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第10話 陽苑、初めての試食会
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陽苑の厨房に、いつもと違う種類の緊張が漂っていた。
大鍋の蓋は普段通りに持ち上がり、菜園から届いた野菜はいつも通りに洗われている。けれど、晴矢の手は、ほんの少しだけ丁寧すぎるくらい丁寧だった。刻んだ根菜の大きさを揃え、葉ものの水気をいつもより入念に切る。
「そんなに力を入れると、包丁まで疲れちゃうよ」
横で野菜を受け取っていたお咲が、面白そうに目を細めた。
「きょうは、後宮の女官だけじゃなくて、王宮の書記官まで来るんだろう? 肩に力が入りすぎるのも無理はないけどね」
「……やっぱり、そんなふうに見えますか」
「見えるねえ。包丁の音がいつもより真面目なんだもの」
お咲は笑い、鍋の火加減を確かめた。
「で、その真面目な包丁で刻んでるのが、これってわけだ」
菜園の端で採れた、形のいびつな人参。皮の色が少し薄い大根。葉先が欠けかけた春菊。どれも、これまでならまかないか、小さく刻んで目立たないように使われてきた野菜たちだ。
「敏貴さんの十年計画、覚えてますか」
晴矢は、まな板に並べた野菜を見つめながら言った。
「行事の多い年に赤字を出さないために、保存できる野菜を増やして、無駄を減らすって話だろう?」
「はい。きょうの試食会は、その第一歩なんです」
数日前、事務室で開かれた小さな相談の席。敏貴が新しい紙束を広げ、眼鏡の奥の目を少しだけ輝かせながら言った。
『後宮の女官と、王宮の書記官たちだけを招いた小さな集まりを開きたいんだ』
『集まり、ですか』
『陽苑で作っている料理が、王妃さまの周りだけじゃなく、王宮全体の誰かの支えにもなれるかどうか。まずはそこから確かめてみたい』
晴矢は、その言葉を思い出す。
「菜園の一番端で育った野菜たちを、きょうの皿の中心にしたいんです。『余り物』じゃなくて、『ここから始まるもの』として」
「言うようになったねえ」
お咲は感心したように笑い、鍋の中に油をひいた。
「じゃあ、味でちゃんと証明しておやり。どんな形の野菜だって、おいしく食べてもらえたら立派な主役さ」
◇
一方、配膳室では、みうが別の種類の緊張と向き合っていた。
机の上には、小さな札がずらりと並んでいる。菜園のかごに結んでいるものよりも、少しだけ華やかな紙。その一枚一枚に、細い字で短い言葉が書かれていた。
「……これで、全員分」
みうは、指折り数えながら札の枚数を確かめた。
後宮の女官たちの顔と名前。王宮の書記官たちの噂話。休憩室で耳にした小さな愚痴。事務室に帳簿を届けに来るときの足取り。
「ありがとうの練習帳」に書き続けてきた一行一行が、少しずつ頭の中で形を変え、きょうの一言へと繋がっている。
『いつも帳簿の数字を整えてくださってありがとうございます。きょうは、湯気の向こうで一息つけますように』
『書き損じの紙をそっと分けてくださったおかげで、陽苑の札が増えました。今度は料理でお返しさせてください』
『忙しい朝に、廊下ですれ違うたびに会釈を返してくださるのがうれしいです』
「……少し、くすぐったいですけど」
声に出してみると、顔が熱くなる。でも、心地よいくすぐったさだった。
そこへ、戸口から顔をのぞかせたのは奈津海だ。
「配膳の札、進んでる?」
「はい。奈津海さんにも、ひとつお願いしたくて」
「私?」
奈津海は目を丸くした。
「きょうの試食会、洗濯場からも一人だけ招かれてるの、知ってますか?」
「……さっき、景衣さまに言われた。『品良く座って、品良く食べてきなさい』って」
言葉の割に、その表情には戸惑いが混ざっている。
「洗濯場の代表として行くなら、口の利き方にも気をつけろとか、姿勢を崩すなとか、いろいろ言われたけど……そもそも、どうして私なんだか」
「それはもちろん」
みうは、迷いなく笑った。
