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第31話 冬支度と陽だまり
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木枯らしが、陽苑の瓦を鳴らした。
菜園の畝には、霜よけの藁が厚く敷かれている。昨日まで青々としていた葉も、今朝は白く縁取りされて震えていた。
「……さすがに、冷えてきたな」
晴矢は息を吐き、白い煙の向こうに菜園を見渡した。畝の端には、来年用の種を乾かして入れた布袋が並んでいる。
「晴矢さーん、こっちも見てください!」
みうの声が、回廊のほうから飛んできた。振り向くと、毛布の山を抱えたみうが、足元に気をつけながら歩いてくる。後ろでは奈津海が、巻き上げるように縄を肩に掛けていた。
「そんなに持ってきて、転んだら一冬分の布団が台無しだぞ」
「転びません。奈津海さんの縄の上だけ歩いてますから」
「その縄だって、重いのよ」
奈津海は、息を吐きつつも足取りはしっかりしていた。洗濯場で鍛えられた足腰は、冬の石畳にも負けない。
「防寒具の配り直し、こっちはだいたい終わりました」
みうは、腕の中の毛布を少し持ち直した。
「古くなったものは洗って詰め物を足して、傷みの少ないものは子どもたちに優先して回して……。でも、どうしても足りない場所が一つあるんです」
「足りない場所?」
「陽苑のみんなが、ちょっと腰を下ろす場所です」
みうは、回廊の先――厨房と物置のあいだの細い角を指さした。
「そこ、朝になると、いつも誰かが立ってませんか」
言われて晴矢が目を凝らすと、その角には、たしかに日がよく当たっていた。回廊の屋根と物置の壁が風を遮り、東からの陽が斜めに差し込む。石畳だけが、そこだけ一段明るい。
「洗濯場に行く途中でも、菜園に向かう途中でも、ここを通りますよね」
みうは続ける。
「朝一番の張り詰めた空気の中で、みんなここに数息だけ止まっているんです。肩を回したり、手をこすったりしながら」
「……そういえば」
晴矢も、思い返した。夜明け前の炊き出しに向かう途中、ここで一度だけ立ち止まり、指先を陽にかざしたことが何度もある。
「ここに、簡単な腰掛けと、湯たんぽと、毛布を置けたらなって」
みうは、抱えてきた毛布をぽんと叩いた。
「『寒いから早く動け』って追い立てるばかりじゃなくて、『ここで少し温まってから行きなさい』って言える場所が欲しいんです」
「……鍋の前に座る席を増やすわけにはいかないけど」
晴矢は、目を細めて笑った。
「陽の前に座る角なら、増やせるかもしれないな」
◇
その日の昼過ぎ、「陽だまりの角」作りが始まった。
「これ、本当に許可取ってるんでしょうね」
奈津海は、縄で囲った範囲を見ながら眉をひそめる。
「『勝手に座り場を作った』って怒られたら、洗濯場まで風が吹き込んでくるんだから」
「敏貴さんには相談しましたよ」
みうが、得意げに答えた。
「『正式な休憩所じゃなくて、あくまで動線の一部としてなら』って条件付きでしたけど」
「動線の一部……」
「つまり、『ここで座り込んで一刻も過ごすな』ってことですね」
晴矢が、木箱を運びながら笑う。
「数息分、息を整えて、また動き出す。そのための場所だ」
「なら、看板が要るわね」
奈津海は、木箱の上を指先でなぞった。
「『長居禁止』って大きく書いておけば」
「それだと、誰も近寄らなくなりますよ」
みうが苦笑する。
「もっと柔らかく、『三つ数えたら出発』とか」
「子ども相手か」
そんなやりとりをしながら、物置の壁際に木箱が二つ並べられた。その上に、布団を折って敷く。
「座ると、こんな感じか」
晴矢が腰を下ろすと、背中に当たる壁がほんのり温かかった。昼までにずっと陽を浴びていたのだろう。
「おお……思ったより温かいな」
思わず、肩の力が抜ける。
「そこにこれを」
みうが、小さな陶器の壺を二つ持ってきた。中には、湯気の立つお湯が入っている。口元には布を巻いて、熱が逃げないように紐で結んであった。
「陽苑特製、湯たんぽです」
「名前を付けるほどの代物か?」
「ありますよ。名前を付けると、『これをここで使う』って決まりやすくなるんですから」
