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第5話 奈津海の「最悪」をひっくり返せ
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陽苑の洗濯場は、いつも空の色より先に白く晴れる。
大きな桶の中で布が揺れ、絞られた布が竿に次々と掛けられていく。風が追いつくより早く、石畳の上には滴がぽつぽつと落ち、そこからまた小さな光が跳ねる。洗剤代わりの草の香りと、湯気に包まれた石の匂い。その真ん中で、奈津海は濡れた布を抱えながら額の汗をぬぐった。
「……あと三籠」
目の前に積まれた籠の数を数え、心の中で小さくため息をつく。今日の洗濯物の中には、王妃付きの女官の衣と、来客用の予備の布団カバーが混ざっている。どれも間違っても汚したまま戻すわけにはいかない品ばかりだ。
奈津海は、自分の指先を一度見つめ、そのまま布をきっちりと半分に折った。角と角を合わせ、皺が残らないように手のひらで何度も撫でる。たとえ目に見えない場所であっても、後で誰かが手に取るときに気持ちよく感じられるように。
(最悪のことは、先に考えておく)
奈津海には、昔からの癖があった。何かを任されるたび、その仕事がうまくいかなかったときに起こり得る「一番ひどいこと」を、最初に思い浮かべてしまう癖だ。
洗濯物を干し忘れたせいで、王妃さまの衣が生乾きになり、体調を崩させてしまう。誰かが滑って転び、大怪我をする。布の間に小さな虫が入り込んで、そのまま広間まで運ばれてしまう——。
そういう「最悪」を先に全部並べてしまえば、そこから少しでもましな方向に動ける気がしていた。実際、これまで大きな失敗をしたことはない。だが、そのぶん常に肩に力が入りっぱなしで、気づくと奥歯まで固く噛みしめている。
「奈津海さん、その顔こわいです」
背中から声をかけられ、びくりと肩が跳ねる。振り向くと、みうが籠を片手に立っていた。頬にはうっすらと汗が浮かび、額の髪が少しだけ張り付いている。
「こわいってなに。いつも通りでしょ」
「いつも通りこわいってことです」
みうは悪びれもせずに笑い、奈津海の隣にしゃがみ込んだ。籠の中には、小さめの布がきれいに重ねられている。食事時に使う布巾だろう。
「今日の分、干し終わりました。あとは取り込みの時間ですね」
「そう。だから、今のうちに枚数と持ち主をもう一回確認する。これを間違えたら、本当に最悪だから」
奈津海は、脇に置いてあった板を引き寄せた。そこには、持ち主の名前と衣の種類、枚数が細かく書き込まれている。赤い印が付いているところが、今日奈津海が特に気にしている品だ。
「そんなに念入りに見なくても、大丈夫ですよ。奈津海さん、今まで一回もなくしたことないじゃないですか」
「『今まで』が何の保証になるの。今日、初めてなくしたっておかしくないでしょ」
「……それは、まあ、そうですけど」
みうは言葉に詰まり、小さく首をかしげた。その視線の先で、竿に掛けられた布たちが風に揺れ、音もなく波を作る。
そのときだった。
「奈津海、そろそろ王妃付きの衣を……」
洗濯場の入口から、女官の一人が顔を出した。だが、そこで言葉を切り、目を丸くする。
「……あれ?」
「なに?」
「さっきまで、ここに掛けてあったはずの衣が見当たらないんだけど」
視線の先を追って、奈津海も竿を見上げた。王妃付きの女官の衣は、他の衣とは違う位置に掛けてあった。太陽の当たり具合と風の通りを計算して、「ここなら一番早く乾く」と選んだ場所だ。
だが、そこには何も掛かっていない。竿だけが、空っぽのまま風に揺れていた。
「……え?」