「陽苑でいちばん、『最悪』を避けるために目を使っている人だから、だと思います」
「……褒めてる?」
「たぶん、とっても褒めてます」
奈津海は、頬をかすかに膨らませたまま、机の上の札に目を落とした。
「それで、お願いっていうのは?」
「一人一人に渡す札の中で、洗濯場のことまで気を回せるか自信がなくて。もしよかったら、奈津海さんの視点で『洗濯場から見た一言』を書いてほしいんです」
「私の視点で?」
「はい。『いつも袖口を汚さないように気をつけてくれてありがとう』とか、『裾のほつれを早めに教えてくれて助かります』とか。きっと、わたしには気づけない言葉があると思うんです」
奈津海は、しばらく黙っていた。やがて、みうの差し出した筆を受け取り、小さな札を一枚手に取る。
「……『今日の衣がきれいに揺れるのは、あなたが気をつけて歩いてくれているからです』」
声に出しながら、するすると書き記す。
「『洗濯場から、こっそり見ています』」
書き終えて顔を上げると、みうが目を丸くしていた。
「すごいです。わたし、そんな言葉思いつきませんでした」
「いつも、考えてることだから」
奈津海は、少しだけ照れたように視線をそらす。
「洗濯場に戻った衣が泥だらけだと、それだけで誰かの一日が丸ごと重くなるから。だからこそ、『汚さないように歩いてくれてありがとう』って、ずっと思ってた」
「じゃあ、その言葉、きょうはちゃんと届けられますね」
「……そうね」
奈津海は、書き上げた札をそっと台の上に置いた。
「きょうくらいは、最悪じゃないほうを先に想像してもいいかもしれない」
◇
午後、陽苑の広間の一角に、簡素な卓と椅子が並べられた。
王妃さまがお使いになる大広間とは違う、木の温もりが残る小さな空間。窓から差し込む光が、陶器の皿の縁を柔らかく照らす。壁際には、菜園で摘まれた野の花が一本ずつ瓶に挿されていた。
最初に入ってきたのは、後宮の女官たちだ。普段より少し控えめな色の衣をまとい、どこかそわそわとした足取りで席に着く。
「ここ、本当に座っていいのかしら」
「王妃さまはいらっしゃらないんでしょう?」
「ええ。きょうは、陽苑の者たちが用意した料理を、私たちが味わうための席だそうよ」
景衣が簡潔に説明する。后妃付き侍女頭らしい落ち着いた声。その手には、一冊の小さな帳面が挟まれていた。「ありがとうの練習帳」。まだ表紙にしか文字はない。
そこへ、王宮の書記官たちが数名、遠慮がちに入ってきた。肩から下げた書類袋を入り口の棚に預け、慣れない後宮の空気に少しだけ戸惑いながらも、用意された席に腰を下ろす。
「本日は、お越しいただきありがとうございます」
広間の入口で、みうが深く一礼した。配膳係として何度も客の前に立ってきたが、きょうの挨拶はいつもより少しだけ胸が高鳴る。
「陽苑の菜園と厨房で作った料理を、ゆっくり味わっていただければ幸いです。おひとりおひとりのお皿に、短い言葉を添えさせていただきました。どうぞ、お料理といっしょにお受け取りください」
客たちの視線が、一斉にみうの手元の盆に集まる。その上には、小さな札が並んでいた。
◇
一皿目が運ばれてくる。
丸い皿の上に並んだのは、彩りの違う野菜を薄く重ねて焼いたものだった。いびつな形の人参や端のほうで育った大根が、丁寧に仕込まれて層を成している。表面には、菜園の香草を刻んだ油が薄く塗られていた。
「まあ、きれい」
「野菜だけ、よね?」
女官たちは、思わず身を乗り出した。書記官たちも、仕事で乾いた目を少し細めて皿を覗き込む。
皿の縁には、小さな札が一枚。
『いつも早足で廊下を行き来しておられるあなたへ。
きょうは一口ごとに歩みをゆっくりにできますように』
「……私、そんなに早足だったかしら」
札を読んだ女官が思わず笑う。その笑いにつられて、周囲の肩の力も少し抜けた。
別の席では、書記官のひとりが札をそっと読み上げている。
『小さな文字を追い続ける目が、少しでも休まりますように。
きょうは湯気の向こうで、行間を広く感じてください』
「行間を広く、ね」
