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第6話 夜のまかないと小さな作戦会議
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その日の夜の陽苑は、昼間の喧噪が嘘のように静かだった。
茶会を終えた王妃さまが自室へ下がり、広間の灯りが順番に落とされていく。残っているのは、厨房と洗濯場、そして警備の持ち場くらいだ。廊下を渡る風が、壁に掛けられた灯の炎をかすかに揺らす。
厨房の片隅では、大鍋に残った豆と麦のスープが弱火で温められていた。昼の茶会で出したものから少しだけ味を変え、まかない用に取っておいた分だ。
「塩加減、これでいい?」
鍋の向こうから、お咲が木べらをこちらに向ける。晴矢は小さな匙でひと口すくい、舌の上に乗せた。
「昼より少しだけ強めにしました。外回りをしていた人たちの分なので」
「なるほどね。座って食べる王妃さま向きと、走り回った後の身体向きとで変えるってわけだ」
お咲は満足そうにうなずき、鍋の蓋を半分だけずらした。湯気がふわりと立ちのぼり、厨房にやわらかな香りが広がる。
「洗濯場と警備の分は、先によそっておきな。冷めると、せっかくの香りがもったいないから」
促されて、晴矢とみう、奈津海、愛祈がそれぞれ木の器を手に取った。まだ熱いスープの表面には、刻んだ香草が小さな島のように浮かんでいる。
「……昼間はいろいろあったけど、こうして終われるなら悪くないね」
奈津海が、器を両手で包みながら小さく息を吐く。その横で、みうが笑った。
「洗濯物もちゃんと見つかりましたし。今日の『最悪』は、もうひっくり返ったってことで」
「お前たち、最悪最悪って言うなよ。警備としては、耳が痛くなる」
愛祈が苦笑しながら肩をすくめる。その顔にも、昼間の張り詰めた気配はもうない。
◇
まかないを届ける順番と器の数を確認し終えると、晴矢は盆を両手で持ち上げた。湯気の向こうで、みうが小さく指を折って確認する。
「洗濯場に四つ、警備の詰所に三つ。それから……北棟の手前の角で、交代前の警備の人に一つ」
「北棟?」
聞き返す晴矢に、愛祈が頷いた。
「陽苑の北側に伸びてる回廊だよ。奥は后妃さま方のお部屋に近いから、男子禁制って札が掛かってる。お前が行けるのは、角までだ」
「札まで、ですか」
「そう。そこから先は、俺たちが運ぶ」
みうも説明を重ねる。
「ちょうど角の手前に、小さな腰掛けがあるんです。そこまでなら、女官たちも『菜園の当番さんの仕事』ってことで文句を言いませんから」
晴矢はうなずき、盆の重さを確かめた。豆と麦の匂いが、夜気の中に静かに混じっていく。
「じゃあ、行ってきます。戻ったら、自分の分をよそってもいいですか」
「冷めないうちにね」
お咲の声に見送られ、晴矢たちは灯りの落ちた廊下へと出た。
◇
夜の回廊は、昼とは別の顔をしていた。
石畳は冷え、窓の外の庭は影だけになっている。遠くで番の鈴が鳴り、どこかの部屋から、誰かが笑う声がかすかに漏れてきた。
「足元、気をつけてくださいね」
みうが前を歩き、晴矢がその少し後ろで盆を持つ。奈津海は布巾で器の縁を押さえ、愛祈が最後尾から周囲を見張っていた。
「北棟って、普段はあまり行かないのか」
晴矢の問いに、奈津海が小声で答える。
「掃除の当番になる人以外は、用がないからね。私も、あの札より先にはほとんど行ったことがないよ」
「男子禁制の札、初めて見ます」
少しだけ緊張混じりの声で言うと、愛祈が肩越しに笑った。
「変な顔しなくていい。札の向こうに行かせないのは規則だけど、その手前で仕事をするのは誰も困らない。……ただし、余計な好奇心を出さなければな」
そんな話をしているうちに、北棟に続く回廊の入口が見えてきた。
