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第17話 小さな客人たち
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「陽苑開放の日」の朝、菜園の土は、いつもより少しだけ柔らかく感じられた。
晴矢は、鍬を置いて手のひらで畝を押しながら、空を見上げた。雲ひとつない青さが、目にしみる。
「きょうは、いい顔でいてくれよ」
土に向かってそうつぶやくと、畝の向こうから声が飛んできた。
「誰に話しかけてるのよ、晴矢」
エプロンの紐をきゅっと結び直した奈津海が、腕を組んで立っていた。いつもより少しきちんとした衣を身につけているが、その肩には僅かに力が入っている。
「土と野菜に、です」
「まったく。人に話しかける前に畝と語り合うなんて、あんたくらいだわ」
呆れたように言いながらも、奈津海は畝に目を落とした。
「……でも、きょうは確かに、いつもと顔つきが違う気がするわね」
「緊張してるんじゃないですか。これからたくさん小さな足が来ますから」
「緊張してるのは私たちのほうでしょ」
奈津海は、深く息を吐いた。
「子どもたちなんて、きっとすぐに走り出すわよ。菜園の中を、あっちこっち」
頭の中で、畝と畝の間を駆け回って土を蹴散らす小さな足音が響く。つまずいて転んで、葉を踏みつけて、誰かが泣き出して――。
(また、悪い想像ばかり増えていく)
眉間にしわが寄りそうになったそのとき。
「奈津海さーん!」
陽苑の門のほうから、みうの声が響いた。
「子どもたちが、もうすぐ門をくぐります!」
「……早いわね」
「緊張してる人は足が速くなるんですよ」
みうは、息を弾ませながら菜園へ駆け寄ってきた。頬はうっすら紅潮しているが、目はきらきらと光っている。
「菜園と温室、準備できてますか?」
「できるだけのことはしたわ」
奈津海は、畝の間に敷いた板と、端に積んだ腰掛けを指さした。
「ここを通れば土をあまり踏まなくて済むし、疲れた子はすぐ座れる」
「ありがとうございます」
みうは、心から嬉しそうに頭を下げた。
「じゃあ、迎えに行きましょう」
◇
門をくぐった子どもたちは、最初こそ緊張した面持ちだったが、陽苑の中庭が見えるころには、表情が少しずつ変わり始めていた。
「わあ、木がいっぱい」
「お水が光ってる!」
中庭の池の水面が陽を跳ね返し、白い石の小道がその間を縫うように延びている。女官たちは列の左右に立ち、子どもたちの歩幅に合わせてゆっくりと歩いた。
「菜園と温室はこちらです」
みうが先導し、菜園へ続く小道の角を曲がる。その先に広がる畑の緑に、子どもたちの目が一斉に見開かれた。
「おっきい葉っぱ!」
「こっちは、細い草みたいなのがいっぱい」
「これ、どれも食べられるの?」
晴矢は、畝の向こうから子どもたちの顔を一人ひとり確かめるように見渡した。
「ほとんど食べられますよ」
そう言って、柔らかそうな葉を一枚摘み、近くにいた少女に手渡す。
「これは菜園の顔役です。生でかじると少し苦いけれど、湯を通すと甘くなる」
「……顔役?」
少女がきょとんとしながら葉をかじると、ほかの子どもたちも興味津々で覗き込んだ。
「葉っぱなのに、ちょっと甘い」
「変な味じゃない」
「変な味って言わないでください。畝が傷つきます」
晴矢の言い方に、子どもたちの笑い声がこぼれる。
「さあ、きょうは君たちにも少しだけ手伝ってもらいます」
晴矢は、用意しておいた小さな籠をいくつも並べた。
「この籠一つに、君の手より少し大きい葉を五枚。根元を折らないように、そっとね」
「できるかな」
