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第13話 愛祈、評価されたい
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王宮の中庭に面した回廊で、朝の空気がきりりと張り詰めていた。
警備隊の朝点呼。灰色の制服に身を包んだ隊員たちが、一列に並んでいる。前には上官の澤巳が立ち、名簿を片手に冷静な目を巡らせていた。
「第一班、巡回経路変更の件。昨日から、北側回廊の角で人の渋滞が減っている。よくやった」
呼ばれた隊員たちが一歩前に出る。澤巳は、名を確かめるように名簿を見た。
「……宗太、良い判断だった」
「はっ!」
短い答えとともに、宗太の背筋が伸びる。隊の端っこに立っていた愛祈は、その様子を横目で見ていた。
(あの角の死角をどうにかしようって言い出したの、俺なんだけどな)
心の中でだけ小さく嘆息する。昨夜、廊下の人の流れを見ながら、壁に寄りかかっていたのは自分だ。
『角のところで、お盆を持った女官がぶつかりそうになってたぞ。巡回のときに、もう少し手前で声を掛けたほうがいい』
『でも、上官に言わないと経路は変えられないよ』
『じゃあ、こういう紙を作ろう。どこでよくぶつかりそうになっているか、印をつけてさ』
そう言って紙に図を描いたのも、自分と宗太だった。宗太の筆は少し震えていたが、「こういうの、苦手で」と照れくさそうに笑っていたのを覚えている。
なのに、朝の点呼で名前を呼ばれたのは宗太だけ。
「それから……昨日の王妃付きの移動の際、予定より早く雨が降り出したが、傘と簡易の布をすぐに用意できていた。よく気が回っていた」
澤巳の目が、列の中央辺りに向く。
「……ええと、そこの――」
視線が、愛祈の隣で立っている若い隊員に止まった。
「綾人だったな。よくやった」
「はっ!」
(それも、俺が事前に布を詰所の近くに移しておこうって言ったからなんだけどな)
愛祈は、もう一度心の中でだけため息をついた。
名前を呼んでほしいわけじゃない。任務がきちんと回っているなら、それでいい――はずなのに。
(……いや、やっぱり少しは呼んでほしい)
正直な気持ちが、胸の奥から顔を出す。
点呼が終わり、隊員たちがそれぞれの持ち場に散っていく。回廊に残ったのは、朝日と石畳の冷たさだけだった。
「おい、愛祈!」
背後から声がして振り向くと、宗太と綾人が駆け寄ってきた。
「さっきの、ありがとな! おかげで上官に褒められちまった」
「俺もだ。傘と布の件、あんたが前日に動線確認してなかったら間に合わなかったよ」
二人は、本当に嬉しそうに笑っている。その笑顔を見ると、「いや俺が先に考えたから」なんて台詞は、喉の奥で溶けてしまう。
「別に。仕事がうまく回ったなら、それでいい」
愛祈は軽く肩をすくめた。
「……でも、たまには名前で呼ばれたいとは思うけどな」
「え?」
「なんでもない。持ち場に着け。遅れるぞ」
宗太と綾人を追い立てるように手を振り、愛祈は陽苑へ続く廊下へ足を向けた。
◇
陽苑の門の前は、いつも通りの朝だった。
洗濯場からは、水の音と布を絞る音が聞こえてくる。厨房からは、出汁の湯気と野菜を刻む音。配膳室の戸口では、みうが今日の献立表を抱えて慌ただしく歩いていた。
「おはようございます、愛祈さん」
「おはよう」
何気ない挨拶を交わしただけで、胸の皺が少しだけ伸びていく気がする。
「どうかしました? いつもより眉間の線が深いような」
みうが首をかしげたので、愛祈は思わず眉間を指で押さえた。
「そんなにわかるか?」
「はい。『何かいらないことを考えている』って顔してます」
「いらないこと、かどうかはわからんが……」