問題が起きたのは、その時だった。
「……煙?」
晴矢が立ち止まり、鼻をひくつかせる。豆と麦の香りとは違う、乾いた焦げの匂いが、夜気に混じっていた。
みうも足を止め、眉をひそめる。
「厨房とは違う匂いですね。もっと……煤っぽい感じです」
愛祈が、窓の外を指さした。
「見ろ。あの煙突」
回廊の先、北棟の屋根の一角から、細い煙が上がっている。昼間見たときには、動いていなかったはずの煙突だ。
奈津海が、思わず器を抱きしめた。
「まさか、火事……?」
「まだ、そこまでじゃない」
愛祈は即座に首を振った。
「けど、あの位置は——」
「古い台所の辺りですね」
みうが、かすれた声で言った。
「昔使っていたけど、いまは物置みたいになってるって聞きました。后妃さま方のお部屋に近いから、そこも男子禁制で……」
「その中から煙が出ているなら、放っておくわけにはいかない」
晴矢は盆を少し持ち直した。豆の匂いと、焦げた匂いが胸の奥でぶつかる。
「でも、中は男子禁制でしょ。勝手に近づいたら、あとで大目玉を食らう」
奈津海が顔をしかめる。愛祈も頷いた。
「規則を破るわけにはいかん。……景衣さまを呼ぶ」
◇
戻ってきた足音は、昼間より早かった。
ほどなくして、廊下の角に、景衣が姿を現した。灯りを受けた横顔は、いつものように静かで、表情の変化を読み取りにくい。
「状況を説明して」
短い言葉に、愛祈が一歩前へ出る。
「北棟の古い台所の煙突から、さきほどから煙が上がっています。匂いからすると、薪がくすぶっているか、誰かが火を扱った跡かと」
景衣は窓の外を見やり、しばらく黙った。白い息が、細く吐き出される。
「古い台所は、ふだんは鍵を掛けてあります。男はもちろん、女官でも許可なく入ることはありません」
「でも、このまま放っておいたら——」
みうが思わず声を上げかけ、言葉を飲み込んだ。その代わりに、晴矢が口を開く。
「台所の火は、鍋の中だけに収まってくれません。煙突の掃除が行き届いていなかったり、薪の置き方が悪かったりすると、梁まで火が移ることがあります」
景衣の視線が、晴矢に向けられた。
「あなたの村で、そういうことがあったの?」
「かろうじて防げました。でも、間に合わなかったら、家一軒なくしていたかもしれません」
晴矢は夜の庭を見た。風向きによっては、煙が后妃たちの部屋側へ流れていく。
「規則が大事なのは分かります。でも、火は待ってくれません。もし許されるなら、愛祈さんの付き添いの下で、中の状態を確かめさせてください」
静かな廊下に、しばし沈黙が落ちた。
景衣は瞼を伏せ、ゆっくりと息を吸う。吐き出すと同時に、決意を言葉に変えた。
「——女子だけで確認するには、力が足りない場所です。薪釜も重いし、煙突も高い」
彼女は愛祈に視線を向けた。
「護衛として同行して。晴矢さんは、菜園と厨房の担当として入室を許可します」
「よろしいのですか」
みうの声に、景衣は短く頷いた。
「后妃さま方の安全が第一です。規則も、そのためにありますから」
◇
古い台所の扉は、思ったより重かった。
景衣が鍵束から一本を選び、慎重に錠を外す。扉を押し開けると、冷えた空気の中に、くすぶった薪と古い油の匂いが混じり合っているのが分かった。
「……誰か、今日、ここを使ったんだな」
愛祈が低くつぶやく。
部屋の中央には、大きな薪釜が据えられていた。釜の中では火はほとんど消えかけているが、灰の奥で小さな赤い点がまだ息をしている。その上の煙突は煤で黒く、所々にひびが入っていた。
「まず、水を」
晴矢の声に、みうと奈津海が手近な桶を探す。景衣も裾を少しだけからげて、通路を塞いでいた木箱をどかした。
「奈津海さん、灰をいじる時は、息を止めて。吸い込むと喉を傷めます」
「分かってる……けど、もうちょっと優しく言って」
奈津海が文句を言いながらも、言われた通りに口元を布で押さえた。
桶に汲んだ水を少しずつ灰の上にかけると、じゅ、と鈍い音がして白い蒸気が上がる。火の赤は、やがて完全に消えた。
「煙突の中は?」
愛祈の問いに、晴矢は頷いた。
「外から見たとき、煙が細かった。どこかで詰まっているかもしれません」
彼は古い脚立を引き寄せ、景衣の許しを得て慎重に登った。煙突の口に手を伸ばすと、固まった煤がボロボロと崩れ落ちる。
「やっぱり……。長いこと掃除されていなかったみたいです」
崩れた煤を奈津海が受け止め、みうが布で床をぬぐう。愛祈は扉近くに立ち、外の様子に目を配っていた。
作業がひと段落した頃には、室内の空気もだいぶ澄んでいた。
「これなら、今夜のうちにまた煙が上がる心配は薄いでしょう」
晴矢がそう言うと、景衣は小さく息をついた。
「助かりました。……誰が、ここを使ったのかは、明日改めて調べます」
彼女は扉の鍵をかけながら、ぽつりと続けた。
「古い場所だからといって、放っておいて良いわけではないのですね」
「古い場所ほど、火は気まぐれになりますから」
晴矢は、菜園の古い堆肥小屋を思い出した。
「もしよければ、明日、煙突や薪の置き場を見直す図を描きます。菜園の道具小屋と同じように」
景衣は一瞬だけ目を丸くし、それから控えめに笑った。
「お願いします。……その図は、陽苑の記録にも残しておきましょう」
◇
厨房に戻る頃には、スープの表面にうっすらと膜が張りかけていた。
「遅かったじゃないか。何かあったのかい」
お咲の問いに、愛祈が簡潔に説明する。景衣は必要な部分だけを補い、「危険は取り除きました」と締めくくった。
「ふん……古い釜は、たまに顔を見てやらないとすねるからねえ」
お咲はそう言って、鍋の火加減を確かめる。
「とにかく、帰ってくる場所が無事でよかったよ。さ、冷めきる前にあんたたちも食べな。話の続きは、器を持ってから」
ようやく自分たちの分のスープをよそい終えると、晴矢たちは厨房の隅に腰を下ろした。湯気が顔に当たり、指先から冷えがほどけていく。
「今日のこと、明日には敏貴さんにも話しておいたほうが良さそうですね」
みうが、器の縁を指でなぞりながら言った。
「古い台所をどう扱うか、数字と紙で考えてもらえれば安心だ」
愛祈も頷く。
「火のことは、警備にも伝えないと。札の前で立ちすくんでるだけじゃ、守れない場所もあるからな」
奈津海は、スープをひと口すすってから笑った。
「『最悪』を考えるのは得意だけど、今日はちゃんと声に出せてよかったかも」
「声に出してくれたおかげで、動けましたから」
晴矢は器を見下ろし、豆と麦の間に映る灯りをぼんやりと眺めた。
(規則も、火も、人の心も——どれも放っておいたら、勝手にどこかへ行ってしまう)
今日一日の出来事が、湯気の向こうでゆっくりとほどけていく。
「じゃあ、ひとまず今夜の作戦会議はここまでですね」
みうの言葉に、三人が顔を見合わせて笑った。
まかないの器が空になる頃、厨房の空気はすっかりゆるんでいた。誰かがあくびをし、誰かがそれにつられて伸びをする。湯気はだいぶ薄れ、鍋の底が見え始めている。
「さ、片付けに取り掛かるよ。まかないだからって、後の仕事が減るわけじゃないからね」
お咲の一声で、それぞれが再び動き出した。皿を重ねる音、桶に水を張る音、布で台を拭く音。その合間を縫うように、「おつかれさま」「助かった」という言葉が、いつもより少し多めに行き交っていた。
厨房を出る前、晴矢は振り返って大鍋を見た。昼間と同じ鍋なのに、そこには別の記憶が重ねられている。
(茶会だけじゃない。ここで一緒に食べて話した時間も、きっといつか誰かの支えになる)
そんな予感を胸に抱きながら、晴矢は灯りの落ちた廊下へと足を踏み出した。
