後宮日和は、旬の野菜と木漏れ日の彼

乾為天女

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第10話 陽苑、初めての試食会

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 陽苑の厨房に、いつもと違う種類の緊張が漂っていた。

 大鍋の蓋は普段通りに持ち上がり、菜園から届いた野菜はいつも通りに洗われている。けれど、晴矢の手は、ほんの少しだけ丁寧すぎるくらい丁寧だった。刻んだ根菜の大きさを揃え、葉ものの水気をいつもより入念に切る。

 「そんなに力を入れると、包丁まで疲れちゃうよ」

 横で野菜を受け取っていたお咲が、面白そうに目を細めた。

 「きょうは、後宮の女官だけじゃなくて、王宮の書記官まで来るんだろう? 肩に力が入りすぎるのも無理はないけどね」

 「……やっぱり、そんなふうに見えますか」

 「見えるねえ。包丁の音がいつもより真面目なんだもの」

 お咲は笑い、鍋の火加減を確かめた。

 「で、その真面目な包丁で刻んでるのが、これってわけだ」

 菜園の端で採れた、形のいびつな人参。皮の色が少し薄い大根。葉先が欠けかけた春菊。どれも、これまでならまかないか、小さく刻んで目立たないように使われてきた野菜たちだ。

 「敏貴さんの十年計画、覚えてますか」

 晴矢は、まな板に並べた野菜を見つめながら言った。

 「行事の多い年に赤字を出さないために、保存できる野菜を増やして、無駄を減らすって話だろう?」

 「はい。きょうの試食会は、その第一歩なんです」

 数日前、事務室で開かれた小さな相談の席。敏貴が新しい紙束を広げ、眼鏡の奥の目を少しだけ輝かせながら言った。

 『後宮の女官と、王宮の書記官たちだけを招いた小さな集まりを開きたいんだ』

 『集まり、ですか』

 『陽苑で作っている料理が、王妃さまの周りだけじゃなく、王宮全体の誰かの支えにもなれるかどうか。まずはそこから確かめてみたい』

 晴矢は、その言葉を思い出す。

 「菜園の一番端で育った野菜たちを、きょうの皿の中心にしたいんです。『余り物』じゃなくて、『ここから始まるもの』として」

 「言うようになったねえ」

 お咲は感心したように笑い、鍋の中に油をひいた。

 「じゃあ、味でちゃんと証明しておやり。どんな形の野菜だって、おいしく食べてもらえたら立派な主役さ」

     ◇

 一方、配膳室では、みうが別の種類の緊張と向き合っていた。

 机の上には、小さな札がずらりと並んでいる。菜園のかごに結んでいるものよりも、少しだけ華やかな紙。その一枚一枚に、細い字で短い言葉が書かれていた。

 「……これで、全員分」

 みうは、指折り数えながら札の枚数を確かめた。

 後宮の女官たちの顔と名前。王宮の書記官たちの噂話。休憩室で耳にした小さな愚痴。事務室に帳簿を届けに来るときの足取り。

 「ありがとうの練習帳」に書き続けてきた一行一行が、少しずつ頭の中で形を変え、きょうの一言へと繋がっている。

 『いつも帳簿の数字を整えてくださってありがとうございます。きょうは、湯気の向こうで一息つけますように』

 『書き損じの紙をそっと分けてくださったおかげで、陽苑の札が増えました。今度は料理でお返しさせてください』

 『忙しい朝に、廊下ですれ違うたびに会釈を返してくださるのがうれしいです』

 「……少し、くすぐったいですけど」

 声に出してみると、顔が熱くなる。でも、心地よいくすぐったさだった。

 そこへ、戸口から顔をのぞかせたのは奈津海だ。

 「配膳の札、進んでる?」

 「はい。奈津海さんにも、ひとつお願いしたくて」

 「私?」

 奈津海は目を丸くした。

 「きょうの試食会、洗濯場からも一人だけ招かれてるの、知ってますか?」

 「……さっき、景衣さまに言われた。『品良く座って、品良く食べてきなさい』って」

 言葉の割に、その表情には戸惑いが混ざっている。

 「洗濯場の代表として行くなら、口の利き方にも気をつけろとか、姿勢を崩すなとか、いろいろ言われたけど……そもそも、どうして私なんだか」

 「それはもちろん」

 みうは、迷いなく笑った。

 「陽苑でいちばん、『最悪』を避けるために目を使っている人だから、だと思います」

 「……褒めてる?」

 「たぶん、とっても褒めてます」

 奈津海は、頬をかすかに膨らませたまま、机の上の札に目を落とした。

 「それで、お願いっていうのは?」

 「一人一人に渡す札の中で、洗濯場のことまで気を回せるか自信がなくて。もしよかったら、奈津海さんの視点で『洗濯場から見た一言』を書いてほしいんです」

 「私の視点で?」

 「はい。『いつも袖口を汚さないように気をつけてくれてありがとう』とか、『裾のほつれを早めに教えてくれて助かります』とか。きっと、わたしには気づけない言葉があると思うんです」

