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第25話 市役所の会議室と一本の線
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九月の朝、市役所三階の会議室には、独特の緊張した空気が漂っていた。
「なんか、冷房の風までよそ行きって感じですね」
瑠奈が小声でつぶやき、膝の上で書類の束を整える。蛍光灯の白い光が、長机の上に並んだペットボトルの水と紙コップを、まるで会議用セットのように均一に照らしていた。
窓の外には、少し色づき始めた山の稜線が見える。けれど、この部屋の中には季節の気配はほとんど入り込んでいなかった。
「観光振興担当の皆さん、もう少し詰めて座ってください」
総務課の職員が声をかけ、颯馬たちは長机の一番端の列に席を詰めた。前方のスクリーンには、「雪杜町観光事業予算見直し会議」と黒い文字が映し出されている。
「……いよいよだな」
隣で龍護が、缶コーヒーを一口飲んで小さく息を吐いた。今日は酒蔵の前掛けではなく、珍しくネクタイを締めている。その違和感が、余計に緊張を引き立てた。
「大丈夫ですよ」
瑠奈が、いつもの笑顔で言う。
「九つの場所でやってきたこと、ちゃんと話せば伝わります」
その言葉に、颯馬は小さく頷いた。テーブルの上には、樹佳が徹夜でまとめた分厚い報告書が積み重ねられている。表紙には、「九つの場所を巡る町歩きコース・実績報告」と印刷されていた。
*
「では、次の案件に移ります」
会議室の前方で、部長が資料をめくる音がした。眼鏡の奥の目が、報告書の表紙をじっと見下ろしている。
「雪杜ナインプレイス、いわゆる九つの場所を巡る町歩きについて、今年度の中間報告をお願いします」
その言葉に、視線が一斉に颯馬たちの席へ向いた。天井のエアコンの風が、スーツの肩をかすかに揺らす。
「では、雪杜観光企画よりご説明いたします」
颯馬は立ち上がり、ホワイトボードの前に歩み出た。手のひらに汗がにじむ。ポケットの中のキーホルダーが、小さく音を立てた。
「まず、数字からご報告します」
スクリーンに映し出されたグラフが、会議室の白い壁に浮かび上がる。訪問者数、リピート率、参加者の平均滞在時間。棒グラフと折れ線が、数か月分の動きを示していた。
「当初目標としていた観光客数には、まだ届いていません」
颯馬は、はっきりと言った。ごまかす気はなかった。
「ただ、昨年同時期と比べると、町全体の宿泊数は少しずつ伸びています。特に、平日の宿泊が増えているのが特徴です」
前方の席で、経済課の職員が眉を上げた。
「それから、九つの場所の周辺での売り上げについては、酒蔵やりんご園を中心に、少しずつ伸びが見られます。ただ、全体としては、まだ『大成功です』と言えるほどではありません」
そこで一度区切り、紙をめくる。会議室には、ボールペンの先が紙をたたく小さな音だけが響いていた。
部長が口を開く。
「つまり、現時点では、当初の目標には届いていない、ということだな」
「はい」
その言葉の重さを受け止めながら、颯馬はホワイトボードのほうへ向き直った。マーカーを一本取り、ボードの中央に雪杜町の輪郭を簡単な線で描く。
「……ここからは、数字以外のお話を少しだけさせてください」
*
黒いマーカーの先が、きゅっと音を立てて動く。
「これは、雪杜町をざっくりと囲んだ線です」
会議室の前方に、大まかな地図の輪郭が描かれていく。駅前広場、商店街、雪見社、足湯、酒蔵、りんご園、白波岬、旧・雪杜小学校、川沿い。九つの場所の位置を、点で示した。
「九つの場所をつないでいくと、こんな一筆書きの線になります」
颯馬は、駅から商店街へ、そこから雪見社へと、線を一気につないでいった。線は町の内側をぐるりと回り、最後に川沿いを通って再び駅に戻ってくる。
「この線の内側で、この半年間に起きたことを、すべて数字にできているかというと……正直、できていません」
部長が、少しだけ眉をひそめる。
「どういう意味かね」
問いかけに、颯馬は深く息を吸って答えた。
「例えば、閉まっている書店の前を、毎朝なぜか誰かが掃いてくれていること」
「足湯に、誰かが新しい桶とタオルをそっと足していったこと」
「川沿いの欄干に、小さな『ありがとう』の布が結びつけられていること」
