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第四十四章「松戸市」
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朝霧が立ちこめる矢切の渡し。渡し舟の櫓が水を切る音は、静寂に吸い込まれるように響いていた。かつて江戸と松戸を繋いだこの水辺も、今は乗船客の影も少なく、川面にはどこか物寂しげな気配が漂っている。
その水辺に、湊斗は佇んでいた。舟を見つめながら、手のひらを開いたまま、何かを思い出そうとしていた。
「梨の花……落ちたんだって」
隣に立つ結愛の声が、そっと風に乗って彼の耳に届いた。
「二十世紀梨、今年は花が咲いても、実が育たない。梨園の人が言ってた。“守護石”がなくなったって」
湊斗はゆっくりと顔を上げ、目の前の川の向こう岸を見つめた。
「“梨の心”が奪われた……それが原因だと?」
「たぶん。でも、私たちじゃわからない。だから、駿に会いに行こう。果樹園で、話が聞けるって」
矢切の渡しを渡り、二人は駿が営む果樹園へと向かった。季節外れの冷気が風に混じり、足元の土からはいつもの甘い香りが立ちのぼらない。
「駿、いるか?」
「湊斗、結愛。来たんだな」果樹園の一角、温室の中から駿が姿を現した。彼の手には、咲ききれなかった梨の花が一輪、哀しげに握られていた。
「実がならない。日照りもなく、病害虫でもない。けれど、花が咲いて、ただ落ちていく……。これは“守護石”が持っていた命の力が消えた証だ」
「……どこに行ったんだ、“梨の心”は」湊斗が問う。
駿は言葉を選びながら、木箱の中から古い巻物を取り出した。
「戸定邸の書院に、梨の祝詞が記されていたって。それが“梨の心”を守っていた術だったらしい」
「じゃあ、そこへ行けば、取り戻す方法がわかる?」
「いや、書院の祝詞は“音”と“舞”で再現する必要がある。“松戸音頭”の旋律と、梨の精霊に通じる舞——それを知る者が必要だ」
「私、聞いたことがある」果樹園の奥から、美佳が現れた。「21世紀の森と広場の石碑に、音頭の節が残ってるの。“森の祭”のときに、母が教えてくれた」
「じゃあ、そこへ行こう。“梨の心”を取り戻すために」
21世紀の森と広場は、春の朝露に包まれていた。広大な芝生と林の奥からは鳥のさえずりが響き、どこか懐かしい香りが風に乗って漂ってくる。だが、それはどこか輪郭のぼやけた風景だった。梨の花の甘い匂いが、この時期にしてはあまりにも希薄だった。
「この先の石碑に、“松戸音頭”の節が刻まれてる」美佳が先を歩きながら言う。彼女の表情には、いつもと違う静けさがあった。それは懐かしさと、不安の入り混じったものだった。
「母が教えてくれたの。“音頭の節に、精霊を呼ぶ旋律がある”って」
湊斗は黙ってその背を追っていた。何かを考えているようで、けれどそれを言葉にせず、ただ黙々と足を進めていた。
石碑は、芝生の奥に静かに建っていた。風化して読みづらくなっていたが、その表面には確かに旋律を模した記号と、短い詩が彫られていた。
「梨の風 ふうわり踊る 春の歌
実を結ぶまで 心を繋げ」
結愛がそっと口ずさんだ。言葉に合わせるように、木々の間から小さな風が吹き抜けた。
「これが……“梨の心”を呼ぶ詩句?」湊斗が低く問いかける。
「うん。でもこれだけじゃ足りない。音頭を正しく奏でて、舞も合わせないと」
「舞なら——」美佳がそっと腰に巻いていた手拭いを解いた。「母の舞、まだ覚えてる。今でも踊れると思う」
芝生の中心に立ち、彼女はゆっくりと足を広げた。風に合わせて身体を揺らし、腕を優雅に滑らせる。その舞には華やかさよりも静けさがあり、まるで落ち葉が風に舞うようだった。
「この舞……まるで梨の花びらのようだ」結愛が呟いた。
湊斗はその姿に目を奪われながらも、どこか遠くを見るような目をしていた。自分はこの場にいて、果たして何ができるのか——それが頭を離れなかった。
「湊斗、君の太鼓がいる」駿が背後から太鼓を差し出した。「音頭を正しく響かせるには、君の鼓動が必要だ」
「……俺は、いつも誰かに言われるまで動けない。でも、それじゃ駄目なんだよな」湊斗はゆっくり太鼓を受け取り、手をかけた。
その鼓面に触れた瞬間、何かが胸の奥で弾けたような感覚があった。
ドン……と太鼓が鳴る。低く、だが確かに地面を揺らす音。
「よし……繋がった」駿が頷く。「じゃあ、今度は全員で合わせよう」
美佳の舞、結愛の歌、駿の笛、そして湊斗の太鼓。それぞれが空気の中に音を重ねていく。やがてその旋律が一つになったとき、芝生の中央から淡い光が立ち上がった。
「……あれは!」結愛が指さす。
