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第14話 雨の日の厨房大騒ぎ
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その朝、陽苑の屋根は、太鼓のように鳴っていた。
部屋の天井に落ちる雨音が、いつものしとしとどころか、どんどんずんずんと響いている。廊下を走る足音も、水を吸った靴底の重さで鈍くなっていた。
「……これは、ひどい」
配膳室に向かう途中で外の回廊を覗き込んだみうは、思わず息をのんだ。
中庭の石畳はすっかり見えなくなり、浅い川のように水が流れている。菜園へ続く小道も、雨の幕の向こうにぼんやりとかすんでいた。遠くで、雷の腹の底から響くような音がする。
「おいおい、こんな日に限って」
背後から聞こえた声は、警備の愛祈のものだった。肩から濡れた布を下げ、髪からぽたぽたと水を落としている。
「菜園の様子は?」
「さっき晴矢が見回りに出た。畝が流れないように土を押さえている」
「押さえるって……土を?」
「そう言って出て行ったからな。本人は真剣だ」
愛祈は肩をすくめた。
「それより、外からの荷車がほとんど門をくぐれていない。王都の市場と陽苑を結ぶ道が、ところどころ冠水しているらしい」
「ということは」
みうの顔から血の気が引く。
「きょうの食材が届かないかもしれないってことですよね」
「その可能性は高い」
愛祈は、真剣な顔でうなずいた。
「とりあえず、門のところに布と板を追加で運んでおく。荷車が来たら知らせる」
「お願いします」
みうは頭を下げ、配膳室へと駆け込んだ。
◇
厨房では、既に小さな騒ぎが起きていた。
「塩漬けの桶、こっちに寄せな! 床の水がここまで来てるよ!」
「はい!」
お咲の声が、鍋の湯気をかきわけて飛び交う。床に広がる薄い水たまりの上を、若い料理番たちが慣れない足取りで行き交っていた。
屋根そのものはしっかりしているが、こう雨脚が強いと、どうしても壁際の隙間からしみ込んでくる場所が出てくる。桶を動かし、布を敷き、火のそばだけは死守する――それだけで、普段よりも何倍も手がかかる。
「おはようございます!」
みうが戸を開けると、お咲が振り返った。
「おや、みう。あんたの顔を見ると、ちょっと安心するねえ」
「外の荷車が、道で足止めを食らっているそうです」
「だろうねえ」
お咲は、大きな鍋の蓋を少し持ち上げた。中からは、昨夜から煮込んでいる骨のだしの香りが立ち昇る。
「きょうは王妃さまも后妃さまもお揃いで、少し豪華な昼餐を、って話だったんだけどね。魚も肉も、間に合わないだろうさ」
「献立、どうしますか」
「変えるしかないだろうねえ」
お咲は、鍋の湯気の向こうをじっと見つめた。
「ただでさえ雨で冷えてるんだ。できるだけ身体の中から温まるものにしてやりたい」
そこへ、ずぶ濡れの晴矢が飛び込んできた。
「ただいま戻りました!」
「おやまあ、全身で雨を連れてきちゃって」
お咲が苦笑しながら布を投げる。晴矢は頭からそれをかぶり、乱暴に水気を拭いた。
「畝はどうだった?」
「端のほうは少し流されかけてましたけど、板で土を押さえておきました。根の深い野菜たちは、必死に踏ん張ってましたよ」
「そうかいそうかい。あんたも野菜も、よく踏ん張ったねえ」
お咲は、晴矢の手から濡れた籠を受け取った。中には、雨の合間を縫って採ってきた葉物や根菜がいくつか入っている。
「で、外からの荷車はどうだい」
「門のところで足止めを食らっているようです。今のところ、菜園と倉から出せるもので凌ぐしか」
「だろうと思った」
お咲は、にやりと笑った。
「こういうときのための倉だよ。晴矢、塩漬けと干し物の棚、開けておいで」
「了解です」
晴矢が奥の戸棚に走る。みうは、その背中を見送りながら小さく息を吐いた。