奈津海の喉から、かすれた声が漏れた。足元が一瞬ふらつく。次の瞬間、頭の中で「最悪」の文字が赤く点滅し始める。
(盗まれた? 風で飛んでいった? どこかに落ちた? 誰かが踏んだ? 汚れたまま誰かのところに……)
想像は、現実より早く走る。奈津海は思わず竿を握りしめ、その場でくるりと周囲を見回した。
「さっきまで、確かにここに……取り込み担当は?」
「今日の取り込みは、午後からでしょ?」
みうが慌てて答える。その胸に抱えた籠が、わずかに揺れた。
「まさか、まだ乾いてないのに誰かが持っていったんですか?」
「わかんない。わかんないけど……」
奈津海の耳の奥で、血の音がざわざわと鳴り始める。最悪の未来が、さらに形を増やしていく——王妃付きの女官に怒鳴られ、陽苑の責任者に詰められ、洗濯場全体に罰が下る。自分がそのきっかけだと知れたら、誰かが心の中で自分を責める。いや、責められるだけならまだいい。誰かが代わりに責められるかもしれない。
その想像が、胸の奥をきゅっと掴んだ。
「探す」
短くそう言って、奈津海は足元の水たまりを蹴った。周囲の女官たちが驚いた顔を向けるのも構わず、干場から通路へと飛び出す。
「奈津海さん、一人で行かないでください!」
みうの声が背中に追いかけてくる。それでも足は止まらない。洗濯場から広間へ続く通路、階段の踊り場、窓から差し込む光。どこを通っても、白い布の影がないか目を凝らす。
(誰にも言わないで見つける。そうすれば、何も起こらない)
それは、自分を守るためというより、誰かを巻き込まないための考えだった。最悪をひっくり返すために、ひとりで全部背負い込もうとする。
だが、その背中を追いかける足音があった。
「奈津海さん、待ってください!」
みうが小走りで追いつき、息を切らしながら奈津海の腕を掴んだ。
「一人で探したって、目は二つしかありません。二人なら四つです。四つあったら、きっと見つかりやすいです」
「みう、あんたまで巻き込んだら——」
「もう巻き込まれてます!」
みうは勢いよく言い切った。その声の大きさに、通路の隅で掃除をしていた女官がちらりとこちらを振り向く。
「洗濯物が一枚なくなったままだと、陽苑全体に迷惑がかかるんですよね? だったら、陽苑の人間として、一緒に探させてください」
まっすぐな目だった。奈津海は、その目を数秒だけ見つめ、やがて小さく息を吐いた。
「……じゃあ、あんたは西側の通路を。私は東側を見る」
「はい!」
二人は、壁に掛けられた燭台の下で別れた。みうは軽い足取りで西へ、奈津海は肩に力を入れたまま東へ進む。
東側の通路の先には、物置部屋がいくつか並んでいる。掃除用具や予備の器、季節外れの布団が入れられた場所だ。奈津海は順番に扉を開け、隅々まで布の影を探した。
ひとつ、またひとつ——どの部屋にも、目当ての衣はない。代わりに見つかるのは、たたまれたまま忘れられた洗濯物や、名前の札が落ちてしまった布きればかり。奈津海はそれらにも一応目を通し、あとで洗濯場に戻すためにひとまとめにした。
「こんな時に、余計なものまで見つけてどうするのよ……」
自分に小さく毒づきながらも、見つけてしまったものを放っておけない。最悪を少しでも減らすために、手は勝手に動いてしまうのだ。
廊下の角を曲がったところで、ちょうど反対側から人影が現れた。
「おい、そんなに慌てた顔をしてどこへ行く」
愛祈だった。鎧ではなく、軽い服に身を包み、腰には短めの剣。通路の見回りの途中なのだろう。
「別に。ちょっと、落とし物を探してるだけ」
「『ちょっと』の顔じゃないな。それに——」
愛祈は奈津海の腕に抱えられた布の束を指さした。
「それ、拾い物にしては多すぎないか?」
「……余計なお世話」
