雪杜ナインプレイス 〜キミと雪見酒と、声にならない好き〜

乾為天女

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第20話 東京からのメール

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 朝の駅前広場は、まだ人影がまばらだった。

 「今日の予約は、午後からですよね」

 瑠奈が、案内所の前に立てかけたホワイトボードに日付を書き入れながら言った。白い板の上には、「本日の九つの場所おすすめコース」と青いマーカーで丸が並んでいる。

 「うん。午前中は、地図の差し替えとポップの修正をやっちゃおう」

 颯馬は、折りたたみテーブルの上に古いパンフレットを広げた。角が少し黄ばんだ紙には、雪杜町の写真と観光スポットの紹介文が並んでいる。その隣には、ここ数か月で印刷し直した「9place」用のカラーパンフレット。

 「この前の夏祭りの写真、差し替えたいんですよね」

 瑠奈が、スマホの画面を見せてくる。山車の前で、子どもたちが綱を握って笑っている写真だ。背景には、商店街の店先に吊された提灯が揺れている。

 「これ、いいな。山車が主役っていうより、引いてる人が主役に見える」

 颯馬は、写真を指先で拡大しながら頷いた。

 そのとき、胸ポケットの中でスマホが震えた。

 「ごめん、ちょっと」

 颯馬は、自然を装って案内所の裏手に回った。建物の影はまだ涼しく、コンクリートの匂いと、少し湿った空気が漂っている。

 画面には、見覚えのある名前が表示されていた。東京の会社での元上司、田嶋。

 「……メールか」

 通知の一行には、「雪杜での近況を聞きました」とだけ書かれている。指先でタップすると、画面いっぱいに長い文章が現れた。

 ──久しぶり。元気にしているか。  
 ──例の地方観光の案件で、お前の名前が出た。  
 ──よかったら、戻ってこないか。

 スクロールする指先が、途中で止まる。仕事内容の説明、待遇の条件、赴任地の候補。どの行にも、具体的な数字と日付が並んでいた。

 「……本気だな」

 思わず、声に出る。

 画面の一番下には、「一度オンラインで話せないか」と書かれていた。そこに添えられた顔文字は、東京で徹夜明けによく見たものと同じだった。

 「さつまさーん?」

 裏手まで回ってきた瑠奈の声に、颯馬は慌ててスマホを胸元に押し当てた。

 「ごめん、今行く」

 画面を閉じてポケットにしまう。その動作に、ほんのわずかなぎこちなさが混じったのを、自分でも感じた。

 午前中の作業は、いつもよりゆっくり進んだ。パンフレットの差し替え用に写真を選んでいるはずが、同じ写真を何度も拡大したり縮小したりしている自分に気づく。

 「この足湯の写真、露天ってわかりにくいですかね」

 瑠奈の問いかけに、少し間をあけてから返事をする。

 「え? ああ……湯気がもうちょっと見えるカットあったよな。あの、夕方の」

 「それ、さっき三回見せました」

 瑠奈は苦笑しながら、新しい写真フォルダを開いた。

 「今日の颯馬さん、ちょっと画面の中で迷子ですね」

 軽口のような言葉に、颯馬は「そうか」と笑ってみせる。その笑いが、頬の筋肉だけで作られていることに、自分で気づいた。

 昼前、案内所の前のベンチで簡単な昼食をとることになった。コンビニのおにぎりと、商店街のパン屋で買ったコロッケパン。

 「東京の夏って、もっと暑かったですか?」

 瑠奈が、ペットボトルのお茶を飲みながら何気なく尋ねた。

 「コンクリートの照り返しがきつかったな。駅から会社までの道で、ネクタイ外したくなるくらい」

 言いながら、目の前の坂道を見る。アスファルトの表面に揺れる陽炎の向こう、山の稜線がかすんでいる。

 「でも、ここはここで、冬が本気出すから」

 颯馬の答えに、瑠奈は「ふふっ」と笑った。

 「冬の話になると、ちょっと嬉しそうですね」

 その一言に、胸のどこかがきゅっと鳴ったような気がした。

 午後、予約のお客が案内所にやって来た。夫婦二人組と、大学生らしきグループ三人。

 「本日のおすすめコースは、足湯と酒蔵、それから川沿いです」

 颯馬は、ホワイトボードの前に立って説明を始めた。声のトーンも、笑顔の作り方も、いつも通り。けれど、説明の合間に一瞬だけ言葉を探す時間が増えている。

 「冬には……あ、いや、今は夏なので」

 つい口を滑らせて、慌てて言い直す。お客たちは気にする様子もなく笑っているが、その横で瑠奈がちらりと彼を見た。

 ツアーの途中、雪見社への坂道を登る手前で、小さな休憩を取った。日陰に入ると、汗がすっと引いていく。

 「ここから上がると、少し息が上がりますから」

 そう言いながらも、颯馬の息の乱れは、坂道のせいだけではなかった。胸ポケットの中のスマホが、熱を持っているように感じる。

 「さつまさん」

 横に並んだ瑠奈が、小声で呼びかける。

 「今日、何かありました?」

 問いは短かったが、その中にいくつもの意味が含まれていた。

 颯馬は、一瞬だけ迷ってから首を横に振った。

 「いや……ちょっと、昔の知り合いから連絡が来てさ」

 「そうなんですね」

