがある)
スタートラインに立ったことはない。
けれど、同じコースを走ったことはある。
歓声の中で、画面のランナーたちはゴールへ向かって脚を運んでいく。
「……ゴールしてほしいな」
女性が、誰にともなく呟いた。
その声は、客席のざわめきより小さいはずなのに、阿紗美の耳にははっきり届いた。
「走ってこられたんですか?」
気づけば、口が動いていた。
「はい。途中まで、ですけど」
女性は、苦笑いしながら自分の膝を軽く叩いた。
「二十五キロ手前で、足が言うこと聞かなくなっちゃって。そこから歩いたり止まったり。
最後は、時間ギリギリでなんとかゴールラインをまたいだ感じです」
「それでも、完走は完走ですよ」
阿紗美は、とっさにそう返していた。
自分でも驚くほど真っ直ぐな声。
「……走ってたんですか?」
女性が、カウンター越しにこちらを見た。
その視線は、どこか確かめるようだった。
嘘をつく理由は、どこにもなかった。
「はい。長距離です。もうやめましたけど」
「やっぱり」
女性は、ウーロン茶のグラスを両手で包んだ。
「さっきの言い方で分かりました。『完走は完走』って言う人、元ランナーが多いから」
「そう、なんですか」
「タイムとか順位とかより、『最後まで行ったかどうか』を大事にする言い方っていうか」
その指摘に、胸の奥が少しざわつく。
(私は、今の自分の何を大事にしてるんだろう)
答えはまだ出ない。
◇
レースは、終盤で思わぬ展開を見せた。
先頭を走っていた選手が、足を止めたのだ。
画面の下に、「棄権」の文字が小さく映る。
店内に、ざわめきとため息が混ざる。
「うわ……マジか」
「調子良さそうだったのに」
女性は、口元をぎゅっと結んで画面を見つめていた。
阿紗美は、ビールサーバーのレバーを引きながら、かつての自分のレースを思い出していた。
途中棄権。
足を引きずりながらトラックを去る背中。
(あのとき、客席の誰かが、どんな顔をして見てたんだろう)
ふと、そんなことが頭をよぎる。
ジョッキをテーブルに運んで戻ってくると、女性はまだカウンターに座っていた。
グラスの中身は、ほとんど減っていない。
「棄権、見てるの、つらいですか」
阿紗美がそう聞くと、女性は少し考えてから答えた。
「……前は、つらかったです。
自分が走ってたころは、『最後まで行けなかった』っていう事実が怖くて」
「今は?」
「今は、『ここまで走ったんだな』って思えるようになりました」
女性は、テレビから目を離さないまま言った。
「仕事でランニング教室を持ってるんです。
走るのを仕事にしてる側になってから、スタートラインに立っただけですごいって思えるようになって」
「ランニング教室……」
その言葉は、どこか眩しく聞こえた。
「あの選手、きっと今、めちゃくちゃ悔しいと思います。
でも、画面の外側で、『ここまで走ってくれてありがとう』って思ってる人もいっぱいいるんですよね」
女性は、そこで初めてグラスに口をつけた。
「見てるだけの側に回ってみて、やっと分かりました」
その言葉が、丸ごと胸に刺さる。
(見てるだけの側……)
阿紗美は、自分の手を見下ろした。
ここで自分が持っているのは、ストップウォッチでも、ラップタイムの表でもない。
ビールのジョッキと、注文のメモだけだ。
「応援するだけじゃ、物足りなくないですか」
気づけば、本音がこぼれていた。
「自分で走りたくなったり、しません?」
「しますよ。めちゃくちゃ」
女性は、あっさり認めた。
「でも、自分が走るのと同じくらい、『誰かに走り切ってほしい』って思うのも楽しくなってきたんです」
そこでようやく、女性はカウンター越しに阿紗美の目を見る。
「さっき、注文取るときの走り方、見てました」
「走り方?」
「足音、すごく軽かったです。
脚の使い方が、完全にランナーのそれで。