「あの……洗濯場にも掃除にも、雨の日はやることが増えます。女官たちが倒れたりしないように、何かできることは」
言いかけたところで、厨房の戸が勢いよく開いた。
「『何かできること』って言う前に、最悪の予想をしてもいいかしら」
ずぶ濡れの奈津海が、桶を抱えて立っていた。髪から滴る水が、床に小さな円を描いている。
「洗濯場の方は?」
「干し場はほとんど使えないから、室内に張れるだけ張ったわ。水も冷たいし、重い布を運んでいる子たちはもう腕が震えてる」
奈津海は、濡れた袖を絞りながら言った。
「こんな日に限って誰かが滑って転ぶし、誰かが手を離した桶がひっくり返るし、誰かが寒さで寝込むのよ、きっと」
「やめてくださいよ、奈津海さん。聞いてるだけで足がつりそうです」
みうは、苦笑いを浮かべた。
「でも、わかります。雨の日の仕事って、どうしてもいつも以上に重くて」
「重いからこそ、嫌な想像が先に来るのよ」
奈津海は、眉間にしわを寄せた。
「王妃さまの衣が乾かなかったらどうしよう、とか。女官たちが風邪をひいて人手が足りなくなったらどうしよう、とか」
みうは、しばらく黙って奈津海の顔を見ていた。雨に濡れて冷えきった頬。目の奥には、いつも通り最悪の想像が渦巻いている。
そして、ふっと笑った。
「じゃあ、倒れないようにしましょう」
「……は?」
「『きっと誰かが倒れる』って決めてしまう前に、『どうしたら倒れないで済むか』を考えませんか」
みうは、まっすぐに言った。
「身体が冷えるから倒れるなら、温めるものを運びます。足元が滑るから転ぶなら、滑りにくいところから順番に動きます」
奈津海は、ぽかんとみうを見つめた。
「そんな簡単に言うけど」
「簡単に言って、難しく動けばいいんです」
「意味がわからないわ」
「わたしもです」
そこへ、お咲が二人の会話に割って入った。
「簡単に言って難しく作るのは、料理も同じさね」
お咲は、倉から運ばれてきた籠の蓋を開けた。
「ほら、見てごらん。晴矢がこつこつ仕込んできた干し野菜と豆と塩漬けの山だよ」
籠の中には、乾いた大根、干したきのこ、乾燥豆、塩漬けの肉がぎっしり詰まっていた。普段は少しずつ使われているものたちだ。
「これだけあれば、魚や肉が届かなくても、立派な大鍋が一つはできる」
お咲は、目を細めた。
「雨で冷え切った身体を中から温めるには、こういう『時間の味』が一番効くのさ」
「時間の味?」
みうが首をかしげると、晴矢が頷いた。
「太陽に当てて干した野菜と、塩と一緒に寝かせた肉と。全部、昨日今日ではできないものですから」
「これだけのものを揃えるには、水も火も手間も要る。奈津海たちが洗濯場で布を守ってくれているからこそ、倉の中身も守れているんだ」
お咲は、奈津海をじっと見た。
「だからね。きょう倒れられちゃ困るんだよ。あんたの仕事は、あんたが思ってる以上に、みんなの鍋に繋がってる」
奈津海は、一瞬言葉を失った。
「……そんな言い方、ずるいわ」
「ずるいくらいがちょうどいいのさ」
お咲は笑い、鍋に干し野菜を放り込んだ。
「みう」
「はい」
「あんたは配膳室と洗濯場を回って、『昼に温かいものを持って行くから、それまで倒れないように』って言っておいで」
「倒れないように、ですね」
「そう。あと、『倒れそうになったら椅子を持っていく』って付け加えてもいい」
「了解しました」
みうは、思わず笑ってしまった。
「奈津海さん」
「なに」
「わたし、配膳の途中で洗濯場にも寄りますから。そのとき、きょう一番冷えていそうな子を教えてください」
「なんで」
「一番先に、その子のところに椀を運びたいので」
奈津海は、少しだけ目を見開いた。
「……そんなことで、倒れずに済むのかしら」
「わかりません。でも、何もしないよりは、きっとましです」
しばらくの沈黙のあと、奈津海は小さくため息をついた。
「……わかったわ。きょう一番冷えていそうな子を探しておく」
