19 / 40
第19話 キミと雪見酒・仕込みの夕暮れ
しおりを挟む
真夏の夕方、酒蔵の引き戸をくぐると、ひやりとした空気が頬にまとわりついた。
「うわ……ここだけ季節が違う」
颯馬が思わずそう漏らすと、奥で帳簿に向かっていた龍護が鼻を鳴らした。
「外で溶けかけてから入ってくるから、余計そう感じるんだ」
コンクリートの床には、朝から運び込まれた一升瓶の箱がいくつも積まれている。壁際には、銘柄ごとにラベルを貼った小さな試飲用の瓶が並んでいた。
「今日は何本、開けるつもりなんですか」
後ろから入ってきた瑠奈が、きょろきょろと棚を見回す。首元の汗が、ひんやりした空気の中で少しずつ引いていった。
「そんなに構えるな。ちょっとずつだ」
龍護は、木のトレイの上にぐい呑みを四つ並べた。その横には、メモ帳が開かれている。太い字で「冬・夜・雪」と書きなぐられていた。
「今日のテーマは、冬の夜だ」
「真夏なのに」
瑠奈のつぶやきに、龍護は肩をすくめた。
「冬の夜に間に合わせるには、今から考えないと遅い。雪が降ってから慌てて決めると、ろくなことにならない」
「経験談ですね」
颯馬がくすっと笑うと、龍護は「うるさい」とだけ返し、試飲用の瓶の封を切った。
入口近くの作業台では、琉央が小さな紙袋に砂利を詰めていた。袋の外側には、既に雪の結晶の形をしたスタンプが押されている。
「それ、何に使うんですか」
瑠奈が近づいて覗き込むと、琉央は手を止めずに答えた。
「雪灯ろうの代わり。雪がないときは、砂利で重さを出す」
作業台の端には、白い和紙を巻いた試作の袋がいくつか並んでいた。中に小さな電池式の灯りを入れると、ほんのりと乳白色に光る。
「冬になったら、ここに雪を詰めて、通りにずらっと並べるんですね」
瑠奈が目を輝かせると、龍護が奥から声をかけた。
「そう。で、その横で熱燗を飲んでもらう。雪見酒ってやつだ」
「いいですね、それ」
颯馬は、トレイに載ったぐい呑みを一本ずつ覗き込んだ。透明な液面が、天井の蛍光灯を細く映している。
「問題は、その夜にどんな名前をつけるか、だな」
龍護の一言に、隣の扉が開いた。亜矢菜が大きめのノートを抱えて入ってくる。表紙には「雪杜よさそうな言葉帳」と書いてあった。
「呼びました?」
「まだ呼んでない」
颯馬が笑うと、亜矢菜は「今から呼ぶところだったんですよね?」と勝手に話を進め、作業台の空いたスペースにノートを広げた。
「冬の夜、雪灯ろう、熱燗……キーワードだけでおいしそうですね」
ページの上に、さらさらとペン先が走る。
「まずは飲め。話はそれからだ」
龍護は、ぐい呑みに酒を注ぎながら言った。
「誤解を生む言い方やめてください」
瑠奈が慌てて制しつつも、目の前に差し出されたぐい呑みから立ちのぼる香りに、思わず喉が鳴った。
「今日はテイスティングとネーミング会。仕事だからな」
颯馬が付け足すと、龍護が「そうだ、仕事だ」となぜか嬉しそうに頷いた。
四人は作業台を囲み、それぞれの前に小さなぐい呑みが並んだ。一本目は、香りが華やかな純米吟醸。二本目は、米の旨味がしっかりと感じられる純米酒。三本目は、冬に向けて仕込み始めたばかりの試験的な一本だった。
「一口飲んだら、最初に浮かんだ言葉を言ってください」
亜矢菜の提案で、即興の言葉遊びが始まった。
「じゃあ、一本目からいきます」
ぐい呑みを唇に運ぶと、透明な液体が舌の上を滑った。冷やしてあるのに、喉の奥がじんわりと熱くなる。
「……冬の朝」
先に口を開いたのは、颯馬だった。
「朝?」
意外そうに瑠奈が首をかしげる。
「外は冷たいのに、部屋の中だけ湯気が立ってる感じ。ストーブの前で、まだ布団を片付けてないときみたいな」
言いながら、自分で照れくさくなったのか、耳のあたりを指でかいた。