明日の朝も、菜園には露が降りる。葉を透かす光と、土の匂いと、誰かのために書かれた小さな札。その全部を抱えて、また新しい一日が始まる。
茶会を終えた王妃さまが自室へ下がり、広間の灯りが順番に落とされていく。残っているのは、厨房と洗濯場、そして警備の持ち場くらいだ。廊下を渡る風が、壁に掛けられた灯の炎をかすかに揺らす。
厨房の片隅では、大鍋に残った豆と麦のスープが弱火で温められていた。昼の茶会で出したものから少しだけ味を変え、まかない用に取っておいた分だ。
「塩加減、これでいい?」
鍋の向こうから、お咲が木べらをこちらに向ける。晴矢は小さな匙でひと口すくい、舌の上に乗せた。
「昼より少しだけ強めにしました。外回りをしていた人たちの分なので」
「なるほどね。座って食べる王妃さま向きと、走り回った後の身体向きとで変えるってわけだ」
お咲は満足そうにうなずき、鍋の蓋を半分だけずらした。湯気がふわりと立ちのぼり、厨房にやわらかな香りが広がる。
「洗濯場と警備の分は、先によそっておきな。冷めると、せっかくの香りがもったいないから」
促されて、晴矢とみう、奈津海、愛祈がそれぞれ木の器を手に取った。まだ熱いスープの表面には、刻んだ香草が小さな島のように浮かんでいる。
「……昼間はいろいろあったけど、こうして終われるなら悪くないね」
奈津海が、器を両手で包みながら小さく息を吐く。その横で、みうが笑った。
「洗濯物もちゃんと見つかりましたし。今日の『最悪』は、もうひっくり返ったってことで」
「お前たち、最悪最悪って言うなよ。警備としては、耳が痛くなる」
愛祈が苦笑しながら肩をすくめる。その顔にも、昼間の張り詰めた気配はもうない。
◇
まかないを届ける順番と器の数を確認し終えると、晴矢は盆を両手で持ち上げた。湯気の向こうで、みうが小さく指を折って確認する。
「洗濯場に四つ、警備の詰所に三つ。それから……北棟の手前の角で、交代前の警備の人に一つ」
「北棟?」
聞き返す晴矢に、愛祈が頷いた。
「陽苑の北側に伸びてる回廊だよ。奥は后妃さま方のお部屋に近いから、男子禁制って札が掛かってる。お前が行けるのは、角までだ」
「札まで、ですか」
「そう。そこから先は、俺たちが運ぶ」
みうも説明を重ねる。
「ちょうど角の手前に、小さな腰掛けがあるんです。そこまでなら、女官たちも『菜園の当番さんの仕事』ってことで文句を言いませんから」
晴矢はうなずき、盆の重さを確かめた。豆と麦の匂いが、夜気の中に静かに混じっていく。
「じゃあ、行ってきます。戻ったら、自分の分をよそってもいいですか」
「冷めないうちにね」
お咲の声に見送られ、晴矢たちは灯りの落ちた廊下へと出た。
◇
夜の回廊は、昼とは別の顔をしていた。
石畳は冷え、窓の外の庭は影だけになっている。遠くで番の鈴が鳴り、どこかの部屋から、誰かが笑う声がかすかに漏れてきた。
「足元、気をつけてくださいね」
みうが前を歩き、晴矢がその少し後ろで盆を持つ。奈津海は布巾で器の縁を押さえ、愛祈が最後尾から周囲を見張っていた。
「北棟って、普段はあまり行かないのか」
晴矢の問いに、奈津海が小声で答える。
「掃除の当番になる人以外は、用がないからね。私も、あの札より先にはほとんど行ったことがないよ」
「男子禁制の札、初めて見ます」
少しだけ緊張混じりの声で言うと、愛祈が肩越しに笑った。
「変な顔しなくていい。札の向こうに行かせないのは規則だけど、その手前で仕事をするのは誰も困らない。……ただし、余計な好奇心を出さなければな」
そんな話をしているうちに、北棟に続く回廊の入口が見えてきた。
問題が起きたのは、その時だった。
「……煙?」
晴矢が立ち止まり、鼻をひくつかせる。豆と麦の香りとは違う、乾いた焦げの匂いが、夜気に混じっていた。