「お願いします」
みうは、胸の奥がふわりと温かくなるのを感じた。
◇
昼前、雨脚は少しだけ弱まったものの、空はまだどんよりと重かった。
厨房には、大鍋が一つ、どっしりと据えられている。干し野菜と豆と塩漬けの肉から出た旨味が溶け合い、菜園の葉物が上からそっと覆いかぶさっている。湯気には、どこか懐かしい香りが混ざっていた。
「これは……」
みうが鍋の蓋を少し持ち上げて香りを吸い込み、思わず目を閉じた。
「宿屋の大鍋の匂いに似てます」
「そりゃあそうさ」
お咲は、満足そうに腕を組んだ。
「あんたの実家で覚えた味と、陽苑で覚えた味を、ここで一緒に煮込んだんだから」
晴矢は、鍋の中身を丁寧にかき混ぜながら言った。
「畝の端で踏ん張っていた野菜も、全部ここに入っています。雨に打たれた分だけ、きっと甘くなっているはずです」
「そんなこと、あるんですか」
「ありますよ」
晴矢は笑った。
「雨の日に収穫した青菜は、晴れの日とは違う顔を見せるんです。ちょっとだけ、我慢強い味がするんです」
「我慢強い味って、どんな味よ」
奈津海が口を挟む。
「一口目は静かだけど、飲み込んだあとでじんわり広がる味です」
晴矢の説明に、みうは笑いをこらえきれなかった。
「そんな言い方、料理番らしくて素敵です」
「ほめ言葉として受け取っておきます」
準備が整い、みうたちは盆に椀を並べていった。
「こぼすなよー。床が余計に滑るからねえ」
お咲の声に背中を押され、みうは盆を抱えて廊下に出た。
◇
洗濯場は、湿った布の匂いと湯気で満ちていた。
室内には臨時の紐が張り巡らされ、色とりどりの衣が隙間なく吊るされている。その下をくぐるようにして、女官たちが濡れた布を抱えて行き来していた。
「みう!」
奈津海が駆け寄ってくる。さっきよりは少しだけ顔色が良くなっている。
「一番冷えてそうな子、もう目星はついてる?」
「ええ。あそこ」
奈津海が顎で示した先には、小柄な女官が一人、黙々と布を絞っていた。腕は細く、指先は真っ赤になっている。
「朝からほとんど休んでないのよ。自分から『私がやります』って言って」
「では、まずはその人から」
みうは、小さな卓を借りて椀を置いた。
「お昼をお持ちしました。まずは一口だけでも、温かいものを」
「えっ、私からでいいんですか」
驚く女官に、みうは笑って答えた。
「はい。きょう一番冷えてそうだって、奈津海さんの目が言ってましたから」
「ちょっと、言い方」
奈津海が小声で抗議するが、女官は照れたように笑った。
「……いただきます」
一口、二口。ゆっくりと煮込みを口に運んだ女官の頬に、少しずつ色が戻っていく。
「なんだか、指先まで温かくなってきました」
「それは良かったです」
みうは、胸を撫で下ろした。
「順番に回るので、皆さんもできるだけ座って食べてくださいね。立ったままだと、足が余計に疲れますから」
奈津海が、女官たちに向かって声を張った。
「今だけは、私が『早く布を絞りなさい』って言わないから。食べ終わるまで座ってていいわよ」
「えっ、本当に?」
「夢じゃないわよ」
笑い声が、湿った空気の中で少しずつ広がっていく。
◇
同じ頃、陽苑の他の場所でも、大鍋の煮込みは静かに広がっていた。
菜園では、土の上に板を渡した簡易の腰掛けに、晴矢と数人の女官が並んで座っている。畝の向こうには、雨に耐えた葉物たちが揺れていた。
「雨の日の菜園で食べると、不思議と土の匂いもやさしく感じますね」
「そう言ってもらえると、畝たちが喜びます」
晴矢の冗談に、女官たちが笑った。
事務室では、帳簿の山に囲まれた敏貴が、湯気の立つ椀を前に一息ついていた。
「乾物と豆と葉物だけで、ここまで複雑な味になるとは」
「数字だけじゃわからないでしょう」
みうが笑うと、敏貴は眼鏡を押し上げた。
「そうだね。保存食の仕入れにかかった費用の欄に、『雨の日に陽苑をあたためた』と書き足したくなった」