奈津海は視線をそらし、愛祈の横をすり抜けようとした。その時、ふと胸の中で引っかかるものがあった。最悪の想像に没頭しすぎて、いつもなら聞き流さない一言を聞き逃しそうになる。
「さっき、洗濯物を運んでいる男たちを見かけたが——」
足が止まる。
「どこで?」
「南の渡り廊下だ。大きな籠を二つ抱えて、急ぎ足でな。雨でも降るのかと思ったが、空は晴れていたし……」
「南の渡り廊下……?」
奈津海の頭の中に、陽苑の簡単な図が浮かび上がる。洗濯場から南の渡り廊下へ向かう道は、本来、今日の運搬に使う予定はない。そこを通る必要があるのは——。
「別棟の洗濯場へ行くときだけ、ですよね」
背後から、みうの声がした。西側を探し終えたのか、息を切らしながら走ってくる。
「もしかして、誰かが陽苑の洗濯物と、別棟行きの籠を間違えて——」
「待て。あの時の連中、どこかで見覚えがあったな」
愛祈は眉をひそめ、記憶を探るように目を細めた。
「……そうだ。今朝、俺が声をかけた下働きの男たちだ。『北側は混んでいるから、南の渡り廊下を使え』って、俺が言ったんだった」
三人の間に、沈黙が落ちる。奈津海は、愛祈の言葉をひとつひとつ噛みしめるように反芻した。
「つまり、愛祈さんが道を教えて……その時、籠の中身までは確かめなかった?」
「まさか、洗濯物の中身までは見てない。『運ぶ』って言うから、ただ道を空いているほうに変えただけだが……」
「その籠が、もし王妃付きの衣だったとしたら」
奈津海の背中に、冷たい汗が流れた。最悪の矢印が、別の方向に伸びていく。
(陽苑から、別棟の洗濯場へ——?)
「行ってみましょう!」
みうが、迷いなく声を上げた。
「別棟の洗濯場に、陽苑の洗濯物が紛れ込んでいるかもしれません」
「そうだな。俺も一緒に行こう。俺の一言が原因なら、責任は半分どころか、かなり俺にある」
愛祈の言い方はあくまで軽かったが、その目は真剣だった。奈津海は、胸の中の何かが少しだけほどけるのを感じた。
「……じゃあ、行く。最悪のままにしておくの、好きじゃないから」
三人は、南の渡り廊下へ向かって駆け出した。渡り廊下の窓の外には、陽苑の菜園が遠くに見える。木漏れ日の中で、晴矢がかごを抱えて歩いている姿が小さく映った。
「こんな時でも、あいつはいつも通りだな」
愛祈のつぶやきに、奈津海は思わず笑いそうになる。だが、今はそれよりも先に確かめるべきものがある。
別棟の洗濯場は、陽苑のそれより少し広く、乾きやすいように高い場所に作られていた。竿には色とりどりの布が掛けられ、見慣れない模様の袖が風に揺れている。
その一角で、見慣れた布の色が目に飛び込んできた。
「……あった」
奈津海は思わず足を止め、息をのんだ。そこには、陽苑の印が刺繍された衣が、丁寧に干されていた。竿の位置も、風の通りも悪くない。誰かがきちんと扱ってくれたのだろう。
「あれ、陽苑の印じゃないか?」
別棟の女官が不思議そうに近づいてくる。
「今朝、男の人たちが『ここへ運べと頼まれた』って言ってたから、うちの分と一緒に干しておいたんだけど」
「頼んだ覚えはないけど……」
奈津海は、頭を抱えたい衝動に駆られた。同時に、胸の奥で「最悪」が静かにほどけていく。
(なくなってなかった。汚れてもいない)
膝が少し笑いそうになるのを、なんとかこらえる。その横で、愛祈が頭をかいた。
「悪い。多分、その『頼まれた』ってやつ、俺のことだ。道を教えた時に、連中が勝手に勘違いしたらしい」
「勝手にって言いながら、原因は半分以上そっちでしょ」
奈津海は、思わず突き放すような言葉を口にした。だが、その声音には、さっきまでの刺々しさがなかった。
「……でも、助かった。ありがとう」
最後のひと言は、小さな声だった。愛祈は目を瞬き、それからにやりと笑う。