きっと、今でも全力出せば、かなり速く走れるんじゃないですか」
「……どうでしょう」
阿紗美は、曖昧に笑った。
「でも、それを『店の中で』やったら、店長に怒られます」
「ですよね」
女性は、くすりと笑った。
「だから、その代わりに、『ここでは誰かの背中を押す役を全力でやればいいのかも』って思ったんです。
走る場所を変えるだけで、頑張り方は続けられるんじゃないかなって」
その一言が、頭のどこかにすとんと落ちた。
走る場所を変える。
頑張り方を変える。
(私は、どこで何を押したいんだろう)
静かな問いが、自分の中に残る。
◇
マラソンの中継が終わったあと、店はいつものスポーツバーの顔に戻った。
別の試合のハイライトが流れ、歓声とため息が入り混じる。
先ほどの女性客は、会計のときに「ごちそうさまでした」と深く頭を下げた。
「また来ます。次は、教室の人たちと一緒に」
「お待ちしてます」
その言葉には、一切の社交辞令の気配がなかった。
女性が扉を出て行ったあと、店長がカウンターの中から声をかけてきた。
「さっき、いい顔して話してたね」
「そうでしたか?」
「うん。走ってた頃より、今の顔の方が多分いいよ。見てないけど」
店長は、瓶ビールのラベルを拭きながら続けた。
「ここで客の背中押すのも、立派な『スポーツのそばにいる仕事』だ。
走ってるのは選手だけど、ゴールまで届く声を出すのは、こっちの役目だろ」
「ゴールまで届く声……」
「お前、声通るし。注文聞くときの返事とか、やたら気合入ってるし」
「ただ大きいだけだと思ってました」
思わず漏らすと、店長は笑った。
「自分の声を軽く見るな。
それで立ち上がれる奴もいるかもしれないんだから」
その言葉は、それまでのどんな「頑張れ」よりも、静かに胸に響いた。
◇
「それ以来ですね」
阿紗美は、「川べり文庫」のテーブルの上で指先を組んだ。
「自分の頑張り方を、『走る』から『背中を押す』に切り替えたのは」
川の向こうのビルの明かりが、ゆっくりと少なくなっていく。
「ここに来てからも、基本は同じです。
誰かが倒れそうなときに、『まだ行けますよ』って言う役。
逆に、限界を越えそうなときには、『今日はここまでにしませんか』って止める役」
「それで、私たちは何度救われてるか分かりません」
花春が、心からの声で言う。
「忙しい夜に、『あと一時間なら走り切れます』ってさらっと言ってくれるの、すごく助かってます」
「走ってはないですけどね」
阿紗美は、照れくさそうに笑った。
「でも、あのスポーツバーで学んだんです。
『全力で声を出すこと』も、『誰かの頑張りの一部』になれるって」
「今でも、マラソン中継見るとドキドキします?」
璃音が、興味深そうにたずねる。
「しますよ。
でも、あの頃みたいに『自分ならどう走るか』じゃなくて、『この人たちがどう走り切るか』の方を見てます」
そう言いながら、自分の胸にそっと手を当てた。
「たぶん私は、自分の限界を越えるのが好きなんじゃなくて、
誰かが限界を越える瞬間のそばにいるのが好きなんだと思います」
その告白に、テーブルの空気が柔らかく揺れた。
「だから、ここでも。
お客さんが『なんとか今日を走り切った』って思える一杯を出すの、手伝いたいんです」
窓の外の川には、遅い時間の電車の灯りが一瞬だけ映り込む。
酒の流れる川のほとりで、元ランナーはもう走ってはいない。
けれど、誰かの背中を押す声だけは、今も変わらずまっすぐに届いていた。
◇
「……というのが、私の『飲食店スタッフとして働いていた時の思い出』ですね」
話を締めくくると、誰からともなく拍手が起きた。
「なんか、みんな『過去に一回どこかで全力出して燃え尽きてる』感じですね」
凱理が、マグを傾けながら言う。