「帳簿が一段と分厚くなりますよ」
「それも悪くない」
敏貴は、湯気越しに笑った。
◇
夕方、雨はようやく小降りになった。
陽苑の屋根を叩く音も静まり、廊下の水たまりも少しずつ引いていく。疲れた顔の中に、どこか満ち足りた表情が混ざっていた。
「結局、誰も倒れなかったわね」
洗濯場の片付けをしていた奈津海が、小さくつぶやいた。
「はい」
みうは、濡れた床を拭きながら頷いた。
「誰も桶をひっくり返さず、誰も滑って怪我をせず、誰も寝込まず。……最初に想像していた『最悪』は、ひとつも起きませんでした」
「それでも、途中まではずっと『やっぱり誰か倒れる』って思ってたのよ」
奈津海は、自分の胸に手を当てた。
「でも、鍋の匂いがしてきたときに、ふっと思ったの。『もし誰かが倒れそうになったら、その人のところに最初に椀が届けばいい』って」
「それはもう、『倒れる』じゃなくて『座らせる』想像ですね」
「……そうね」
奈津海は、少しだけ笑った。
「最悪の想像の中に、少しだけ別の道が混ざった感じ」
「それ、とても素敵です」
みうは、懐から小さな帳面を取り出した。「ありがとうの練習帳」。今日のページはまだ空白だ。
「奈津海さん。きょう、何か書きたいことはありますか」
「そうね……」
奈津海は、濡れた布を絞る手を止め、少しだけ考え込んだ。
「『雨の日の鍋を守るために、倉を守ってくれた人たちへ』」
ゆっくりと、言葉を紡ぐ。
「『洗濯場で布を張りながら、倒れずにいてくれてありがとう』」
「いいですね」
みうは、そのまま帳面に書き写した。
「わたしからは」
筆を握り直し、もう一行加える。
『雨で冷えた一日に、時間の味を集めた大鍋を作ってくれた人たちへ。湯気の向こうで、皆が笑えました。ありがとう』
書き終えたとき、窓の外に目をやると、雲の隙間から細い光が差し込んでいた。
雨の日の厨房大騒ぎは、こうして静かに幕を閉じた。けれど、大鍋の中に溶け込んだ時間の味と、湯気の中で交わった言葉たちは、きっと次の雨の日にも誰かの身体と心を温めるのだろう。
部屋の天井に落ちる雨音が、いつものしとしとどころか、どんどんずんずんと響いている。廊下を走る足音も、水を吸った靴底の重さで鈍くなっていた。
「……これは、ひどい」
配膳室に向かう途中で外の回廊を覗き込んだみうは、思わず息をのんだ。
中庭の石畳はすっかり見えなくなり、浅い川のように水が流れている。菜園へ続く小道も、雨の幕の向こうにぼんやりとかすんでいた。遠くで、雷の腹の底から響くような音がする。
「おいおい、こんな日に限って」
背後から聞こえた声は、警備の愛祈のものだった。肩から濡れた布を下げ、髪からぽたぽたと水を落としている。
「菜園の様子は?」
「さっき晴矢が見回りに出た。畝が流れないように土を押さえている」
「押さえるって……土を?」
「そう言って出て行ったからな。本人は真剣だ」
愛祈は肩をすくめた。
「それより、外からの荷車がほとんど門をくぐれていない。王都の市場と陽苑を結ぶ道が、ところどころ冠水しているらしい」
「ということは」
みうの顔から血の気が引く。
「きょうの食材が届かないかもしれないってことですよね」
「その可能性は高い」
愛祈は、真剣な顔でうなずいた。
「とりあえず、門のところに布と板を追加で運んでおく。荷車が来たら知らせる」
「お願いします」
みうは頭を下げ、配膳室へと駆け込んだ。
◇
厨房では、既に小さな騒ぎが起きていた。
「塩漬けの桶、こっちに寄せな! 床の水がここまで来てるよ!」
「はい!」
お咲の声が、鍋の湯気をかきわけて飛び交う。床に広がる薄い水たまりの上を、若い料理番たちが慣れない足取りで行き交っていた。
屋根そのものはしっかりしているが、こう雨脚が強いと、どうしても壁際の隙間からしみ込んでくる場所が出てくる。桶を動かし、布を敷き、火のそばだけは死守する――それだけで、普段よりも何倍も手がかかる。
