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第24話 それぞれの理由
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八月の終わり、川沿いの空気には、夏休みの名残と秋の気配が半分ずつ混じっていた。
「今日は、完全オフだな」
川べりのベンチに腰を下ろしながら、颯馬が空を見上げる。前日までの九つの場所めぐりが嘘のように、川沿いには人影が少ない。遠くで釣り糸を垂らしている親子と、犬の散歩をしている人が一組。それくらいだ。
「オフの日に、結局ここで集まってるっていうのが、もうだいぶ末期ですよね」
瑠奈が、コンビニの袋をぶら下げたまま笑った。袋の中からは、ポテトチップスとおにぎり、それから紙パックのジュースが少し顔を出している。
「末期とか言うな」
颯馬の左隣には、龍護が腰かけていた。片手には、酒蔵の冷蔵庫から持ってきたらしい缶のほうじ茶。珍しくノンアルコールだ。
「酒蔵の人が、真昼間から川辺で酒飲んでたら町内放送されるからな」
「放送まではされませんよ」
そう言いながらも、瑠奈は想像したのか、くすりと笑った。
ベンチの右端には、琉央が黙って座っている。足元には、工具の入った布製のバッグ。川沿いの看板の柱を点検した帰りだ。
「樹佳さん、まだですかね」
亜矢菜が、紙コップのアイスコーヒーを両手で包み込みながら、坂の上の道路を見やった。
「財政担当は、休みの日も数字とにらめっこだからなあ」
龍護が冗談めかして言うと、ほんの数分後、本当に数字の束を抱えた樹佳が姿を見せた。
「ごめん、少し遅くなりました。月次の集計、途中までやっちゃおうと思って」
「ほら来た」
龍護が小声でつぶやくと、亜矢菜が肩を震わせる。
樹佳は、ベンチの端の石段に腰を下ろした。
「で、今日は何の打ち合わせですか?」
「打ち合わせじゃないって。今日は、ただの『川沿いでだらだらする会』です」
瑠奈が、コンビニ袋からポテトチップスを取り出しながら言う。
「だらだらする会のわりには、メンバーが観光課と酒蔵とラジオ局と工房と財政担当なんだけど」
亜矢菜のツッコミに、みんなの笑いが重なった。
笑いが一段落したところで、颯馬は、なんとなくずっと胸の中でくすぶっていた疑問を口にした。
「……なあ」
川面を渡る風が、言葉を運んでいく。
「どうして、ここまで一緒に続けてくれてるんだ?」
突然の問いかけに、全員の視線が颯馬に集まった。
「え、そこで聞く?」
亜矢菜が、口にくわえかけていたポテチをあわてて袋に戻す。
「いや、ふとさ。最初は一年限定、みたいな話だったじゃないか。九つの場所を形にして、ある程度の数字が出たら、あとは町の人にバトンを渡して……って」
颯馬は、自分の言葉をなぞるように続けた。
「なのに、気づいたらみんな、当たり前みたいに集まってくれてるから」
夏の終わりの光が、水面にちらちらと跳ねる。その反射が、ベンチに並ぶ顔に交互に当たっていた。
「答え合わせみたいなことをしたいわけじゃないんだ。ただ、聞いておきたくて」
少しだけ息を吐く。東京からのメールの文面が、一瞬だけ頭の隅をかすめた。「お前がいなくても回るようにしておけよ」という、昔の上司の口癖も一緒に。
最初に口を開いたのは、龍護だった。
「俺は、単純だぞ」
缶のほうじ茶を一口飲み、空を仰ぐ。
「うちの酒を飲んで笑ってくれる顔を、この町で一番近くで見られるから」
それだけ言って、肩をすくめた。
「前はさ、酒蔵の中でタンクと数字だけ見てればよかった。卸した先の店でどう飲まれてるかとか、正直想像するしかなかったんだよ」