「じゃあ私は……『雪景色の音がする』かな」
瑠奈は、窓の外の明るい夕方を一瞬忘れるように目を細めた。
「雪が降ってるときって、静かなんですけど、その静かさごと飲んじゃう感じがします」
「静かさごと、ね。いいな、それ」
亜矢菜は、ノートの端に「静かさごと飲む」と書き込んだ。
「俺は……『こたつ』」
ぽつりと言った琉央に、三人の視線が集まる。
「こたつ?」
「うん。動きたくなくなる」
簡単な説明だったが、妙に納得がいった。
「じゃあ、一本目は『こたつ注意報』って名前にします?」
亜矢菜がいたずらっぽく言うと、龍護が慌てて首を振った。
「そんな注意報、出したくない」
笑いが起きる。酒蔵のひんやりした空気の中に、夏の夕方らしい明るさがふっと差し込んだ。
続いて二本目。今度は常温で注がれた酒を口に含む。
「これは……『囲炉裏』」
今度は龍護が真っ先に言った。
「火の周りに人が集まって、しゃべって黙って、またしゃべる感じだ」
「じゃあ、雪灯ろうと相性よさそうですね」
瑠奈が、作業台の端に並んだ白い紙袋を見る。
「灯りの周りに人が集まるって意味で」
「なるほど。じゃあ、この二本目は雪灯ろうの夜の主役候補、っと」
亜矢菜のペン先が、ノートの上で走る。
最後に三本目。まだラベルも仮のまま、銀色のキャップだけが光っている。
「これは、本当にまだ途中だからな。感想がそのまま今後に響く」
龍護の言葉に、一同の背筋が少しだけ伸びた。
「じゃあ、余計なこと言えないですね」
「余計なことこそ、役に立つんだよ」
そう言われて、四人はそれぞれにぐい呑みを手にした。
口に含むと、最初に米の甘みがふわりと広がり、その後から少しだけ苦味が追いかけてきた。
「……『誰かと飲みたい』」
不意にこぼれた瑠奈の言葉に、三人の視線が一斉に集まる。
「どういうことだ?」
龍護が問い返すと、瑠奈は少し頬を赤くしながら言葉を探した。
「一人で静かに飲むというより、『これ、おいしくない?』って誰かに渡したくなる味というか」
「わかるかもしれない」
颯馬も頷いた。
「この後の余韻を、もう一人分残しておきたくなる感じがする」
亜矢菜が、その言葉を急いでノートに書き留める。
「もう一人分、ね」
琉央は、ぐい呑みをじっと見つめていた。残り半分ほどの酒が、小さく揺れる。
「雪灯ろうの夜に出すなら……」
颯馬は、作業台の上に広げられた町の地図を指さした。雪が積もると想定したルートに、赤いペンで点が打ってある。酒蔵から足湯、川沿いの遊歩道、雪見社の石段。
「ここからここまで歩く間に、話したいことがひとつ増えるような一杯、っていうのはどうですか」
「それ、いい!」
瑠奈の声が、酒蔵の高い天井に響いた。
「普段なかなか言えないことも、雪灯ろうの灯りと、この一杯があれば、ちょっとだけ言えるかもしれない、みたいな」
「告白の手伝いをする気か」
龍護が半分茶化すように言うと、瑠奈は首を振った。
「告白じゃなくてもいいんです。『今年の雪、きれいだったね』でも、『来年もここで飲みたいね』でも」
言いながら、ふと視線を落とす。その横顔を、颯馬は横目で見た。言いかけて飲み込んだ何かが、彼女の喉もとで小さく揺れたように見えた。
「じゃあ、その夜の名前は……」
颯馬は、作業台の端に置かれた空き箱の側面を指先でとんとんと叩いた。考え事をするときの癖だ。
「『冬の夜、キミと雪見酒』なんてどうかな」
ぽつりとこぼれた言葉に、場の空気が一瞬だけ静かになった。
「キミ、と来たか」
龍護が片眉を上げる。
「誰と来てもいいんですけどね。『キミ』って言ったほうが、なんか、温度が伝わる気がして」
言い訳のように付け足す颯馬の耳は、さっきよりもさらに赤い。
「いいじゃないですか、それ」
沈黙を破ったのは、亜矢菜だった。ノートのページの中央に、大きくその言葉を書き込む。