「ファミレス、カフェ、レストラン、喫茶店、ハンバーガー屋、スポーツバー……。
ここ、そういう履歴書の人しか採用してないんですか」
「たまたまです」
奏斗が、少しだけ口元を緩めた。
「でも、そのおかげで——」
「『最高の思い出』の種類が、だいぶ増えましたね」
花春が、ぽつりと続ける。
「どの話も素敵ですけど、できればここで、それを更新していけたらいいなあ」
その一言に、カウンター奥の黒いノートが、ふと阿紗美の視界に入った。
「君に恋する確率」と書かれた表紙。
そこには、まだ書き込まれていないページが、いくつも残っている。
誰の心の中にも、「まだ更新されていない最高の思い出」があることを、
この場の全員がなんとなく感じていた。
「私は、走るのをやめたあとで働き始めた店の話になりますね」
その前置きに、テーブルを囲む全員が自然と姿勢を正す。
「走るの、やめたって……あの、陸上を?」
花春が、遠慮がちにたずねる。
「はい。長距離でした。二十四時間、ランニングシューズと一緒に生きてた頃です」
阿紗美は、どこか懐かしそうに笑った。
「その頃の私は、『頑張る=走る』と、本気で信じてたんですよ」
◇
陸上を引退したのは、二十歳の春だった。
最後のレースのゴールテープを切った翌日、靴紐を解いた足が、急に自分のものではないように感じられた。
長距離走者としての時間が終わると同時に、「これから何を頑張ればいいのか」が、きれいさっぱり見えなくなった。
そんなとき、元コーチが一枚のチラシを差し出してきた。
「走るのやめても、『スポーツ』のそばにいられる場所はある。
ここ、話だけでも聞いてみろ」
そこには、駅から少し離れたビルの三階にある「スポーツバー・ランナーズハイ」の文字。
壁一面にテレビ画面。
ユニフォーム姿の客。
ビールのジョッキ。
写真だけ見れば、ただの賑やかな店だ。
けれど、「スポーツ」という二文字に、当時の阿紗美は弱かった。
「……ここなら、走らなくても頑張れるかもしれない」
そう思ったのは、本気のような、言い訳のような。
面接の日、店長はカウンター越しに阿紗美の履歴書を見て、目を丸くした。
「ガチの長距離ランナーじゃん」
「でした、です。過去形です」
「タイム、すごいね。フル、これ本当に?」
「一応、公式記録です」
店長はしばらく欄を眺めてから、ニヤリと笑った。
「うち、営業時間長いからさ。最後まで倒れないスタミナがある人、歓迎」
軽口のようでいて、その目は真剣だった。
「ただし、ここで走るのは口と手だけな。店内走ったら一発退場だかんね」
「気をつけます」
そう答えたものの、そのときの阿紗美は、まだ分かっていなかった。
「走らない頑張り方」が世の中にどれくらいあるのかを。
◇
スポーツバーの夜は、いつも明るすぎた。
壁のテレビには、サッカー、野球、バスケットボール。
曜日ごとに流れる中継が変わり、店内の空気もそれに合わせて変わる。
ユニフォーム姿の客が、得点のたびに立ち上がる。
負けが決まれば、大きなため息。
カウンターの奥では、ビールサーバーが休む間もなく唸っていた。
「阿紗美ちゃん、ジョッキ、三つ先に冷やして」
「はい!」
フロアを歩く足は、自然と速くなる。
注文を聞き、キッチンに通し、飲み物を運ぶ。
(ここでも、結局走ってるな)
心の中で思う。
店長からは、最初のシフトのときにこう言われていた。
「ここは、頑張り過ぎる奴が多い店だからね」
「多い、ってことは、店長もですか」
「まあ、否定はしない」
冗談めかした言い方だったが、実際、その店には「限界まで声を出す」のが得意なスタッフが多かった。
選手上がりの元マネージャー、吹奏楽部出身のフロア担当、体育会系の大学生。
誰もが大きな声で、全力で盛り上げる。
そんな中で、阿紗美は「走らない代わりに、別の筋肉を酷使する」感覚を覚えつつあった。