芝生の中に、白く輝く“梨の心”が浮かび上がっていた。
光のなかに浮かび上がった“梨の心”は、ゆらゆらと揺れながら湊斗たちの演奏に応えているように見えた。結晶は淡い黄緑色で、まるで瑞々しい梨の果肉を思わせるような輝きを放っていた。だが、それに触れようとした瞬間、空気が凍りついた。
「……来る」美佳が舞を止めて呟く。
芝生の奥、林の影から霧のような何かが広がり、その中心に黒く、重たげな気配が生まれた。輪郭を持たぬまま、それはやがて木々の間から姿を現す。黒い花のようにも、影の塊のようにも見えるその存在は、“梨の心”を取り込もうとしていた。
「それが……奪った存在?」結愛が一歩退きながら尋ねる。
「違う。あれは“喪失”だ。誰かが失った心の名残が、形を持ったんだ」駿が冷静に言う。
湊斗は目の前の敵を見つめた。それは言葉を持たず、意思も持たず、ただ静かに“梨の心”を自分の中へと引き込もうとしている。
「……俺がやる」湊斗は太鼓を持ち直し、一歩、前に出た。
「湊斗、無理しないで!」結愛が叫ぶ。
「いや、これは俺がやるべきなんだ。今まで、誰かに言われるまで動けなかった。でも、もう変わる」
太鼓が鳴った。ドン、と地面に響く音が、黒い影をかすかに揺らした。
駿が笛で旋律を重ねる。美佳が舞を再開し、結愛が再び詩句を口ずさむ。
「梨の風 ふうわり踊る……」
声が重なるにつれ、影は叫ぶような音を立ててのたうち始めた。まるで自らの形を保てなくなるかのように、輪郭が崩れていく。
湊斗はさらに強く太鼓を叩いた。その音は、迷いを脱ぎ捨てた自分の心の鼓動そのものだった。
「俺は……ここにいる。今は、もう“待つだけ”じゃない!」
その叫びとともに、太鼓の音が一際大きく響いた。
黒い影は裂け、音と風に飲まれ、消えていった。
残されたのは、“梨の心”の光だけだった。
静寂が戻った。芝生の上に、風が優しく吹き抜ける。白い雲が空を流れ、春の匂いがふたたび広場を包んでいた。
湊斗はゆっくりと歩み寄り、“梨の心”を両手で受け取った。それは暖かく、掌の中でかすかに鼓動しているようだった。
「これが……“松戸市の輝”」
美佳が微笑み、結愛が小さく頷く。駿は空を見上げ、春の訪れを確かめるように深く息を吸い込んだ。
その日から、松戸の梨畑にはふたたび花が咲いた。瑞々しい実が育ち、川沿いの矢切の渡しにも活気が戻ってくる。町の空気はやわらかく、そしてどこか誇らしげだった。
【アイテム:松戸市の輝】入手
その水辺に、湊斗は佇んでいた。舟を見つめながら、手のひらを開いたまま、何かを思い出そうとしていた。
「梨の花……落ちたんだって」
隣に立つ結愛の声が、そっと風に乗って彼の耳に届いた。
「二十世紀梨、今年は花が咲いても、実が育たない。梨園の人が言ってた。“守護石”がなくなったって」
湊斗はゆっくりと顔を上げ、目の前の川の向こう岸を見つめた。
「“梨の心”が奪われた……それが原因だと?」
「たぶん。でも、私たちじゃわからない。だから、駿に会いに行こう。果樹園で、話が聞けるって」
矢切の渡しを渡り、二人は駿が営む果樹園へと向かった。季節外れの冷気が風に混じり、足元の土からはいつもの甘い香りが立ちのぼらない。
「駿、いるか?」
「湊斗、結愛。来たんだな」果樹園の一角、温室の中から駿が姿を現した。彼の手には、咲ききれなかった梨の花が一輪、哀しげに握られていた。
「実がならない。日照りもなく、病害虫でもない。けれど、花が咲いて、ただ落ちていく……。これは“守護石”が持っていた命の力が消えた証だ」
「……どこに行ったんだ、“梨の心”は」湊斗が問う。
駿は言葉を選びながら、木箱の中から古い巻物を取り出した。
「戸定邸の書院に、梨の祝詞が記されていたって。それが“梨の心”を守っていた術だったらしい」
「じゃあ、そこへ行けば、取り戻す方法がわかる?」
「いや、書院の祝詞は“音”と“舞”で再現する必要がある。“松戸音頭”の旋律と、梨の精霊に通じる舞——それを知る者が必要だ」
「私、聞いたことがある」果樹園の奥から、美佳が現れた。「21世紀の森と広場の石碑に、音頭の節が残ってるの。“森の祭”のときに、母が教えてくれた」
「じゃあ、そこへ行こう。“梨の心”を取り戻すために」
21世紀の森と広場は、春の朝露に包まれていた。広大な芝生と林の奥からは鳥のさえずりが響き、どこか懐かしい香りが風に乗って漂ってくる。だが、それはどこか輪郭のぼやけた風景だった。梨の花の甘い匂いが、この時期にしてはあまりにも希薄だった。
「この先の石碑に、“松戸音頭”の節が刻まれてる」美佳が先を歩きながら言う。彼女の表情には、いつもと違う静けさがあった。それは懐かしさと、不安の入り混じったものだった。
