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第2章: 幻想と墜落
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有美は森の中でその存在に釘付けになった。鮮やかな赤い衣装を身に纏った道化師の姿。全身を覆う白い仮面には表情がなく、ただ空虚な眼孔が彼女をじっと見つめていた。その佇まいは、森全体がその人物の影響下にあるかのような威圧感を伴っていた。
「指輪を拾ったのは、偶然ではない」
低く静かな声が、まるで地面から湧き上がるように響く。道化師の動かない唇は、どこか不自然だったが、その声は明確に有美を狙い撃っていた。脳裏に響くその言葉が心の奥深くに沈み込み、恐怖と興味が絡み合う。
有美は無意識のうちに一歩後ずさりしたが、その足元が枯れ葉に沈み込む音さえ、今は異様に大きく聞こえた。
「あなたは誰?ここで何をしているの?」
問いかける自分の声が、まるで他人のもののように感じられた。震えた音はすぐに森の静寂に飲み込まれ、彼女の耳に返ってくるのは、再び森の奥から漂う低い風の音だけだった。
「有美、行こう!」
渉の手が彼女の腕を掴む。その感触が現実に引き戻してくれるようで、彼女は微かに息を整えた。けれど道化師は、動くことも声を上げることもなく、ただ彼らの背中を見送るように立ち尽くしている。
渉が彼女の手を引き、森の奥から少しでも離れるように走り出すと、有美の足元から土の感触が逃げるように滑る。森の空気はさらに冷たく湿り気を増し、木々の影は濃くなっていく。彼らの動きに合わせるかのように、森そのものが動いているような錯覚に襲われる。
有美の耳には再び音楽が響き始めた。最初はかすかな調べだったが、次第にそれが具体的な旋律へと形を変える。それは弦楽器のような響きを持ちながら、どこか人工的な不快さを感じさせる奇妙な音だった。その音が心を掻き乱し、脳裏を引っ掻く。
「聞こえる…?渉、あの音楽が…」
「音楽なんて聞こえない。ただ走れ、有美!」
渉は彼女を振り返らない。足元に広がる枯れ葉は滑りやすく、所々に根が顔を出している。そのため、二人の速度は次第に鈍り、振り返ればどの方向に進んでいるのかさえ分からなくなっている。
それでも、有美の耳に聞こえる音楽は確実に近づいていた。まるでその旋律自体が彼女を包み込み、押し潰そうとしているかのようだった。振り向けば、道化師の姿が遠くに見える。どれだけ走っても、距離は一定のまま保たれているように感じた。
二人はとうとう足を止めた。森の空気は息苦しいほど濃密になり、まるで体が粘着質の膜に包まれたかのようだった。有美は木にもたれかかり、肩で息をしている渉を見つめる。
「どうするの?出口が見つからない…」
「静かにして。考えさせてくれ」
渉は辺りを見渡しながら、冷静さを保とうとしているようだったが、その目はどこか虚ろだった。彼もまた、この森の異様さに飲み込まれそうになっているのだろう。
音楽が一瞬止んだ。森の中が完全な静寂に包まれる。葉擦れの音も、鳥の鳴き声も、風の音さえも消え去り、二人を包むのは死のような沈黙だった。
「渉…」
その沈黙を破ったのは、有美の悲鳴だった。足元の地面が突然崩れ、二人は真っ逆さまに暗闇の中へと落ちていった。冷たい風が耳元を駆け抜け、視界はすぐに闇に飲まれた。
有美は何か硬い床に叩きつけられる感覚で目を覚ました。頭が重く、体のあちこちが痛む。冷たく湿った空気が肺を刺すように入り込み、息をするたびに体が引き裂かれるようだった。
「渉…どこにいるの?」
呟く声に返事はない。辺りは薄暗い光に包まれ、目を凝らすと奇妙な光景が広がっていた。そこは森ではなかった。無数の古びた鏡が立ち並ぶ空間で、その表面はまるで水面のようにゆらゆらと揺れている。
彼女は震える手で鏡の一つに触れた。その瞬間、鏡の中に映し出されたのは、彼女の過去だった。幼い頃、祖母と一緒に過ごした家の庭で、秋桜が風に揺れる中で遊んでいる姿。祖母の笑顔がこんなにも鮮明に映ることに驚き、胸の奥が締め付けられる。
「懐かしい…」
しかし、その光景は突然歪み、次第に暗い記憶へと変わった。祖母が病床で伏せていた最後の日。彼女の目に浮かんだ涙、有美に向けられた言葉が鏡の中で再現される。
「有美、この森には近づいてはいけない」
その言葉の重さが、有美の胸を締め付けた。祖母はこの森のことを知っていたのだろうか。なぜ、あの時、もっと詳しく教えてくれなかったのだろう?