「追加でナチョス入りました!」
「はーい! テーブル五、ビール二つ上がりまーす!」
声を張り上げると、胸の奥は不思議と軽くなる。
ただ、それでも。
忙しい夜が続いたあと、スタッフルームのベンチに座ると、足が勝手に揺れていた。
(走りたいわけじゃない。でも、体が落ち着かない)
そんな矛盾を抱えたまま、日々は過ぎていった。
◇
ある日、店のテレビでマラソンの国際大会の中継を流すことになった。
ランナーたちが街の中を駆け抜ける映像。
沿道の旗。
画面の中の世界は、昔自分が立っていた場所とよく似ていた。
「今日のお客さん、多分泣くよ」
社員の先輩がぼそりと言った。
「走るのやってた人、多いからさ。ゴール見ながら泣き笑いするの、何回も見てきた」
「そんなに、ですか」
「うん。悔しい日思い出す人もいるし、ただ純粋に応援する人もいるし」
その言葉は、どこか遠い話のように聞こえた。
正直、阿紗美自身は、「マラソン中継」を見るのが少し怖かった。
タイムと順位に縛られていた頃の記憶が、その画面の中にぎっしり詰まっている気がしたからだ。
それでも、店で働く以上、「怖いから見ません」とは言えない。
大画面にレースが映し出される夜。
客席には、ランニングウェア姿の男女が目立っていた。
「今日、レース出てきた帰りなんです」
「途中で足つってさー」
あちこちのテーブルで、そんな会話が飛び交う。
誰かがテレビの中のランナーの名前を呼ぶ。
別の誰かが、自分の時計を確認して「あのペースやばい」と顔をしかめる。
阿紗美は、注文を取りながら、できるだけ画面を直視しないように動いていた。
(仕事、仕事。今はビールとチキンのことだけ考える)
そう思っていた矢先だった。
「すみません、生ビールと……ウーロン茶、あとポテト一つ」
カウンターに、一人の女性が立っていた。
年齢は、阿紗美とあまり変わらないように見える。
髪を後ろで一つに束ね、パーカーの上からゼッケン付きのランニングウェアを羽織っている。
首には、メダルではなく、参加賞らしいタオルがかかっていた。
「こちら、ウーロン茶だけ先にお持ちしますね。ビールとポテトは少しお時間いただきます」
「はい」
女性は、答えながらも、視線をテレビから外さない。
画面の中では、先頭集団が三人に絞られていた。
その中の一人の名前を見た瞬間、阿紗美の喉がカラカラになった。
(この選手、同年代だ。学生のころ、同じ大会に出てたことがある)
スタートラインに立ったことはない。
けれど、同じコースを走ったことはある。
歓声の中で、画面のランナーたちはゴールへ向かって脚を運んでいく。
「……ゴールしてほしいな」
女性が、誰にともなく呟いた。
その声は、客席のざわめきより小さいはずなのに、阿紗美の耳にははっきり届いた。
「走ってこられたんですか?」
気づけば、口が動いていた。
「はい。途中まで、ですけど」
女性は、苦笑いしながら自分の膝を軽く叩いた。
「二十五キロ手前で、足が言うこと聞かなくなっちゃって。そこから歩いたり止まったり。
最後は、時間ギリギリでなんとかゴールラインをまたいだ感じです」
「それでも、完走は完走ですよ」
阿紗美は、とっさにそう返していた。
自分でも驚くほど真っ直ぐな声。
「……走ってたんですか?」
女性が、カウンター越しにこちらを見た。
その視線は、どこか確かめるようだった。
嘘をつく理由は、どこにもなかった。
「はい。長距離です。もうやめましたけど」
「やっぱり」
女性は、ウーロン茶のグラスを両手で包んだ。
「さっきの言い方で分かりました。『完走は完走』って言う人、元ランナーが多いから」
「そう、なんですか」
「タイムとか順位とかより、『最後まで行ったかどうか』を大事にする言い方っていうか」
その指摘に、胸の奥が少しざわつく。