「でも、九つの場所に酒蔵を入れてから、足湯の帰りに寄ってくれる人とか、雪見社の階段をがんばって登ったあとに一杯だけ飲みにくる人とか、いろんな顔が見えるようになった」
川面を見つめながら、言葉を続ける。
「ここで飲む酒が好きだって顔を、この町で一番近くで見られるなら……まあ、しばらくはやめられねえなって」
照れ隠しなのか、最後は缶を口に当てたまま小さく笑った。
「龍護さんらしいですね」
瑠奈が、ポテトチップスの袋を彼のほうへ差し出す。
「次は?」
視線が、自然と琉央に集まった。
「……」
彼はしばらく無言のまま、足元の石をつついていたが、やがて小さく息を吐いた。
「ここで作ったものが、ここで使われるのは、悪くない」
言葉は短いが、その間にいくつもの光景が詰め込まれているようだった。
「看板も、手すりも、ベンチも。前は、注文通りに作って渡したらそこで終わりだった。納品書にハンコもらって、おしまい」
琉央は、川沿いの道を指で示した。
「ここだと、誰がどこで座って、どこで転びそうになって、どこに手を伸ばすかが、直接見える」
「昨日、花火のときさ」
ふいに、彼は少しだけ声を上げた。
「手すり、みんなが触ってた」
停電の夜。右手で欄干をなぞるように歩いた人たちの列。スマホの光の中で、琉央が補強したボルトや磨き直した木の表面が、静かに光っていた。
「ああいうの、嫌いじゃない」
それだけ言うと、彼はまた口を閉じた。
「嫌いじゃない、は最大級のほめ言葉だと理解しました」
亜矢菜が、真顔で頷く。
「じゃあ、次」
そう言って、今度は自分の胸の前で手を挙げた。
「私は……最初は、ネタになるから、でした」
空気が、少し和らぐ。
「ラジオもブログも、地方の話題って、どうしても『お祭りやりました』『新商品出ました』ばっかりで。楽しいんだけど、どこも同じに聞こえちゃうところもあって」
亜矢菜は、川の向こう岸に目をやった。
「でも、九つの場所を歩いてるときに出てくる話って、『今日このベンチで昼寝してたおじいちゃんがさ』とか、『足湯に毎日来るあの子がさ』とか、名前のつかない話ばっかりで。これ、全部ネタにできたら最高だなって思ったのが、最初の理由」
「それ、だいぶ最初から本気でしたよね」
瑠奈のツッコミに、亜矢菜は肩をすくめた。
「で、今は?」
颯馬の問いに、少しだけ間を置いて答える。
「今は……自分の逃げ癖に、ちょっとだけ腹が立ってるから、かな」
「逃げ癖?」
「うん。嫌になったらすぐ別の番組に行きたがるし、数字が伸びないとすぐ『聞く人が悪い』って思ってたし」
自嘲気味に笑いながらも、その目はまっすぐだった。
「九つの場所は、逃げてもどこかでまた出会うからさ。足湯に行けば、前にインタビューした人が湯気の向こうに座ってるし、酒蔵に行けば『この前の放送聴いたよ』って言われるし。そういうのから逃げない自分を、もうちょっと見てみたくて」
言い終わると、自分で照れたのか、アイスコーヒーのストローをやたらといじり始めた。
「じゃあ、次は……」
視線が、自然と瑠奈に向かう。
「え、私?」
瑠奈は、ポテトチップスの袋を持ったまま固まった。しばらく迷ったあと、ぽつりと言葉をこぼす。
「駅前の階段で、足が止まったから、ですかね」
「階段?」
颯馬が首をかしげる。
「颯馬さんが帰ってきた日。改札の向こうで『おかえり』のボード持ってたとき、駅前の階段からこっちを見てる人たちがいて」
瑠奈は、指で空中に小さな四角を描いた。