「『冬の夜、キミと雪見酒』。そのままチラシの真ん中に入れましょう」
「本当に?」
「本当に。私、このフレーズ聞いた瞬間、ちょっとだけ胸がきゅってなりましたから」
あっけらかんとした口調とは裏腹に、その目はきらきらしていた。
「胸がきゅってなるってことは、きっと誰かに届きます」
「届いてほしい人にだけ届けばいい」
龍護がぼそりと付け足すと、全員の視線が一瞬だけ彼に集まった。
「……何だ、その目は」
「いえ、ちょっとかっこいいこと言うなと思って」
亜矢菜が笑い、雰囲気が緩む。
その後も、ネーミング会は続いた。「雪灯ろうの小道」「湯気と吐息のあいだ」「手袋を外す一秒前」――真面目な案と冗談めいた案が入り混じり、ノートのページはあっという間に文字で埋まっていった。
「ところで、これは完全に夜の大人向けですか?」
ひと段落ついたところで、瑠奈がふと思い出したように尋ねた。
「もちろん、未成年は熱燗じゃなくて甘酒。子どもにはホットりんごジュース」
龍護が即答する。
「雪灯ろうの灯りは、誰のものでもあるからな」
その言葉に、瑠奈はほっとしたように微笑んだ。
「昼は家族連れで、夜は少し落ち着いた感じで……同じ場所なのに、二回楽しめるようにできたらいいですね」
「昼と夜で、写真の撮り方も変えましょう」
いつの間にか合流していた樹佳が、入口近くでカメラの液晶を見せた。昼間の酒蔵の写真と、さっき試しに撮った和紙の灯りの写真が並んでいる。
「昼は足元がはっきり見える安心感、夜は顔は半分影でもいいから、灯りの輪だけきれいに」
「コピーは『冬の夜、キミと雪見酒』で、写真は灯りの輪か」
颯馬は、頭の中でパンフレットのレイアウトを組み立て始めた。文字の位置、写真の大きさ、余白の取り方。目の前の作業台が、そのまま紙面に変わっていくような感覚だった。
ふと、ぐい呑みの底に残った一滴が、蛍光灯の光を受けてきらりと光る。その小さな光が、雪灯ろうの灯りと重なって見えた。
「……冬までに、まだやれること、いっぱいありますね」
瑠奈がそう言うと、颯馬は頷いた。
「夏のうちに、冬の夜の準備をしておく。なんか、この町らしいな」
九つの場所を結ぶ線の先に、新しく「冬の夜」の丸が増える。まだ地図には書き込まれていないその丸を、それぞれの胸の中でそっと囲むようにして、彼らは片付けを始めた。
紙袋に詰められた砂利の重さ、ぐい呑みの底に残る香り、ノートに並んだ言葉たち。その一つひとつが、まだ少し先の雪の夜に向けて、静かに息をひそめていた。
「うわ……ここだけ季節が違う」
颯馬が思わずそう漏らすと、奥で帳簿に向かっていた龍護が鼻を鳴らした。
「外で溶けかけてから入ってくるから、余計そう感じるんだ」
コンクリートの床には、朝から運び込まれた一升瓶の箱がいくつも積まれている。壁際には、銘柄ごとにラベルを貼った小さな試飲用の瓶が並んでいた。
「今日は何本、開けるつもりなんですか」
後ろから入ってきた瑠奈が、きょろきょろと棚を見回す。首元の汗が、ひんやりした空気の中で少しずつ引いていった。
「そんなに構えるな。ちょっとずつだ」
龍護は、木のトレイの上にぐい呑みを四つ並べた。その横には、メモ帳が開かれている。太い字で「冬・夜・雪」と書きなぐられていた。
「今日のテーマは、冬の夜だ」
「真夏なのに」
瑠奈のつぶやきに、龍護は肩をすくめた。
「冬の夜に間に合わせるには、今から考えないと遅い。雪が降ってから慌てて決めると、ろくなことにならない」
「経験談ですね」
颯馬がくすっと笑うと、龍護は「うるさい」とだけ返し、試飲用の瓶の封を切った。
入口近くの作業台では、琉央が小さな紙袋に砂利を詰めていた。袋の外側には、既に雪の結晶の形をしたスタンプが押されている。