愛祈は、少しだけ言葉を探した末に口を開いた。
「仕事ってのは、うまくいっているときほど誰にも気づかれないものだなと思ってな」
「それは、警備の話ですか?」
「そうだ」
廊下の角を見やりながら、愛祈は小さく笑った。
「何事も起こらなければ、『いつも通り』で済まされる。だが、何事も起きないように頭を使っているやつがいることは、なかなか数字にならん」
みうは少し考え込んでから、ぽんと手を打った。
「じゃあ、数字にしてみませんか」
「……は?」
「愛祈さんが、いつもどんな工夫をしているのか。『事が起きなかった』結果を、その前にあった行動として並べてみるんです」
「そんなもの、どうやって」
「それなら、晴矢さんと敏貴さんを巻き込むのが一番です」
みうは、いたずらっぽく微笑んだ。
「菜園と事務室の二人なら、『見えない働き』を形にする方法を知ってますから」
◇
その日の夕方、陽苑の小さな会議用の卓を囲んで、四人が向かい合っていた。
卓の上には、白紙の紙が何枚も広げられている。菜園からの帰りに呼び出された晴矢は、まだ袖に土の匂いをまとっていた。
「俺が? 警備の話を?」
「うん。収穫計画とか、保存食の仕込みとか。『見えないけれど大事なこと』を紙にしてきたのは、晴矢さんが一番得意だから」
みうは、横で静かに湯を注ぐ。
「そして敏貴さんは、『数字にならない仕事』をどうやって帳簿に書き足すかを知ってる人です」
「買いかぶりすぎだよ」
敏貴は苦笑したが、紙と筆を手に取った。
「それで、愛祈は何に困っているのかな」
「困っているというほどでは」
「名前を呼ばれたいんです」
みうが即座に言う。
「おい」
「だって、そうなんですよね?」
真正面から言われて、愛祈は返事を詰まらせた。晴矢が、苦笑いを浮かべる。
「上官に?」
「……まあな」
観念したように愛祈はうなずいた。
「俺が考えた巡回経路の変更や、布や傘の配置の工夫が、結果としてうまくいっているのはわかっている。だが、点呼のたびに名前が挙がるのは、いつも別のやつだ」
「なるほど」
敏貴は、すらりと一行目に文字を書き始めた。
『陽苑担当警備隊 愛祈の工夫』
「ちょっと待て。そんな題を付けるな」
「わかりやすさは大事だからね」
淡々とした口調で言いながら、敏貴は愛祈を見た。
「具体的に、どんな工夫をしているか教えてくれる?」
「具体的に、か」
愛祈は腕を組み、陽苑の廊下を頭の中に描いた。
「まず、陽苑の前の回廊を通る荷車の時間を、朝と夕方でずらしている。洗濯物と菜園からの荷車が同じ時間に集中すると、狭い廊下で必ず誰かがぶつかるからだ」
「洗濯場の時間は、最初に聞きに来ましたよね」
奈津海の声が、入口から飛んできた。いつの間にか、桶を抱えたまま立ち聞きしていたらしい。
「それから、試食会の時には、万が一皿が割れたときのために、廊下の角ごとに布を一枚ずつ用意していた」
「そんなことまで」
みうが目を丸くした。
「長く警備をしていると、滑った音や、割れた音と一緒に、悲鳴もセットで思い出される。だから、音のほうだけで済ませたいと思ってな」
自嘲気味に言うと、敏貴がさらさらと筆を走らせる。
『・荷車の通行時間を部署ごとに分け、衝突を未然に防ぐ。
・行事の際、廊下の角ごとに布を事前配置し、転倒や破片による怪我を防ぐ』
「他には?」
「夜の見回りのとき、灯りの油が減っている場所を記録している。暗くなりやすい場所を地図に印をつけて、詰所に戻ったあとで灯台係に渡す」
「それで、最近、陽苑の廊下で足元を踏み外す人が減ったんですね」
奈津海が、納得したように頷いた。
「洗濯物を運ぶとき、暗がりで足元が見えないのが一番怖かったから」
「なるほど」
敏貴は、その行も紙に書き加えた。