書記官は、思わず目を閉じて香りを吸い込んだ。白菜の甘さと人参の香りが合わさり、舌の上で静かにほどけていく。
二皿目は、形の揃わなかった根菜を小さく刻んで煮込んだ一品だった。とろりとした中に、ほんの少しだけ噛みごたえのある欠片が混ざっている。
『形はそろわなくても、同じ鍋で温まれますように』
菜園の端の畝で育った野菜たちの姿が、その一文の向こうに立ち上がる。
「これは……体が軽くなる感じがしますね」
誰かがぽつりと言った。その言葉が、あっという間に周囲に伝わる。
「確かに。お腹は満たされるのに、重くない」
「明日の朝も、すっきり起きられそう」
「身体だけじゃなくて、気持ちまで軽くなるっていうか」
その感想が、陽苑の壁を越えて広がることを、この場の誰もまだ知らない。
◇
広間の片隅で、敏貴は静かに札の枚数を数えていた。
「読み忘れられた札はなさそうだね」
「ええ。皆さん、ちゃんと手に取ってくれています」
みうがほっと息をつく。
「あなたの言葉のおかげで、菜園と厨房の『数字に出ない仕事』が見える形になった」
敏貴は、皿の上の野菜を一口頬張りながら言った。
「十年計画の紙には、『陽苑の空気』までは書き込めないからね。きょうのような席が、いちばんの補足だ」
「そんな大げさな」
「大げさじゃない」
敏貴は、眼鏡を指で押し上げた。
「きょうここで皿を前に座った人たちは、明日から王宮のどこかで『陽苑の料理は身体も気持ちも軽くする』って噂をしてくれるだろう。数字にならない評価が、少しずつ集まっていく」
みうは、広間を見回した。笑い合う女官たち。いつもより柔らかい顔で札を読む書記官。景衣も、皿の上の料理を静かに味わいながら、そっと札を畳んで懐にしまっていた。
(この一皿一皿が、十年後の景色に繋がるのかもしれない)
そう思うと、胸の奥が少し震えた。
◇
試食会が終わり、客たちが席を立つ頃には、広間の空気はすっかり和らいでいた。
「ご馳走さまでした。こんなふうにゆっくり味わうの、久しぶりでした」
「次の会があったら、また呼んでくださいね」
女官たちの言葉に、みうは深く頭を下げる。
「ぜひ。きょうのお声を、これからの献立に活かしていきたいと思います」
書記官のひとりが、帰り際にぽつりとつぶやいた。
「後宮って、遠い場所だと思っていましたけど……陽苑は、思ったより近いですね」
「近い?」
「はい。紙の上でしか見たことのなかった名前と、同じ空気を吸っている感じがしました」
その言葉に、みうは胸が熱くなった。
厨房に戻ると、お咲が両手を腰に当てて待っていた。
「顔つきが変わったねえ」
「そうですか?」
「自分の料理の話じゃなくて、『みんなの料理』の話をしてきた顔だよ」
お咲は、空になった大皿を指で叩いた。
「さてと。きょうの皿がどんなふうに噂になるかは、もう私たちにはどうにもできない。できるのは、明日もちゃんとこの鍋を火にかけることさ」
「はい」
晴矢はうなずき、まかない用の鍋に水を張った。菜園から届いた端の野菜を、いつものように刻み始める。
「きょうの余りは?」
「もちろん、まかないです」
みうは笑い、配膳用の盆を取り出した。
「『試食会の皿を支えてくれた人たちへ』って札を書いておきました」
「支えてくれた人たち?」
「はい。皿を洗ってくれた人、火加減を見てくれた人、洗濯場から白い布を届けてくれた人。きょうの皿は、そういう人たちの手の上に乗っていましたから」
奈津海が、いつのまにか厨房の入口に立っていた。袖をまくった腕を組み、どこか居心地悪そうに視線をそらす。
「……あんまり大げさにしないで。仕事をしただけなんだから」
「でも、きょうくらいは言わせてください」
みうは、筆を走らせながら言った。
「『おいしく育ってくれてありがとう』『おいしく運んでくれてありがとう』『おいしく洗ってくれてありがとう』。全部まとめて、きょうの皿でした」
奈津海は、少しだけ目を丸くした後、ふいっと横を向いた。
「……まかない、冷めないうちに食べましょう」
その背中は、いつもよりほんの少しだけ軽く見えた。