「母が教えてくれたの。“音頭の節に、精霊を呼ぶ旋律がある”って」
湊斗は黙ってその背を追っていた。何かを考えているようで、けれどそれを言葉にせず、ただ黙々と足を進めていた。
石碑は、芝生の奥に静かに建っていた。風化して読みづらくなっていたが、その表面には確かに旋律を模した記号と、短い詩が彫られていた。
「梨の風 ふうわり踊る 春の歌
実を結ぶまで 心を繋げ」
結愛がそっと口ずさんだ。言葉に合わせるように、木々の間から小さな風が吹き抜けた。
「これが……“梨の心”を呼ぶ詩句?」湊斗が低く問いかける。
「うん。でもこれだけじゃ足りない。音頭を正しく奏でて、舞も合わせないと」
「舞なら——」美佳がそっと腰に巻いていた手拭いを解いた。「母の舞、まだ覚えてる。今でも踊れると思う」
芝生の中心に立ち、彼女はゆっくりと足を広げた。風に合わせて身体を揺らし、腕を優雅に滑らせる。その舞には華やかさよりも静けさがあり、まるで落ち葉が風に舞うようだった。
「この舞……まるで梨の花びらのようだ」結愛が呟いた。
湊斗はその姿に目を奪われながらも、どこか遠くを見るような目をしていた。自分はこの場にいて、果たして何ができるのか——それが頭を離れなかった。
「湊斗、君の太鼓がいる」駿が背後から太鼓を差し出した。「音頭を正しく響かせるには、君の鼓動が必要だ」
「……俺は、いつも誰かに言われるまで動けない。でも、それじゃ駄目なんだよな」湊斗はゆっくり太鼓を受け取り、手をかけた。
その鼓面に触れた瞬間、何かが胸の奥で弾けたような感覚があった。
ドン……と太鼓が鳴る。低く、だが確かに地面を揺らす音。
「よし……繋がった」駿が頷く。「じゃあ、今度は全員で合わせよう」
美佳の舞、結愛の歌、駿の笛、そして湊斗の太鼓。それぞれが空気の中に音を重ねていく。やがてその旋律が一つになったとき、芝生の中央から淡い光が立ち上がった。
「……あれは!」結愛が指さす。
芝生の中に、白く輝く“梨の心”が浮かび上がっていた。
光のなかに浮かび上がった“梨の心”は、ゆらゆらと揺れながら湊斗たちの演奏に応えているように見えた。結晶は淡い黄緑色で、まるで瑞々しい梨の果肉を思わせるような輝きを放っていた。だが、それに触れようとした瞬間、空気が凍りついた。
「……来る」美佳が舞を止めて呟く。
芝生の奥、林の影から霧のような何かが広がり、その中心に黒く、重たげな気配が生まれた。輪郭を持たぬまま、それはやがて木々の間から姿を現す。黒い花のようにも、影の塊のようにも見えるその存在は、“梨の心”を取り込もうとしていた。
「それが……奪った存在?」結愛が一歩退きながら尋ねる。
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湊斗は目の前の敵を見つめた。それは言葉を持たず、意思も持たず、ただ静かに“梨の心”を自分の中へと引き込もうとしている。
「……俺がやる」湊斗は太鼓を持ち直し、一歩、前に出た。
「湊斗、無理しないで!」結愛が叫ぶ。
「いや、これは俺がやるべきなんだ。今まで、誰かに言われるまで動けなかった。でも、もう変わる」
太鼓が鳴った。ドン、と地面に響く音が、黒い影をかすかに揺らした。
駿が笛で旋律を重ねる。美佳が舞を再開し、結愛が再び詩句を口ずさむ。
「梨の風 ふうわり踊る……」
声が重なるにつれ、影は叫ぶような音を立ててのたうち始めた。まるで自らの形を保てなくなるかのように、輪郭が崩れていく。
湊斗はさらに強く太鼓を叩いた。その音は、迷いを脱ぎ捨てた自分の心の鼓動そのものだった。
「俺は……ここにいる。今は、もう“待つだけ”じゃない!」
その叫びとともに、太鼓の音が一際大きく響いた。
黒い影は裂け、音と風に飲まれ、消えていった。
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静寂が戻った。芝生の上に、風が優しく吹き抜ける。白い雲が空を流れ、春の匂いがふたたび広場を包んでいた。
湊斗はゆっくりと歩み寄り、“梨の心”を両手で受け取った。それは暖かく、掌の中でかすかに鼓動しているようだった。
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美佳が微笑み、結愛が小さく頷く。駿は空を見上げ、春の訪れを確かめるように深く息を吸い込んだ。
その日から、松戸の梨畑にはふたたび花が咲いた。瑞々しい実が育ち、川沿いの矢切の渡しにも活気が戻ってくる。町の空気はやわらかく、そしてどこか誇らしげだった。
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