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第21話 瑠奈の怒りと本音
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翌朝の役場は、いつもより少しだけ慌ただしかった。
「プリンター、一台止まってます!」
総務課の若い職員が叫ぶ声が、フロアの端から聞こえてくる。月末の資料印刷が重なり、コピー機の前には小さな行列ができていた。
「観光課のほう、まだ生きてます?」
書類の束を抱えた樹佳が顔をのぞかせる。
「こっちはギリギリです。紙詰まり三回目で、そろそろ心も詰まりそうです」
瑠奈は、コピー機のカバーを開けながら、自分の心のほうも妙なところで引っかかっているのを自覚していた。昨夜、駅前のベンチで見た颯馬の背中。スマホを握る指先が、何度も宙で止まっていた。
「……さつまさん、今日、役場に来ますよね」
「朝イチで打ち合わせに来るって言ってたよ。駅前の案内所のポップを差し替えるんだって」
樹佳は、自分の書類をコピー機にそっと置いた。
「プリンター空いたら、これ、颯馬さんの分も一緒に印刷してあげてくれる? 冬の補助金申請のフォーマット。データ、さっきメールで送ったから」
「了解です」
瑠奈は、頷いてパソコンの前に座った。画面には、観光課の共有フォルダと、メールの受信トレイが並んでいる。
そのとき、ドアの向こうから軽いノックの音がした。
「入っていい?」
顔を出したのは颯馬だった。手には、案内所のホワイトボードの写真が挟まれたクリアファイル。
「おはようございます。今日、駅前に張り出す案内を印刷したくて」
「どうぞ。観光課のプリンターなら、まだがんばってます」
瑠奈は椅子から立ち上がり、自分のパソコンの隣にある空席を指さした。
「ここ、使ってください。デスクトップに『臨時印刷用』のフォルダがあるので」
「助かる」
颯馬は、慣れた手つきでパソコンにログインした。観光課で資料を作るときに使っている共用アカウントだ。
「じゃあ、私は樹佳さんのデータ、こっちで開きますね」
瑠奈は、颯馬の横の席に腰を下ろし、別のパソコンの電源を入れた。画面が立ち上がり、メールソフトが前回の状態のまま開く。
「えっと……補助金のフォーマット、どこだっけ」
受信トレイの一覧をスクロールしていると、「地方観光」の文字が目に飛び込んだ。送信元には、見覚えのない会社名。
(新しい問い合わせかな)
そう思ってカーソルを合わせた瞬間、件名の後半が目に入った。
「雪杜での近況について」「一度話したい」。
差出人の名前の横には、どこかで見覚えのあるアイコン。東京の会社にいた頃、回覧メールで何度も目にしたものだった。
「……あ」
声にならない音が喉の奥でひっかかる。手が勝手に動き、メールをクリックしていた。
画面に現れたのは、昨日とは別のメールだった。
──提案していた地方観光チームの増員が正式に決まった。
──雪杜での実績は、こちらでも話題になっている。
──戻るかどうかは別として、一度、話を聞いてほしい。
文末には、「オンライン打ち合わせの候補日」としていくつかの日付と時間帯が並んでいる。そのすぐ下に、濃いグレーで薄く表示された文字列があった。
「返信(下書き)」
何気なくスクロールした指が、その欄を開いてしまう。
──お久しぶりです。
──こちらこそ、お世話になりました。
──今は雪杜で九つの場所をつなぐ仕事をしています。
そこまでは、瑠奈にも想像できる文章だった。だが、その先で文字列はいったん途切れ、「戻る」「行く」「行かない」といった単語が打っては消されているのが、履歴として残っていた。
「……っ」
胸の奥がきゅっと縮まり、視界の端が霞んだ。自分が見てはいけないものを見ている、という自覚が一瞬遅れてやって来る。慌ててウィンドウを閉じようとして、マウスが空を切った。
