後宮日和は、旬の野菜と木漏れ日の彼

乾為天女

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第19話 王太子からの依頼

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 陽苑の朝食の片付けが一段落したころ、事務室の戸が、遠慮がちに二度だけ叩かれた。

 「失礼します。王太子殿下付きの書記です」

 低く落ち着いた声とともに、若い男が姿を見せる。袖口には、王家の紋をあしらった細い帯が結ばれていた。

 机の向こうで帳簿に目を落としていた敏貴が、すぐに立ち上がる。

 「遠いところをようこそ。どのようなご用件でしょうか」

 「王太子殿下からの、ご依頼をお届けに参りました」

 書記は、一通の封書を両手で差し出した。表には、整った筆致で『陽苑の皆へ』と書かれている。

 「皆、ですか?」

 事務室の隅で湯の支度をしていたみうが、思わず小さく声を漏らした。

 敏貴は封を切る前に、一度深く息を吸い込んだ。

 「……読ませていただきます」

 静まり返った部屋に、紙の擦れる音だけが響いた。

 「『いつも、後宮と陽苑を支えてくれている者たちへ』」

 敏貴は、ゆっくりと読み上げる。

 「『季節の変わり目に、気心の知れた友人と、小さな気晴らしの食事会を設けたいと思う』」

 「気晴らし……」

 みうの胸が、少しくすぐったくなる。

 「『そこで、後宮で普段出されている豪奢な宴ではなく、おまえたちが日々食べているような「家庭の味」を、しかし後宮らしい心遣いとともに味わってみたい』」

 事務室の空気が、わずかにざわめいた。

 「『女官や厨房の者たちが、自分たちのために用意するまかない。陽苑で子どもたちに出した粥。そういったものの中にこそ、人の心を支える力があると聞いた』」

 「誰がそんなことを……」

 みうは、知らないところで自分たちの鍋が噂になっていたことに、頬の内側が熱くなるのを感じた。

 「『ついては、後宮の者と共に、王太子私的の小さな食事会を一度だけ設けたい。料理と場の支度については陽苑の判断に任せる。もちろん、決められた予算の範囲で』」

 最後の一行に差しかかったところで、敏貴の指先がぴくりと震えた。

 「……予算、の範囲で」

 そこだけを、思わず二度繰り返してしまう。

 「敏貴さん?」

 「いえ。その、『予算』という二文字が、私の目にまぶしくて」

 敏貴は眼鏡を外し、軽く目頭を押さえた。

 「殿下の御心はありがたいのですが、『任せる』と『予算の範囲で』が並ぶと、どうにも胸の奥がむずむずしてしまいますね」

 「つまり?」

 「工夫のしがいがある、ということです」

 敏貴が眼鏡をかけ直したとき、その目には静かな炎が灯っていた。

     ◇

 ほどなくして、厨房に緊急の呼び出しがかかった。

 「王太子殿下からの依頼?」

 お咲が、手にしていた大きな杓文字を宙で止めた。

 「なんだい、今度はどんな難しい料理をお望みだい。尾が三つもついた魚を丸のまま揚げてこいとか?」

 「いえ、『後宮の家庭料理』を、と」

 みうが説明すると、お咲は逆にぽかんと口を開けた。

 「家庭料理?」

 「はい。豪華な宴ではなくて、私たちが普段食べているようなものを、殿下の友人たちと一緒に食べてみたいそうです」

 「それはまた……王様の器か子どもの好奇心か、判断に迷うお願いだねえ」

 お咲は、困ったように笑った。

 「どうだい、晴矢。あんたの村で食べていたものの中で、『人さまにお出しして恥ずかしくない家庭の味』ってのは」

 問われた晴矢は、一瞬黙り込んだ。

 脳裏に浮かぶのは、土間で湯気を上げていた粥、収穫のあとの鍋、祭りの翌日に残り物を混ぜた汁――どれも、見た目は決して華やかではない。

 「……恥ずかしくないかどうかはわかりませんが」

 ゆっくりと口を開く。

 「水汲みの帰りに冷えた体を温めてくれた芋粥。畑仕事の合間にかき込んだ野菜たっぷりの味噌汁。祭りのあと、壺の底に残った酒粕を少しだけ入れて、皆で笑いながらすすった汁物」