「それ、何に使うんですか」
瑠奈が近づいて覗き込むと、琉央は手を止めずに答えた。
「雪灯ろうの代わり。雪がないときは、砂利で重さを出す」
作業台の端には、白い和紙を巻いた試作の袋がいくつか並んでいた。中に小さな電池式の灯りを入れると、ほんのりと乳白色に光る。
「冬になったら、ここに雪を詰めて、通りにずらっと並べるんですね」
瑠奈が目を輝かせると、龍護が奥から声をかけた。
「そう。で、その横で熱燗を飲んでもらう。雪見酒ってやつだ」
「いいですね、それ」
颯馬は、トレイに載ったぐい呑みを一本ずつ覗き込んだ。透明な液面が、天井の蛍光灯を細く映している。
「問題は、その夜にどんな名前をつけるか、だな」
龍護の一言に、隣の扉が開いた。亜矢菜が大きめのノートを抱えて入ってくる。表紙には「雪杜よさそうな言葉帳」と書いてあった。
「呼びました?」
「まだ呼んでない」
颯馬が笑うと、亜矢菜は「今から呼ぶところだったんですよね?」と勝手に話を進め、作業台の空いたスペースにノートを広げた。
「冬の夜、雪灯ろう、熱燗……キーワードだけでおいしそうですね」
ページの上に、さらさらとペン先が走る。
「まずは飲め。話はそれからだ」
龍護は、ぐい呑みに酒を注ぎながら言った。
「誤解を生む言い方やめてください」
瑠奈が慌てて制しつつも、目の前に差し出されたぐい呑みから立ちのぼる香りに、思わず喉が鳴った。
「今日はテイスティングとネーミング会。仕事だからな」
颯馬が付け足すと、龍護が「そうだ、仕事だ」となぜか嬉しそうに頷いた。
四人は作業台を囲み、それぞれの前に小さなぐい呑みが並んだ。一本目は、香りが華やかな純米吟醸。二本目は、米の旨味がしっかりと感じられる純米酒。三本目は、冬に向けて仕込み始めたばかりの試験的な一本だった。
「一口飲んだら、最初に浮かんだ言葉を言ってください」
亜矢菜の提案で、即興の言葉遊びが始まった。
「じゃあ、一本目からいきます」
ぐい呑みを唇に運ぶと、透明な液体が舌の上を滑った。冷やしてあるのに、喉の奥がじんわりと熱くなる。
「……冬の朝」
先に口を開いたのは、颯馬だった。
「朝?」
意外そうに瑠奈が首をかしげる。
「外は冷たいのに、部屋の中だけ湯気が立ってる感じ。ストーブの前で、まだ布団を片付けてないときみたいな」
言いながら、自分で照れくさくなったのか、耳のあたりを指でかいた。
「じゃあ私は……『雪景色の音がする』かな」
瑠奈は、窓の外の明るい夕方を一瞬忘れるように目を細めた。
「雪が降ってるときって、静かなんですけど、その静かさごと飲んじゃう感じがします」
「静かさごと、ね。いいな、それ」
亜矢菜は、ノートの端に「静かさごと飲む」と書き込んだ。
「俺は……『こたつ』」
ぽつりと言った琉央に、三人の視線が集まる。
「こたつ?」
「うん。動きたくなくなる」
簡単な説明だったが、妙に納得がいった。
「じゃあ、一本目は『こたつ注意報』って名前にします?」
亜矢菜がいたずらっぽく言うと、龍護が慌てて首を振った。
「そんな注意報、出したくない」
笑いが起きる。酒蔵のひんやりした空気の中に、夏の夕方らしい明るさがふっと差し込んだ。
続いて二本目。今度は常温で注がれた酒を口に含む。
「これは……『囲炉裏』」
今度は龍護が真っ先に言った。
「火の周りに人が集まって、しゃべって黙って、またしゃべる感じだ」
「じゃあ、雪灯ろうと相性よさそうですね」
瑠奈が、作業台の端に並んだ白い紙袋を見る。
「灯りの周りに人が集まるって意味で」
「なるほど。じゃあ、この二本目は雪灯ろうの夜の主役候補、っと」
亜矢菜のペン先が、ノートの上で走る。
最後に三本目。まだラベルも仮のまま、銀色のキャップだけが光っている。
「これは、本当にまだ途中だからな。感想がそのまま今後に響く」