『・夜間巡回時に灯りの減り具合を記録し、暗所を事前に補強』
「全部、『何も起きなかった』という形でしか残らない仕事ですね」
晴矢が、紙を覗き込む。
「菜園の土の入れ替えと似ている」
「土の?」
「はい。土を入れ替えても、その日は何も起こりません。でも、半年後、一年後に『同じ畝で病気が出なかった』という形で結果が出る」
晴矢は、少しだけ笑った。
「その頃には、『去年、いつ土を替えたっけ』なんて忘れられていることも多いですけど」
「悲しい例えをさらっと出すな」
愛祈は頭を掻いた。
「で、その『何も起きなかった』を、どうやって上官に見せるつもりだ?」
「それは、僕の仕事だね」
敏貴が、別の紙を取り出した。
「たとえば――ここ一年の陽苑の事故記録を見せよう」
「事故記録なんてあるのか」
「王宮中の分があるよ。滑って転んだとか、器を割ったとか。幸い大きな怪我はほとんどないけれど、報告だけはきちんと上がっている」
敏貴は眼鏡を押し上げ、事務室から持ってきた小さな帳面を開いた。
「陽苑担当の警備が愛祈になってから、陽苑の事故件数は確かに減っている。特に『廊下での衝突』と『足元の暗さによる転倒』は、ほとんど報告がなくなった」
「本当か?」
「数字は嘘をつかないよ」
敏貴は、静かに笑った。
「だから、この二枚を合わせて、『警備改善案』として出そう」
「改善案?」
「そう。事故件数の推移と、愛祈がしてきた工夫を並べて、『他の部署でも応用できる方法』としてまとめる。王宮全体の安全を高める案として出せば、上官も興味を持つはずだ」
みうが、目を輝かせた。
「それ、とてもいいです」
「でも、俺の名前を前面に出す必要は――」
「必要があります」
奈津海が食い気味に言った。
「誰がどこで何を工夫したのかがわからなければ、真似のしようがないもの」
彼女は桶を床に置き、紙を指差した。
「洗濯場だって、『誰か』が適当に洗剤を減らしていたら大惨事になるわ。誰が、何を見て、どう判断したかまで書いて初めて役に立つ」
「……説得力のある物言いだな」
愛祈は、苦笑いを浮かべた。
「わかった。名前を使うことは、任せる」
「じゃあ、まとめておこう」
敏貴は、「警備改善案」という表題をさらりと書き上げた。
『王宮内安全向上のための提案―陽苑担当警備隊員・愛祈による巡回方法の工夫』
「……やっぱり目立つな」
「目立たせるためだからね」
晴矢が笑い、湯呑を口に運んだ。
◇
数日後。
王宮の会議室の一つで、定例の「安全確認会」が開かれていた。各部署から代表が集まり、事故報告と改善策を共有する場だ。
長机を囲んで座るのは、警備隊の上官たち、医務室の代表、各台所の責任者。そして、陽苑からは景衣と敏貴が出席していた。
「次に、後宮の陽苑からの提案があります」
書記官がそう告げると、視線が一斉に二人に向く。
「陽苑の事務を担当している敏貴です」
敏貴は立ち上がり、用意してきた紙束を配っていった。
「ここ一年の事故記録を部署ごとに並べました。ご覧の通り、陽苑では『廊下での衝突』と『暗がりでの転倒』が目に見えて減っています」
「確かに……」
警備隊の上官が眉を上げる。
「だが、陽苑はもともと人通りが比較的少ない場所では?」
「いえ。王妃さまの側近だけでなく、菜園や洗濯場、事務室からの人の出入りも多く、決して静かな場所ではありません」
敏貴は、二枚目の紙を掲げた。
「その変化には、陽苑担当の警備隊員・愛祈による巡回方法の工夫が大きく関わっています」
「愛祈……?」
澤巳が、手元の資料に目を落とした。そこには、先日四人でまとめた具体的な工夫が箇条書きになっている。
「荷車の通行時間の調整。暗所の記録と灯りの配置。行事時の布の事前配置。どれも小さな工夫ですが、積み重なると事故件数に目に見える変化が現れます」