(私は、今の自分の何を大事にしてるんだろう)
答えはまだ出ない。
◇
レースは、終盤で思わぬ展開を見せた。
先頭を走っていた選手が、足を止めたのだ。
画面の下に、「棄権」の文字が小さく映る。
店内に、ざわめきとため息が混ざる。
「うわ……マジか」
「調子良さそうだったのに」
女性は、口元をぎゅっと結んで画面を見つめていた。
阿紗美は、ビールサーバーのレバーを引きながら、かつての自分のレースを思い出していた。
途中棄権。
足を引きずりながらトラックを去る背中。
(あのとき、客席の誰かが、どんな顔をして見てたんだろう)
ふと、そんなことが頭をよぎる。
ジョッキをテーブルに運んで戻ってくると、女性はまだカウンターに座っていた。
グラスの中身は、ほとんど減っていない。
「棄権、見てるの、つらいですか」
阿紗美がそう聞くと、女性は少し考えてから答えた。
「……前は、つらかったです。
自分が走ってたころは、『最後まで行けなかった』っていう事実が怖くて」
「今は?」
「今は、『ここまで走ったんだな』って思えるようになりました」
女性は、テレビから目を離さないまま言った。
「仕事でランニング教室を持ってるんです。
走るのを仕事にしてる側になってから、スタートラインに立っただけですごいって思えるようになって」
「ランニング教室……」
その言葉は、どこか眩しく聞こえた。
「あの選手、きっと今、めちゃくちゃ悔しいと思います。
でも、画面の外側で、『ここまで走ってくれてありがとう』って思ってる人もいっぱいいるんですよね」
女性は、そこで初めてグラスに口をつけた。
「見てるだけの側に回ってみて、やっと分かりました」
その言葉が、丸ごと胸に刺さる。
(見てるだけの側……)
阿紗美は、自分の手を見下ろした。
ここで自分が持っているのは、ストップウォッチでも、ラップタイムの表でもない。
ビールのジョッキと、注文のメモだけだ。
「応援するだけじゃ、物足りなくないですか」
気づけば、本音がこぼれていた。
「自分で走りたくなったり、しません?」
「しますよ。めちゃくちゃ」
女性は、あっさり認めた。
「でも、自分が走るのと同じくらい、『誰かに走り切ってほしい』って思うのも楽しくなってきたんです」
そこでようやく、女性はカウンター越しに阿紗美の目を見る。
「さっき、注文取るときの走り方、見てました」
「走り方?」
「足音、すごく軽かったです。
脚の使い方が、完全にランナーのそれで。
きっと、今でも全力出せば、かなり速く走れるんじゃないですか」
「……どうでしょう」
阿紗美は、曖昧に笑った。
「でも、それを『店の中で』やったら、店長に怒られます」
「ですよね」
女性は、くすりと笑った。
「だから、その代わりに、『ここでは誰かの背中を押す役を全力でやればいいのかも』って思ったんです。
走る場所を変えるだけで、頑張り方は続けられるんじゃないかなって」
その一言が、頭のどこかにすとんと落ちた。
走る場所を変える。
頑張り方を変える。
(私は、どこで何を押したいんだろう)
静かな問いが、自分の中に残る。
◇
マラソンの中継が終わったあと、店はいつものスポーツバーの顔に戻った。
別の試合のハイライトが流れ、歓声とため息が入り混じる。
先ほどの女性客は、会計のときに「ごちそうさまでした」と深く頭を下げた。
「また来ます。次は、教室の人たちと一緒に」
「お待ちしてます」
その言葉には、一切の社交辞令の気配がなかった。
女性が扉を出て行ったあと、店長がカウンターの中から声をかけてきた。
「さっき、いい顔して話してたね」
「そうでしたか?」
「うん。走ってた頃より、今の顔の方が多分いいよ。見てないけど」
店長は、瓶ビールのラベルを拭きながら続けた。
「ここで客の背中押すのも、立派な『スポーツのそばにいる仕事』だ。