みうは、一つを晴矢の膝の上に置いた。
「ほら」
「……っ」
じんわりと、陶器越しの温かさが指先から沁みてくる。
「朝の仕込み前と、夜の片付けあと。ここで三つ数えるあいだだけ、これを抱えててもいいことにしましょう」
「三つ数えているうちに、寝落ちする奴が出そうだな」
奈津海が、呆れ半分、羨ましさ半分で言う。
「そのときは奈津海さんに、桶で水を掛けてもらいます」
「なんで私が冷たい役ばっかりなのよ」
そんな風に口では文句を言いながらも、奈津海は「足元に滑り止めの布を敷きなさい」と言って、余っていた布を持ってきた。木箱の前に折りたたんで敷くと、そこだけ色の違う、柔らかな道ができる。
「これで、濡れた靴でも滑りにくいはず」
「さすが足場の番人」
みうが笑うと、奈津海は「番人て」と顔をしかめた。
◇
陽だまりの角が完成したのは、午後の短い陽が一番強く差し込む頃だった。
「おや、ここは何だい」
一番乗りでやってきたのは、お咲だった。鍋の様子を見に行く途中らしい。
「新しい座り込み場所?」
「違います」
みうが、慌てて手を振る。
「冬支度の一つです。『三つ数えたら出発する陽だまり』」
「何それ、長い名前だねえ」
お咲は、くすくす笑いながら木箱に腰を下ろした。
「でも、悪くない。背中がじんわり温かいよ」
「これもどうぞ」
晴矢が湯たんぽを差し出す。
「菜園の霜を見てきた帰りに使ったら、指がすぐ戻りました」
「それはありがたいね。鍋の柄が冷たいのは我慢できるけど、手の感覚がなくなるのは困るからね」
お咲は、湯たんぽを膝に乗せ、小さく息を吐いた。
「……いいねえ」
その、ほんの一言が、晴矢には何よりの褒め言葉に聞こえた。
「ただ、これを知った人全員が一度に押しかけたらどうするんだい」
お咲が目を細める。
「朝の刻でここがいっぱいになったら、通り道が塞がっちまうよ」
「そのときは、昼の献立みたいに順番を決めます」
みうが言った。
「『厨房の人はこの刻』『洗濯場の人はこの刻』って」
「……また、紙が増えるわね」
奈津海が呟く。
「でもまあ、そうやって『ここに来てもいい時間』が紙になっていけば、余計な怒鳴り声は減るかもしれない」
「紙と縄があれば、だいたい何とかなるわね」
お咲が笑うと、みんなもつられて笑った。
◇
陽だまりの角は、すぐに陽苑の日常に溶け込んだ。
朝一番、菜園へ向かう晴矢がそこに立ち寄る。
三つ数えるあいだ、湯たんぽの温かさを掌に移し、霜の重みを想像する。
「一、二、三」
数え終えたら、湯たんぽをそっと戻し、足を踏み出す。
洗濯場へ向かう奈津海は、湯たんぽを膝ではなく足首の上に乗せて、「ここが一番冷えるのよ」とぼやく。
「時間守ってます?」
みうが時計代わりの砂時計を指さすと、奈津海は「あんたの砂、減るの早い」と不満そうに言いながらも、きっちり砂が落ちる前に立ち上がる。
愛祈も、見回りの途中でふらりと寄るようになった。
「門の風と違って、ここは柔らかいな」
湯たんぽを持ち上げながら言う。
「見張りの目まで緩んだら困りますよ」
みうが言うと、愛祈は「ここから見える範囲だけは、俺が守る」と真顔で返した。
「じゃあ、『陽だまり駐在』って肩書をつけておきますね」
「そんな怪しい肩書は要らん」
そんなやりとりを聞いていた子どもたちが、「陽だまり番だ」「番人だ」と笑いながら駆けていく。
◇
ある日の夕暮れ。
収穫祭の片付けもひと段落し、陽苑の中にようやく静けさが戻ってきた頃。みうは、ひとりで陽だまりの角に腰を下ろした。
夕陽はすでに壁の向こう側に傾き、昼間のような暖かさはない。それでも、石に染み込んだ熱が、かすかに背中を温めてくれる。
湯たんぽを抱えながら、みうは空を見上げた。
(この一年で、陽苑の中にいろんな「休める場所」が増えたな)
菜園の畝のあいだの小さな踏み石。洗濯場の縄の内側。厨房の片隅の、まかないの卓。
そこに、今は陽だまりの角も加わっている。
「働く場所」だけだった陽苑が、「戻って息をつける場所」に少しずつ変わっているのを感じる。
(……私も、いつかここを出る日が来るのかな)
ふと浮かんだ考えに、自分で驚いた。
陽苑に来たばかりの頃は、「行き場を失わないように」と必死にしがみつくばかりだったのに。