敏貴の声は淡々としていたが、その一語一語が紙の上の数字と響き合う。
「この方法は、陽苑だけでなく、他の部署にも応用できます。特に、行事の多い王妃さまの周辺や、荷車の出入りが激しい台所周辺では有効です」
会議室に沈黙が落ちる。数字と具体策が、静かに机の上で混ざり合っていくようだった。
「……なるほど」
やがて、澤巳が口を開いた。
「愛祈という隊員は、今も陽苑を担当しているのか」
「はい」
景衣が、まっすぐに答える。
「后妃さまの移動経路の安全確保にも、日々力を尽くしてくれています」
「そうか」
澤巳は、短くうなずいた。
「では、この改善案を王宮全体で試してみよう。各部署の担当者は、自分の持ち場に合う形に調整して実行してくれ」
会議室の空気が、少しだけ動いた。
◇
その日の夕方。
陽苑の門の前で、愛祈はいつものように見回りをしていた。廊下の角を曲がる荷車の車輪の音、洗濯物を干す布の揺れる音。どれも、聞き慣れた一日の音だ。
「愛祈」
背後から名前を呼ばれ、思わず姿勢を正す。振り向くと、そこには澤巳が立っていた。
「上官殿」
「少し、時間は取れるか」
「はい」
澤巳は、陽苑の門の側に寄り、廊下の壁に背を預けた。
「今日の安全確認会で、お前の名前を久しぶりに見た」
「……そうですか」
「陽苑の事故件数が減っていることは知っていたが、その裏にこれだけの工夫があるとは思わなかった」
澤巳は、手にしていた紙を軽く振った。会議室で配られた「警備改善案」の写しだった。
「よく考えたな、愛祈」
一拍置いてから、その名をはっきりと呼んだ。
「あれは、俺だけの手柄ではありません」
とっさにそう返した自分に、愛祈は内心で苦笑する。
「陽苑の者たちが、自分の仕事を見える形にしてくれたおかげです。俺は、ただそこに書いてある通りに動いただけで」
「それを言うなら、俺たちの仕事も同じだ」
澤巳は、わずかに口元を緩めた。
「隊員たちが毎日巡回してくれるからこそ、俺は名簿に印をつけていられる。……もっと早く気づくべきだったな」
静かな言葉だったが、その一つ一つが胸に染み込んだ。
「これから、王宮全体でお前の案が試される。もちろん、全部がうまくいくとは限らん」
「はい」
「だが、失敗が出たら出たで、次の工夫を考えればいい。お前には、その頭がある」
愛祈は、思わず目を瞬いた。
「……俺は、ただ、最悪を避けたいだけです」
「それで十分だ」
澤巳は、廊下の向こうを見やった。
「何も起きなかった一日を積み重ねるには、『最悪』を具体的に想像できるやつが必要だ。陽苑には、そういう者が揃っているらしい」
「揃って、ですか」
「ああ。洗濯場にも菜園にも、事務室にもな」
言われて、愛祈は思わず笑った。
「……確かに」
「これからも頼むぞ、愛祈」
名前をもう一度呼ばれ、胸の奥が熱くなる。うまく言葉にできない感情が喉の奥まで込み上げてきた。
「了解しました」
それだけを、できるだけ平静な声で返す。
澤巳が去ったあと、陽苑の門の前にひとり残った愛祈は、深く息を吐いた。
(評価されたいなんて、柄にもないと思っていたが)
心の中で、誰にも聞こえない声でつぶやく。
(名前を呼ばれるのは、やっぱり悪くない)
その夜、詰所の片隅で、愛祈は誰にも見られないように帳面を開いた。「ありがとうの練習帳」。みうに「警備用にも一冊」と半ば強引に渡されたものだ。
「……しょうがないな」
そう言いながら、筆を取る。
『きょう、俺の名前を呼んでくれた上官へ。
陽苑での工夫を笑わずに拾ってくれて、ありがとう』
短い一行を書き終え、帳面を閉じたとき、胸の中のざわつきが少しだけ静かになった。
陽苑の廊下では、夜の見回りの足音が規則正しく響き始めている。その一歩一歩が、「何も起きなかった一日」を、また一つ積み重ねていくのだった。
警備隊の朝点呼。灰色の制服に身を包んだ隊員たちが、一列に並んでいる。前には上官の澤巳が立ち、名簿を片手に冷静な目を巡らせていた。
「第一班、巡回経路変更の件。昨日から、北側回廊の角で人の渋滞が減っている。よくやった」
呼ばれた隊員たちが一歩前に出る。澤巳は、名を確かめるように名簿を見た。
「……宗太、良い判断だった」
「はっ!」
短い答えとともに、宗太の背筋が伸びる。隊の端っこに立っていた愛祈は、その様子を横目で見ていた。
(あの角の死角をどうにかしようって言い出したの、俺なんだけどな)
心の中でだけ小さく嘆息する。昨夜、廊下の人の流れを見ながら、壁に寄りかかっていたのは自分だ。
『角のところで、お盆を持った女官がぶつかりそうになってたぞ。巡回のときに、もう少し手前で声を掛けたほうがいい』
『でも、上官に言わないと経路は変えられないよ』
『じゃあ、こういう紙を作ろう。どこでよくぶつかりそうになっているか、印をつけてさ』
そう言って紙に図を描いたのも、自分と宗太だった。宗太の筆は少し震えていたが、「こういうの、苦手で」と照れくさそうに笑っていたのを覚えている。
なのに、朝の点呼で名前を呼ばれたのは宗太だけ。
「それから……昨日の王妃付きの移動の際、予定より早く雨が降り出したが、傘と簡易の布をすぐに用意できていた。よく気が回っていた」
澤巳の目が、列の中央辺りに向く。
「……ええと、そこの――」
視線が、愛祈の隣で立っている若い隊員に止まった。
「綾人だったな。よくやった」
「はっ!」
(それも、俺が事前に布を詰所の近くに移しておこうって言ったからなんだけどな)
愛祈は、もう一度心の中でだけため息をついた。
名前を呼んでほしいわけじゃない。任務がきちんと回っているなら、それでいい――はずなのに。
(……いや、やっぱり少しは呼んでほしい)
正直な気持ちが、胸の奥から顔を出す。
点呼が終わり、隊員たちがそれぞれの持ち場に散っていく。回廊に残ったのは、朝日と石畳の冷たさだけだった。
「おい、愛祈!」
背後から声がして振り向くと、宗太と綾人が駆け寄ってきた。
「さっきの、ありがとな! おかげで上官に褒められちまった」
「俺もだ。傘と布の件、あんたが前日に動線確認してなかったら間に合わなかったよ」
二人は、本当に嬉しそうに笑っている。その笑顔を見ると、「いや俺が先に考えたから」なんて台詞は、喉の奥で溶けてしまう。
「別に。仕事がうまく回ったなら、それでいい」
愛祈は軽く肩をすくめた。
「……でも、たまには名前で呼ばれたいとは思うけどな」
「え?」
「なんでもない。持ち場に着け。遅れるぞ」
宗太と綾人を追い立てるように手を振り、愛祈は陽苑へ続く廊下へ足を向けた。
◇
陽苑の門の前は、いつも通りの朝だった。
洗濯場からは、水の音と布を絞る音が聞こえてくる。厨房からは、出汁の湯気と野菜を刻む音。配膳室の戸口では、みうが今日の献立表を抱えて慌ただしく歩いていた。
「おはようございます、愛祈さん」
「おはよう」
何気ない挨拶を交わしただけで、胸の皺が少しだけ伸びていく気がする。
「どうかしました? いつもより眉間の線が深いような」
みうが首をかしげたので、愛祈は思わず眉間を指で押さえた。
「そんなにわかるか?」
「はい。『何かいらないことを考えている』って顔してます」
「いらないこと、かどうかはわからんが……」
愛祈は、少しだけ言葉を探した末に口を開いた。
「仕事ってのは、うまくいっているときほど誰にも気づかれないものだなと思ってな」
「それは、警備の話ですか?」
「そうだ」
廊下の角を見やりながら、愛祈は小さく笑った。
「何事も起こらなければ、『いつも通り』で済まされる。だが、何事も起きないように頭を使っているやつがいることは、なかなか数字にならん」
みうは少し考え込んでから、ぽんと手を打った。
「じゃあ、数字にしてみませんか」
「……は?」
「愛祈さんが、いつもどんな工夫をしているのか。『事が起きなかった』結果を、その前にあった行動として並べてみるんです」
「そんなもの、どうやって」
「それなら、晴矢さんと敏貴さんを巻き込むのが一番です」
みうは、いたずらっぽく微笑んだ。
「菜園と事務室の二人なら、『見えない働き』を形にする方法を知ってますから」
◇
その日の夕方、陽苑の小さな会議用の卓を囲んで、四人が向かい合っていた。
卓の上には、白紙の紙が何枚も広げられている。菜園からの帰りに呼び出された晴矢は、まだ袖に土の匂いをまとっていた。
「俺が? 警備の話を?」
「うん。収穫計画とか、保存食の仕込みとか。『見えないけれど大事なこと』を紙にしてきたのは、晴矢さんが一番得意だから」
みうは、横で静かに湯を注ぐ。
「そして敏貴さんは、『数字にならない仕事』をどうやって帳簿に書き足すかを知ってる人です」
「買いかぶりすぎだよ」
敏貴は苦笑したが、紙と筆を手に取った。
「それで、愛祈は何に困っているのかな」
「困っているというほどでは」
「名前を呼ばれたいんです」
みうが即座に言う。
「おい」
「だって、そうなんですよね?」
真正面から言われて、愛祈は返事を詰まらせた。晴矢が、苦笑いを浮かべる。
「上官に?」
「……まあな」
観念したように愛祈はうなずいた。
「俺が考えた巡回経路の変更や、布や傘の配置の工夫が、結果としてうまくいっているのはわかっている。だが、点呼のたびに名前が挙がるのは、いつも別のやつだ」
「なるほど」
敏貴は、すらりと一行目に文字を書き始めた。
『陽苑担当警備隊 愛祈の工夫』
「ちょっと待て。そんな題を付けるな」
「わかりやすさは大事だからね」
淡々とした口調で言いながら、敏貴は愛祈を見た。
「具体的に、どんな工夫をしているか教えてくれる?」
「具体的に、か」
愛祈は腕を組み、陽苑の廊下を頭の中に描いた。
「まず、陽苑の前の回廊を通る荷車の時間を、朝と夕方でずらしている。洗濯物と菜園からの荷車が同じ時間に集中すると、狭い廊下で必ず誰かがぶつかるからだ」
「洗濯場の時間は、最初に聞きに来ましたよね」
奈津海の声が、入口から飛んできた。いつの間にか、桶を抱えたまま立ち聞きしていたらしい。
「それから、試食会の時には、万が一皿が割れたときのために、廊下の角ごとに布を一枚ずつ用意していた」
「そんなことまで」
みうが目を丸くした。
「長く警備をしていると、滑った音や、割れた音と一緒に、悲鳴もセットで思い出される。だから、音のほうだけで済ませたいと思ってな」
自嘲気味に言うと、敏貴がさらさらと筆を走らせる。
『・荷車の通行時間を部署ごとに分け、衝突を未然に防ぐ。
・行事の際、廊下の角ごとに布を事前配置し、転倒や破片による怪我を防ぐ』
「他には?」
「夜の見回りのとき、灯りの油が減っている場所を記録している。暗くなりやすい場所を地図に印をつけて、詰所に戻ったあとで灯台係に渡す」
「それで、最近、陽苑の廊下で足元を踏み外す人が減ったんですね」
奈津海が、納得したように頷いた。
「洗濯物を運ぶとき、暗がりで足元が見えないのが一番怖かったから」
「なるほど」
敏貴は、その行も紙に書き加えた。
『・夜間巡回時に灯りの減り具合を記録し、暗所を事前に補強』
「全部、『何も起きなかった』という形でしか残らない仕事ですね」
晴矢が、紙を覗き込む。
「菜園の土の入れ替えと似ている」
「土の?」
「はい。土を入れ替えても、その日は何も起こりません。でも、半年後、一年後に『同じ畝で病気が出なかった』という形で結果が出る」
晴矢は、少しだけ笑った。
「その頃には、『去年、いつ土を替えたっけ』なんて忘れられていることも多いですけど」
「悲しい例えをさらっと出すな」
愛祈は頭を掻いた。
「で、その『何も起きなかった』を、どうやって上官に見せるつもりだ?」
「それは、僕の仕事だね」
敏貴が、別の紙を取り出した。
「たとえば――ここ一年の陽苑の事故記録を見せよう」
「事故記録なんてあるのか」
「王宮中の分があるよ。滑って転んだとか、器を割ったとか。幸い大きな怪我はほとんどないけれど、報告だけはきちんと上がっている」
敏貴は眼鏡を押し上げ、事務室から持ってきた小さな帳面を開いた。
「陽苑担当の警備が愛祈になってから、陽苑の事故件数は確かに減っている。特に『廊下での衝突』と『足元の暗さによる転倒』は、ほとんど報告がなくなった」
「本当か?」
「数字は嘘をつかないよ」
敏貴は、静かに笑った。
「だから、この二枚を合わせて、『警備改善案』として出そう」
「改善案?」
「そう。事故件数の推移と、愛祈がしてきた工夫を並べて、『他の部署でも応用できる方法』としてまとめる。王宮全体の安全を高める案として出せば、上官も興味を持つはずだ」
みうが、目を輝かせた。
「それ、とてもいいです」
「でも、俺の名前を前面に出す必要は――」
「必要があります」
奈津海が食い気味に言った。
「誰がどこで何を工夫したのかがわからなければ、真似のしようがないもの」
彼女は桶を床に置き、紙を指差した。
「洗濯場だって、『誰か』が適当に洗剤を減らしていたら大惨事になるわ。誰が、何を見て、どう判断したかまで書いて初めて役に立つ」
「……説得力のある物言いだな」
愛祈は、苦笑いを浮かべた。
「わかった。名前を使うことは、任せる」
「じゃあ、まとめておこう」
敏貴は、「警備改善案」という表題をさらりと書き上げた。
『王宮内安全向上のための提案―陽苑担当警備隊員・愛祈による巡回方法の工夫』
「……やっぱり目立つな」
「目立たせるためだからね」
晴矢が笑い、湯呑を口に運んだ。
◇
数日後。
王宮の会議室の一つで、定例の「安全確認会」が開かれていた。各部署から代表が集まり、事故報告と改善策を共有する場だ。
長机を囲んで座るのは、警備隊の上官たち、医務室の代表、各台所の責任者。そして、陽苑からは景衣と敏貴が出席していた。
「次に、後宮の陽苑からの提案があります」
書記官がそう告げると、視線が一斉に二人に向く。
「陽苑の事務を担当している敏貴です」
敏貴は立ち上がり、用意してきた紙束を配っていった。
「ここ一年の事故記録を部署ごとに並べました。ご覧の通り、陽苑では『廊下での衝突』と『暗がりでの転倒』が目に見えて減っています」
「確かに……」
警備隊の上官が眉を上げる。
「だが、陽苑はもともと人通りが比較的少ない場所では?」
「いえ。王妃さまの側近だけでなく、菜園や洗濯場、事務室からの人の出入りも多く、決して静かな場所ではありません」
敏貴は、二枚目の紙を掲げた。
「その変化には、陽苑担当の警備隊員・愛祈による巡回方法の工夫が大きく関わっています」
「愛祈……?」
澤巳が、手元の資料に目を落とした。そこには、先日四人でまとめた具体的な工夫が箇条書きになっている。
「荷車の通行時間の調整。暗所の記録と灯りの配置。行事時の布の事前配置。どれも小さな工夫ですが、積み重なると事故件数に目に見える変化が現れます」
敏貴の声は淡々としていたが、その一語一語が紙の上の数字と響き合う。
「この方法は、陽苑だけでなく、他の部署にも応用できます。特に、行事の多い王妃さまの周辺や、荷車の出入りが激しい台所周辺では有効です」