窓の外には、王宮の屋根が連なっている。そのどこかで、「陽苑の料理は身体も気持ちも軽くするらしい」という噂が、もう小さな声で交わされ始めていた。
大鍋の蓋は普段通りに持ち上がり、菜園から届いた野菜はいつも通りに洗われている。けれど、晴矢の手は、ほんの少しだけ丁寧すぎるくらい丁寧だった。刻んだ根菜の大きさを揃え、葉ものの水気をいつもより入念に切る。
「そんなに力を入れると、包丁まで疲れちゃうよ」
横で野菜を受け取っていたお咲が、面白そうに目を細めた。
「きょうは、後宮の女官だけじゃなくて、王宮の書記官まで来るんだろう? 肩に力が入りすぎるのも無理はないけどね」
「……やっぱり、そんなふうに見えますか」
「見えるねえ。包丁の音がいつもより真面目なんだもの」
お咲は笑い、鍋の火加減を確かめた。
「で、その真面目な包丁で刻んでるのが、これってわけだ」
菜園の端で採れた、形のいびつな人参。皮の色が少し薄い大根。葉先が欠けかけた春菊。どれも、これまでならまかないか、小さく刻んで目立たないように使われてきた野菜たちだ。
「敏貴さんの十年計画、覚えてますか」
晴矢は、まな板に並べた野菜を見つめながら言った。
「行事の多い年に赤字を出さないために、保存できる野菜を増やして、無駄を減らすって話だろう?」
「はい。きょうの試食会は、その第一歩なんです」
数日前、事務室で開かれた小さな相談の席。敏貴が新しい紙束を広げ、眼鏡の奥の目を少しだけ輝かせながら言った。
『後宮の女官と、王宮の書記官たちだけを招いた小さな集まりを開きたいんだ』
『集まり、ですか』
『陽苑で作っている料理が、王妃さまの周りだけじゃなく、王宮全体の誰かの支えにもなれるかどうか。まずはそこから確かめてみたい』
晴矢は、その言葉を思い出す。
「菜園の一番端で育った野菜たちを、きょうの皿の中心にしたいんです。『余り物』じゃなくて、『ここから始まるもの』として」
「言うようになったねえ」
お咲は感心したように笑い、鍋の中に油をひいた。
「じゃあ、味でちゃんと証明しておやり。どんな形の野菜だって、おいしく食べてもらえたら立派な主役さ」
◇
一方、配膳室では、みうが別の種類の緊張と向き合っていた。
机の上には、小さな札がずらりと並んでいる。菜園のかごに結んでいるものよりも、少しだけ華やかな紙。その一枚一枚に、細い字で短い言葉が書かれていた。
「……これで、全員分」
みうは、指折り数えながら札の枚数を確かめた。
後宮の女官たちの顔と名前。王宮の書記官たちの噂話。休憩室で耳にした小さな愚痴。事務室に帳簿を届けに来るときの足取り。
「ありがとうの練習帳」に書き続けてきた一行一行が、少しずつ頭の中で形を変え、きょうの一言へと繋がっている。
『いつも帳簿の数字を整えてくださってありがとうございます。きょうは、湯気の向こうで一息つけますように』
『書き損じの紙をそっと分けてくださったおかげで、陽苑の札が増えました。今度は料理でお返しさせてください』
『忙しい朝に、廊下ですれ違うたびに会釈を返してくださるのがうれしいです』
「……少し、くすぐったいですけど」
声に出してみると、顔が熱くなる。でも、心地よいくすぐったさだった。
そこへ、戸口から顔をのぞかせたのは奈津海だ。
「配膳の札、進んでる?」
「はい。奈津海さんにも、ひとつお願いしたくて」
「私?」
奈津海は目を丸くした。
「きょうの試食会、洗濯場からも一人だけ招かれてるの、知ってますか?」
「……さっき、景衣さまに言われた。『品良く座って、品良く食べてきなさい』って」
言葉の割に、その表情には戸惑いが混ざっている。
「洗濯場の代表として行くなら、口の利き方にも気をつけろとか、姿勢を崩すなとか、いろいろ言われたけど……そもそも、どうして私なんだか」
「それはもちろん」
みうは、迷いなく笑った。
「陽苑でいちばん、『最悪』を避けるために目を使っている人だから、だと思います」
「……褒めてる?」
「たぶん、とっても褒めてます」
奈津海は、頬をかすかに膨らませたまま、机の上の札に目を落とした。
「それで、お願いっていうのは?」