突然、鏡の映像が変わった。そこに映し出されていたのは、彼女ではなかった。見知らぬ人々が森の中を彷徨い、指輪を拾い、そして霧の中へ消えていく。無数の人々が同じように迷い、失われていった様子が鮮明に浮かび上がる。
有美の足元から冷たい感触が這い上がる。鏡の影に潜んでいた黒い影が、彼女の体を包み込むように伸びてきた。冷たさが指先から心臓へと伝わり、意識が遠のく。
「有美!目を覚ませ!」
遠くで渉の声が聞こえる。必死に手を伸ばし、その声に応えようとするが、体は動かない。鏡に映る過去が彼女を縛り付け、現実へ戻る道を遮っていた。
「逃げちゃいけない…」
自分の声が頭の中で響いた。その言葉に力を込めるように、彼女は鏡の中の自分を見つめる。
「これは、私の記憶。私の過去…」
鏡に映る自分を受け入れると決めた瞬間、黒い影が消え去り、有美は再び光の中に引き戻された。目を開けると、渉が彼女の手を握っていた。
「有美、大丈夫か?」
「うん…大丈夫」
有美は立ち上がり、震える足を引きずりながら前を見た。目の前には、また新しい扉が現れていた。
「行こう、有美。この先に答えがあるはずだ」
彼女は頷き、扉へと歩き出した。
「指輪を拾ったのは、偶然ではない」
低く静かな声が、まるで地面から湧き上がるように響く。道化師の動かない唇は、どこか不自然だったが、その声は明確に有美を狙い撃っていた。脳裏に響くその言葉が心の奥深くに沈み込み、恐怖と興味が絡み合う。
有美は無意識のうちに一歩後ずさりしたが、その足元が枯れ葉に沈み込む音さえ、今は異様に大きく聞こえた。
「あなたは誰?ここで何をしているの?」
問いかける自分の声が、まるで他人のもののように感じられた。震えた音はすぐに森の静寂に飲み込まれ、彼女の耳に返ってくるのは、再び森の奥から漂う低い風の音だけだった。
「有美、行こう!」
渉の手が彼女の腕を掴む。その感触が現実に引き戻してくれるようで、彼女は微かに息を整えた。けれど道化師は、動くことも声を上げることもなく、ただ彼らの背中を見送るように立ち尽くしている。
渉が彼女の手を引き、森の奥から少しでも離れるように走り出すと、有美の足元から土の感触が逃げるように滑る。森の空気はさらに冷たく湿り気を増し、木々の影は濃くなっていく。彼らの動きに合わせるかのように、森そのものが動いているような錯覚に襲われる。
有美の耳には再び音楽が響き始めた。最初はかすかな調べだったが、次第にそれが具体的な旋律へと形を変える。それは弦楽器のような響きを持ちながら、どこか人工的な不快さを感じさせる奇妙な音だった。その音が心を掻き乱し、脳裏を引っ掻く。
「聞こえる…?渉、あの音楽が…」
「音楽なんて聞こえない。ただ走れ、有美!」
渉は彼女を振り返らない。足元に広がる枯れ葉は滑りやすく、所々に根が顔を出している。そのため、二人の速度は次第に鈍り、振り返ればどの方向に進んでいるのかさえ分からなくなっている。
それでも、有美の耳に聞こえる音楽は確実に近づいていた。まるでその旋律自体が彼女を包み込み、押し潰そうとしているかのようだった。振り向けば、道化師の姿が遠くに見える。どれだけ走っても、距離は一定のまま保たれているように感じた。
