雪杜ナインプレイス 〜キミと雪見酒と、声にならない好き〜

乾為天女

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第22話 声にならない好き、町の形

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 朝の商店街は、まだ看板の灯りが半分も点いていなかった。

 「ゴミ袋、もう一個持ってきたほうがよかったかな……」

 瑠奈は、片手にトング、もう片方にビニール袋を持って、ゆっくりとアーケードの下を歩いていた。昨夜、川沿いで遅くまで花火の後片付けをしていたせいか、足取りが少し重い。

 「缶はこっち、燃えるごみはこっちっと」

 空き缶や紙くずを拾いながら、シャッターの前を通り過ぎる。そのとき、ふと足が止まった。

 「……あれ?」

 閉店したままの古い書店の前だけ、道路が他の場所よりも不自然にきれいだった。アスファルトの上には落ち葉ひとつなく、排水溝の角には、昨夜の雨で寄せられたはずの小さなゴミも見当たらない。

 「ここ、昨日も通ったよね」

 瑠奈は、自分のメモ帳をめくった。昨夜の片付けルートが、時間ごとに書き込まれている。確かに、この店の前は通った。だが、そのときはこんなにすっきりしていなかったはずだ。

 「おはよう」

 背後から、ほうきの先がアスファルトをこする音が聞こえた。振り向くと、向かいの豆腐屋の店主が、白い前掛け姿で立っていた。

 「早いねえ、役場さん」

 「あ、おはようございます。昨日の花火のあと、だいぶ散らかっちゃってて」

 瑠奈が頭を下げると、店主はほうきを肩に乗せ、書店の前の道路をちらりと見た。

 「あそこは、うちの前ついでだよ」

 「店、今は閉まってますよね」

 思わず口から出た言葉に、店主は少しだけ目を細めた。

 「閉まってても、町の真ん中には変わりないからさ」

 さらりと言って、豆腐屋の前の水たまりをほうきで掃き寄せる。水が排水溝に吸い込まれていく音が、朝の静けさに響いた。

 「九つの場所のルートに入ってるから、とかじゃなくて?」

 聞いてみると、店主は「なんだい、それ」と首をかしげた。

 「最近、観光のお客さんがよく歩いてるなあとは思ってたけど」

 どうやら、パンフレットの細かい説明は読んでいないらしい。

 (それでも、こうやって掃いてくれてるんだ)

 胸の奥で、じんわりと何かが広がった。

 足湯に着いたときには、太陽が少し高くなっていた。湯気がふわりと立ち昇り、木製のベンチの表面が朝日で柔らかく光っている。

 「おはようございます」

 掃除用のバケツを持った管理人のおばあさんが、湯の温度を確かめていた。

 「今日は早いね。いつもはもうちょっとしてから来るのに」

 「花火のあと、足湯のこと気になっちゃって」

 瑠奈は、桶が並ぶ棚に目をやった。その数が、昨日より増えている気がする。

 「あれ? 桶、こんなにありましたっけ」

 数えてみると、見慣れたものより少し新しい色の桶が四つ。しかも、その横には、まだ袋から出したばかりのような真っ白なタオルが数枚積まれている。

 「昨日の夜、置いてあったんだよ」

 管理人のおばあさんが、声を落として言った。

 「帰るころにはもう暗くなってたのに、棚の上にきれいに揃えてさ。『いつも足湯をありがとうございます』ってメモだけ残して」

 「誰が?」

 「それがねえ、名前までは書いてなくて。『三人より』ってだけ」

 おばあさんは、メモを大事そうにポケットから取り出した。折り目だらけの紙には、丸い字でそう書いてある。

 「思い当たるお客さん、いる?」

 「昨日の昼間、長く浸かってた夫婦がいましたけど……」

 瑠奈は、手帳を開いて昨日のアンケートのページを見た。足湯の欄には、「地元の人の会話が聞こえるのがいい」「桶の木の匂いが落ち着く」といった感想が並んでいる。

 「誰かわからないけど、ありがたいですよね」

 そう言うと、おばあさんは笑って頷いた。

 「桶もタオルも、いずれ消耗するもんだからね。こうやって足してくれる人がいるってだけで、ここもまだ大丈夫だなって思えるよ」

 湯気の向こうで、朝一番の客が靴を脱いでいた。旅館の浴衣姿の女性が、「朝風呂の前にちょっとだけ」と足を湯に浸す。

 「九つの場所のパンフレット、持っていかれました?」

 「さっき、一枚だけね。『全部回れるかな』って笑ってたよ」

 そう聞いて、瑠奈は案内所のパンフレットスタンドの残り枚数を頭の中で計算した。

 (足りなくなりそうだな。昼前に追加しておこう)

 駅前に戻る途中、川沿いの道を通ると、欄干の柱の一つに、小さな布の飾りが結びつけられていた。三センチほどの小さな三角形の布が、涼しい風に揺れている。

 「……これ、何だろう」

 近づいて見ると、その布には、小さく「ありがとう」と刺繍されていた。糸の色は、九つの場所を示すパンフレットの丸印と同じ淡い青。

 欄干の他の柱にも、同じような布がいくつか結びつけられている。橋のたもとから川の曲がり角まで、ぽつぽつと続いていた。

 「さつまさん、知ってました?」

 昼前、案内所に戻ってきた颯馬に、瑠奈はスマホの写真を見せた。

 「欄干のとこに、こんなのが」

 画面には、「ありがとう」の刺繍がアップで写っている。

 「俺じゃないよ」

 颯馬は、苦笑しながら首を振った。

 「じゃあ、誰だろう」

 「九つの場所を歩いてくれた誰かだろうな」

 そう言いながら、颯馬はホワイトボードの九つの丸を指でなぞった。

 「足湯の桶も、書店の前の掃き掃除も、欄干の布も。みんな、『好きです』って大声で言ってるわけじゃないのに」

 「でも、ちゃんと伝わりますよね」

 瑠奈も、ボードに近づいた。自身のメモ帳の端には、「豆腐屋 書店前」「足湯 匿名の三人」と小さく書き込まれている。

 「声には出してないけど、『ここが好き』っていう形が、町のあちこちに落ちてるみたいで」

 彼女の言葉に、颯馬はふっと息を吐いた。

 「それ、なんかいいな。『声にならない好き』の、町バージョンか」

 夕方、亜矢菜が案内所に顔を出した。肩からカメラを下げ、手にはノートパソコン。

 「ねえねえ、今日のブログテーマ、聞いてくれる?」

 そう言って椅子に座ると、さっそくパソコンを開く。画面には、「今日見つけた小さな『ありがとう』」という仮タイトルが表示されていた。

 「朝、商店街でね。閉まってる店の前だけ、やけにきれいな場所があってさ。そこから今日一日、なんとなくアンテナ張って歩いてたら、足湯の新しい桶とか、欄干の布とか……」

 「見てました?」

 瑠奈が思わず身を乗り出す。

 「見たよー。写真も撮った。ほら」

 画面には、さっき瑠奈が撮ったものとは別角度の写真が並んでいた。欄干の布を背景に、足湯に浸かる人の笑顔がぼんやりと映っている。

 「これ、なんて呼ぼうかなって考えててさ」

 亜矢菜は、キーボードを叩きながら続けた。

 「『声にならない好きの、町バージョン』ってどう?」

 颯馬と瑠奈は、お互いに顔を見合わせた。

 「今、同じこと言ってました」

 瑠奈の言葉に、亜矢菜は「あ、先を越された?」と笑った。

 「でもさ、いいよね。誰がやってるか分からないのに、『あ、この人たちここ好きなんだな』ってわかる瞬間」

 パソコンの画面に、文字が打ち込まれていく。

 ──九つの場所を歩いていると、「ここが好きです」とはっきり言う人より、何も言わずにゴミを拾ったり、桶をそっと足したりする人のほうが多いのかもしれない。  
 ──その行動のひとつひとつが、町の形をちょっとずつ変えていく。  

 「ここ、もうちょっと言葉足したほうがいいかな」

 亜矢菜が画面をくるりと回す。

 「『町の形』ってところ?」

 颯馬は、腕を組んで少し考えた。

 「形って、線で描くイメージあるけどさ。九つの場所の線だけじゃなくて、こういう小さい『好き』が、内側からふくらませてくれてる感じがする」

 「ふくらませる?」

 「うん。線で囲んだだけだと、地図の中身がスカスカだろ。でも、その中に桶が増えたり、掃き掃除する人がいたり、布が揺れてたりすると、『この町の中身』みたいなものが見えてくる」

 話しながら、自分の言葉に驚いているような顔をしていた。

 「じゃあ、『町の形』っていうより、『町の中身』って書いたほうがいいですか?」

 瑠奈が首をかしげる。

 「いや、形のままでいいかも。中身が変わると、形も変わって見えるし」

 亜矢菜は、楽しそうに笑った。

 「よし、そのままいこう。『声にならない好きが、町の形を変えていく』」

 カタカタと、キーボードの音が続く。

 「投稿したらさ、またラジオでも話すから。『雪杜のどこに、あなたの声にならない好きは落ちてますか?』って」

 「いいですね、それ」

 瑠奈の顔が、ぱっと明るくなった。

 「九つの場所のアンケートの最後に、その質問足してもいいですか?」

 「もちろん!」

 ラジオからブログへ、ブログからアンケートへ。小さな問いかけが、町のあちこちへ広がっていく。

 その夜、ブログが投稿されると、すぐにいくつかのコメントがついた。

 ──雪見社の階段、朝になると必ず落ち葉がどかされているのも「声にならない好き」かな。  
 ──旧・雪杜小学校の黒板、いつも誰かがきれいに消してくれているのを思い出しました。  

 颯馬は、宿のロビーの片隅でスマホの画面をスクロールしながら、ゆっくり息を吐いた。

 (東京からのメールのことだけが、この町を動かしてるわけじゃない)

 どこかで誰かが掃いていて、どこかで誰かが桶を足していて、どこかで誰かが小さな布を結んでいる。

 その全部に、「町が好き」という言葉にならない気持ちがくっついている。

 胸ポケットの中で、九つの場所をかたどったキーホルダーが小さくぶつかり合った。

 「……これも、声にならない好きの一個なのかもな」

 誰に聞かせるでもなくつぶやいてから、颯馬は返信を書きかけのメールを開いた。そこにすぐ答えを書き込むことはできなかったが、ひとつだけ文を足す。

 ──今は、九つの場所と、それを好きでいてくれる人たちの間を歩いています。

 その一文が、まだ見ぬ地図のどこかに、小さな印をつけるような気がした。

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