ひとつずつ挙げるたびに、九つの場所の記憶が浮かび上がる。
「それから、停電の中で、スマホのライトを掲げて帰り道を照らしてくれた人たちの列」
雷が落ちた花火の夜。真っ暗な川沿いに、地上の星が並んだ光景が、鮮やかによみがえる。
「そういった出来事は、町の決算書には載りません。でも、そのひとつひとつの行動が、『この町が好きだ』という気持ちとつながっているのだと感じています」
ホワイトボードの前で、マーカーをいったん止める。
「九つの場所をつくる前、この線の中には、いろいろな『好き』が散らばっていました。ただ、それぞれが別々の場所でばらばらに存在していた」
颯馬は、九つの点の間にさらに小さな点をいくつも打った。
「今は、その点と点の間に、小さな線が少しずつ増えています。足湯で知り合った人が、翌日りんご園に足を運んだり。酒蔵で試飲した人が、翌年には家族を連れて戻ってきたり」
「その線の本数は、まだ正確に数えられていません。でも、ここにいるメンバーは毎日のように、その変化を目の前で見ています」
*
しばらくの沈黙のあとで、部長が報告書のページをめくった。
「しかし、予算というのは、夢の話だけでは決められない」
静かながら、重い言葉だった。
「観光客数や売り上げという数字が、大きな判断材料であることは変わらない。『好き』という言葉は尊いが、それだけでは他の事業との優先順位をつけられないのも事実だ」
そう言ってから、視線を樹佳に向ける。
「財政担当として、どう見ている?」
突然振られた樹佳は、一瞬だけ肩をびくりとさせた。けれど、すぐに書類を整え、ゆっくりと立ち上がる。
「はい。財政担当の立場として、お話しします」
彼女は、手元の紙を見下ろした。そこには、ぎっしりと数字が並んでいる。
「数字だけ見れば、九つの場所の取り組みは、『絶対に続けなければならない』と言い切れるほどの成果は、まだ出ていません。正直に申し上げると、です」
会議室の空気が、少しだけ固くなる。
「ただし」
樹佳は顔を上げ、まっすぐに部長を見た。
「私は、この半年で変わった数字を、もう少し丁寧に見たいと思っています」
スクリーンに、新しいスライドが映し出された。そこには、グラフだけでなく、短い文章と写真が添えられている。
「これは、りんご園の売り上げの推移です。一見すると、去年より少し増えた程度に見えます。しかし、売れ方の内訳を見ると、平日に少人数で来ているお客さまが増えています」
写真には、平日の昼間、りんご園の木陰でジュースを飲む老夫婦と、リュックを背負った青年の姿が写っていた。
「次に、宿泊税のデータです。こちらも、絶対数はまだ多くありませんが、連泊する方の割合が増えています」
今度の写真は、足湯のベンチに座ってノートを広げている親子の姿だった。
「九つの場所を回った人のアンケートには、『昨日は商店街を歩いたので、今日は別の場所に行ってみます』『また冬にも来たいです』といったコメントが増えています」
樹佳は、手元の紙から目を離し、会議室全体を見渡した。
「私は、数字と一緒に、こうした『声』も資料として提出したいです」
会議室のあちこちで、ページをめくる音がした。報告書の後半には、アンケートの一部が抜粋され、読みやすくレイアウトされている。
「数字だけ見れば、九つの場所は『まだ小さな取り組み』です。でも、この小さな取り組みの中に、町のこれからを支える種がどれくらい入っているのか。そこを判断していただきたいと思っています」
言い終えると、樹佳は小さく頭を下げて席に戻った。膝の上で握りしめた拳が、まだわずかに震えている。
*
部長は、しばらく報告書を黙って読み続けた。ページをめくる指先の動きが、少しだけゆっくりになる。
「……わかった」
やがて、短くそう言った。
「今日のところは、すぐに結論は出さない。経済課とも相談したうえで、最終的な判断をする」
会議室の空気が、わずかに緩む。緊張が解けた拍子に、誰かの椅子がきしんだ。
「ただ一つ、言っておく」
部長は、ホワイトボードの前に立つ颯馬を見た。
「君が描いたその線。あれが、ただの絵ではなく、本当に町の中に引かれつつある線なのかどうか。そこを確かめるのが、これからの数か月だ」
颯馬は、マーカーを握ったまま頷いた。
「はい」