 言葉にしているうちに、胸の奥に温かさが戻ってくるようだった。

 「どれも、贅沢ではありません。でも、箸を置いたあと、もう一度立ち上がる力をくれた料理です」

 「それでいいじゃないか」

 お咲は、にやりと笑った。

 「殿下が欲しがってるのは、腹を膨らませる派手さじゃなくて、心を立ち上がらせる味なんだろうさ。後宮風に、少し背筋を伸ばしてやれば十分だよ」

 「後宮風に、ですか」

 「そう。皿を一枚増やしたり、刻んだ葱をひとつまみ散らしてやったり。器の縁をきれいに拭いて、湯気の向こうに恥ずかしくない顔を浮かべてやる」

 お咲は、棚の器を一つ叩いた。

 「村の鍋をそのまま殿下の前に持って行ったら、さすがに目を丸くされるだろうからね」

 「……はい」

 晴矢は、自分の中の鍋の光景に、陽苑の器と香りを重ねていった。

     ◇

 一方その頃、陽苑の廊下では、別の打ち合わせが進んでいた。

 「王太子殿下が陽苑に入られるルートは、ここからここまで」

 愛祈が広げた紙の上に、赤い線が引かれる。門から広間へ続く道、その途中にある曲がり角や段差。

 「殿下の友人は四人。護衛が二人。書記が一人。付き従う小姓が……」

 「三人です」

 みうが、書記から聞いた話を思い出しながら答える。

 「小姓がいるということは、急に走り出す人が出る可能性が増えるわね」

 奈津海が、腕を組んで唸った。

 「走りながら器を覗き込んで、足を滑らせて、殿下にぶつかって――」

 「奈津海」

 愛祈が、ちらりと目を向ける。

 「最悪の想像は一度でいい。二度目からは対策を言ってくれ」

 「……椅子を増やすわ」

 奈津海は、観念したように答えた。

 「広間の入り口に、腰掛けを二つ余分に。殿下の友人の中で一番早口な人の近くに、小姓用の椅子も一つ」

 「いい案だ」

 愛祈は、紙の端に印をつけた。

 「殿下が陽苑を『気晴らしの場所』として覚えてくださるか、『転びかけた場所』として覚えてしまうかは、こういうところで決まるからな」

 「気晴らし……」

 みうは、その言葉を小さく繰り返した。

 「殿下にも、気晴らしが必要なんですね」

 「王太子だって人間だ」

 愛祈は、肩をすくめる。

 「人前では、いつも背筋を伸ばしていなきゃならない。その分、どこかで息を抜かないと、鎧の中で身体が固まってしまう」

 「鎧の中で固まる、ですか」

 「そうだ」

 愛祈は、自分の胸当てを軽く叩いた。

 「俺だって、鎧を脱いだときにようやく息が大きく吸えるからな。殿下にも、そういう場所があっていい」

 みうは、その言葉を耳の奥にしまい込んだ。

 (きょうは、誰かの鎧を少しだけ軽くするための支度なんだ)

     ◇

 事務室には、敏貴の「予算」との格闘の音が響いていた。

 「湯気の向こうに見える皿は、全部合わせて十。うち、贅沢と呼べるものは一皿だけ」

 敏貴は、紙の上に小さな丸をいくつも描きながらつぶやく。

 「残りは、野菜と豆と穀物。肉は、出汁で働いてもらう」

 「働いてもらう……」

 みうは、湯を注ぎながら感心した。

 「肉の姿は見えなくても、味だけは鍋の底から支えてもらうんです」

 「その通り」

 敏貴は、にやりと笑った。

 「姿を見せるのは、野菜たち。畝で踏ん張っていた葉と、土の中で眠っていた根っこたちだ」

 「殿下のお皿に、畝の顔が乗るんですね」

 「ええ」

 敏貴は、藍色の帳簿を指先で弾いた。

 「ただし、帳簿の顔色を曇らせずにな」

 「帳簿って、顔色あるんですか」

 「ありますよ。赤くなればなるほど、私の睡眠時間が減ります」

 その言い方に、みうは思わず吹き出しそうになった。

 「でも、きょうは『陽苑開放の日』のときに積み重ねた余裕もあります」

 敏貴は、真顔に戻る。

 「あのとき子どもたちを招いたことで、『陽苑の料理には人を支える力がある』と殿下の耳にも届いた。その結果が、この依頼です」

 「じゃあ、きょうの支度は……」

 「十年計画の途中に生まれた、小さなご褒美かもしれませんね」

 敏貴の言葉に、みうの胸がまた温かくなる。

     ◇

 夕方近く、厨房には試作の皿がずらりと並んだ。

 「村の芋粥を、少しだけ後宮風に」

 晴矢が差し出した椀には、芋の粒が少し形を残したまま、とろりとした粥が盛られている。その上に、ごく薄く切った香草が一筋だけ乗っていた。

 「見た目は地味だけど、香りがいいねえ」

 お咲が匙を入れ、ひと口味わう。

 「芋の甘みがしっかり出てる。けど、後味は重くない」

 「米を少し減らして、そのぶん畝の葉を増やしました。殿下も友人の方々も、食後に話をする時間が長くなるでしょうから、腹は満たしても眠気は出にくいように」

 「気晴らしのあとの昼寝も悪くないけどねえ」

 お咲は、にやりと笑った。

 「他には?」

 「畑仕事の合間に食べていた、野菜と豆の味噌汁を、小さな鉢仕立てにしました」

 深めの鉢には、色とりどりの野菜と豆が、互いの隙間を埋めるように並んでいる。上から薄い出汁を張り、刻んだ葱がほんの少し浮かんでいた。

 「これは……」

 みうがそっと覗き込む。

 「見た目は賑やかだけど、味は静かですね」

 「静か?」

 「はい。一度にいろんな味が攻めてくるんじゃなくて、噛むたびに違う野菜の声が少しずつ聞こえる感じです」

 晴矢は、その言葉に救われるような思いがした。

 「殿下の友人たちも、それぞれ違う声を持っているでしょうから」

 「人の話の合間に、鍋の声が混ざるってわけだね」

 お咲は、満足そうにうなずいた。

 「よし。この方向でいこう」

     ◇

 夜。

 みうは、自分の部屋で「ありがとうの練習帳」を開いていた。今夜は、いつもより少し早い時間に、頁を開いている。

 「きょうは、何を書きましょうか」

 筆を握りながら、窓の外をちらりと見る。陽苑の屋根の向こうに、明日の空がまだ形を持たないまま控えている気がした。

 『王太子殿下へ。陽苑の鍋に、気晴らしを任せてくださってありがとうございます』

 まず一行、そう書く。

 『村の鍋と後宮の器を、同じ卓に並べる機会をくれてありがとうございます』

 もう一行、書き足す。

 書き終えて、そっと目を閉じた。

 (殿下がどんな人か、わたしたちはまだ知らない)

 けれど。

 (明日、鍋の湯気の向こうで、少しだけ鎧を脱いだ顔が見られたらいいな)

 そう願いながら、みうは帳面を閉じた。

 陽苑の一日は、静かに更けていく。明日は、王太子とその友人たちがやってくる。

 後宮の家庭料理が、どんなふうに彼らの心に届くのか――その答えは、まだ誰も知らない。
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