 奈津海は、しばらく黙っていた。やがて、みうの差し出した筆を受け取り、小さな札を一枚手に取る。

 「……『今日の衣がきれいに揺れるのは、あなたが気をつけて歩いてくれているからです』」

 声に出しながら、するすると書き記す。

 「『洗濯場から、こっそり見ています』」

 書き終えて顔を上げると、みうが目を丸くしていた。

 「すごいです。わたし、そんな言葉思いつきませんでした」

 「いつも、考えてることだから」

 奈津海は、少しだけ照れたように視線をそらす。

 「洗濯場に戻った衣が泥だらけだと、それだけで誰かの一日が丸ごと重くなるから。だからこそ、『汚さないように歩いてくれてありがとう』って、ずっと思ってた」

 「じゃあ、その言葉、きょうはちゃんと届けられますね」

 「……そうね」

 奈津海は、書き上げた札をそっと台の上に置いた。

 「きょうくらいは、最悪じゃないほうを先に想像してもいいかもしれない」

     ◇

 午後、陽苑の広間の一角に、簡素な卓と椅子が並べられた。

 王妃さまがお使いになる大広間とは違う、木の温もりが残る小さな空間。窓から差し込む光が、陶器の皿の縁を柔らかく照らす。壁際には、菜園で摘まれた野の花が一本ずつ瓶に挿されていた。

 最初に入ってきたのは、後宮の女官たちだ。普段より少し控えめな色の衣をまとい、どこかそわそわとした足取りで席に着く。

 「ここ、本当に座っていいのかしら」

 「王妃さまはいらっしゃらないんでしょう?」

 「ええ。きょうは、陽苑の者たちが用意した料理を、私たちが味わうための席だそうよ」

 景衣が簡潔に説明する。后妃付き侍女頭らしい落ち着いた声。その手には、一冊の小さな帳面が挟まれていた。「ありがとうの練習帳」。まだ表紙にしか文字はない。

 そこへ、王宮の書記官たちが数名、遠慮がちに入ってきた。肩から下げた書類袋を入り口の棚に預け、慣れない後宮の空気に少しだけ戸惑いながらも、用意された席に腰を下ろす。

 「本日は、お越しいただきありがとうございます」

 広間の入口で、みうが深く一礼した。配膳係として何度も客の前に立ってきたが、きょうの挨拶はいつもより少しだけ胸が高鳴る。

 「陽苑の菜園と厨房で作った料理を、ゆっくり味わっていただければ幸いです。おひとりおひとりのお皿に、短い言葉を添えさせていただきました。どうぞ、お料理といっしょにお受け取りください」

 客たちの視線が、一斉にみうの手元の盆に集まる。その上には、小さな札が並んでいた。

     ◇

 一皿目が運ばれてくる。

 丸い皿の上に並んだのは、彩りの違う野菜を薄く重ねて焼いたものだった。いびつな形の人参や端のほうで育った大根が、丁寧に仕込まれて層を成している。表面には、菜園の香草を刻んだ油が薄く塗られていた。