今は、ここを離れる可能性を思い浮かべても、足元がすぐに崩れるような怖さはない。
だって――。
「ここが『帰ってこられる場所』だって、誰かが教えてくれたからかな」
小さく呟いた。
愛祈が門で言った言葉。晴矢が鍋の前で笑った顔。奈津海が涙と一緒に前を向いた日。景衣が紙に残そうとしてくれた数々の出来事。
その全部が、この小さな角にも染み込んでいる気がする。
「みう」
ふいに名前を呼ばれて振り向くと、晴矢が立っていた。
「こんな時間まで、寒くないのか」
「湯たんぽがありますから」
みうは、陶器を軽く持ち上げて見せた。
「晴矢さんこそ。鍋から離れていると冷えますよ」
「……たまには、火から少し離れないとな」
晴矢は、少しだけ遠慮がちに隣に腰を下ろした。
「ここ、いい場所だな」
「でしょう」
みうは、胸の奥がじんわり温かくなるのを感じた。
「晴矢さんが見つけてくれたんですよ。私は、そこに毛布と湯たんぽを置いただけです」
「いや、俺はただ、風の当たらない角だなと思っただけで……」
「それを『休める場所』にしたのは、みんなですよ」
みうは、湯たんぽを両手で包み込んだ。
「誰かが来て、三つ数えて、また出発していく。その背中を見ていると、『ああ、ここは大丈夫なんだ』って思えるんです」
「大丈夫?」
「はい。寒い日が続いても、忙しい日が続いても、ここまで戻ってこられるなら、また前に進めるって」
晴矢は、少しだけ驚いたような顔をして、それからゆっくりと頷いた。
「……そうだな」
短く同意し、膝の上で手を組む。
陽だまりの角に、しばし静かな沈黙が流れた。
風は冷たい。空気も張り詰めている。
それでも、二人にとってその時間は、鍋の湯気のように柔らかかった。
菜園の畝には、霜よけの藁が厚く敷かれている。昨日まで青々としていた葉も、今朝は白く縁取りされて震えていた。
「……さすがに、冷えてきたな」
晴矢は息を吐き、白い煙の向こうに菜園を見渡した。畝の端には、来年用の種を乾かして入れた布袋が並んでいる。
「晴矢さーん、こっちも見てください!」
みうの声が、回廊のほうから飛んできた。振り向くと、毛布の山を抱えたみうが、足元に気をつけながら歩いてくる。後ろでは奈津海が、巻き上げるように縄を肩に掛けていた。
「そんなに持ってきて、転んだら一冬分の布団が台無しだぞ」
「転びません。奈津海さんの縄の上だけ歩いてますから」
「その縄だって、重いのよ」
奈津海は、息を吐きつつも足取りはしっかりしていた。洗濯場で鍛えられた足腰は、冬の石畳にも負けない。
「防寒具の配り直し、こっちはだいたい終わりました」
みうは、腕の中の毛布を少し持ち直した。
「古くなったものは洗って詰め物を足して、傷みの少ないものは子どもたちに優先して回して……。でも、どうしても足りない場所が一つあるんです」
「足りない場所?」
「陽苑のみんなが、ちょっと腰を下ろす場所です」
みうは、回廊の先――厨房と物置のあいだの細い角を指さした。
「そこ、朝になると、いつも誰かが立ってませんか」
言われて晴矢が目を凝らすと、その角には、たしかに日がよく当たっていた。回廊の屋根と物置の壁が風を遮り、東からの陽が斜めに差し込む。石畳だけが、そこだけ一段明るい。
「洗濯場に行く途中でも、菜園に向かう途中でも、ここを通りますよね」
みうは続ける。
「朝一番の張り詰めた空気の中で、みんなここに数息だけ止まっているんです。肩を回したり、手をこすったりしながら」
「……そういえば」
晴矢も、思い返した。夜明け前の炊き出しに向かう途中、ここで一度だけ立ち止まり、指先を陽にかざしたことが何度もある。
「ここに、簡単な腰掛けと、湯たんぽと、毛布を置けたらなって」
みうは、抱えてきた毛布をぽんと叩いた。
「『寒いから早く動け』って追い立てるばかりじゃなくて、『ここで少し温まってから行きなさい』って言える場所が欲しいんです」
「……鍋の前に座る席を増やすわけにはいかないけど」
晴矢は、目を細めて笑った。
「陽の前に座る角なら、増やせるかもしれないな」
◇
その日の昼過ぎ、「陽だまりの角」作りが始まった。
「これ、本当に許可取ってるんでしょうね」