「難しそう」
「できなくても大丈夫。やってみて、うまくいかなかったら、次の葉で試せばいい」
晴矢は、自分の手を子どもたちの前に差し出して見せた。
「畝は怒りません。何度でも、やり直しをさせてくれます」
子どもたちは、おそるおそる畝に近づき、小さな指で葉をつまんだ。土に触れるたびに、表情が変わっていく。
「やわらかい」
「冷たい」
「ここ、虫がいた!」
「驚かせないでください」
奈津海が思わず声を上げる。心臓が一瞬跳ね上がった。
(虫が出てきて、誰かが悲鳴を上げて、つられて転んで……)
また最悪の想像が顔を出しかけたとき、小さな手がそっとエプロンの裾を掴んだ。
「……?」
見下ろすと、先ほど虫を見つけて叫んだ子どもが、奈津海のエプロンを握りしめている。さっきまでの勢いはどこへやら、今は少し怯えた表情だ。
「虫、こわい?」
「……ちょっとだけ」
「逃げちゃったから、もういないわ」
奈津海は、畝の間をちらりと確認してから、子どもの手に自分の手を軽く添えた。
「こわいときは、誰かの裾を掴んでていいのよ」
「いいの?」
「ええ。ただし、泥だらけの手で掴んだら、そのぶんいっぱい洗ってもらうから覚悟しなさい」
子どもが、くすっと笑った。
「じゃあ、ちょっとだけ掴む」
「ちょっとだけなら許すわ」
そう言いながら、奈津海は自分の頬が少しだけ緩んでいくのを感じていた。
(最悪の想像の前に、『裾を掴んでいる手』を見てあげればいい)
そう思った途端、土の匂いも、子どもたちの足音も、少し違って聞こえ始めた。
◇
菜園の端には、小さな温室がある。陽の光を受けて、ガラス越しに葉が輝いていた。
「ここは、温室です」
みうが扉を開けると、むっとするような温かさと、青々とした香りが流れ出した。
「わあ、夏みたい」
「外よりあったかい」
子どもたちは、慎重に足を踏み入れる。水滴のついた葉が肩に触れるたび、小さな笑い声が上がった。
「この中では、外より少し早く春野菜が育ってくれます」
晴矢が、低い棚に並ぶ苗を指でなでる。
「外の畑に出る前の練習場みたいなものです」
「練習場?」
「うまく根を張れるか、葉を広げられるか、ここで試してから畝に出ていきます」
みうは、子どもたちの顔を見回しながら、そっと笑った。
「なんだか、人みたいですね」
「そうかもしれません」
晴矢は、苗のひとつを指差した。
「この子は、最初根が弱くて何度も倒れそうになったんですが、土を替えてやったら、こうして立ち直ったんです」
小さな苗の葉先が、光を受けて震えている。
「……僕も、何度も倒れそうになったけど」
一番奥にいた少年が、ぽつりと呟いた。
「療養所のベッドから立つ練習、何回も失敗しました」
その言葉に、周りの子どもたちが静かになる。
「今は、こうして陽苑まで来てくれたでしょう」
みうは、少年と目線を合わせるように膝を折った。
「ここまで来るまでに、たくさん練習したんですね」
「うん」
少年は、少し照れたようにうなずいた。
「ここにいる野菜たちも、みんな練習中かもしれませんね。外の畑に出る前の」
「じゃあ、僕たちも……」
誰かが小さく言いかけたのを、晴矢が受け取る。
「君たちも、何かの練習の途中かもしれません」
温室の空気が、ほんの少しだけ柔らかく動いた。
◇
菜園に戻ると、陽は少し傾き始めていた。土の上には、小さな足跡がいくつも刻まれている。
「さあ、収穫した野菜を、少しだけその場で味わってもらいましょう」
晴矢は、菜園の隅に用意しておいた簡易の炉に火を入れた。炭の上に網を渡し、子どもたちが籠に集めた野菜を並べていく。
「これ、全部焼いちゃうの?」
「全部は焼きません。広間でのご飯にも使いますから」