会議は、別の議題へと移っていく。書類の束が入れ替わり、次々と違う資料がスクリーンに映し出される。その間も、ホワイトボードの端には、雪杜町を囲む一筆書きの線が残り続けていた。
*
会議が終わり、廊下に出た途端、瑠奈が大きく息を吐いた。
「はあー……心臓が、まだ会議室に置いてきたままなんですけど」
「取りに戻るか?」
龍護が冗談を言うと、ようやく笑いがこぼれる。
「さっきの、一筆書きのやつ」
亜矢菜が、エレベーターの前で振り返った。
「ラジオでしゃべっていい?」
「え?」
「『町を囲む一本の線のお話』って、すごくいいタイトルになる気がするんだよね」
颯馬は少し考え、それから頷いた。
「いいよ。ただし、ちゃんと数字の話も混ぜてくれ」
「任せてください。リスナーに『今日は真面目だな』って言われるくらいには、ちゃんとやります」
亜矢菜が胸を張ると、琉央がぼそりとつぶやいた。
「真面目な回、年に一回くらいは必要」
「失礼な」
エレベーターの扉が開き、みんなで乗り込む。鏡張りの壁に、ネクタイ姿や作業着や私服がばらばらに映っていた。
「さっき、部長さんが言ってましたよね」
エレベーターが一階に着くころ、樹佳が口を開いた。
「『やめる理由を探すより、続ける理由を探したい』って」
「言ってたな」
颯馬は、会議室を出る直前にかけられた小さな一言を思い出した。正式な発言ではなかったが、その声には、長年町の予算書と向き合ってきた人なりの重みがあった。
「続ける理由、もう少し増やしましょう」
樹佳の言葉に、全員が頷いた。
「じゃあ、とりあえず」
瑠奈が、玄関ホールの自動ドアをくぐりながら言った。
「今日の午後は、駅前のベンチに行きませんか。あそこから見える『線の内側』、もう一回確かめたいです」
「賛成」
颯馬は、ポケットの中のキーホルダーをぎゅっと握った。九つの場所をかたどった金属の輪が、指先に冷たく当たる。
市役所の白い会議室で描いた一本の線は、まだ頼りない。けれど、その内側で笑った顔や、「また来たい」と言ってくれた声が、確かにいくつも重なっている。
その線を、どうやってもう少し太くしていくのか。答えはまだ見えていない。
ただ、線の上を一緒に歩く人たちが、ちゃんと隣にいる。そのことだけは、会議室の蛍光灯よりもはっきりと胸に残っていた。
「なんか、冷房の風までよそ行きって感じですね」
瑠奈が小声でつぶやき、膝の上で書類の束を整える。蛍光灯の白い光が、長机の上に並んだペットボトルの水と紙コップを、まるで会議用セットのように均一に照らしていた。
窓の外には、少し色づき始めた山の稜線が見える。けれど、この部屋の中には季節の気配はほとんど入り込んでいなかった。
「観光振興担当の皆さん、もう少し詰めて座ってください」
総務課の職員が声をかけ、颯馬たちは長机の一番端の列に席を詰めた。前方のスクリーンには、「雪杜町観光事業予算見直し会議」と黒い文字が映し出されている。
「……いよいよだな」
隣で龍護が、缶コーヒーを一口飲んで小さく息を吐いた。今日は酒蔵の前掛けではなく、珍しくネクタイを締めている。その違和感が、余計に緊張を引き立てた。
「大丈夫ですよ」
瑠奈が、いつもの笑顔で言う。
「九つの場所でやってきたこと、ちゃんと話せば伝わります」
その言葉に、颯馬は小さく頷いた。テーブルの上には、樹佳が徹夜でまとめた分厚い報告書が積み重ねられている。表紙には、「九つの場所を巡る町歩きコース・実績報告」と印刷されていた。
*
「では、次の案件に移ります」
会議室の前方で、部長が資料をめくる音がした。眼鏡の奥の目が、報告書の表紙をじっと見下ろしている。
「雪杜ナインプレイス、いわゆる九つの場所を巡る町歩きについて、今年度の中間報告をお願いします」
その言葉に、視線が一斉に颯馬たちの席へ向いた。天井のエアコンの風が、スーツの肩をかすかに揺らす。
「では、雪杜観光企画よりご説明いたします」
颯馬は立ち上がり、ホワイトボードの前に歩み出た。手のひらに汗がにじむ。ポケットの中のキーホルダーが、小さく音を立てた。
「まず、数字からご報告します」
スクリーンに映し出されたグラフが、会議室の白い壁に浮かび上がる。訪問者数、リピート率、参加者の平均滞在時間。棒グラフと折れ線が、数か月分の動きを示していた。
「当初目標としていた観光客数には、まだ届いていません」