「おはようございます!」
みうが戸を開けると、お咲が振り返った。
「おや、みう。あんたの顔を見ると、ちょっと安心するねえ」
「外の荷車が、道で足止めを食らっているそうです」
「だろうねえ」
お咲は、大きな鍋の蓋を少し持ち上げた。中からは、昨夜から煮込んでいる骨のだしの香りが立ち昇る。
「きょうは王妃さまも后妃さまもお揃いで、少し豪華な昼餐を、って話だったんだけどね。魚も肉も、間に合わないだろうさ」
「献立、どうしますか」
「変えるしかないだろうねえ」
お咲は、鍋の湯気の向こうをじっと見つめた。
「ただでさえ雨で冷えてるんだ。できるだけ身体の中から温まるものにしてやりたい」
そこへ、ずぶ濡れの晴矢が飛び込んできた。
「ただいま戻りました!」
「おやまあ、全身で雨を連れてきちゃって」
お咲が苦笑しながら布を投げる。晴矢は頭からそれをかぶり、乱暴に水気を拭いた。
「畝はどうだった?」
「端のほうは少し流されかけてましたけど、板で土を押さえておきました。根の深い野菜たちは、必死に踏ん張ってましたよ」
「そうかいそうかい。あんたも野菜も、よく踏ん張ったねえ」
お咲は、晴矢の手から濡れた籠を受け取った。中には、雨の合間を縫って採ってきた葉物や根菜がいくつか入っている。
「で、外からの荷車はどうだい」
「門のところで足止めを食らっているようです。今のところ、菜園と倉から出せるもので凌ぐしか」
「だろうと思った」
お咲は、にやりと笑った。
「こういうときのための倉だよ。晴矢、塩漬けと干し物の棚、開けておいで」
「了解です」
晴矢が奥の戸棚に走る。みうは、その背中を見送りながら小さく息を吐いた。
「あの……洗濯場にも掃除にも、雨の日はやることが増えます。女官たちが倒れたりしないように、何かできることは」
言いかけたところで、厨房の戸が勢いよく開いた。
「『何かできること』って言う前に、最悪の予想をしてもいいかしら」
ずぶ濡れの奈津海が、桶を抱えて立っていた。髪から滴る水が、床に小さな円を描いている。
「洗濯場の方は?」
「干し場はほとんど使えないから、室内に張れるだけ張ったわ。水も冷たいし、重い布を運んでいる子たちはもう腕が震えてる」
奈津海は、濡れた袖を絞りながら言った。
「こんな日に限って誰かが滑って転ぶし、誰かが手を離した桶がひっくり返るし、誰かが寒さで寝込むのよ、きっと」
「やめてくださいよ、奈津海さん。聞いてるだけで足がつりそうです」
みうは、苦笑いを浮かべた。
「でも、わかります。雨の日の仕事って、どうしてもいつも以上に重くて」
「重いからこそ、嫌な想像が先に来るのよ」
奈津海は、眉間にしわを寄せた。
「王妃さまの衣が乾かなかったらどうしよう、とか。女官たちが風邪をひいて人手が足りなくなったらどうしよう、とか」
みうは、しばらく黙って奈津海の顔を見ていた。雨に濡れて冷えきった頬。目の奥には、いつも通り最悪の想像が渦巻いている。
そして、ふっと笑った。
「じゃあ、倒れないようにしましょう」
「……は?」
「『きっと誰かが倒れる』って決めてしまう前に、『どうしたら倒れないで済むか』を考えませんか」
みうは、まっすぐに言った。
「身体が冷えるから倒れるなら、温めるものを運びます。足元が滑るから転ぶなら、滑りにくいところから順番に動きます」
奈津海は、ぽかんとみうを見つめた。
「そんな簡単に言うけど」
「簡単に言って、難しく動けばいいんです」
「意味がわからないわ」
「わたしもです」
そこへ、お咲が二人の会話に割って入った。
「簡単に言って難しく作るのは、料理も同じさね」
お咲は、倉から運ばれてきた籠の蓋を開けた。
「ほら、見てごらん。晴矢がこつこつ仕込んできた干し野菜と豆と塩漬けの山だよ」
籠の中には、乾いた大根、干したきのこ、乾燥豆、塩漬けの肉がぎっしり詰まっていた。普段は少しずつ使われているものたちだ。