「一人一人に渡す札の中で、洗濯場のことまで気を回せるか自信がなくて。もしよかったら、奈津海さんの視点で『洗濯場から見た一言』を書いてほしいんです」
「私の視点で?」
「はい。『いつも袖口を汚さないように気をつけてくれてありがとう』とか、『裾のほつれを早めに教えてくれて助かります』とか。きっと、わたしには気づけない言葉があると思うんです」
奈津海は、しばらく黙っていた。やがて、みうの差し出した筆を受け取り、小さな札を一枚手に取る。
「……『今日の衣がきれいに揺れるのは、あなたが気をつけて歩いてくれているからです』」
声に出しながら、するすると書き記す。
「『洗濯場から、こっそり見ています』」
書き終えて顔を上げると、みうが目を丸くしていた。
「すごいです。わたし、そんな言葉思いつきませんでした」
「いつも、考えてることだから」
奈津海は、少しだけ照れたように視線をそらす。
「洗濯場に戻った衣が泥だらけだと、それだけで誰かの一日が丸ごと重くなるから。だからこそ、『汚さないように歩いてくれてありがとう』って、ずっと思ってた」
「じゃあ、その言葉、きょうはちゃんと届けられますね」
「……そうね」
奈津海は、書き上げた札をそっと台の上に置いた。
「きょうくらいは、最悪じゃないほうを先に想像してもいいかもしれない」
◇
午後、陽苑の広間の一角に、簡素な卓と椅子が並べられた。
王妃さまがお使いになる大広間とは違う、木の温もりが残る小さな空間。窓から差し込む光が、陶器の皿の縁を柔らかく照らす。壁際には、菜園で摘まれた野の花が一本ずつ瓶に挿されていた。
最初に入ってきたのは、後宮の女官たちだ。普段より少し控えめな色の衣をまとい、どこかそわそわとした足取りで席に着く。
「ここ、本当に座っていいのかしら」
「王妃さまはいらっしゃらないんでしょう?」
「ええ。きょうは、陽苑の者たちが用意した料理を、私たちが味わうための席だそうよ」
景衣が簡潔に説明する。后妃付き侍女頭らしい落ち着いた声。その手には、一冊の小さな帳面が挟まれていた。「ありがとうの練習帳」。まだ表紙にしか文字はない。
そこへ、王宮の書記官たちが数名、遠慮がちに入ってきた。肩から下げた書類袋を入り口の棚に預け、慣れない後宮の空気に少しだけ戸惑いながらも、用意された席に腰を下ろす。
「本日は、お越しいただきありがとうございます」
広間の入口で、みうが深く一礼した。配膳係として何度も客の前に立ってきたが、きょうの挨拶はいつもより少しだけ胸が高鳴る。
「陽苑の菜園と厨房で作った料理を、ゆっくり味わっていただければ幸いです。おひとりおひとりのお皿に、短い言葉を添えさせていただきました。どうぞ、お料理といっしょにお受け取りください」
客たちの視線が、一斉にみうの手元の盆に集まる。その上には、小さな札が並んでいた。
◇
一皿目が運ばれてくる。
丸い皿の上に並んだのは、彩りの違う野菜を薄く重ねて焼いたものだった。いびつな形の人参や端のほうで育った大根が、丁寧に仕込まれて層を成している。表面には、菜園の香草を刻んだ油が薄く塗られていた。
「まあ、きれい」
「野菜だけ、よね?」
女官たちは、思わず身を乗り出した。書記官たちも、仕事で乾いた目を少し細めて皿を覗き込む。
皿の縁には、小さな札が一枚。
『いつも早足で廊下を行き来しておられるあなたへ。
きょうは一口ごとに歩みをゆっくりにできますように』
「……私、そんなに早足だったかしら」
札を読んだ女官が思わず笑う。その笑いにつられて、周囲の肩の力も少し抜けた。
別の席では、書記官のひとりが札をそっと読み上げている。
『小さな文字を追い続ける目が、少しでも休まりますように。
きょうは湯気の向こうで、行間を広く感じてください』
「行間を広く、ね」
書記官は、思わず目を閉じて香りを吸い込んだ。白菜の甘さと人参の香りが合わさり、舌の上で静かにほどけていく。
二皿目は、形の揃わなかった根菜を小さく刻んで煮込んだ一品だった。とろりとした中に、ほんの少しだけ噛みごたえのある欠片が混ざっている。