薄く切った根菜と、厚めに切った葉物の茎。そこに、ほんの少しの油と塩を振る。
「煙、出てきた!」
「目がしみる!」
「顔を近づけすぎないように。煙は目の練習にはなっても、楽しい練習ではありませんからね」
子どもたちの笑い声が、また弾ける。
焼き上がった野菜を小さな木皿に取り分け、一人ひとりに手渡していくのは、みうの役目だった。
「はい、これは……さっき虫を見つけた勇気のある君に」
「ぼ、僕?」
「そう。虫を見つけたからこそ、この葉の裏がきれいなのも教えてくれたんですよ」
少年が、恥ずかしそうに笑って野菜を受け取る。
「こっちは、温室で苗を応援してくれた君に」
「応援なんてしてないよ」
「ちゃんと聞こえてましたよ。『がんばれ』って」
みうは、ひとりひとりの顔と名前を心の中で繰り返しながら皿を渡していった。
「……覚えてるの?」
奈津海が、横目でその様子を見ながら小声で尋ねる。
「できるだけ」
みうは、焼き野菜の匂いを吸い込みながら答えた。
「ここに来るまでにも、きっといろんな名前で呼ばれてきたと思うから。きょうくらい、陽苑で自分の名前を何度も呼ばれてほしくて」
名前を呼ばれた子どもたちの顔が、少しずつほころんでいくのを見て、奈津海は心のどこかがちくりとした。
(私だって、最初は名前で呼ばれるのが怖かったのに)
洗濯場で、ただの「あなた」として怒鳴られていた頃のことを思い出す。名前を呼ばれれば、そのぶん責任も期待も増える。それが怖くて、名前を伏せていた時期もあった。
「奈津海さん」
不意に、袖口が引かれた。
振り向くと、さっきエプロンの裾を掴んだ子どもが、今度は焼き野菜の皿を両手で抱えて立っている。
「これ、すごくおいしい」
「それは良かったわね」
「お姉さんも、一緒に食べる?」
差し出された皿から、湯気が立ちのぼる。奈津海は、その湯気の向こうで自分の顔がどう見えているのか、ふと気になった。
「……一口だけ、もらおうかしら」
指先で野菜をつまみ、口に運ぶ。炭の香りと野菜の甘みが広がった。
「うん。上出来」
「でしょ?」
子どもが胸を張る。その顔に、奈津海もつられて笑ってしまった。
「じゃあ、広間に戻る前に、もう一枚だけ収穫しましょうか」
「まだいいの?」
「ええ。畝が、『もう一枚ならいいよ』って言ってるから」
そう言いながら、奈津海は自分の手で土を撫でた。
(きょうは、最悪のことばかり数えなくてもいい)
小さな客人たちが残していく足跡は、畝の間に不規則な模様を描いている。けれど、そのどれもが、土の上に確かに刻まれていた。
◇
広間での昼食が終わり、子どもたちが陽苑を後にしたあと。
菜園には、昼間の喧騒が嘘のような静けさが戻っていた。けれど、土の上にはまだ、小さな足跡がかすかに残っている。
「……消すの、もったいないですね」
みうがしゃがみ込んで足跡をなぞると、隣で晴矢が笑った。
「土から見れば、いつもの踏み跡の一つですよ」
「そうかもしれませんけど」
「でも、ここにいたことを覚えている人がいる限り、それで十分じゃないですか」
晴矢は、足跡の上にそっと土をかぶせた。
「畝の上には、新しい葉が出ます。その葉の下で、きょうのことが少しでも甘く育てばいい」
「甘く?」
「はい。焼き野菜くらいには」
みうも笑い、土についた指先で自分の額に小さな印をつけた。
「じゃあ、わたしも覚えておきます」
「指に土をつけたまま顔を触ると、あとで奈津海さんに怒られますよ」
「そのときは、そのときです」
二人の笑い声が、夕暮れの菜園に静かに溶けていった。
その夜、「ありがとうの練習帳」の端には、新しい一行が増えた。