「その人たちの足が、階段の途中で止まってたんですよね。下まで降りてこないで、『ああ、誰か帰ってきたんだ』って顔だけして、また上に戻っていく感じで」
その光景は、颯馬にも覚えがあった。雪杜駅の階段の途中で、様子だけ見て去っていった人の影。
「なんか、それが悔しくて」
瑠奈は、笑いながら続ける。
「『降りてきてくださいよ』って、心の中でずっと言ってました」
「だから、九つの場所を作るとき、『階段の下まで来てもらう理由』を用意したかったのかもしれません」
「階段の下まで来てもらう理由」
颯馬は、その言葉を胸の中で反芻した。
「足湯とか、酒蔵とか、りんご園とか。どこも、階段を降りた先にあるから」
瑠奈の声は静かだったが、その奥には確かな熱があった。
「だから、さつまさんが一人でどこかに行っちゃうより、階段の下で『次どこ行きます?』って言ってくれるほうが、安心するんです」
最後の一言に、ベンチの上の空気が少しだけ緊張を帯びた。
「……ごめん。東京のメールのことも、ちゃんと階段の下で話す」
颯馬は、素直にそう口にした。先日の橋の上でのやりとりが、静かに背中を押してくる。
「はい。話を聞いてから怒る準備しておきます」
瑠奈が、わざとらしく肩をいからせてみせると、笑いが起きた。
「じゃあ、最後は樹佳さんかな」
亜矢菜に振られ、樹佳は少しだけ目を瞬いた。
「私は……そうですね」
膝の上に置いた書類の端を整えながら、ゆっくりと話し始める。
「最初は、数字と報告書のためでした。九つの場所がどれくらい町の経済に寄与するか、ちゃんと見極めないといけないと思って」
「でも、毎月の集計が終わるたびに、『来月もまたここに来るんだな』って思うようになって」
川の流れに目を落とす。
「数字の報告以上に、毎月ここに来るのが楽しみになってしまったんです」
照れくさそうに笑い、続けた。
「決算書には、『川沿いでだらだらする会』なんて書けませんけど」
「書いたら怒られますよ」
龍護が即座にツッコミを入れる。
「でも、こういう時間を知ってしまったら、ただ数字だけを見て『やめましょう』とは言えなくなりました。だから、多分私は、自分の仕事のほうを変えないといけないんだろうなって」
「仕事のほう?」
「はい。九つの場所の数字を、『削る理由』じゃなくて『続ける理由』として説明できるように」
その言葉に、ベンチの上の空気がふわりと揺れた。誰も拍手はしないが、それぞれの胸の中で、小さなスタンディングオベーションが起きているような感覚だった。
しばらくの沈黙のあと、颯馬は空を見上げた。夏の雲は少しだけ薄くなり、高いところには秋の筋雲がのびている。
「ありがとう」
ぽつりと、そう言った。
「理由、聞かせてくれて」
足元で、川が静かに流れている。九つの場所をつないだ線のどこかで、今日のこの時間もまた小さな一点として残るのだろう。
「さつまさんの理由は?」
ふいに、瑠奈が尋ねた。
「え?」
「どうして、まだここにいるんですか?」
その問いに、全員の視線が再び颯馬に集まる。
「それは……」
言いかけて、言葉が喉の奥で渋滞した。東京からのメール、雪灯ろうの構想、九つの場所で見た無数の「声にならない好き」。それらが一度に頭の中を駆け巡る。
「今、途中です」
ようやく出てきたのは、不器用な答えだった。
「途中?」
「東京と雪杜のあいだに線を引いてる途中。まだ、どこで止めるか決めてない」
正直すぎる言葉に、自分で苦笑する。
「でも、その線のど真ん中に、この川沿いのベンチがある気はしてる」
「いいですね、それ」
亜矢菜が、すかさずメモ帳を取り出した。
「今の一文、今日のブログのタイトルにしていい?」