走ってるのは選手だけど、ゴールまで届く声を出すのは、こっちの役目だろ」
「ゴールまで届く声……」
「お前、声通るし。注文聞くときの返事とか、やたら気合入ってるし」
「ただ大きいだけだと思ってました」
思わず漏らすと、店長は笑った。
「自分の声を軽く見るな。
それで立ち上がれる奴もいるかもしれないんだから」
その言葉は、それまでのどんな「頑張れ」よりも、静かに胸に響いた。
◇
「それ以来ですね」
阿紗美は、「川べり文庫」のテーブルの上で指先を組んだ。
「自分の頑張り方を、『走る』から『背中を押す』に切り替えたのは」
川の向こうのビルの明かりが、ゆっくりと少なくなっていく。
「ここに来てからも、基本は同じです。
誰かが倒れそうなときに、『まだ行けますよ』って言う役。
逆に、限界を越えそうなときには、『今日はここまでにしませんか』って止める役」
「それで、私たちは何度救われてるか分かりません」
花春が、心からの声で言う。
「忙しい夜に、『あと一時間なら走り切れます』ってさらっと言ってくれるの、すごく助かってます」
「走ってはないですけどね」
阿紗美は、照れくさそうに笑った。
「でも、あのスポーツバーで学んだんです。
『全力で声を出すこと』も、『誰かの頑張りの一部』になれるって」
「今でも、マラソン中継見るとドキドキします?」
璃音が、興味深そうにたずねる。
「しますよ。
でも、あの頃みたいに『自分ならどう走るか』じゃなくて、『この人たちがどう走り切るか』の方を見てます」
そう言いながら、自分の胸にそっと手を当てた。
「たぶん私は、自分の限界を越えるのが好きなんじゃなくて、
誰かが限界を越える瞬間のそばにいるのが好きなんだと思います」
その告白に、テーブルの空気が柔らかく揺れた。
「だから、ここでも。
お客さんが『なんとか今日を走り切った』って思える一杯を出すの、手伝いたいんです」
窓の外の川には、遅い時間の電車の灯りが一瞬だけ映り込む。
酒の流れる川のほとりで、元ランナーはもう走ってはいない。
けれど、誰かの背中を押す声だけは、今も変わらずまっすぐに届いていた。
◇
「……というのが、私の『飲食店スタッフとして働いていた時の思い出』ですね」
話を締めくくると、誰からともなく拍手が起きた。
「なんか、みんな『過去に一回どこかで全力出して燃え尽きてる』感じですね」
凱理が、マグを傾けながら言う。
「ファミレス、カフェ、レストラン、喫茶店、ハンバーガー屋、スポーツバー……。
ここ、そういう履歴書の人しか採用してないんですか」
「たまたまです」
奏斗が、少しだけ口元を緩めた。
「でも、そのおかげで——」
「『最高の思い出』の種類が、だいぶ増えましたね」
花春が、ぽつりと続ける。
「どの話も素敵ですけど、できればここで、それを更新していけたらいいなあ」
その一言に、カウンター奥の黒いノートが、ふと阿紗美の視界に入った。
「君に恋する確率」と書かれた表紙。
そこには、まだ書き込まれていないページが、いくつも残っている。
誰の心の中にも、「まだ更新されていない最高の思い出」があることを、
この場の全員がなんとなく感じていた。
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手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。
なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。
怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。
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