『陽苑に来てくれた小さな客人たちへ。畝の上で笑ってくれてありがとう』
小さな客人たちの一日は終わったけれど、畝と帳面の中では、まだしばらくの間、その足音が響き続けているのだった。
晴矢は、鍬を置いて手のひらで畝を押しながら、空を見上げた。雲ひとつない青さが、目にしみる。
「きょうは、いい顔でいてくれよ」
土に向かってそうつぶやくと、畝の向こうから声が飛んできた。
「誰に話しかけてるのよ、晴矢」
エプロンの紐をきゅっと結び直した奈津海が、腕を組んで立っていた。いつもより少しきちんとした衣を身につけているが、その肩には僅かに力が入っている。
「土と野菜に、です」
「まったく。人に話しかける前に畝と語り合うなんて、あんたくらいだわ」
呆れたように言いながらも、奈津海は畝に目を落とした。
「……でも、きょうは確かに、いつもと顔つきが違う気がするわね」
「緊張してるんじゃないですか。これからたくさん小さな足が来ますから」
「緊張してるのは私たちのほうでしょ」
奈津海は、深く息を吐いた。
「子どもたちなんて、きっとすぐに走り出すわよ。菜園の中を、あっちこっち」
頭の中で、畝と畝の間を駆け回って土を蹴散らす小さな足音が響く。つまずいて転んで、葉を踏みつけて、誰かが泣き出して――。
(また、悪い想像ばかり増えていく)
眉間にしわが寄りそうになったそのとき。
「奈津海さーん!」
陽苑の門のほうから、みうの声が響いた。
「子どもたちが、もうすぐ門をくぐります!」
「……早いわね」
「緊張してる人は足が速くなるんですよ」
みうは、息を弾ませながら菜園へ駆け寄ってきた。頬はうっすら紅潮しているが、目はきらきらと光っている。
「菜園と温室、準備できてますか?」
「できるだけのことはしたわ」
奈津海は、畝の間に敷いた板と、端に積んだ腰掛けを指さした。
「ここを通れば土をあまり踏まなくて済むし、疲れた子はすぐ座れる」
「ありがとうございます」
みうは、心から嬉しそうに頭を下げた。
「じゃあ、迎えに行きましょう」
◇
門をくぐった子どもたちは、最初こそ緊張した面持ちだったが、陽苑の中庭が見えるころには、表情が少しずつ変わり始めていた。
「わあ、木がいっぱい」
「お水が光ってる!」
中庭の池の水面が陽を跳ね返し、白い石の小道がその間を縫うように延びている。女官たちは列の左右に立ち、子どもたちの歩幅に合わせてゆっくりと歩いた。
「菜園と温室はこちらです」
みうが先導し、菜園へ続く小道の角を曲がる。その先に広がる畑の緑に、子どもたちの目が一斉に見開かれた。
「おっきい葉っぱ!」
「こっちは、細い草みたいなのがいっぱい」
「これ、どれも食べられるの?」
晴矢は、畝の向こうから子どもたちの顔を一人ひとり確かめるように見渡した。
「ほとんど食べられますよ」
そう言って、柔らかそうな葉を一枚摘み、近くにいた少女に手渡す。
「これは菜園の顔役です。生でかじると少し苦いけれど、湯を通すと甘くなる」
「……顔役?」
少女がきょとんとしながら葉をかじると、ほかの子どもたちも興味津々で覗き込んだ。
「葉っぱなのに、ちょっと甘い」
「変な味じゃない」
「変な味って言わないでください。畝が傷つきます」
晴矢の言い方に、子どもたちの笑い声がこぼれる。
「さあ、きょうは君たちにも少しだけ手伝ってもらいます」
晴矢は、用意しておいた小さな籠をいくつも並べた。
「この籠一つに、君の手より少し大きい葉を五枚。根元を折らないように、そっとね」
「できるかな」
「難しそう」
「できなくても大丈夫。やってみて、うまくいかなかったら、次の葉で試せばいい」
晴矢は、自分の手を子どもたちの前に差し出して見せた。