「やめろ、恥ずかしい」
笑い声が、川面に広がっていく。
夏の終わりの風が、ベンチに並んだ六人の間を通り抜ける。それぞれの理由が、声にならない好きの形で、静かに町のどこかへ染み込んでいく。
「今日は、完全オフだな」
川べりのベンチに腰を下ろしながら、颯馬が空を見上げる。前日までの九つの場所めぐりが嘘のように、川沿いには人影が少ない。遠くで釣り糸を垂らしている親子と、犬の散歩をしている人が一組。それくらいだ。
「オフの日に、結局ここで集まってるっていうのが、もうだいぶ末期ですよね」
瑠奈が、コンビニの袋をぶら下げたまま笑った。袋の中からは、ポテトチップスとおにぎり、それから紙パックのジュースが少し顔を出している。
「末期とか言うな」
颯馬の左隣には、龍護が腰かけていた。片手には、酒蔵の冷蔵庫から持ってきたらしい缶のほうじ茶。珍しくノンアルコールだ。
「酒蔵の人が、真昼間から川辺で酒飲んでたら町内放送されるからな」
「放送まではされませんよ」
そう言いながらも、瑠奈は想像したのか、くすりと笑った。
ベンチの右端には、琉央が黙って座っている。足元には、工具の入った布製のバッグ。川沿いの看板の柱を点検した帰りだ。
「樹佳さん、まだですかね」
亜矢菜が、紙コップのアイスコーヒーを両手で包み込みながら、坂の上の道路を見やった。
「財政担当は、休みの日も数字とにらめっこだからなあ」
龍護が冗談めかして言うと、ほんの数分後、本当に数字の束を抱えた樹佳が姿を見せた。
「ごめん、少し遅くなりました。月次の集計、途中までやっちゃおうと思って」
「ほら来た」
龍護が小声でつぶやくと、亜矢菜が肩を震わせる。
樹佳は、ベンチの端の石段に腰を下ろした。
「で、今日は何の打ち合わせですか?」
「打ち合わせじゃないって。今日は、ただの『川沿いでだらだらする会』です」
瑠奈が、コンビニ袋からポテトチップスを取り出しながら言う。
「だらだらする会のわりには、メンバーが観光課と酒蔵とラジオ局と工房と財政担当なんだけど」
亜矢菜のツッコミに、みんなの笑いが重なった。
笑いが一段落したところで、颯馬は、なんとなくずっと胸の中でくすぶっていた疑問を口にした。
「……なあ」
川面を渡る風が、言葉を運んでいく。
「どうして、ここまで一緒に続けてくれてるんだ?」
突然の問いかけに、全員の視線が颯馬に集まった。
「え、そこで聞く?」
亜矢菜が、口にくわえかけていたポテチをあわてて袋に戻す。
「いや、ふとさ。最初は一年限定、みたいな話だったじゃないか。九つの場所を形にして、ある程度の数字が出たら、あとは町の人にバトンを渡して……って」
颯馬は、自分の言葉をなぞるように続けた。
「なのに、気づいたらみんな、当たり前みたいに集まってくれてるから」
夏の終わりの光が、水面にちらちらと跳ねる。その反射が、ベンチに並ぶ顔に交互に当たっていた。
「答え合わせみたいなことをしたいわけじゃないんだ。ただ、聞いておきたくて」
少しだけ息を吐く。東京からのメールの文面が、一瞬だけ頭の隅をかすめた。「お前がいなくても回るようにしておけよ」という、昔の上司の口癖も一緒に。
最初に口を開いたのは、龍護だった。
「俺は、単純だぞ」
缶のほうじ茶を一口飲み、空を仰ぐ。
「うちの酒を飲んで笑ってくれる顔を、この町で一番近くで見られるから」
それだけ言って、肩をすくめた。
「前はさ、酒蔵の中でタンクと数字だけ見てればよかった。卸した先の店でどう飲まれてるかとか、正直想像するしかなかったんだよ」
「でも、九つの場所に酒蔵を入れてから、足湯の帰りに寄ってくれる人とか、雪見社の階段をがんばって登ったあとに一杯だけ飲みにくる人とか、いろんな顔が見えるようになった」
川面を見つめながら、言葉を続ける。
「ここで飲む酒が好きだって顔を、この町で一番近くで見られるなら……まあ、しばらくはやめられねえなって」
照れ隠しなのか、最後は缶を口に当てたまま小さく笑った。
「龍護さんらしいですね」
瑠奈が、ポテトチップスの袋を彼のほうへ差し出す。
「次は?」
視線が、自然と琉央に集まった。
「……」
彼はしばらく無言のまま、足元の石をつついていたが、やがて小さく息を吐いた。
「ここで作ったものが、ここで使われるのは、悪くない」
言葉は短いが、その間にいくつもの光景が詰め込まれているようだった。
「看板も、手すりも、ベンチも。前は、注文通りに作って渡したらそこで終わりだった。納品書にハンコもらって、おしまい」
琉央は、川沿いの道を指で示した。
「ここだと、誰がどこで座って、どこで転びそうになって、どこに手を伸ばすかが、直接見える」
「昨日、花火のときさ」
ふいに、彼は少しだけ声を上げた。
「手すり、みんなが触ってた」
停電の夜。右手で欄干をなぞるように歩いた人たちの列。スマホの光の中で、琉央が補強したボルトや磨き直した木の表面が、静かに光っていた。
「ああいうの、嫌いじゃない」
それだけ言うと、彼はまた口を閉じた。
「嫌いじゃない、は最大級のほめ言葉だと理解しました」
亜矢菜が、真顔で頷く。
「じゃあ、次」
そう言って、今度は自分の胸の前で手を挙げた。
「私は……最初は、ネタになるから、でした」
空気が、少し和らぐ。
「ラジオもブログも、地方の話題って、どうしても『お祭りやりました』『新商品出ました』ばっかりで。楽しいんだけど、どこも同じに聞こえちゃうところもあって」
亜矢菜は、川の向こう岸に目をやった。
「でも、九つの場所を歩いてるときに出てくる話って、『今日このベンチで昼寝してたおじいちゃんがさ』とか、『足湯に毎日来るあの子がさ』とか、名前のつかない話ばっかりで。これ、全部ネタにできたら最高だなって思ったのが、最初の理由」
「それ、だいぶ最初から本気でしたよね」
瑠奈のツッコミに、亜矢菜は肩をすくめた。
「で、今は?」
颯馬の問いに、少しだけ間を置いて答える。
「今は……自分の逃げ癖に、ちょっとだけ腹が立ってるから、かな」
「逃げ癖?」
「うん。嫌になったらすぐ別の番組に行きたがるし、数字が伸びないとすぐ『聞く人が悪い』って思ってたし」
自嘲気味に笑いながらも、その目はまっすぐだった。
「九つの場所は、逃げてもどこかでまた出会うからさ。足湯に行けば、前にインタビューした人が湯気の向こうに座ってるし、酒蔵に行けば『この前の放送聴いたよ』って言われるし。そういうのから逃げない自分を、もうちょっと見てみたくて」
言い終わると、自分で照れたのか、アイスコーヒーのストローをやたらといじり始めた。
「じゃあ、次は……」
視線が、自然と瑠奈に向かう。
「え、私?」
瑠奈は、ポテトチップスの袋を持ったまま固まった。しばらく迷ったあと、ぽつりと言葉をこぼす。
「駅前の階段で、足が止まったから、ですかね」
「階段?」
颯馬が首をかしげる。
「颯馬さんが帰ってきた日。改札の向こうで『おかえり』のボード持ってたとき、駅前の階段からこっちを見てる人たちがいて」
瑠奈は、指で空中に小さな四角を描いた。
「その人たちの足が、階段の途中で止まってたんですよね。下まで降りてこないで、『ああ、誰か帰ってきたんだ』って顔だけして、また上に戻っていく感じで」
その光景は、颯馬にも覚えがあった。雪杜駅の階段の途中で、様子だけ見て去っていった人の影。
「なんか、それが悔しくて」
瑠奈は、笑いながら続ける。
「『降りてきてくださいよ』って、心の中でずっと言ってました」
「だから、九つの場所を作るとき、『階段の下まで来てもらう理由』を用意したかったのかもしれません」
「階段の下まで来てもらう理由」
颯馬は、その言葉を胸の中で反芻した。
「足湯とか、酒蔵とか、りんご園とか。どこも、階段を降りた先にあるから」
瑠奈の声は静かだったが、その奥には確かな熱があった。
「だから、さつまさんが一人でどこかに行っちゃうより、階段の下で『次どこ行きます?』って言ってくれるほうが、安心するんです」
最後の一言に、ベンチの上の空気が少しだけ緊張を帯びた。
「……ごめん。東京のメールのことも、ちゃんと階段の下で話す」
颯馬は、素直にそう口にした。先日の橋の上でのやりとりが、静かに背中を押してくる。
「はい。話を聞いてから怒る準備しておきます」
瑠奈が、わざとらしく肩をいからせてみせると、笑いが起きた。
「じゃあ、最後は樹佳さんかな」
亜矢菜に振られ、樹佳は少しだけ目を瞬いた。
「私は……そうですね」
膝の上に置いた書類の端を整えながら、ゆっくりと話し始める。
「最初は、数字と報告書のためでした。九つの場所がどれくらい町の経済に寄与するか、ちゃんと見極めないといけないと思って」
「でも、毎月の集計が終わるたびに、『来月もまたここに来るんだな』って思うようになって」
川の流れに目を落とす。
「数字の報告以上に、毎月ここに来るのが楽しみになってしまったんです」
照れくさそうに笑い、続けた。
「決算書には、『川沿いでだらだらする会』なんて書けませんけど」
「書いたら怒られますよ」
龍護が即座にツッコミを入れる。
「でも、こういう時間を知ってしまったら、ただ数字だけを見て『やめましょう』とは言えなくなりました。だから、多分私は、自分の仕事のほうを変えないといけないんだろうなって」
「仕事のほう?」
「はい。九つの場所の数字を、『削る理由』じゃなくて『続ける理由』として説明できるように」
その言葉に、ベンチの上の空気がふわりと揺れた。誰も拍手はしないが、それぞれの胸の中で、小さなスタンディングオベーションが起きているような感覚だった。
しばらくの沈黙のあと、颯馬は空を見上げた。夏の雲は少しだけ薄くなり、高いところには秋の筋雲がのびている。
「ありがとう」
ぽつりと、そう言った。
「理由、聞かせてくれて」
足元で、川が静かに流れている。九つの場所をつないだ線のどこかで、今日のこの時間もまた小さな一点として残るのだろう。
「さつまさんの理由は?」
ふいに、瑠奈が尋ねた。
「え?」
「どうして、まだここにいるんですか?」
その問いに、全員の視線が再び颯馬に集まる。
「それは……」
言いかけて、言葉が喉の奥で渋滞した。東京からのメール、雪灯ろうの構想、九つの場所で見た無数の「声にならない好き」。それらが一度に頭の中を駆け巡る。
「今、途中です」
ようやく出てきたのは、不器用な答えだった。
「途中?」
「東京と雪杜のあいだに線を引いてる途中。まだ、どこで止めるか決めてない」
正直すぎる言葉に、自分で苦笑する。
「でも、その線のど真ん中に、この川沿いのベンチがある気はしてる」
「いいですね、それ」
亜矢菜が、すかさずメモ帳を取り出した。
「今の一文、今日のブログのタイトルにしていい?」
「やめろ、恥ずかしい」
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