会議室に沈黙が落ちる。数字と具体策が、静かに机の上で混ざり合っていくようだった。
「……なるほど」
やがて、澤巳が口を開いた。
「愛祈という隊員は、今も陽苑を担当しているのか」
「はい」
景衣が、まっすぐに答える。
「后妃さまの移動経路の安全確保にも、日々力を尽くしてくれています」
「そうか」
澤巳は、短くうなずいた。
「では、この改善案を王宮全体で試してみよう。各部署の担当者は、自分の持ち場に合う形に調整して実行してくれ」
会議室の空気が、少しだけ動いた。
◇
その日の夕方。
陽苑の門の前で、愛祈はいつものように見回りをしていた。廊下の角を曲がる荷車の車輪の音、洗濯物を干す布の揺れる音。どれも、聞き慣れた一日の音だ。
「愛祈」
背後から名前を呼ばれ、思わず姿勢を正す。振り向くと、そこには澤巳が立っていた。
「上官殿」
「少し、時間は取れるか」
「はい」
澤巳は、陽苑の門の側に寄り、廊下の壁に背を預けた。
「今日の安全確認会で、お前の名前を久しぶりに見た」
「……そうですか」
「陽苑の事故件数が減っていることは知っていたが、その裏にこれだけの工夫があるとは思わなかった」
澤巳は、手にしていた紙を軽く振った。会議室で配られた「警備改善案」の写しだった。
「よく考えたな、愛祈」
一拍置いてから、その名をはっきりと呼んだ。
「あれは、俺だけの手柄ではありません」
とっさにそう返した自分に、愛祈は内心で苦笑する。
「陽苑の者たちが、自分の仕事を見える形にしてくれたおかげです。俺は、ただそこに書いてある通りに動いただけで」
「それを言うなら、俺たちの仕事も同じだ」
澤巳は、わずかに口元を緩めた。
「隊員たちが毎日巡回してくれるからこそ、俺は名簿に印をつけていられる。……もっと早く気づくべきだったな」
静かな言葉だったが、その一つ一つが胸に染み込んだ。
「これから、王宮全体でお前の案が試される。もちろん、全部がうまくいくとは限らん」
「はい」
「だが、失敗が出たら出たで、次の工夫を考えればいい。お前には、その頭がある」
愛祈は、思わず目を瞬いた。
「……俺は、ただ、最悪を避けたいだけです」
「それで十分だ」
澤巳は、廊下の向こうを見やった。
「何も起きなかった一日を積み重ねるには、『最悪』を具体的に想像できるやつが必要だ。陽苑には、そういう者が揃っているらしい」
「揃って、ですか」
「ああ。洗濯場にも菜園にも、事務室にもな」
言われて、愛祈は思わず笑った。
「……確かに」
「これからも頼むぞ、愛祈」
名前をもう一度呼ばれ、胸の奥が熱くなる。うまく言葉にできない感情が喉の奥まで込み上げてきた。
「了解しました」
それだけを、できるだけ平静な声で返す。
澤巳が去ったあと、陽苑の門の前にひとり残った愛祈は、深く息を吐いた。
(評価されたいなんて、柄にもないと思っていたが)
心の中で、誰にも聞こえない声でつぶやく。
(名前を呼ばれるのは、やっぱり悪くない)
その夜、詰所の片隅で、愛祈は誰にも見られないように帳面を開いた。「ありがとうの練習帳」。みうに「警備用にも一冊」と半ば強引に渡されたものだ。
「……しょうがないな」
そう言いながら、筆を取る。
『きょう、俺の名前を呼んでくれた上官へ。
陽苑での工夫を笑わずに拾ってくれて、ありがとう』
短い一行を書き終え、帳面を閉じたとき、胸の中のざわつきが少しだけ静かになった。
陽苑の廊下では、夜の見回りの足音が規則正しく響き始めている。その一歩一歩が、「何も起きなかった一日」を、また一つ積み重ねていくのだった。
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