『形はそろわなくても、同じ鍋で温まれますように』
菜園の端の畝で育った野菜たちの姿が、その一文の向こうに立ち上がる。
「これは……体が軽くなる感じがしますね」
誰かがぽつりと言った。その言葉が、あっという間に周囲に伝わる。
「確かに。お腹は満たされるのに、重くない」
「明日の朝も、すっきり起きられそう」
「身体だけじゃなくて、気持ちまで軽くなるっていうか」
その感想が、陽苑の壁を越えて広がることを、この場の誰もまだ知らない。
◇
広間の片隅で、敏貴は静かに札の枚数を数えていた。
「読み忘れられた札はなさそうだね」
「ええ。皆さん、ちゃんと手に取ってくれています」
みうがほっと息をつく。
「あなたの言葉のおかげで、菜園と厨房の『数字に出ない仕事』が見える形になった」
敏貴は、皿の上の野菜を一口頬張りながら言った。
「十年計画の紙には、『陽苑の空気』までは書き込めないからね。きょうのような席が、いちばんの補足だ」
「そんな大げさな」
「大げさじゃない」
敏貴は、眼鏡を指で押し上げた。
「きょうここで皿を前に座った人たちは、明日から王宮のどこかで『陽苑の料理は身体も気持ちも軽くする』って噂をしてくれるだろう。数字にならない評価が、少しずつ集まっていく」
みうは、広間を見回した。笑い合う女官たち。いつもより柔らかい顔で札を読む書記官。景衣も、皿の上の料理を静かに味わいながら、そっと札を畳んで懐にしまっていた。
(この一皿一皿が、十年後の景色に繋がるのかもしれない)
そう思うと、胸の奥が少し震えた。
◇
試食会が終わり、客たちが席を立つ頃には、広間の空気はすっかり和らいでいた。
「ご馳走さまでした。こんなふうにゆっくり味わうの、久しぶりでした」
「次の会があったら、また呼んでくださいね」
女官たちの言葉に、みうは深く頭を下げる。
「ぜひ。きょうのお声を、これからの献立に活かしていきたいと思います」
書記官のひとりが、帰り際にぽつりとつぶやいた。
「後宮って、遠い場所だと思っていましたけど……陽苑は、思ったより近いですね」
「近い?」
「はい。紙の上でしか見たことのなかった名前と、同じ空気を吸っている感じがしました」
その言葉に、みうは胸が熱くなった。
厨房に戻ると、お咲が両手を腰に当てて待っていた。
「顔つきが変わったねえ」
「そうですか?」
「自分の料理の話じゃなくて、『みんなの料理』の話をしてきた顔だよ」
お咲は、空になった大皿を指で叩いた。
「さてと。きょうの皿がどんなふうに噂になるかは、もう私たちにはどうにもできない。できるのは、明日もちゃんとこの鍋を火にかけることさ」
「はい」
晴矢はうなずき、まかない用の鍋に水を張った。菜園から届いた端の野菜を、いつものように刻み始める。
「きょうの余りは?」
「もちろん、まかないです」
みうは笑い、配膳用の盆を取り出した。
「『試食会の皿を支えてくれた人たちへ』って札を書いておきました」
「支えてくれた人たち?」
「はい。皿を洗ってくれた人、火加減を見てくれた人、洗濯場から白い布を届けてくれた人。きょうの皿は、そういう人たちの手の上に乗っていましたから」
奈津海が、いつのまにか厨房の入口に立っていた。袖をまくった腕を組み、どこか居心地悪そうに視線をそらす。
「……あんまり大げさにしないで。仕事をしただけなんだから」
「でも、きょうくらいは言わせてください」
みうは、筆を走らせながら言った。
「『おいしく育ってくれてありがとう』『おいしく運んでくれてありがとう』『おいしく洗ってくれてありがとう』。全部まとめて、きょうの皿でした」
奈津海は、少しだけ目を丸くした後、ふいっと横を向いた。
「……まかない、冷めないうちに食べましょう」
その背中は、いつもよりほんの少しだけ軽く見えた。
窓の外には、王宮の屋根が連なっている。そのどこかで、「陽苑の料理は身体も気持ちも軽くするらしい」という噂が、もう小さな声で交わされ始めていた。
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