「珍しいな。あんたの口から『ありがとう』が出るとは」
「いつも心の中では言ってるの。口に出さないだけ」
「心の中だけじゃ、誰にも届かないぞ」
茶化す言い方だったが、その奥には優しさがあった。奈津海は視線を逸らし、代わりにみうのほうを向く。
「……みう」
「はい」
「さっき、一緒に探してくれてありがとう。あんたを巻き込んだら、あんたまで怒られるかもしれないって思ってたけど」
「怒られても、一緒なら怖くないです」
みうは、まっすぐにそう言った。その言葉が、胸のどこかにすとんと落ちる。
「それに——」
「それに?」
「一人で『最悪』を全部抱えるのって、重いですよね。少しぐらいなら、わたしも持てますから」
笑って言われると、反論がうまく出てこない。奈津海は、自分の両手を見つめた。
最悪を全部ひとりで抱えることで、誰かを守っているつもりだった。けれど、その重さのせいで、周りが見えなくなっていたのかもしれない。みうの手や、愛祈の何気ない一言や、菜園でかごを抱えて歩く晴矢の背中や——そういうものに、頼ってもいいということに。
「……次からは」
奈津海は、風に揺れる衣を見上げた。白い布が青空の下で静かに揺れ、その影が足元に落ちる。
「次からは、『最悪』を考えた時点で、誰かに話す。少しだけ、ね」
「少しずつでいいですよ」
みうがうれしそうに笑う。愛祈も、隣で肩をすくめた。
「そうしてくれたほうが、警備としても助かる。洗濯物一枚で走り回ることになったら、こっちも『最悪』を考えずにはいられん」
「さっきのは、自分のせいでしょ」
「だからこそ、だ」
三人の笑い声が、別棟の洗濯場に広がった。その音に驚いた鳥が、一羽、屋根の上から飛び立つ。
陽苑へ戻る道すがら、奈津海はふと空を見上げた。渡り廊下の窓から差し込む光が、床に細い帯を作っている。その光の中を、風に揺られた布の影がゆっくりと横切った。
(最悪をひっくり返すのに、ひとりで踏ん張るだけがやり方じゃない)
胸の中でそうつぶやき、奈津海は抱えた衣を少しだけ持ち直した。重さは変わらないはずなのに、不思議と腕の負担が軽くなった気がする。
洗濯場に戻ると、心配そうな顔をした女官たちが一斉に振り向いた。
「どうだった?」
「見つかったの?」
「……うん。別棟で、ちゃんと干されてた」
安堵の息が一斉にもれる。その中で、奈津海はいつものように板の前に立ち、王妃付きの衣の欄に、小さく印を付けた。
その印は、「最悪」を避けられたという証であり、同時に——少しだけ人を頼った自分の、小さな変化の印でもあった。
大きな桶の中で布が揺れ、絞られた布が竿に次々と掛けられていく。風が追いつくより早く、石畳の上には滴がぽつぽつと落ち、そこからまた小さな光が跳ねる。洗剤代わりの草の香りと、湯気に包まれた石の匂い。その真ん中で、奈津海は濡れた布を抱えながら額の汗をぬぐった。
「……あと三籠」
目の前に積まれた籠の数を数え、心の中で小さくため息をつく。今日の洗濯物の中には、王妃付きの女官の衣と、来客用の予備の布団カバーが混ざっている。どれも間違っても汚したまま戻すわけにはいかない品ばかりだ。
奈津海は、自分の指先を一度見つめ、そのまま布をきっちりと半分に折った。角と角を合わせ、皺が残らないように手のひらで何度も撫でる。たとえ目に見えない場所であっても、後で誰かが手に取るときに気持ちよく感じられるように。
(最悪のことは、先に考えておく)
奈津海には、昔からの癖があった。何かを任されるたび、その仕事がうまくいかなかったときに起こり得る「一番ひどいこと」を、最初に思い浮かべてしまう癖だ。
洗濯物を干し忘れたせいで、王妃さまの衣が生乾きになり、体調を崩させてしまう。誰かが滑って転び、大怪我をする。布の間に小さな虫が入り込んで、そのまま広間まで運ばれてしまう——。