「これだけあれば、魚や肉が届かなくても、立派な大鍋が一つはできる」
お咲は、目を細めた。
「雨で冷え切った身体を中から温めるには、こういう『時間の味』が一番効くのさ」
「時間の味?」
みうが首をかしげると、晴矢が頷いた。
「太陽に当てて干した野菜と、塩と一緒に寝かせた肉と。全部、昨日今日ではできないものですから」
「これだけのものを揃えるには、水も火も手間も要る。奈津海たちが洗濯場で布を守ってくれているからこそ、倉の中身も守れているんだ」
お咲は、奈津海をじっと見た。
「だからね。きょう倒れられちゃ困るんだよ。あんたの仕事は、あんたが思ってる以上に、みんなの鍋に繋がってる」
奈津海は、一瞬言葉を失った。
「……そんな言い方、ずるいわ」
「ずるいくらいがちょうどいいのさ」
お咲は笑い、鍋に干し野菜を放り込んだ。
「みう」
「はい」
「あんたは配膳室と洗濯場を回って、『昼に温かいものを持って行くから、それまで倒れないように』って言っておいで」
「倒れないように、ですね」
「そう。あと、『倒れそうになったら椅子を持っていく』って付け加えてもいい」
「了解しました」
みうは、思わず笑ってしまった。
「奈津海さん」
「なに」
「わたし、配膳の途中で洗濯場にも寄りますから。そのとき、きょう一番冷えていそうな子を教えてください」
「なんで」
「一番先に、その子のところに椀を運びたいので」
奈津海は、少しだけ目を見開いた。
「……そんなことで、倒れずに済むのかしら」
「わかりません。でも、何もしないよりは、きっとましです」
しばらくの沈黙のあと、奈津海は小さくため息をついた。
「……わかったわ。きょう一番冷えていそうな子を探しておく」
「お願いします」
みうは、胸の奥がふわりと温かくなるのを感じた。
◇
昼前、雨脚は少しだけ弱まったものの、空はまだどんよりと重かった。
厨房には、大鍋が一つ、どっしりと据えられている。干し野菜と豆と塩漬けの肉から出た旨味が溶け合い、菜園の葉物が上からそっと覆いかぶさっている。湯気には、どこか懐かしい香りが混ざっていた。
「これは……」
みうが鍋の蓋を少し持ち上げて香りを吸い込み、思わず目を閉じた。
「宿屋の大鍋の匂いに似てます」
「そりゃあそうさ」
お咲は、満足そうに腕を組んだ。
「あんたの実家で覚えた味と、陽苑で覚えた味を、ここで一緒に煮込んだんだから」
晴矢は、鍋の中身を丁寧にかき混ぜながら言った。
「畝の端で踏ん張っていた野菜も、全部ここに入っています。雨に打たれた分だけ、きっと甘くなっているはずです」
「そんなこと、あるんですか」
「ありますよ」
晴矢は笑った。
「雨の日に収穫した青菜は、晴れの日とは違う顔を見せるんです。ちょっとだけ、我慢強い味がするんです」
「我慢強い味って、どんな味よ」
奈津海が口を挟む。
「一口目は静かだけど、飲み込んだあとでじんわり広がる味です」
晴矢の説明に、みうは笑いをこらえきれなかった。
「そんな言い方、料理番らしくて素敵です」
「ほめ言葉として受け取っておきます」
準備が整い、みうたちは盆に椀を並べていった。
「こぼすなよー。床が余計に滑るからねえ」
お咲の声に背中を押され、みうは盆を抱えて廊下に出た。
◇
洗濯場は、湿った布の匂いと湯気で満ちていた。
室内には臨時の紐が張り巡らされ、色とりどりの衣が隙間なく吊るされている。その下をくぐるようにして、女官たちが濡れた布を抱えて行き来していた。
「みう!」
奈津海が駆け寄ってくる。さっきよりは少しだけ顔色が良くなっている。
「一番冷えてそうな子、もう目星はついてる?」
「ええ。あそこ」
奈津海が顎で示した先には、小柄な女官が一人、黙々と布を絞っていた。腕は細く、指先は真っ赤になっている。
「朝からほとんど休んでないのよ。自分から『私がやります』って言って」
「では、まずはその人から」
みうは、小さな卓を借りて椀を置いた。