みうも足を止め、眉をひそめる。
「厨房とは違う匂いですね。もっと……煤っぽい感じです」
愛祈が、窓の外を指さした。
「見ろ。あの煙突」
回廊の先、北棟の屋根の一角から、細い煙が上がっている。昼間見たときには、動いていなかったはずの煙突だ。
奈津海が、思わず器を抱きしめた。
「まさか、火事……?」
「まだ、そこまでじゃない」
愛祈は即座に首を振った。
「けど、あの位置は——」
「古い台所の辺りですね」
みうが、かすれた声で言った。
「昔使っていたけど、いまは物置みたいになってるって聞きました。后妃さま方のお部屋に近いから、そこも男子禁制で……」
「その中から煙が出ているなら、放っておくわけにはいかない」
晴矢は盆を少し持ち直した。豆の匂いと、焦げた匂いが胸の奥でぶつかる。
「でも、中は男子禁制でしょ。勝手に近づいたら、あとで大目玉を食らう」
奈津海が顔をしかめる。愛祈も頷いた。
「規則を破るわけにはいかん。……景衣さまを呼ぶ」
◇
戻ってきた足音は、昼間より早かった。
ほどなくして、廊下の角に、景衣が姿を現した。灯りを受けた横顔は、いつものように静かで、表情の変化を読み取りにくい。
「状況を説明して」
短い言葉に、愛祈が一歩前へ出る。
「北棟の古い台所の煙突から、さきほどから煙が上がっています。匂いからすると、薪がくすぶっているか、誰かが火を扱った跡かと」
景衣は窓の外を見やり、しばらく黙った。白い息が、細く吐き出される。
「古い台所は、ふだんは鍵を掛けてあります。男はもちろん、女官でも許可なく入ることはありません」
「でも、このまま放っておいたら——」
みうが思わず声を上げかけ、言葉を飲み込んだ。その代わりに、晴矢が口を開く。
「台所の火は、鍋の中だけに収まってくれません。煙突の掃除が行き届いていなかったり、薪の置き方が悪かったりすると、梁まで火が移ることがあります」
景衣の視線が、晴矢に向けられた。
「あなたの村で、そういうことがあったの?」
「かろうじて防げました。でも、間に合わなかったら、家一軒なくしていたかもしれません」
晴矢は夜の庭を見た。風向きによっては、煙が后妃たちの部屋側へ流れていく。
「規則が大事なのは分かります。でも、火は待ってくれません。もし許されるなら、愛祈さんの付き添いの下で、中の状態を確かめさせてください」
静かな廊下に、しばし沈黙が落ちた。
景衣は瞼を伏せ、ゆっくりと息を吸う。吐き出すと同時に、決意を言葉に変えた。
「——女子だけで確認するには、力が足りない場所です。薪釜も重いし、煙突も高い」
彼女は愛祈に視線を向けた。
「護衛として同行して。晴矢さんは、菜園と厨房の担当として入室を許可します」
「よろしいのですか」
みうの声に、景衣は短く頷いた。
「后妃さま方の安全が第一です。規則も、そのためにありますから」
◇
古い台所の扉は、思ったより重かった。
景衣が鍵束から一本を選び、慎重に錠を外す。扉を押し開けると、冷えた空気の中に、くすぶった薪と古い油の匂いが混じり合っているのが分かった。
「……誰か、今日、ここを使ったんだな」
愛祈が低くつぶやく。
部屋の中央には、大きな薪釜が据えられていた。釜の中では火はほとんど消えかけているが、灰の奥で小さな赤い点がまだ息をしている。その上の煙突は煤で黒く、所々にひびが入っていた。
「まず、水を」
晴矢の声に、みうと奈津海が手近な桶を探す。景衣も裾を少しだけからげて、通路を塞いでいた木箱をどかした。
「奈津海さん、灰をいじる時は、息を止めて。吸い込むと喉を傷めます」
「分かってる……けど、もうちょっと優しく言って」
奈津海が文句を言いながらも、言われた通りに口元を布で押さえた。