「どうかした?」
隣から颯馬の声がした。プリンターに送ったデータの進捗バーを眺めながら、何気なく問いかけただけの声。
「い、いえ。プリンター、また止まっちゃったみたいで」
瑠奈は、あわてて画面をメール一覧に戻した。指先の震えを、キーボードの音で誤魔化す。
「紙詰まりか。俺、見てくるよ」
颯馬が立ち上がり、コピー機のほうへ向かう。その背中を見送りながら、瑠奈はマウスを強く握りしめた。
(どうして、私が先に知るんだろう)
胸の内で、言葉にならない呟きが膨らんでいく。
午前の仕事を終える頃には、プリンターの紙詰まりも解消され、颯馬の案内ポップも無事印刷が終わった。
「午後から、川沿いの看板差し替えに行くんだろ?」
龍護が、観光課の前を通りがかりに声をかける。肩には、長い木製の板が一本。
「ついでにこれも運ぶから、一緒に行こうぜ」
「ありがとうございます」
颯馬が笑って返事をすると、瑠奈も「私も行きます」と立ち上がった。
「せっかくだから、ルートの途中の案内も一緒に確認しましょう」
声はいつも通りに出ている。けれど、その裏で、何かがぎゅっと固まっているのを自分だけが知っていた。
川沿いへ向かう道は、昼下がりの光で白くかすんでいた。商店街を抜け、足湯の前を通り、ゆるやかな坂を下りる。龍護は先に川沿いの看板を立てる場所へ向かい、颯馬と瑠奈は、少し遅れて橋の上に差し掛かった。
川面には、昨日の雨の名残の水かさがわずかに増えている。欄干にもたれかかると、涼しい風が頬を撫でた。
「ここから見る景色、好きなんですよね」
瑠奈が、欄干に手を置いたまま呟いた。
「九つの場所、全部じゃないけど、半分くらいは視界のどこかに入ってる気がして」
颯馬は、隣から同じ景色を眺める。駅前の屋根、商店街のアーケードの端、雪見社へ続く石段の影、遠くに見えるりんごの丘。
「そうだな。どこ行くにも、ここを通ることが多いし」
そこまで言ってから、隣の気配がおかしいことにようやく気づいた。
「……瑠奈?」
名前を呼ぶと、彼女は欄干を握る手に力を込めた。白い指先が少しだけ赤くなる。
「さつまさん」
いつもより少し低い声だった。
「東京の会社から、メール来てましたよね」
心臓が、ひとつ跳ねた。
「……見たのか」
問いではなく、確認に近い言葉が口をついて出る。
「すみません。樹佳さんのデータを開こうとして、間違えて。すぐ閉じようとしたんですけど」
瑠奈は、目を伏せたまま言葉を続けた。
「『一度話したい』って書いてあって。オンラインの候補日も載ってて。それに……返信の下書きも」
「下書き……」
自分の打っては消した言葉が、誰かに見られていた。その事実が、背筋に冷たいものを走らせる。
「ごめん。見せるつもりじゃなかった」
「見せようとしてくれてたなら、もう少しましだったと思います」
瑠奈の声が、少しだけ震えた。
「でも、見せないまま、どこかで決めてから『実は』って言うつもりだったんですよね」
颯馬は、言葉を探した。橋の上を吹き抜ける風の音が、変に大きく聞こえる。
「まだ何も決めてない。だから、言えなかった」
ようやく絞り出した言葉に、瑠奈は顔を上げた。その目には、怒りと、別の感情が混ざっていた。
「決めてから言われるのも嫌ですけど、『まだ決めてないから言わない』も、ずるいです」
欄干から手を離し、一歩前へ踏み出す。
「行くなら行くって、ちゃんと言ってください」
橋の上に、はっきりとした声が響いた。近くを歩いていた観光客が振り返り、気まずそうに足早に通り過ぎていく。
「私は……」
言いかけて、瑠奈は一度息を飲んだ。
「私は、一人で決めるのが苦手です。新しい企画も、誰かと一緒に考えたいし、スケジュールだって、横で『それいいね』って言ってくれる人がいてほしい」
「だから、九つの場所も、ここまで全部一緒にやってきたのに」
「なのに、さつまさんだけ、勝手に別の地図を開いてるみたいで」
最後の一言は、ほとんどかすれるような声だった。
颯馬は、欄干に片手を置いたまま、もう片方の手でポケットの中のキーホルダーを握りしめた。金属が、汗ばんだ掌に冷たく当たる。
「勝手に、って言われても仕方ないな」
自嘲気味に笑いかけてみるが、その笑いはすぐに風にさらわれた。
「ただ……」
言葉を続けようとして、口の中が乾く。どこから話せばいいのか、自分でもわからなかった。
「東京の話を聞くことと、この町を手放すことが、まだ頭の中で結びついてない」
「両方持つことだって、もしかしたらできるかもしれないし。でも、そうやって全部を少しずつつまんでいるうちは、誰かのほうにちゃんと向き合えてない気がして」
自分でも整理しきれていない迷いを、そのまま口に出す。
瑠奈は、黙って聞いていた。橋の下を流れる川の音だけが、二人のあいだの空白を埋めている。
「じゃあ、せめて」
しばらくしてから、瑠奈が口を開いた。
「せめて、その迷ってる地図を、一緒に広げてほしいです」
颯馬は、彼女の横顔を見た。頬にかかる髪の先が、風に揺れている。
「一人で東京と雪杜を行ったり来たりして、頭の中でだけ線を引いて、最後に『ここにしました』って地図を見せられても、私はきっと笑えません」
それは、怒っているから出てきた言葉ではなく、怖いから出てきた言葉に聞こえた。
「……怖かったんだな」
思わず口をついて出た言葉に、瑠奈は驚いたように目を瞬いた。
「さつまさんがいなくなるかもしれないとか、そういうのもありますけど」
少し間を置いてから、彼女は続けた。
「一緒にやってると思っていたのが、そうじゃないかもしれないって気づくのが、一番怖いです」
橋の上の空気が、少し重くなる。
颯馬は、深く息を吸った。川の水の匂いと、遠くの温泉街から漂う硫黄の匂いが混じる。
「ごめん」
短い言葉だった。
「メールが来たとき、『これは仕事の話だ』って、自分に言い訳した。東京での経験も、この町での経験も、どっちも使えるなら、それは悪いことじゃないはずだって」
「でも、最初に浮かんだのは、この町の冬のことだった」
雪灯ろうの並ぶ川沿い、足湯から上がる湯気、酒蔵の中のひんやりした空気。
「『冬の夜、キミと雪見酒』って名前を決めたときのこと、すごく楽しかったから」
それを口にした瞬間、瑠奈の表情が一瞬だけ緩んだ。すぐに真顔に戻るが、その変化を颯馬は見逃さなかった。
「だから、ちゃんと話すよ。東京からの誘いのことも、自分がどうしたいかも。まだはっきりとは言えないけど、その途中経過も含めて」
「約束できますか」
瑠奈は、まっすぐに彼を見た。
「できます」
少し間を置いてから、はっきりと答える。
「じゃあ、怒ってもいいですよね」
唐突な言葉に、颯馬は目を瞬いた。
「え?」
「今日の分だけ。さっき橋の上で大きな声を出したの、人生で三本の指に入るレベルなので」
そう言って、瑠奈はふいに頬を膨らませた。
「プリンターの紙詰まり直すのも、案内所のポップ張り替えるのも、一緒にやってきたのに。大事なメールだけ、一人で抱え込むのは反則です」
ようやく、少しだけいつもの調子が戻ってきた。その「怒り方」に、颯馬は胸の奥が温かくなるのを感じた。
「わかった。今度から、紙詰まり級の出来事があったら、最初に観光課に報告する」
「そのたとえ、合ってるような合ってないような」
瑠奈は呆れたように笑い、欄干から手を離した。
「とりあえず今日は、川沿いの看板を立て替えるのが先です。龍護さん、待たせっぱなしですから」
「そうだな。あいつ、木の板抱えたまま根を生やしてるかもしれない」
二人は、橋を渡って川沿いの道へと歩き出した。
背中合わせだったはずの迷いが、少しだけ並んで歩き出したような気がした。
それでも、東京からのメールも、雪杜の九つの場所も、どちらも消えないままそこにある。その二つの地図をどう重ねるのか。答えはまだ出ていない。
けれど、「一人で決めない」という約束だけは、川の流れのように、静かに二人のあいだを行き来し始めていた。
「プリンター、一台止まってます!」
総務課の若い職員が叫ぶ声が、フロアの端から聞こえてくる。月末の資料印刷が重なり、コピー機の前には小さな行列ができていた。
「観光課のほう、まだ生きてます?」
書類の束を抱えた樹佳が顔をのぞかせる。
「こっちはギリギリです。紙詰まり三回目で、そろそろ心も詰まりそうです」
瑠奈は、コピー機のカバーを開けながら、自分の心のほうも妙なところで引っかかっているのを自覚していた。昨夜、駅前のベンチで見た颯馬の背中。スマホを握る指先が、何度も宙で止まっていた。
「……さつまさん、今日、役場に来ますよね」
「朝イチで打ち合わせに来るって言ってたよ。駅前の案内所のポップを差し替えるんだって」
樹佳は、自分の書類をコピー機にそっと置いた。
「プリンター空いたら、これ、颯馬さんの分も一緒に印刷してあげてくれる? 冬の補助金申請のフォーマット。データ、さっきメールで送ったから」
「了解です」
瑠奈は、頷いてパソコンの前に座った。画面には、観光課の共有フォルダと、メールの受信トレイが並んでいる。
そのとき、ドアの向こうから軽いノックの音がした。
「入っていい?」
顔を出したのは颯馬だった。手には、案内所のホワイトボードの写真が挟まれたクリアファイル。
「おはようございます。今日、駅前に張り出す案内を印刷したくて」
「どうぞ。観光課のプリンターなら、まだがんばってます」
瑠奈は椅子から立ち上がり、自分のパソコンの隣にある空席を指さした。
「ここ、使ってください。デスクトップに『臨時印刷用』のフォルダがあるので」
「助かる」
颯馬は、慣れた手つきでパソコンにログインした。観光課で資料を作るときに使っている共用アカウントだ。
「じゃあ、私は樹佳さんのデータ、こっちで開きますね」
瑠奈は、颯馬の横の席に腰を下ろし、別のパソコンの電源を入れた。画面が立ち上がり、メールソフトが前回の状態のまま開く。
「えっと……補助金のフォーマット、どこだっけ」
受信トレイの一覧をスクロールしていると、「地方観光」の文字が目に飛び込んだ。送信元には、見覚えのない会社名。
(新しい問い合わせかな)
そう思ってカーソルを合わせた瞬間、件名の後半が目に入った。
「雪杜での近況について」「一度話したい」。
差出人の名前の横には、どこかで見覚えのあるアイコン。東京の会社にいた頃、回覧メールで何度も目にしたものだった。
「……あ」
声にならない音が喉の奥でひっかかる。手が勝手に動き、メールをクリックしていた。
画面に現れたのは、昨日とは別のメールだった。
──提案していた地方観光チームの増員が正式に決まった。
──雪杜での実績は、こちらでも話題になっている。
──戻るかどうかは別として、一度、話を聞いてほしい。
文末には、「オンライン打ち合わせの候補日」としていくつかの日付と時間帯が並んでいる。そのすぐ下に、濃いグレーで薄く表示された文字列があった。
「返信(下書き)」
何気なくスクロールした指が、その欄を開いてしまう。
──お久しぶりです。
──こちらこそ、お世話になりました。
──今は雪杜で九つの場所をつなぐ仕事をしています。
そこまでは、瑠奈にも想像できる文章だった。だが、その先で文字列はいったん途切れ、「戻る」「行く」「行かない」といった単語が打っては消されているのが、履歴として残っていた。
「……っ」
胸の奥がきゅっと縮まり、視界の端が霞んだ。自分が見てはいけないものを見ている、という自覚が一瞬遅れてやって来る。慌ててウィンドウを閉じようとして、マウスが空を切った。
「どうかした?」
隣から颯馬の声がした。プリンターに送ったデータの進捗バーを眺めながら、何気なく問いかけただけの声。
「い、いえ。プリンター、また止まっちゃったみたいで」
瑠奈は、あわてて画面をメール一覧に戻した。指先の震えを、キーボードの音で誤魔化す。
「紙詰まりか。俺、見てくるよ」
颯馬が立ち上がり、コピー機のほうへ向かう。その背中を見送りながら、瑠奈はマウスを強く握りしめた。
(どうして、私が先に知るんだろう)
胸の内で、言葉にならない呟きが膨らんでいく。
午前の仕事を終える頃には、プリンターの紙詰まりも解消され、颯馬の案内ポップも無事印刷が終わった。
「午後から、川沿いの看板差し替えに行くんだろ?」
龍護が、観光課の前を通りがかりに声をかける。肩には、長い木製の板が一本。
「ついでにこれも運ぶから、一緒に行こうぜ」
「ありがとうございます」
颯馬が笑って返事をすると、瑠奈も「私も行きます」と立ち上がった。
「せっかくだから、ルートの途中の案内も一緒に確認しましょう」
声はいつも通りに出ている。けれど、その裏で、何かがぎゅっと固まっているのを自分だけが知っていた。
川沿いへ向かう道は、昼下がりの光で白くかすんでいた。商店街を抜け、足湯の前を通り、ゆるやかな坂を下りる。龍護は先に川沿いの看板を立てる場所へ向かい、颯馬と瑠奈は、少し遅れて橋の上に差し掛かった。
川面には、昨日の雨の名残の水かさがわずかに増えている。欄干にもたれかかると、涼しい風が頬を撫でた。
「ここから見る景色、好きなんですよね」
瑠奈が、欄干に手を置いたまま呟いた。
「九つの場所、全部じゃないけど、半分くらいは視界のどこかに入ってる気がして」
颯馬は、隣から同じ景色を眺める。駅前の屋根、商店街のアーケードの端、雪見社へ続く石段の影、遠くに見えるりんごの丘。
「そうだな。どこ行くにも、ここを通ることが多いし」
そこまで言ってから、隣の気配がおかしいことにようやく気づいた。
「……瑠奈?」
名前を呼ぶと、彼女は欄干を握る手に力を込めた。白い指先が少しだけ赤くなる。
「さつまさん」
いつもより少し低い声だった。
「東京の会社から、メール来てましたよね」
心臓が、ひとつ跳ねた。
「……見たのか」
問いではなく、確認に近い言葉が口をついて出る。
「すみません。樹佳さんのデータを開こうとして、間違えて。すぐ閉じようとしたんですけど」
瑠奈は、目を伏せたまま言葉を続けた。
「『一度話したい』って書いてあって。オンラインの候補日も載ってて。それに……返信の下書きも」
「下書き……」
自分の打っては消した言葉が、誰かに見られていた。その事実が、背筋に冷たいものを走らせる。
「ごめん。見せるつもりじゃなかった」
「見せようとしてくれてたなら、もう少しましだったと思います」
瑠奈の声が、少しだけ震えた。
「でも、見せないまま、どこかで決めてから『実は』って言うつもりだったんですよね」
颯馬は、言葉を探した。橋の上を吹き抜ける風の音が、変に大きく聞こえる。
「まだ何も決めてない。だから、言えなかった」
ようやく絞り出した言葉に、瑠奈は顔を上げた。その目には、怒りと、別の感情が混ざっていた。
「決めてから言われるのも嫌ですけど、『まだ決めてないから言わない』も、ずるいです」
欄干から手を離し、一歩前へ踏み出す。
「行くなら行くって、ちゃんと言ってください」
橋の上に、はっきりとした声が響いた。近くを歩いていた観光客が振り返り、気まずそうに足早に通り過ぎていく。
「私は……」
言いかけて、瑠奈は一度息を飲んだ。
「私は、一人で決めるのが苦手です。新しい企画も、誰かと一緒に考えたいし、スケジュールだって、横で『それいいね』って言ってくれる人がいてほしい」
「だから、九つの場所も、ここまで全部一緒にやってきたのに」
「なのに、さつまさんだけ、勝手に別の地図を開いてるみたいで」
最後の一言は、ほとんどかすれるような声だった。
颯馬は、欄干に片手を置いたまま、もう片方の手でポケットの中のキーホルダーを握りしめた。金属が、汗ばんだ掌に冷たく当たる。