そういう「最悪」を先に全部並べてしまえば、そこから少しでもましな方向に動ける気がしていた。実際、これまで大きな失敗をしたことはない。だが、そのぶん常に肩に力が入りっぱなしで、気づくと奥歯まで固く噛みしめている。
「奈津海さん、その顔こわいです」
背中から声をかけられ、びくりと肩が跳ねる。振り向くと、みうが籠を片手に立っていた。頬にはうっすらと汗が浮かび、額の髪が少しだけ張り付いている。
「こわいってなに。いつも通りでしょ」
「いつも通りこわいってことです」
みうは悪びれもせずに笑い、奈津海の隣にしゃがみ込んだ。籠の中には、小さめの布がきれいに重ねられている。食事時に使う布巾だろう。
「今日の分、干し終わりました。あとは取り込みの時間ですね」
「そう。だから、今のうちに枚数と持ち主をもう一回確認する。これを間違えたら、本当に最悪だから」
奈津海は、脇に置いてあった板を引き寄せた。そこには、持ち主の名前と衣の種類、枚数が細かく書き込まれている。赤い印が付いているところが、今日奈津海が特に気にしている品だ。
「そんなに念入りに見なくても、大丈夫ですよ。奈津海さん、今まで一回もなくしたことないじゃないですか」
「『今まで』が何の保証になるの。今日、初めてなくしたっておかしくないでしょ」
「……それは、まあ、そうですけど」
みうは言葉に詰まり、小さく首をかしげた。その視線の先で、竿に掛けられた布たちが風に揺れ、音もなく波を作る。
そのときだった。
「奈津海、そろそろ王妃付きの衣を……」
洗濯場の入口から、女官の一人が顔を出した。だが、そこで言葉を切り、目を丸くする。
「……あれ?」
「なに?」
「さっきまで、ここに掛けてあったはずの衣が見当たらないんだけど」
視線の先を追って、奈津海も竿を見上げた。王妃付きの女官の衣は、他の衣とは違う位置に掛けてあった。太陽の当たり具合と風の通りを計算して、「ここなら一番早く乾く」と選んだ場所だ。
だが、そこには何も掛かっていない。竿だけが、空っぽのまま風に揺れていた。
「……え?」
奈津海の喉から、かすれた声が漏れた。足元が一瞬ふらつく。次の瞬間、頭の中で「最悪」の文字が赤く点滅し始める。
(盗まれた? 風で飛んでいった? どこかに落ちた? 誰かが踏んだ? 汚れたまま誰かのところに……)
想像は、現実より早く走る。奈津海は思わず竿を握りしめ、その場でくるりと周囲を見回した。
「さっきまで、確かにここに……取り込み担当は?」
「今日の取り込みは、午後からでしょ?」
みうが慌てて答える。その胸に抱えた籠が、わずかに揺れた。
「まさか、まだ乾いてないのに誰かが持っていったんですか?」
「わかんない。わかんないけど……」
奈津海の耳の奥で、血の音がざわざわと鳴り始める。最悪の未来が、さらに形を増やしていく——王妃付きの女官に怒鳴られ、陽苑の責任者に詰められ、洗濯場全体に罰が下る。自分がそのきっかけだと知れたら、誰かが心の中で自分を責める。いや、責められるだけならまだいい。誰かが代わりに責められるかもしれない。
その想像が、胸の奥をきゅっと掴んだ。
「探す」
短くそう言って、奈津海は足元の水たまりを蹴った。周囲の女官たちが驚いた顔を向けるのも構わず、干場から通路へと飛び出す。
「奈津海さん、一人で行かないでください!」
みうの声が背中に追いかけてくる。それでも足は止まらない。洗濯場から広間へ続く通路、階段の踊り場、窓から差し込む光。どこを通っても、白い布の影がないか目を凝らす。
(誰にも言わないで見つける。そうすれば、何も起こらない)
それは、自分を守るためというより、誰かを巻き込まないための考えだった。最悪をひっくり返すために、ひとりで全部背負い込もうとする。