桶に汲んだ水を少しずつ灰の上にかけると、じゅ、と鈍い音がして白い蒸気が上がる。火の赤は、やがて完全に消えた。
「煙突の中は?」
愛祈の問いに、晴矢は頷いた。
「外から見たとき、煙が細かった。どこかで詰まっているかもしれません」
彼は古い脚立を引き寄せ、景衣の許しを得て慎重に登った。煙突の口に手を伸ばすと、固まった煤がボロボロと崩れ落ちる。
「やっぱり……。長いこと掃除されていなかったみたいです」
崩れた煤を奈津海が受け止め、みうが布で床をぬぐう。愛祈は扉近くに立ち、外の様子に目を配っていた。
作業がひと段落した頃には、室内の空気もだいぶ澄んでいた。
「これなら、今夜のうちにまた煙が上がる心配は薄いでしょう」
晴矢がそう言うと、景衣は小さく息をついた。
「助かりました。……誰が、ここを使ったのかは、明日改めて調べます」
彼女は扉の鍵をかけながら、ぽつりと続けた。
「古い場所だからといって、放っておいて良いわけではないのですね」
「古い場所ほど、火は気まぐれになりますから」
晴矢は、菜園の古い堆肥小屋を思い出した。
「もしよければ、明日、煙突や薪の置き場を見直す図を描きます。菜園の道具小屋と同じように」
景衣は一瞬だけ目を丸くし、それから控えめに笑った。
「お願いします。……その図は、陽苑の記録にも残しておきましょう」
◇
厨房に戻る頃には、スープの表面にうっすらと膜が張りかけていた。
「遅かったじゃないか。何かあったのかい」
お咲の問いに、愛祈が簡潔に説明する。景衣は必要な部分だけを補い、「危険は取り除きました」と締めくくった。
「ふん……古い釜は、たまに顔を見てやらないとすねるからねえ」
お咲はそう言って、鍋の火加減を確かめる。
「とにかく、帰ってくる場所が無事でよかったよ。さ、冷めきる前にあんたたちも食べな。話の続きは、器を持ってから」
ようやく自分たちの分のスープをよそい終えると、晴矢たちは厨房の隅に腰を下ろした。湯気が顔に当たり、指先から冷えがほどけていく。
「今日のこと、明日には敏貴さんにも話しておいたほうが良さそうですね」
みうが、器の縁を指でなぞりながら言った。
「古い台所をどう扱うか、数字と紙で考えてもらえれば安心だ」
愛祈も頷く。
「火のことは、警備にも伝えないと。札の前で立ちすくんでるだけじゃ、守れない場所もあるからな」
奈津海は、スープをひと口すすってから笑った。
「『最悪』を考えるのは得意だけど、今日はちゃんと声に出せてよかったかも」
「声に出してくれたおかげで、動けましたから」
晴矢は器を見下ろし、豆と麦の間に映る灯りをぼんやりと眺めた。
(規則も、火も、人の心も——どれも放っておいたら、勝手にどこかへ行ってしまう)
今日一日の出来事が、湯気の向こうでゆっくりとほどけていく。
「じゃあ、ひとまず今夜の作戦会議はここまでですね」
みうの言葉に、三人が顔を見合わせて笑った。
まかないの器が空になる頃、厨房の空気はすっかりゆるんでいた。誰かがあくびをし、誰かがそれにつられて伸びをする。湯気はだいぶ薄れ、鍋の底が見え始めている。
「さ、片付けに取り掛かるよ。まかないだからって、後の仕事が減るわけじゃないからね」
お咲の一声で、それぞれが再び動き出した。皿を重ねる音、桶に水を張る音、布で台を拭く音。その合間を縫うように、「おつかれさま」「助かった」という言葉が、いつもより少し多めに行き交っていた。
厨房を出る前、晴矢は振り返って大鍋を見た。昼間と同じ鍋なのに、そこには別の記憶が重ねられている。
(茶会だけじゃない。ここで一緒に食べて話した時間も、きっといつか誰かの支えになる)
そんな予感を胸に抱きながら、晴矢は灯りの落ちた廊下へと足を踏み出した。
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