龍護の言葉に、一同の背筋が少しだけ伸びた。
「じゃあ、余計なこと言えないですね」
「余計なことこそ、役に立つんだよ」
そう言われて、四人はそれぞれにぐい呑みを手にした。
口に含むと、最初に米の甘みがふわりと広がり、その後から少しだけ苦味が追いかけてきた。
「……『誰かと飲みたい』」
不意にこぼれた瑠奈の言葉に、三人の視線が一斉に集まる。
「どういうことだ?」
龍護が問い返すと、瑠奈は少し頬を赤くしながら言葉を探した。
「一人で静かに飲むというより、『これ、おいしくない?』って誰かに渡したくなる味というか」
「わかるかもしれない」
颯馬も頷いた。
「この後の余韻を、もう一人分残しておきたくなる感じがする」
亜矢菜が、その言葉を急いでノートに書き留める。
「もう一人分、ね」
琉央は、ぐい呑みをじっと見つめていた。残り半分ほどの酒が、小さく揺れる。
「雪灯ろうの夜に出すなら……」
颯馬は、作業台の上に広げられた町の地図を指さした。雪が積もると想定したルートに、赤いペンで点が打ってある。酒蔵から足湯、川沿いの遊歩道、雪見社の石段。
「ここからここまで歩く間に、話したいことがひとつ増えるような一杯、っていうのはどうですか」
「それ、いい!」
瑠奈の声が、酒蔵の高い天井に響いた。
「普段なかなか言えないことも、雪灯ろうの灯りと、この一杯があれば、ちょっとだけ言えるかもしれない、みたいな」
「告白の手伝いをする気か」
龍護が半分茶化すように言うと、瑠奈は首を振った。
「告白じゃなくてもいいんです。『今年の雪、きれいだったね』でも、『来年もここで飲みたいね』でも」
言いながら、ふと視線を落とす。その横顔を、颯馬は横目で見た。言いかけて飲み込んだ何かが、彼女の喉もとで小さく揺れたように見えた。
「じゃあ、その夜の名前は……」
颯馬は、作業台の端に置かれた空き箱の側面を指先でとんとんと叩いた。考え事をするときの癖だ。
「『冬の夜、キミと雪見酒』なんてどうかな」
ぽつりとこぼれた言葉に、場の空気が一瞬だけ静かになった。
「キミ、と来たか」
龍護が片眉を上げる。
「誰と来てもいいんですけどね。『キミ』って言ったほうが、なんか、温度が伝わる気がして」
言い訳のように付け足す颯馬の耳は、さっきよりもさらに赤い。
「いいじゃないですか、それ」
沈黙を破ったのは、亜矢菜だった。ノートのページの中央に、大きくその言葉を書き込む。
「『冬の夜、キミと雪見酒』。そのままチラシの真ん中に入れましょう」
「本当に?」
「本当に。私、このフレーズ聞いた瞬間、ちょっとだけ胸がきゅってなりましたから」
あっけらかんとした口調とは裏腹に、その目はきらきらしていた。
「胸がきゅってなるってことは、きっと誰かに届きます」
「届いてほしい人にだけ届けばいい」
龍護がぼそりと付け足すと、全員の視線が一瞬だけ彼に集まった。
「……何だ、その目は」
「いえ、ちょっとかっこいいこと言うなと思って」
亜矢菜が笑い、雰囲気が緩む。
その後も、ネーミング会は続いた。「雪灯ろうの小道」「湯気と吐息のあいだ」「手袋を外す一秒前」――真面目な案と冗談めいた案が入り混じり、ノートのページはあっという間に文字で埋まっていった。
「ところで、これは完全に夜の大人向けですか?」
ひと段落ついたところで、瑠奈がふと思い出したように尋ねた。
「もちろん、未成年は熱燗じゃなくて甘酒。子どもにはホットりんごジュース」
龍護が即答する。
「雪灯ろうの灯りは、誰のものでもあるからな」
その言葉に、瑠奈はほっとしたように微笑んだ。
「昼は家族連れで、夜は少し落ち着いた感じで……同じ場所なのに、二回楽しめるようにできたらいいですね」
「昼と夜で、写真の撮り方も変えましょう」