「勝手に、って言われても仕方ないな」
自嘲気味に笑いかけてみるが、その笑いはすぐに風にさらわれた。
「ただ……」
言葉を続けようとして、口の中が乾く。どこから話せばいいのか、自分でもわからなかった。
「東京の話を聞くことと、この町を手放すことが、まだ頭の中で結びついてない」
「両方持つことだって、もしかしたらできるかもしれないし。でも、そうやって全部を少しずつつまんでいるうちは、誰かのほうにちゃんと向き合えてない気がして」
自分でも整理しきれていない迷いを、そのまま口に出す。
瑠奈は、黙って聞いていた。橋の下を流れる川の音だけが、二人のあいだの空白を埋めている。
「じゃあ、せめて」
しばらくしてから、瑠奈が口を開いた。
「せめて、その迷ってる地図を、一緒に広げてほしいです」
颯馬は、彼女の横顔を見た。頬にかかる髪の先が、風に揺れている。
「一人で東京と雪杜を行ったり来たりして、頭の中でだけ線を引いて、最後に『ここにしました』って地図を見せられても、私はきっと笑えません」
それは、怒っているから出てきた言葉ではなく、怖いから出てきた言葉に聞こえた。
「……怖かったんだな」
思わず口をついて出た言葉に、瑠奈は驚いたように目を瞬いた。
「さつまさんがいなくなるかもしれないとか、そういうのもありますけど」
少し間を置いてから、彼女は続けた。
「一緒にやってると思っていたのが、そうじゃないかもしれないって気づくのが、一番怖いです」
橋の上の空気が、少し重くなる。
颯馬は、深く息を吸った。川の水の匂いと、遠くの温泉街から漂う硫黄の匂いが混じる。
「ごめん」
短い言葉だった。
「メールが来たとき、『これは仕事の話だ』って、自分に言い訳した。東京での経験も、この町での経験も、どっちも使えるなら、それは悪いことじゃないはずだって」
「でも、最初に浮かんだのは、この町の冬のことだった」
雪灯ろうの並ぶ川沿い、足湯から上がる湯気、酒蔵の中のひんやりした空気。
「『冬の夜、キミと雪見酒』って名前を決めたときのこと、すごく楽しかったから」
それを口にした瞬間、瑠奈の表情が一瞬だけ緩んだ。すぐに真顔に戻るが、その変化を颯馬は見逃さなかった。
「だから、ちゃんと話すよ。東京からの誘いのことも、自分がどうしたいかも。まだはっきりとは言えないけど、その途中経過も含めて」
「約束できますか」
瑠奈は、まっすぐに彼を見た。
「できます」
少し間を置いてから、はっきりと答える。
「じゃあ、怒ってもいいですよね」
唐突な言葉に、颯馬は目を瞬いた。
「え?」
「今日の分だけ。さっき橋の上で大きな声を出したの、人生で三本の指に入るレベルなので」
そう言って、瑠奈はふいに頬を膨らませた。
「プリンターの紙詰まり直すのも、案内所のポップ張り替えるのも、一緒にやってきたのに。大事なメールだけ、一人で抱え込むのは反則です」
ようやく、少しだけいつもの調子が戻ってきた。その「怒り方」に、颯馬は胸の奥が温かくなるのを感じた。
「わかった。今度から、紙詰まり級の出来事があったら、最初に観光課に報告する」
「そのたとえ、合ってるような合ってないような」
瑠奈は呆れたように笑い、欄干から手を離した。
「とりあえず今日は、川沿いの看板を立て替えるのが先です。龍護さん、待たせっぱなしですから」
「そうだな。あいつ、木の板抱えたまま根を生やしてるかもしれない」
二人は、橋を渡って川沿いの道へと歩き出した。
背中合わせだったはずの迷いが、少しだけ並んで歩き出したような気がした。
それでも、東京からのメールも、雪杜の九つの場所も、どちらも消えないままそこにある。その二つの地図をどう重ねるのか。答えはまだ出ていない。
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