二人はとうとう足を止めた。森の空気は息苦しいほど濃密になり、まるで体が粘着質の膜に包まれたかのようだった。有美は木にもたれかかり、肩で息をしている渉を見つめる。
「どうするの?出口が見つからない…」
「静かにして。考えさせてくれ」
渉は辺りを見渡しながら、冷静さを保とうとしているようだったが、その目はどこか虚ろだった。彼もまた、この森の異様さに飲み込まれそうになっているのだろう。
音楽が一瞬止んだ。森の中が完全な静寂に包まれる。葉擦れの音も、鳥の鳴き声も、風の音さえも消え去り、二人を包むのは死のような沈黙だった。
「渉…」
その沈黙を破ったのは、有美の悲鳴だった。足元の地面が突然崩れ、二人は真っ逆さまに暗闇の中へと落ちていった。冷たい風が耳元を駆け抜け、視界はすぐに闇に飲まれた。
有美は何か硬い床に叩きつけられる感覚で目を覚ました。頭が重く、体のあちこちが痛む。冷たく湿った空気が肺を刺すように入り込み、息をするたびに体が引き裂かれるようだった。
「渉…どこにいるの?」
呟く声に返事はない。辺りは薄暗い光に包まれ、目を凝らすと奇妙な光景が広がっていた。そこは森ではなかった。無数の古びた鏡が立ち並ぶ空間で、その表面はまるで水面のようにゆらゆらと揺れている。
彼女は震える手で鏡の一つに触れた。その瞬間、鏡の中に映し出されたのは、彼女の過去だった。幼い頃、祖母と一緒に過ごした家の庭で、秋桜が風に揺れる中で遊んでいる姿。祖母の笑顔がこんなにも鮮明に映ることに驚き、胸の奥が締め付けられる。
「懐かしい…」
しかし、その光景は突然歪み、次第に暗い記憶へと変わった。祖母が病床で伏せていた最後の日。彼女の目に浮かんだ涙、有美に向けられた言葉が鏡の中で再現される。
「有美、この森には近づいてはいけない」
その言葉の重さが、有美の胸を締め付けた。祖母はこの森のことを知っていたのだろうか。なぜ、あの時、もっと詳しく教えてくれなかったのだろう?
突然、鏡の映像が変わった。そこに映し出されていたのは、彼女ではなかった。見知らぬ人々が森の中を彷徨い、指輪を拾い、そして霧の中へ消えていく。無数の人々が同じように迷い、失われていった様子が鮮明に浮かび上がる。
有美の足元から冷たい感触が這い上がる。鏡の影に潜んでいた黒い影が、彼女の体を包み込むように伸びてきた。冷たさが指先から心臓へと伝わり、意識が遠のく。
「有美!目を覚ませ!」
遠くで渉の声が聞こえる。必死に手を伸ばし、その声に応えようとするが、体は動かない。鏡に映る過去が彼女を縛り付け、現実へ戻る道を遮っていた。
「逃げちゃいけない…」
自分の声が頭の中で響いた。その言葉に力を込めるように、彼女は鏡の中の自分を見つめる。
「これは、私の記憶。私の過去…」
鏡に映る自分を受け入れると決めた瞬間、黒い影が消え去り、有美は再び光の中に引き戻された。目を開けると、渉が彼女の手を握っていた。
「有美、大丈夫か?」
「うん…大丈夫」
有美は立ち上がり、震える足を引きずりながら前を見た。目の前には、また新しい扉が現れていた。
「行こう、有美。この先に答えがあるはずだ」
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