「畝は怒りません。何度でも、やり直しをさせてくれます」
子どもたちは、おそるおそる畝に近づき、小さな指で葉をつまんだ。土に触れるたびに、表情が変わっていく。
「やわらかい」
「冷たい」
「ここ、虫がいた!」
「驚かせないでください」
奈津海が思わず声を上げる。心臓が一瞬跳ね上がった。
(虫が出てきて、誰かが悲鳴を上げて、つられて転んで……)
また最悪の想像が顔を出しかけたとき、小さな手がそっとエプロンの裾を掴んだ。
「……?」
見下ろすと、先ほど虫を見つけて叫んだ子どもが、奈津海のエプロンを握りしめている。さっきまでの勢いはどこへやら、今は少し怯えた表情だ。
「虫、こわい?」
「……ちょっとだけ」
「逃げちゃったから、もういないわ」
奈津海は、畝の間をちらりと確認してから、子どもの手に自分の手を軽く添えた。
「こわいときは、誰かの裾を掴んでていいのよ」
「いいの?」
「ええ。ただし、泥だらけの手で掴んだら、そのぶんいっぱい洗ってもらうから覚悟しなさい」
子どもが、くすっと笑った。
「じゃあ、ちょっとだけ掴む」
「ちょっとだけなら許すわ」
そう言いながら、奈津海は自分の頬が少しだけ緩んでいくのを感じていた。
(最悪の想像の前に、『裾を掴んでいる手』を見てあげればいい)
そう思った途端、土の匂いも、子どもたちの足音も、少し違って聞こえ始めた。
◇
菜園の端には、小さな温室がある。陽の光を受けて、ガラス越しに葉が輝いていた。
「ここは、温室です」
みうが扉を開けると、むっとするような温かさと、青々とした香りが流れ出した。
「わあ、夏みたい」
「外よりあったかい」
子どもたちは、慎重に足を踏み入れる。水滴のついた葉が肩に触れるたび、小さな笑い声が上がった。
「この中では、外より少し早く春野菜が育ってくれます」
晴矢が、低い棚に並ぶ苗を指でなでる。
「外の畑に出る前の練習場みたいなものです」
「練習場?」
「うまく根を張れるか、葉を広げられるか、ここで試してから畝に出ていきます」
みうは、子どもたちの顔を見回しながら、そっと笑った。
「なんだか、人みたいですね」
「そうかもしれません」
晴矢は、苗のひとつを指差した。
「この子は、最初根が弱くて何度も倒れそうになったんですが、土を替えてやったら、こうして立ち直ったんです」
小さな苗の葉先が、光を受けて震えている。
「……僕も、何度も倒れそうになったけど」
一番奥にいた少年が、ぽつりと呟いた。
「療養所のベッドから立つ練習、何回も失敗しました」
その言葉に、周りの子どもたちが静かになる。
「今は、こうして陽苑まで来てくれたでしょう」
みうは、少年と目線を合わせるように膝を折った。
「ここまで来るまでに、たくさん練習したんですね」
「うん」
少年は、少し照れたようにうなずいた。
「ここにいる野菜たちも、みんな練習中かもしれませんね。外の畑に出る前の」
「じゃあ、僕たちも……」
誰かが小さく言いかけたのを、晴矢が受け取る。
「君たちも、何かの練習の途中かもしれません」
温室の空気が、ほんの少しだけ柔らかく動いた。
◇
菜園に戻ると、陽は少し傾き始めていた。土の上には、小さな足跡がいくつも刻まれている。
「さあ、収穫した野菜を、少しだけその場で味わってもらいましょう」
晴矢は、菜園の隅に用意しておいた簡易の炉に火を入れた。炭の上に網を渡し、子どもたちが籠に集めた野菜を並べていく。
「これ、全部焼いちゃうの?」
「全部は焼きません。広間でのご飯にも使いますから」
薄く切った根菜と、厚めに切った葉物の茎。そこに、ほんの少しの油と塩を振る。
「煙、出てきた!」
「目がしみる!」