颯馬は、はっきりと言った。ごまかす気はなかった。
「ただ、昨年同時期と比べると、町全体の宿泊数は少しずつ伸びています。特に、平日の宿泊が増えているのが特徴です」
前方の席で、経済課の職員が眉を上げた。
「それから、九つの場所の周辺での売り上げについては、酒蔵やりんご園を中心に、少しずつ伸びが見られます。ただ、全体としては、まだ『大成功です』と言えるほどではありません」
そこで一度区切り、紙をめくる。会議室には、ボールペンの先が紙をたたく小さな音だけが響いていた。
部長が口を開く。
「つまり、現時点では、当初の目標には届いていない、ということだな」
「はい」
その言葉の重さを受け止めながら、颯馬はホワイトボードのほうへ向き直った。マーカーを一本取り、ボードの中央に雪杜町の輪郭を簡単な線で描く。
「……ここからは、数字以外のお話を少しだけさせてください」
*
黒いマーカーの先が、きゅっと音を立てて動く。
「これは、雪杜町をざっくりと囲んだ線です」
会議室の前方に、大まかな地図の輪郭が描かれていく。駅前広場、商店街、雪見社、足湯、酒蔵、りんご園、白波岬、旧・雪杜小学校、川沿い。九つの場所の位置を、点で示した。
「九つの場所をつないでいくと、こんな一筆書きの線になります」
颯馬は、駅から商店街へ、そこから雪見社へと、線を一気につないでいった。線は町の内側をぐるりと回り、最後に川沿いを通って再び駅に戻ってくる。
「この線の内側で、この半年間に起きたことを、すべて数字にできているかというと……正直、できていません」
部長が、少しだけ眉をひそめる。
「どういう意味かね」
問いかけに、颯馬は深く息を吸って答えた。
「例えば、閉まっている書店の前を、毎朝なぜか誰かが掃いてくれていること」
「足湯に、誰かが新しい桶とタオルをそっと足していったこと」
「川沿いの欄干に、小さな『ありがとう』の布が結びつけられていること」
ひとつずつ挙げるたびに、九つの場所の記憶が浮かび上がる。
「それから、停電の中で、スマホのライトを掲げて帰り道を照らしてくれた人たちの列」
雷が落ちた花火の夜。真っ暗な川沿いに、地上の星が並んだ光景が、鮮やかによみがえる。
「そういった出来事は、町の決算書には載りません。でも、そのひとつひとつの行動が、『この町が好きだ』という気持ちとつながっているのだと感じています」
ホワイトボードの前で、マーカーをいったん止める。
「九つの場所をつくる前、この線の中には、いろいろな『好き』が散らばっていました。ただ、それぞれが別々の場所でばらばらに存在していた」
颯馬は、九つの点の間にさらに小さな点をいくつも打った。
「今は、その点と点の間に、小さな線が少しずつ増えています。足湯で知り合った人が、翌日りんご園に足を運んだり。酒蔵で試飲した人が、翌年には家族を連れて戻ってきたり」
「その線の本数は、まだ正確に数えられていません。でも、ここにいるメンバーは毎日のように、その変化を目の前で見ています」
*
しばらくの沈黙のあとで、部長が報告書のページをめくった。
「しかし、予算というのは、夢の話だけでは決められない」
静かながら、重い言葉だった。
「観光客数や売り上げという数字が、大きな判断材料であることは変わらない。『好き』という言葉は尊いが、それだけでは他の事業との優先順位をつけられないのも事実だ」
そう言ってから、視線を樹佳に向ける。
「財政担当として、どう見ている?」
突然振られた樹佳は、一瞬だけ肩をびくりとさせた。けれど、すぐに書類を整え、ゆっくりと立ち上がる。
「はい。財政担当の立場として、お話しします」
彼女は、手元の紙を見下ろした。そこには、ぎっしりと数字が並んでいる。
「数字だけ見れば、九つの場所の取り組みは、『絶対に続けなければならない』と言い切れるほどの成果は、まだ出ていません。正直に申し上げると、です」
会議室の空気が、少しだけ固くなる。
「ただし」
樹佳は顔を上げ、まっすぐに部長を見た。
「私は、この半年で変わった数字を、もう少し丁寧に見たいと思っています」
スクリーンに、新しいスライドが映し出された。そこには、グラフだけでなく、短い文章と写真が添えられている。
「これは、りんご園の売り上げの推移です。一見すると、去年より少し増えた程度に見えます。しかし、売れ方の内訳を見ると、平日に少人数で来ているお客さまが増えています」