 それ以上、瑠奈は踏み込んでこなかった。ただ、「足元、段差あります」と前を行く客に声をかけるときの声が、いつもより少し柔らかかった。

 その日のルートを終えて、夕方、打ち合わせの時間になった。いつものように、酒蔵の一角に簡易の机と椅子を並べる。

 「山車の日のアンケート、ざっと数字出してみた」

 龍護が、コピー用紙の束をテーブルに置いた。手書きの棒グラフと数字。

 「川沿いの夜の満足度は高いな。『また来たい』って書いてる人が多い」

 「足湯も、『冬にも入りたい』ってコメントが多いです」

 瑠奈が、別の紙をめくりながら言う。

 「冬の夜の仮チラシも、そろそろ作ったほうがいいかもね」

 亜矢菜が、ノートPCの画面をこちらに向けた。そこには、「冬の夜、キミと雪見酒」と仮のタイトルが表示されている。

 「このコピー、やっぱり強いわ。ラジオでも、ちょっとだけ先出ししようかな」

 そう言って笑う彼女の横顔を見ながら、颯馬は机の上のペンを指先で回した。

 「……」

 皆が意見を交わす声の間に、ふっと短い沈黙が入り込む。そのたびに、視線が自然と颯馬に向く。

 「さつま?」

 龍護が、不思議そうに眉をひそめた。

 「悪い、少し考えごとをしてた」

 答えながら、自分でもその言葉がどれだけ曖昧かを感じる。酒蔵の涼しさと、スマホに残る一通のメールの文面が、頭の中で混ざり合っていた。

 「冬の夜のこと?」

 冗談めかして尋ねたのは亜矢菜だった。

 「まあ、それも」

 颯馬は曖昧に笑い、ホワイトボードに書かれた「九つの場所」の名前を順番に眺めた。どれも、この数か月で何度も通った場所だ。それぞれに、案内のときの声や、出迎えてくれる顔がセットになって浮かんでくる。

 打ち合わせのあと、酒蔵を出ると、外はすでに薄暗くなり始めていた。夕暮れの空に、一番星がうっすらと見える。

 「駅まで、一緒に戻ります?」

 案内所の鍵をかけながら、瑠奈が尋ねた。

 「いや、先に行ってて。ちょっと、宿のほうに寄る用事があるから」

 咄嗟に、そう口にしていた。実際には、宿に用事はない。ただ、誰かと一緒に歩くと、胸の中のざわめきが言葉になってしまいそうで怖かった。

 「わかりました。気をつけて」

 瑠奈は、それ以上何も聞かなかった。ただ、駅へ向かう坂道を下りる背中が、一度だけ振り返ることはなかった。

 颯馬は、逆方向に足を向けた。向かった先は、駅前のベンチだった。電車の到着まで、まだ時間がある。

 ベンチに腰を下ろし、ようやく胸ポケットからスマホを取り出す。画面には、さきほどのメールの通知がそのまま残っていた。

 「一度オンラインで話せないか」

 その一文を、何度目かもわからない回数で読み返す。返信画面を開き、「お久しぶりです」と打ち込む。そこで指が止まった。

 「こちらこそ、お世話になりました」

 そう続けてから、「戻る」という単語を入力しそうになって、慌てて消す。次に、「今は雪杜で――」と打ちかけて、また消す。

 画面の中で、文字の列が生まれては消えていく。そのたびに、胸の中でも何かが書きかけのまま残されていく。

 ふと、視界の端にホワイトボードが見えた。朝、瑠奈が書いた「本日のおすすめコース」の文字。横には、小さく「冬の夜準備中」と鉛筆でメモが添えられている。

 「準備中、か」

 思わず、声に出していた。

 離れたところで、自転車に乗った中学生が二人、笑いながら通り過ぎていく。商店街のほうからは、八百屋がシャッターを下ろす音が聞こえた。

 この町の音のひとつひとつが、ここ数か月で耳に馴染んできた。雪見社の階段を上る足音、足湯に浸かるときの「ふう」という息、酒蔵でグラスを置くときの小さな音。

 スマホの画面に視線を戻す。

 「今は雪杜で、九つの場所をつないでいます」

 そう打ってみる。指先が、送信ボタンの上で止まる。

 「戻るか戻らないか」の二択ではないことを、頭ではわかっていた。東京と雪杜を行き来する道だって、本当は選べるかもしれない。けれど、その「かもしれない」を言葉にするのが、今はまだ怖かった。

 結局、その夜は返信を送らないまま、下書き保存だけしてスマホを閉じた。

 ベンチから立ち上がるとき、ポケットの中で古いキーホルダーが小さく鳴った。九つの場所の形をした金属の輪。その冷たさは、東京からのメールの光とは別の重みを持っていた。

 駅舎のガラスに映った自分の顔は、少しだけ疲れて見えた。けれど、その目の奥には、昼間に歩いた九つの場所の景色が、薄く重なっている。

 「……明日のルート、少しだけ変えてみるか」

 誰にともなくつぶやきながら、颯馬は案内所の前に戻ってホワイトボードを見上げた。消しかけたマーカーの跡が、薄く残っている。

 東京からのメールは、確かに彼の心を揺らした。でも、その揺れ方は、誰かに押し流されるというより、自分で行き先を確かめているような感覚に近かった。

 夜風が、ホワイトボードの端をかすかに揺らす。九つの場所を結ぶ線の先に、まだ書き込まれていない何かがある。その空白をどう使うのかは、これからの自分次第だ。

 颯馬は、胸ポケットを軽く叩き、もう一度だけ空を見上げた。夏の星座が、静かに瞬いている。

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