「顔を近づけすぎないように。煙は目の練習にはなっても、楽しい練習ではありませんからね」
子どもたちの笑い声が、また弾ける。
焼き上がった野菜を小さな木皿に取り分け、一人ひとりに手渡していくのは、みうの役目だった。
「はい、これは……さっき虫を見つけた勇気のある君に」
「ぼ、僕?」
「そう。虫を見つけたからこそ、この葉の裏がきれいなのも教えてくれたんですよ」
少年が、恥ずかしそうに笑って野菜を受け取る。
「こっちは、温室で苗を応援してくれた君に」
「応援なんてしてないよ」
「ちゃんと聞こえてましたよ。『がんばれ』って」
みうは、ひとりひとりの顔と名前を心の中で繰り返しながら皿を渡していった。
「……覚えてるの?」
奈津海が、横目でその様子を見ながら小声で尋ねる。
「できるだけ」
みうは、焼き野菜の匂いを吸い込みながら答えた。
「ここに来るまでにも、きっといろんな名前で呼ばれてきたと思うから。きょうくらい、陽苑で自分の名前を何度も呼ばれてほしくて」
名前を呼ばれた子どもたちの顔が、少しずつほころんでいくのを見て、奈津海は心のどこかがちくりとした。
(私だって、最初は名前で呼ばれるのが怖かったのに)
洗濯場で、ただの「あなた」として怒鳴られていた頃のことを思い出す。名前を呼ばれれば、そのぶん責任も期待も増える。それが怖くて、名前を伏せていた時期もあった。
「奈津海さん」
不意に、袖口が引かれた。
振り向くと、さっきエプロンの裾を掴んだ子どもが、今度は焼き野菜の皿を両手で抱えて立っている。
「これ、すごくおいしい」
「それは良かったわね」
「お姉さんも、一緒に食べる?」
差し出された皿から、湯気が立ちのぼる。奈津海は、その湯気の向こうで自分の顔がどう見えているのか、ふと気になった。
「……一口だけ、もらおうかしら」
指先で野菜をつまみ、口に運ぶ。炭の香りと野菜の甘みが広がった。
「うん。上出来」
「でしょ?」
子どもが胸を張る。その顔に、奈津海もつられて笑ってしまった。
「じゃあ、広間に戻る前に、もう一枚だけ収穫しましょうか」
「まだいいの?」
「ええ。畝が、『もう一枚ならいいよ』って言ってるから」
そう言いながら、奈津海は自分の手で土を撫でた。
(きょうは、最悪のことばかり数えなくてもいい)
小さな客人たちが残していく足跡は、畝の間に不規則な模様を描いている。けれど、そのどれもが、土の上に確かに刻まれていた。
◇
広間での昼食が終わり、子どもたちが陽苑を後にしたあと。
菜園には、昼間の喧騒が嘘のような静けさが戻っていた。けれど、土の上にはまだ、小さな足跡がかすかに残っている。
「……消すの、もったいないですね」
みうがしゃがみ込んで足跡をなぞると、隣で晴矢が笑った。
「土から見れば、いつもの踏み跡の一つですよ」
「そうかもしれませんけど」
「でも、ここにいたことを覚えている人がいる限り、それで十分じゃないですか」
晴矢は、足跡の上にそっと土をかぶせた。
「畝の上には、新しい葉が出ます。その葉の下で、きょうのことが少しでも甘く育てばいい」
「甘く?」
「はい。焼き野菜くらいには」
みうも笑い、土についた指先で自分の額に小さな印をつけた。
「じゃあ、わたしも覚えておきます」
「指に土をつけたまま顔を触ると、あとで奈津海さんに怒られますよ」
「そのときは、そのときです」
二人の笑い声が、夕暮れの菜園に静かに溶けていった。
その夜、「ありがとうの練習帳」の端には、新しい一行が増えた。
『陽苑に来てくれた小さな客人たちへ。畝の上で笑ってくれてありがとう』
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