だが、その背中を追いかける足音があった。
「奈津海さん、待ってください!」
みうが小走りで追いつき、息を切らしながら奈津海の腕を掴んだ。
「一人で探したって、目は二つしかありません。二人なら四つです。四つあったら、きっと見つかりやすいです」
「みう、あんたまで巻き込んだら——」
「もう巻き込まれてます!」
みうは勢いよく言い切った。その声の大きさに、通路の隅で掃除をしていた女官がちらりとこちらを振り向く。
「洗濯物が一枚なくなったままだと、陽苑全体に迷惑がかかるんですよね? だったら、陽苑の人間として、一緒に探させてください」
まっすぐな目だった。奈津海は、その目を数秒だけ見つめ、やがて小さく息を吐いた。
「……じゃあ、あんたは西側の通路を。私は東側を見る」
「はい!」
二人は、壁に掛けられた燭台の下で別れた。みうは軽い足取りで西へ、奈津海は肩に力を入れたまま東へ進む。
東側の通路の先には、物置部屋がいくつか並んでいる。掃除用具や予備の器、季節外れの布団が入れられた場所だ。奈津海は順番に扉を開け、隅々まで布の影を探した。
ひとつ、またひとつ——どの部屋にも、目当ての衣はない。代わりに見つかるのは、たたまれたまま忘れられた洗濯物や、名前の札が落ちてしまった布きればかり。奈津海はそれらにも一応目を通し、あとで洗濯場に戻すためにひとまとめにした。
「こんな時に、余計なものまで見つけてどうするのよ……」
自分に小さく毒づきながらも、見つけてしまったものを放っておけない。最悪を少しでも減らすために、手は勝手に動いてしまうのだ。
廊下の角を曲がったところで、ちょうど反対側から人影が現れた。
「おい、そんなに慌てた顔をしてどこへ行く」
愛祈だった。鎧ではなく、軽い服に身を包み、腰には短めの剣。通路の見回りの途中なのだろう。
「別に。ちょっと、落とし物を探してるだけ」
「『ちょっと』の顔じゃないな。それに——」
愛祈は奈津海の腕に抱えられた布の束を指さした。
「それ、拾い物にしては多すぎないか?」
「……余計なお世話」
奈津海は視線をそらし、愛祈の横をすり抜けようとした。その時、ふと胸の中で引っかかるものがあった。最悪の想像に没頭しすぎて、いつもなら聞き流さない一言を聞き逃しそうになる。
「さっき、洗濯物を運んでいる男たちを見かけたが——」
足が止まる。
「どこで?」
「南の渡り廊下だ。大きな籠を二つ抱えて、急ぎ足でな。雨でも降るのかと思ったが、空は晴れていたし……」
「南の渡り廊下……?」
奈津海の頭の中に、陽苑の簡単な図が浮かび上がる。洗濯場から南の渡り廊下へ向かう道は、本来、今日の運搬に使う予定はない。そこを通る必要があるのは——。
「別棟の洗濯場へ行くときだけ、ですよね」
背後から、みうの声がした。西側を探し終えたのか、息を切らしながら走ってくる。
「もしかして、誰かが陽苑の洗濯物と、別棟行きの籠を間違えて——」
「待て。あの時の連中、どこかで見覚えがあったな」
愛祈は眉をひそめ、記憶を探るように目を細めた。
「……そうだ。今朝、俺が声をかけた下働きの男たちだ。『北側は混んでいるから、南の渡り廊下を使え』って、俺が言ったんだった」
三人の間に、沈黙が落ちる。奈津海は、愛祈の言葉をひとつひとつ噛みしめるように反芻した。
「つまり、愛祈さんが道を教えて……その時、籠の中身までは確かめなかった?」
「まさか、洗濯物の中身までは見てない。『運ぶ』って言うから、ただ道を空いているほうに変えただけだが……」
「その籠が、もし王妃付きの衣だったとしたら」
奈津海の背中に、冷たい汗が流れた。最悪の矢印が、別の方向に伸びていく。
(陽苑から、別棟の洗濯場へ——?)
「行ってみましょう!」
みうが、迷いなく声を上げた。
「別棟の洗濯場に、陽苑の洗濯物が紛れ込んでいるかもしれません」
「そうだな。俺も一緒に行こう。俺の一言が原因なら、責任は半分どころか、かなり俺にある」
愛祈の言い方はあくまで軽かったが、その目は真剣だった。奈津海は、胸の中の何かが少しだけほどけるのを感じた。
「……じゃあ、行く。最悪のままにしておくの、好きじゃないから」
三人は、南の渡り廊下へ向かって駆け出した。渡り廊下の窓の外には、陽苑の菜園が遠くに見える。木漏れ日の中で、晴矢がかごを抱えて歩いている姿が小さく映った。
「こんな時でも、あいつはいつも通りだな」
愛祈のつぶやきに、奈津海は思わず笑いそうになる。だが、今はそれよりも先に確かめるべきものがある。
別棟の洗濯場は、陽苑のそれより少し広く、乾きやすいように高い場所に作られていた。竿には色とりどりの布が掛けられ、見慣れない模様の袖が風に揺れている。
その一角で、見慣れた布の色が目に飛び込んできた。
「……あった」
奈津海は思わず足を止め、息をのんだ。そこには、陽苑の印が刺繍された衣が、丁寧に干されていた。竿の位置も、風の通りも悪くない。誰かがきちんと扱ってくれたのだろう。
「あれ、陽苑の印じゃないか?」
別棟の女官が不思議そうに近づいてくる。
「今朝、男の人たちが『ここへ運べと頼まれた』って言ってたから、うちの分と一緒に干しておいたんだけど」
「頼んだ覚えはないけど……」
奈津海は、頭を抱えたい衝動に駆られた。同時に、胸の奥で「最悪」が静かにほどけていく。
(なくなってなかった。汚れてもいない)
膝が少し笑いそうになるのを、なんとかこらえる。その横で、愛祈が頭をかいた。
「悪い。多分、その『頼まれた』ってやつ、俺のことだ。道を教えた時に、連中が勝手に勘違いしたらしい」
「勝手にって言いながら、原因は半分以上そっちでしょ」
奈津海は、思わず突き放すような言葉を口にした。だが、その声音には、さっきまでの刺々しさがなかった。
「……でも、助かった。ありがとう」
最後のひと言は、小さな声だった。愛祈は目を瞬き、それからにやりと笑う。
「珍しいな。あんたの口から『ありがとう』が出るとは」
「いつも心の中では言ってるの。口に出さないだけ」
「心の中だけじゃ、誰にも届かないぞ」
茶化す言い方だったが、その奥には優しさがあった。奈津海は視線を逸らし、代わりにみうのほうを向く。
「……みう」
「はい」
「さっき、一緒に探してくれてありがとう。あんたを巻き込んだら、あんたまで怒られるかもしれないって思ってたけど」
「怒られても、一緒なら怖くないです」
みうは、まっすぐにそう言った。その言葉が、胸のどこかにすとんと落ちる。
「それに——」
「それに?」
「一人で『最悪』を全部抱えるのって、重いですよね。少しぐらいなら、わたしも持てますから」
笑って言われると、反論がうまく出てこない。奈津海は、自分の両手を見つめた。
最悪を全部ひとりで抱えることで、誰かを守っているつもりだった。けれど、その重さのせいで、周りが見えなくなっていたのかもしれない。みうの手や、愛祈の何気ない一言や、菜園でかごを抱えて歩く晴矢の背中や——そういうものに、頼ってもいいということに。
「……次からは」
奈津海は、風に揺れる衣を見上げた。白い布が青空の下で静かに揺れ、その影が足元に落ちる。
「次からは、『最悪』を考えた時点で、誰かに話す。少しだけ、ね」
「少しずつでいいですよ」
みうがうれしそうに笑う。愛祈も、隣で肩をすくめた。
「そうしてくれたほうが、警備としても助かる。洗濯物一枚で走り回ることになったら、こっちも『最悪』を考えずにはいられん」