「お昼をお持ちしました。まずは一口だけでも、温かいものを」
「えっ、私からでいいんですか」
驚く女官に、みうは笑って答えた。
「はい。きょう一番冷えてそうだって、奈津海さんの目が言ってましたから」
「ちょっと、言い方」
奈津海が小声で抗議するが、女官は照れたように笑った。
「……いただきます」
一口、二口。ゆっくりと煮込みを口に運んだ女官の頬に、少しずつ色が戻っていく。
「なんだか、指先まで温かくなってきました」
「それは良かったです」
みうは、胸を撫で下ろした。
「順番に回るので、皆さんもできるだけ座って食べてくださいね。立ったままだと、足が余計に疲れますから」
奈津海が、女官たちに向かって声を張った。
「今だけは、私が『早く布を絞りなさい』って言わないから。食べ終わるまで座ってていいわよ」
「えっ、本当に?」
「夢じゃないわよ」
笑い声が、湿った空気の中で少しずつ広がっていく。
◇
同じ頃、陽苑の他の場所でも、大鍋の煮込みは静かに広がっていた。
菜園では、土の上に板を渡した簡易の腰掛けに、晴矢と数人の女官が並んで座っている。畝の向こうには、雨に耐えた葉物たちが揺れていた。
「雨の日の菜園で食べると、不思議と土の匂いもやさしく感じますね」
「そう言ってもらえると、畝たちが喜びます」
晴矢の冗談に、女官たちが笑った。
事務室では、帳簿の山に囲まれた敏貴が、湯気の立つ椀を前に一息ついていた。
「乾物と豆と葉物だけで、ここまで複雑な味になるとは」
「数字だけじゃわからないでしょう」
みうが笑うと、敏貴は眼鏡を押し上げた。
「そうだね。保存食の仕入れにかかった費用の欄に、『雨の日に陽苑をあたためた』と書き足したくなった」
「帳簿が一段と分厚くなりますよ」
「それも悪くない」
敏貴は、湯気越しに笑った。
◇
夕方、雨はようやく小降りになった。
陽苑の屋根を叩く音も静まり、廊下の水たまりも少しずつ引いていく。疲れた顔の中に、どこか満ち足りた表情が混ざっていた。
「結局、誰も倒れなかったわね」
洗濯場の片付けをしていた奈津海が、小さくつぶやいた。
「はい」
みうは、濡れた床を拭きながら頷いた。
「誰も桶をひっくり返さず、誰も滑って怪我をせず、誰も寝込まず。……最初に想像していた『最悪』は、ひとつも起きませんでした」
「それでも、途中まではずっと『やっぱり誰か倒れる』って思ってたのよ」
奈津海は、自分の胸に手を当てた。
「でも、鍋の匂いがしてきたときに、ふっと思ったの。『もし誰かが倒れそうになったら、その人のところに最初に椀が届けばいい』って」
「それはもう、『倒れる』じゃなくて『座らせる』想像ですね」
「……そうね」
奈津海は、少しだけ笑った。
「最悪の想像の中に、少しだけ別の道が混ざった感じ」
「それ、とても素敵です」
みうは、懐から小さな帳面を取り出した。「ありがとうの練習帳」。今日のページはまだ空白だ。
「奈津海さん。きょう、何か書きたいことはありますか」
「そうね……」
奈津海は、濡れた布を絞る手を止め、少しだけ考え込んだ。
「『雨の日の鍋を守るために、倉を守ってくれた人たちへ』」
ゆっくりと、言葉を紡ぐ。
「『洗濯場で布を張りながら、倒れずにいてくれてありがとう』」
「いいですね」
みうは、そのまま帳面に書き写した。
「わたしからは」
筆を握り直し、もう一行加える。
『雨で冷えた一日に、時間の味を集めた大鍋を作ってくれた人たちへ。湯気の向こうで、皆が笑えました。ありがとう』
書き終えたとき、窓の外に目をやると、雲の隙間から細い光が差し込んでいた。
雨の日の厨房大騒ぎは、こうして静かに幕を閉じた。けれど、大鍋の中に溶け込んだ時間の味と、湯気の中で交わった言葉たちは、きっと次の雨の日にも誰かの身体と心を温めるのだろう。
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