いつの間にか合流していた樹佳が、入口近くでカメラの液晶を見せた。昼間の酒蔵の写真と、さっき試しに撮った和紙の灯りの写真が並んでいる。
「昼は足元がはっきり見える安心感、夜は顔は半分影でもいいから、灯りの輪だけきれいに」
「コピーは『冬の夜、キミと雪見酒』で、写真は灯りの輪か」
颯馬は、頭の中でパンフレットのレイアウトを組み立て始めた。文字の位置、写真の大きさ、余白の取り方。目の前の作業台が、そのまま紙面に変わっていくような感覚だった。
ふと、ぐい呑みの底に残った一滴が、蛍光灯の光を受けてきらりと光る。その小さな光が、雪灯ろうの灯りと重なって見えた。
「……冬までに、まだやれること、いっぱいありますね」
瑠奈がそう言うと、颯馬は頷いた。
「夏のうちに、冬の夜の準備をしておく。なんか、この町らしいな」
九つの場所を結ぶ線の先に、新しく「冬の夜」の丸が増える。まだ地図には書き込まれていないその丸を、それぞれの胸の中でそっと囲むようにして、彼らは片付けを始めた。
紙袋に詰められた砂利の重さ、ぐい呑みの底に残る香り、ノートに並んだ言葉たち。その一つひとつが、まだ少し先の雪の夜に向けて、静かに息をひそめていた。
0
あなたにおすすめの小説
愛された側妃と、愛されなかった正妃
編端みどり
恋愛
隣国から嫁いだ正妃は、夫に全く相手にされない。
夫が愛しているのは、美人で妖艶な側妃だけ。
連れて来た使用人はいつの間にか入れ替えられ、味方がいなくなり、全てを諦めていた正妃は、ある日側妃に子が産まれたと知った。自分の子として育てろと無茶振りをした国王と違い、産まれたばかりの赤ん坊は可愛らしかった。
正妃は、子育てを通じて強く逞しくなり、夫を切り捨てると決めた。
※カクヨムさんにも掲載中
※ 『※』があるところは、血の流れるシーンがあります
※センシティブな表現があります。血縁を重視している世界観のためです。このような考え方を肯定するものではありません。不快な表現があればご指摘下さい。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
裏切りの代償
中岡 始
キャラ文芸
かつて夫と共に立ち上げたベンチャー企業「ネクサスラボ」。奏は結婚を機に経営の第一線を退き、専業主婦として家庭を支えてきた。しかし、平穏だった生活は夫・尚紀の裏切りによって一変する。彼の部下であり不倫相手の優美が、会社を混乱に陥れつつあったのだ。
尚紀の冷たい態度と優美の挑発に苦しむ中、奏は再び経営者としての力を取り戻す決意をする。裏切りの証拠を集め、かつての仲間や信頼できる協力者たちと連携しながら、会社を立て直すための計画を進める奏。だが、それは尚紀と優美の野望を徹底的に打ち砕く覚悟でもあった。
取締役会での対決、揺れる社内外の信頼、そして壊れた夫婦の絆の果てに待つのは――。
自分の誇りと未来を取り戻すため、すべてを賭けて挑む奏の闘い。復讐の果てに見える新たな希望と、繊細な人間ドラマが交錯する物語がここに。
私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。
MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。
JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――
のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」
高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。
そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。
でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。
昼間は生徒会長、夜は…ご主人様?
しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。
「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」
手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。
なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。
怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。
だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって――
「…ほんとは、ずっと前から、私…」
ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。
恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。
病弱な彼女は、外科医の先生に静かに愛されています 〜穏やかな執着に、逃げ場はない〜
来栖れいな
恋愛
――穏やかな微笑みの裏に、逃げられない愛があった。
望んでいたわけじゃない。
けれど、逃げられなかった。
生まれつき弱い心臓を抱える彼女に、政略結婚の話が持ち上がった。
親が決めた未来なんて、受け入れられるはずがない。
無表情な彼の穏やかさが、余計に腹立たしかった。
それでも――彼だけは違った。
優しさの奥に、私の知らない熱を隠していた。
形式だけのはずだった関係は、少しずつ形を変えていく。
これは束縛? それとも、本当の愛?
穏やかな外科医に包まれていく、静かで深い恋の物語。
※この物語はフィクションです。
登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。
二年間の花嫁
柴田はつみ
恋愛
名門公爵家との政略結婚――それは、彼にとっても、私にとっても期間限定の約束だった。
公爵アランにはすでに将来を誓い合った女性がいる。私はただ、その日までの“仮の妻”でしかない。
二年後、契約が終われば彼の元を去らなければならないと分かっていた。
それでも構わなかった。
たとえ短い時間でも、ずっと想い続けてきた彼のそばにいられるなら――。
けれど、私の知らないところで、アランは密かに策略を巡らせていた。
この結婚は、ただの義務でも慈悲でもない。
彼にとっても、私を手放すつもりなど初めからなかったのだ。
やがて二人の距離は少しずつ近づき、契約という鎖が、甘く熱い絆へと変わっていく。
期限が迫る中、真実の愛がすべてを覆す。
――これは、嘘から始まった恋が、永遠へと変わる物語。
診察室の午後<菜の花の丘編>その1
スピカナ
恋愛
神的イケメン医師・北原春樹と、病弱で天才的なアーティストである妻・莉子。
そして二人を愛してしまったイケメン御曹司・浅田夏輝。
「菜の花クリニック」と「サテライトセンター」を舞台に、三人の愛と日常が描かれます。
時に泣けて、時に笑える――溺愛とBL要素を含む、ほのぼの愛の物語。
多くのスタッフの人生がここで楽しく花開いていきます。
この小説は「医師の兄が溺愛する病弱な義妹を毎日診察する甘~い愛の物語」の1000話以降の続編です。
※医学描写はすべて架空です。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる