雪杜ナインプレイス 〜キミと雪見酒と、声にならない好き〜

乾為天女

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第23話 花火と真っ暗な夜

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 川沿いの土手に、夕方の風がゆっくりと吹き抜けていた。昼の暑さでぬるくなった空気を、川面から上がる涼しさが少しずつ押し返していく。堤防の下では、焼きそばやりんご飴の屋台が次々と支度を始め、金魚すくいの水槽に、丸い提灯の灯りが揺れて映った。

 「人、増えてきたね」

 川沿いの道に立っていた瑠奈が、胸の前でクリップボードを抱え直す。浴衣姿の子どもたちが走り回り、遠くからは太鼓の音が聞こえてきた。今日の「九つの場所めぐり」は、花火大会に合わせた特別コース。夕暮れ前に駅前を出発し、商店街と足湯と酒蔵を回ってから、最後に川沿いで花火を見る。

 「ここまでで、九つのうち七つ。花火が上がるころには、ちょうど川沿いが八つ目だね」

 颯馬は、ポケットから折りたたんだ小さなルート表を取り出した。紙の端には、今日の参加者の人数と、所要時間のメモが細かく書き込まれている。

 「最後の一つは?」

 「花火が終わってから、駅まで歩く道。今日はそこを『九つ目』にする」

 そう答える颯馬の声を、川の向こうから吹いてきた風がさらっていった。頭上では、まだ明るい空に、少しだけ早い一番星がにじんでいる。

    *

 「それでは、本日の九つの場所めぐり、花火特別版。ここ、川沿いの道が五番目……じゃなくて、今日は七番目ですね」

 亜矢菜が、手にした小型マイクを口元に寄せて笑う。ラーメン屋での話し合いから生まれた「出張ラジオ案内」は、すっかりコースの名物になりつつあった。参加者の耳には、小さなレシーバーがつながっている。

 「この先、十メートルほど進んだ右手には、朝になると鮭がのぼってくるという伝説がありまして……実際にはのぼってきませんが、言うとちょっと涼しくなります」

 「適当なこと言わないの」

 後ろから小声でつっこんだ颯馬に、亜矢菜は「比喩です」と目だけで返す。川沿いの道には、昼のうちに琉央と樹佳が貼った「足元注意」の黄色いステッカーが、一定の間隔で並んでいた。欄干には、小さな「ありがとう」の布が、風に揺れている。

 「ここの欄干、人気だな」

 颯馬が思わずつぶやくと、近くにいた浴衣の少年が不思議そうに見上げた。

 「人気?」

 「うん。誰かの『この町が好き』が、ここにいっぱい結びついてる気がしてさ」

 少年は、少し考えるように欄干を見つめてから、「また来たとき、ぼくも結んでいい?」と尋ねた。

 「もちろん。そのときは、場所空けておくよ」

 そんな会話を交わしているうちに、空はいつのまにか群青に変わっていた。川面に屋台の明かりが揺れ、土手の上には人の列ができている。花火開始まで、あと十五分。

    *

 最初の雷鳴が聞こえたのは、花火師が点火の準備に入ったとアナウンスが流れた直後だった。

 「今の、遠い?」

 瑠奈が、空を見上げる。西の方角で、雲が黒く重なり合い、その端が光った気がした。次の瞬間、夜空を裂くような白い光が落ち、少し遅れて腹の底に響くような音が届く。

 「うわ、近い」

 誰かの声と同時に、川沿いの街灯が一斉にふっと消えた。屋台の提灯も、家々の窓の明かりも、すべて。残ったのは、雲に隠れた月と、まだ小さな星の光だけだった。

 「えっ」「まっくらだ」「川、こわい」

 ざわめきが、闇の中で一気に膨らむ。子どもの泣き声が混じり、誰かが足元の石につまづいたらしい小さな悲鳴があがった。

 「みんな、その場で止まってください!」

 颯馬は、反射的に声を張り上げた。自分の声が、闇の中でどこまで届いているかわからない。それでも、足音が少しずつ止まる気配がする。胸の鼓動が、自分の声よりも大きく響いていた。

 「前に進まないで。川には近づかないように、お願いします。今から、順番に誘導します」

 その言葉に合わせるように、瑠奈が「大丈夫ですよー」といつもの明るさで声を重ねる。亜矢菜も、マイクを握り直した。

 「えー、ただいま川沿い一帯、真っ暗になっておりますが、こちら九つの場所めぐり案内チーム、営業中です。まずは深呼吸ー」

 「こんなときに営業って言う?」

 思わずつぶやいた颯馬の耳元で、亜矢菜の冗談まじりの声が、少しだけ空気を軽くした。

    *

 颯馬はポケットからスマホを取り出し、ライトのボタンを押した。小さな白い光が足元を照らし、アスファルトのざらつきと、欄干の影がくっきりと浮かび上がる。

 「今いるのは、九つの場所の七番目、川沿いの道です」

 ゆっくり、はっきりと言葉を選ぶ。ラジオ案内のときよりも、さらに一つひとつの音を大切に噛みしめるように。

 「右手に欄干があります。右手で欄干を触りながら、一歩ずつ、ゆっくり後ろに下がってください。前の人の背中には、ぶつからない距離で」

 彼の言葉を合図に、周りの参加者たちもポケットやバッグからスマホを取り出し始めた。あちこちで小さな光がともり、暗闇の中にばらばらの星が浮かぶ。

 「光、消さなくていいです。むしろ、つけっぱなし推奨です」

 亜矢菜が、マイク越しに呼びかける。

 「ついでに、周りの人の顔は見えなくても、足元だけはしっかり照らしてあげてください。『今日だけ星役』の皆さん、よろしくお願いします」

 「星役?」

 子どもの笑い声が、少しだけ戻ってきた。小さな手がスマホを握りしめ、光を胸の高さまで持ち上げる。隣で瑠奈も、自分のスマホを頭上に掲げた。

 「さつまさん、こう?」

 「そう。列を作ろう。星の列」

 川沿いの道に、白い光の点が少しずつ並び始める。遠くから見ると、それはまるで、地上に降りた天の川のようだった。

    *

 「後ろから、ライト追加入りまーす」

 琉央の声が、暗闇の後方から飛んできた。彼は工房から持ってきた小さな懐中電灯を両手に抱え、足早に駆けてくる。龍護は、酒蔵から持ち出した非常用ランタンを頭上に掲げ、「これ、一升瓶より重い」とぼやきながらも、列の真ん中あたりで止まって周囲を照らした。

 「スイッチ、ここです」

 樹佳は、年配の参加者の手にそっと懐中電灯を握らせる。指が震えている人には、「大丈夫ですから」と短く言い、スイッチを一緒に押した。

 「ここから坂になります。ゆっくり、一、二、三」

 颯馬の声に合わせて、列全体が少しずつ後ろへ動き出す。右手に欄干、左手には、見えないけれど確かに人の気配。靴の音と、衣擦れと、どこかの屋台から漂ってくるタレの匂いだけが、暗闇の中に混じり合った。

 途中、前のほうで小さな泣き声がした。

 「こわい……花火、見たいのに」

 浴衣の袖をぎゅっと握りしめていた少女の前に、颯馬はしゃがみ込んだ。自分のスマホの光を、そっと彼女の足元に向ける。

 「花火、見たいよな」

 少女は、こくりと頷く。

 「じゃあさ。今日は、花火の前に、別のものも見よっか」

 颯馬は、振り返って列全体を見上げた。川沿いの道に並んだ光の列が、彼の視線の先で静かに揺れている。

 「ほら。あれ、全部、今日この町を歩きに来てくれた人が持ってる光だよ」

 少女は涙でにじんだ目をこすりながら、首を伸ばして後ろを見た。白い点が、ずっと向こうまで続いている。

 「星みたい」

 「でしょ。花火が上がる前に、地面に星が落ちてきた日なんて、なかなかないよ」

 少女の口元に、ようやく小さな笑みが浮かんだ。彼女の手の中のスマホにも、遅れて白い光が灯る。

    *

 やがて、川から少し離れた広場まで列が下がると、役場の職員が持ってきた投光器が一つ、二つと点いた。非常用電源につながったその光が、広場全体をぼんやりと照らし出す。

 「ここまで来れば、もう大丈夫だな」

 颯馬がほっと息を吐くと、すぐ横で瑠奈が肩を回した。

 「腕、ぷるぷるだよ。ずっとスマホ掲げてたから」

 「明日は筋肉痛かもな」

 「じゃあ、その分だけ、九つの場所に詳しくなったってことにしよ」

 二人のやりとりに、周りからくすくすと笑いが漏れる。さっきまで硬かった空気が、少しずつほどけていった。

 そのとき、川の向こう側から、短いアナウンスが響いた。

 「先ほどの落雷の影響で、花火の本数を減らして打ち上げを行います」

 ざわめきが再び広がる。期待と不安が入り混じった空気を、誰かが小さく飲み込んだ。

 「減るのか……」

 隣で少年が肩を落とす。颯馬は、空を見上げた。まだ街灯は戻っていない。川沿いだけが、ぽつぽつとスマホの光に縁どられている。

 「でも、きっと一本は上がる」

 自分でも驚くほど確かな声が出た。

 「その一本、ここにいる全員で見るってことで、どうかな」

 瑠奈が、ぱん、と手を叩いた。

 「賛成の人ー」

 いくつもの手が上がり、その中には、さっきの少女の手もあった。

    *

 夜空を裂いたのは、本当に一本だけの大きな花火だった。

 合図の笛が鳴り、川向こうの闇のどこかで火がつく。次の瞬間、黒い空の一点から、白い線がまっすぐ上に伸びた。

 「わあ……」

 誰かの息が漏れるのと同時に、花火は大きな丸に開いた。金色と青と、九つの場所パンフレットの丸印と同じ淡い青が混ざり合い、夜空の真ん中に大輪の花を咲かせる。川面には、その光が揺れて映り、スマホの白い光と一緒になって震えた。

 音は、さっきの雷鳴よりもずっと柔らかかった。胸の奥に、ぽふんと小さく弾けて、そのままじんわりと広がっていく。

 やがて花火の光がしぼみ、夜空は再び暗くなる。けれど、さっきまでより少しだけ、星の数が増えたように見えた。

 「一本だけ、っていいね」

 瑠奈が、ぽつりと言う。

 「全部覚えていられるから」

 「そうだな」

 颯馬は、胸ポケットに入れたままのキーホルダーを指先でつまんだ。金属の冷たさの向こうで、さっき見上げた光景が、何度も繰り返し焼き付いていく。

 川沿いの道には、まだスマホの光がいくつも残っていた。それぞれが、帰り道を照らしながらゆっくりと動き出す。

 (今日の九つ目は、たぶん、この帰り道だ)

 駅へ向かう人の背中と、その足元を照らす光の列を眺めながら、颯馬はそんなことを思った。誰かの「また来たい」が、あの一本の花火と一緒に、夜空のどこかに引っかかっている気がする。

 「帰りも、足元注意でお願いします」

 亜矢菜の声が、まだ少し頼りない非常用スピーカーから流れる。その声に導かれるように、人の列は駅へと伸びていった。

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