写真には、平日の昼間、りんご園の木陰でジュースを飲む老夫婦と、リュックを背負った青年の姿が写っていた。
「次に、宿泊税のデータです。こちらも、絶対数はまだ多くありませんが、連泊する方の割合が増えています」
今度の写真は、足湯のベンチに座ってノートを広げている親子の姿だった。
「九つの場所を回った人のアンケートには、『昨日は商店街を歩いたので、今日は別の場所に行ってみます』『また冬にも来たいです』といったコメントが増えています」
樹佳は、手元の紙から目を離し、会議室全体を見渡した。
「私は、数字と一緒に、こうした『声』も資料として提出したいです」
会議室のあちこちで、ページをめくる音がした。報告書の後半には、アンケートの一部が抜粋され、読みやすくレイアウトされている。
「数字だけ見れば、九つの場所は『まだ小さな取り組み』です。でも、この小さな取り組みの中に、町のこれからを支える種がどれくらい入っているのか。そこを判断していただきたいと思っています」
言い終えると、樹佳は小さく頭を下げて席に戻った。膝の上で握りしめた拳が、まだわずかに震えている。
*
部長は、しばらく報告書を黙って読み続けた。ページをめくる指先の動きが、少しだけゆっくりになる。
「……わかった」
やがて、短くそう言った。
「今日のところは、すぐに結論は出さない。経済課とも相談したうえで、最終的な判断をする」
会議室の空気が、わずかに緩む。緊張が解けた拍子に、誰かの椅子がきしんだ。
「ただ一つ、言っておく」
部長は、ホワイトボードの前に立つ颯馬を見た。
「君が描いたその線。あれが、ただの絵ではなく、本当に町の中に引かれつつある線なのかどうか。そこを確かめるのが、これからの数か月だ」
颯馬は、マーカーを握ったまま頷いた。
「はい」
会議は、別の議題へと移っていく。書類の束が入れ替わり、次々と違う資料がスクリーンに映し出される。その間も、ホワイトボードの端には、雪杜町を囲む一筆書きの線が残り続けていた。
*
会議が終わり、廊下に出た途端、瑠奈が大きく息を吐いた。
「はあー……心臓が、まだ会議室に置いてきたままなんですけど」
「取りに戻るか?」
龍護が冗談を言うと、ようやく笑いがこぼれる。
「さっきの、一筆書きのやつ」
亜矢菜が、エレベーターの前で振り返った。
「ラジオでしゃべっていい?」
「え?」
「『町を囲む一本の線のお話』って、すごくいいタイトルになる気がするんだよね」
颯馬は少し考え、それから頷いた。
「いいよ。ただし、ちゃんと数字の話も混ぜてくれ」
「任せてください。リスナーに『今日は真面目だな』って言われるくらいには、ちゃんとやります」
亜矢菜が胸を張ると、琉央がぼそりとつぶやいた。
「真面目な回、年に一回くらいは必要」
「失礼な」
エレベーターの扉が開き、みんなで乗り込む。鏡張りの壁に、ネクタイ姿や作業着や私服がばらばらに映っていた。
「さっき、部長さんが言ってましたよね」
エレベーターが一階に着くころ、樹佳が口を開いた。
「『やめる理由を探すより、続ける理由を探したい』って」
「言ってたな」
颯馬は、会議室を出る直前にかけられた小さな一言を思い出した。正式な発言ではなかったが、その声には、長年町の予算書と向き合ってきた人なりの重みがあった。
「続ける理由、もう少し増やしましょう」
樹佳の言葉に、全員が頷いた。
「じゃあ、とりあえず」
瑠奈が、玄関ホールの自動ドアをくぐりながら言った。
「今日の午後は、駅前のベンチに行きませんか。あそこから見える『線の内側』、もう一回確かめたいです」
「賛成」
颯馬は、ポケットの中のキーホルダーをぎゅっと握った。九つの場所をかたどった金属の輪が、指先に冷たく当たる。
市役所の白い会議室で描いた一本の線は、まだ頼りない。けれど、その内側で笑った顔や、「また来たい」と言ってくれた声が、確かにいくつも重なっている。
その線を、どうやってもう少し太くしていくのか。答えはまだ見えていない。
ただ、線の上を一緒に歩く人たちが、ちゃんと隣にいる。そのことだけは、会議室の蛍光灯よりもはっきりと胸に残っていた。
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