 「まあ、きれい」

 「野菜だけ、よね?」

 女官たちは、思わず身を乗り出した。書記官たちも、仕事で乾いた目を少し細めて皿を覗き込む。

 皿の縁には、小さな札が一枚。

 『いつも早足で廊下を行き来しておられるあなたへ。
 きょうは一口ごとに歩みをゆっくりにできますように』

 「……私、そんなに早足だったかしら」

 札を読んだ女官が思わず笑う。その笑いにつられて、周囲の肩の力も少し抜けた。

 別の席では、書記官のひとりが札をそっと読み上げている。

 『小さな文字を追い続ける目が、少しでも休まりますように。
 きょうは湯気の向こうで、行間を広く感じてください』

 「行間を広く、ね」

 書記官は、思わず目を閉じて香りを吸い込んだ。白菜の甘さと人参の香りが合わさり、舌の上で静かにほどけていく。

 二皿目は、形の揃わなかった根菜を小さく刻んで煮込んだ一品だった。とろりとした中に、ほんの少しだけ噛みごたえのある欠片が混ざっている。

 『形はそろわなくても、同じ鍋で温まれますように』

 菜園の端の畝で育った野菜たちの姿が、その一文の向こうに立ち上がる。

 「これは……体が軽くなる感じがしますね」

 誰かがぽつりと言った。その言葉が、あっという間に周囲に伝わる。

 「確かに。お腹は満たされるのに、重くない」

 「明日の朝も、すっきり起きられそう」

 「身体だけじゃなくて、気持ちまで軽くなるっていうか」

 その感想が、陽苑の壁を越えて広がることを、この場の誰もまだ知らない。

     ◇

 広間の片隅で、敏貴は静かに札の枚数を数えていた。

 「読み忘れられた札はなさそうだね」

 「ええ。皆さん、ちゃんと手に取ってくれています」

 みうがほっと息をつく。

 「あなたの言葉のおかげで、菜園と厨房の『数字に出ない仕事』が見える形になった」

 敏貴は、皿の上の野菜を一口頬張りながら言った。

 「十年計画の紙には、『陽苑の空気』までは書き込めないからね。きょうのような席が、いちばんの補足だ」

 「そんな大げさな」

 「大げさじゃない」

 敏貴は、眼鏡を指で押し上げた。

 「きょうここで皿を前に座った人たちは、明日から王宮のどこかで『陽苑の料理は身体も気持ちも軽くする』って噂をしてくれるだろう。数字にならない評価が、少しずつ集まっていく」

 みうは、広間を見回した。笑い合う女官たち。いつもより柔らかい顔で札を読む書記官。景衣も、皿の上の料理を静かに味わいながら、そっと札を畳んで懐にしまっていた。

 (この一皿一皿が、十年後の景色に繋がるのかもしれない)

 そう思うと、胸の奥が少し震えた。

     ◇

 試食会が終わり、客たちが席を立つ頃には、広間の空気はすっかり和らいでいた。

 「ご馳走さまでした。こんなふうにゆっくり味わうの、久しぶりでした」

 「次の会があったら、また呼んでくださいね」

 女官たちの言葉に、みうは深く頭を下げる。

 「ぜひ。きょうのお声を、これからの献立に活かしていきたいと思います」

 書記官のひとりが、帰り際にぽつりとつぶやいた。

 「後宮って、遠い場所だと思っていましたけど……陽苑は、思ったより近いですね」

 「近い?」

 「はい。紙の上でしか見たことのなかった名前と、同じ空気を吸っている感じがしました」

 その言葉に、みうは胸が熱くなった。

 厨房に戻ると、お咲が両手を腰に当てて待っていた。

 「顔つきが変わったねえ」

 「そうですか?」

 「自分の料理の話じゃなくて、『みんなの料理』の話をしてきた顔だよ」

 お咲は、空になった大皿を指で叩いた。

 「さてと。きょうの皿がどんなふうに噂になるかは、もう私たちにはどうにもできない。できるのは、明日もちゃんとこの鍋を火にかけることさ」

 「はい」

 晴矢はうなずき、まかない用の鍋に水を張った。菜園から届いた端の野菜を、いつものように刻み始める。

 「きょうの余りは?」

 「もちろん、まかないです」

 みうは笑い、配膳用の盆を取り出した。

 「『試食会の皿を支えてくれた人たちへ』って札を書いておきました」

 「支えてくれた人たち?」

 「はい。皿を洗ってくれた人、火加減を見てくれた人、洗濯場から白い布を届けてくれた人。きょうの皿は、そういう人たちの手の上に乗っていましたから」

 奈津海が、いつのまにか厨房の入口に立っていた。袖をまくった腕を組み、どこか居心地悪そうに視線をそらす。

 「……あんまり大げさにしないで。仕事をしただけなんだから」

 「でも、きょうくらいは言わせてください」

 みうは、筆を走らせながら言った。

 「『おいしく育ってくれてありがとう』『おいしく運んでくれてありがとう』『おいしく洗ってくれてありがとう』。全部まとめて、きょうの皿でした」

 奈津海は、少しだけ目を丸くした後、ふいっと横を向いた。

 「……まかない、冷めないうちに食べましょう」

 その背中は、いつもよりほんの少しだけ軽く見えた。

 窓の外には、王宮の屋根が連なっている。そのどこかで、「陽苑の料理は身体も気持ちも軽くするらしい」という噂が、もう小さな声で交わされ始めていた。
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