「さっきのは、自分のせいでしょ」
「だからこそ、だ」
三人の笑い声が、別棟の洗濯場に広がった。その音に驚いた鳥が、一羽、屋根の上から飛び立つ。
陽苑へ戻る道すがら、奈津海はふと空を見上げた。渡り廊下の窓から差し込む光が、床に細い帯を作っている。その光の中を、風に揺られた布の影がゆっくりと横切った。
(最悪をひっくり返すのに、ひとりで踏ん張るだけがやり方じゃない)
胸の中でそうつぶやき、奈津海は抱えた衣を少しだけ持ち直した。重さは変わらないはずなのに、不思議と腕の負担が軽くなった気がする。
洗濯場に戻ると、心配そうな顔をした女官たちが一斉に振り向いた。
「どうだった?」
「見つかったの?」
「……うん。別棟で、ちゃんと干されてた」
安堵の息が一斉にもれる。その中で、奈津海はいつものように板の前に立ち、王妃付きの衣の欄に、小さく印を付けた。
その印は、「最悪」を避けられたという証であり、同時に——少しだけ人を頼った自分の、小さな変化の印でもあった。
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華やかな王宮の大聖堂で交わされたのは、愛の誓いではなく、冷たい拒絶の言葉だった。
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そんな折、隣国の公爵アレクサンダーが彼女の前に現れる。「君の目はまだ死んでいないな」――その言葉に、彼女の中で何かが目覚める。彼はレイチェルに自由と新たな未来を提示し、密かに王宮からの脱出を計画する。
レイチェルが去ったことで、王宮は急速に崩壊していく。聖女ミレイユの策略が暴かれ、アルフォンスは自らの過ちに気づくも、時すでに遅し。彼が頼るべき王妃は、もはや遠く、隣国で新たな人生を歩んでいた。
「お願いだ……戻ってきてくれ……」
王国を失い、誇りを失い、全てを失った王子の懇願に、レイチェルはただ冷たく微笑む。
「もう遅いわ」
愛のない結婚を捨て、誇り高き未来へと進む王妃のざまぁ劇。
裏切りと策略が渦巻く宮廷で、彼女は己の運命を切り開く。
これは、偽りの婚姻から真の誓いへと至る、誇り高き王妃の物語。
昼休みは紙月堂で――元会社員と元同僚がつくる、ひと息つける文具店
乾為天女
キャラ文芸
星見商店街のいちばん端にある古びた文具店「紙月堂」。祖父の店を継いだ元会社員・奏斗は、静かな店内で帳簿と在庫を整えながら、「本当にやっていけるのか」という不安を誰にも言えずにいる。
そんな奏斗の前に、元同僚の璃音が昼休みの紙コップコーヒーをぶら下げて現れる。彼女の「ここ、仕事に疲れた人がひと息つける場所にしようよ」という思いつきから、紙月堂には、ノートに悩みや今日の「ここまで」を書き残していく常連たちが少しずつ集まり始める。
商店街の若手連絡係を名乗る青年、早朝から和菓子を仕込み続ける職人、仕事を辞めたいと言いながらも踏み出せない会社員、数字に追われる店主たち。奏斗は帳簿をつける手を止め、彼らの言葉をノートに記し、連絡のためのファイルを整え、「話を並べておく人」としての役割を引き受けていく。
やがて商店街全体を揺らす大きな方針変更が持ち上がり、紙月堂は、働き方に悩む人と店を守りたい人たちの小さな会議室になる。一杯のコーヒーと一枚のメモから始まった場所は、「もう少し続けてみよう」と思える明かりを、それぞれの帰り道に灯せるのか――。
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