奈津海は、縄で囲った範囲を見ながら眉をひそめる。
「『勝手に座り場を作った』って怒られたら、洗濯場まで風が吹き込んでくるんだから」
「敏貴さんには相談しましたよ」
みうが、得意げに答えた。
「『正式な休憩所じゃなくて、あくまで動線の一部としてなら』って条件付きでしたけど」
「動線の一部……」
「つまり、『ここで座り込んで一刻も過ごすな』ってことですね」
晴矢が、木箱を運びながら笑う。
「数息分、息を整えて、また動き出す。そのための場所だ」
「なら、看板が要るわね」
奈津海は、木箱の上を指先でなぞった。
「『長居禁止』って大きく書いておけば」
「それだと、誰も近寄らなくなりますよ」
みうが苦笑する。
「もっと柔らかく、『三つ数えたら出発』とか」
「子ども相手か」
そんなやりとりをしながら、物置の壁際に木箱が二つ並べられた。その上に、布団を折って敷く。
「座ると、こんな感じか」
晴矢が腰を下ろすと、背中に当たる壁がほんのり温かかった。昼までにずっと陽を浴びていたのだろう。
「おお……思ったより温かいな」
思わず、肩の力が抜ける。
「そこにこれを」
みうが、小さな陶器の壺を二つ持ってきた。中には、湯気の立つお湯が入っている。口元には布を巻いて、熱が逃げないように紐で結んであった。
「陽苑特製、湯たんぽです」
「名前を付けるほどの代物か?」
「ありますよ。名前を付けると、『これをここで使う』って決まりやすくなるんですから」
みうは、一つを晴矢の膝の上に置いた。
「ほら」
「……っ」
じんわりと、陶器越しの温かさが指先から沁みてくる。
「朝の仕込み前と、夜の片付けあと。ここで三つ数えるあいだだけ、これを抱えててもいいことにしましょう」
「三つ数えているうちに、寝落ちする奴が出そうだな」
奈津海が、呆れ半分、羨ましさ半分で言う。
「そのときは奈津海さんに、桶で水を掛けてもらいます」
「なんで私が冷たい役ばっかりなのよ」
そんな風に口では文句を言いながらも、奈津海は「足元に滑り止めの布を敷きなさい」と言って、余っていた布を持ってきた。木箱の前に折りたたんで敷くと、そこだけ色の違う、柔らかな道ができる。
「これで、濡れた靴でも滑りにくいはず」
「さすが足場の番人」
みうが笑うと、奈津海は「番人て」と顔をしかめた。
◇
陽だまりの角が完成したのは、午後の短い陽が一番強く差し込む頃だった。
「おや、ここは何だい」
一番乗りでやってきたのは、お咲だった。鍋の様子を見に行く途中らしい。
「新しい座り込み場所?」
「違います」
みうが、慌てて手を振る。
「冬支度の一つです。『三つ数えたら出発する陽だまり』」
「何それ、長い名前だねえ」
お咲は、くすくす笑いながら木箱に腰を下ろした。
「でも、悪くない。背中がじんわり温かいよ」
「これもどうぞ」
晴矢が湯たんぽを差し出す。
「菜園の霜を見てきた帰りに使ったら、指がすぐ戻りました」
「それはありがたいね。鍋の柄が冷たいのは我慢できるけど、手の感覚がなくなるのは困るからね」
お咲は、湯たんぽを膝に乗せ、小さく息を吐いた。
「……いいねえ」
その、ほんの一言が、晴矢には何よりの褒め言葉に聞こえた。
「ただ、これを知った人全員が一度に押しかけたらどうするんだい」
お咲が目を細める。
「朝の刻でここがいっぱいになったら、通り道が塞がっちまうよ」
「そのときは、昼の献立みたいに順番を決めます」
みうが言った。
「『厨房の人はこの刻』『洗濯場の人はこの刻』って」
「……また、紙が増えるわね」
奈津海が呟く。
「でもまあ、そうやって『ここに来てもいい時間』が紙になっていけば、余計な怒鳴り声は減るかもしれない」
「紙と縄があれば、だいたい何とかなるわね」
お咲が笑うと、みんなもつられて笑った。
◇
陽だまりの角は、すぐに陽苑の日常に溶け込んだ。
朝一番、菜園へ向かう晴矢がそこに立ち寄る。
三つ数えるあいだ、湯たんぽの温かさを掌に移し、霜の重みを想像する。
「一、二、三」
数え終えたら、湯たんぽをそっと戻し、足を踏み出す。
洗濯場へ向かう奈津海は、湯たんぽを膝ではなく足首の上に乗せて、「ここが一番冷えるのよ」とぼやく。
「時間守ってます?」
みうが時計代わりの砂時計を指さすと、奈津海は「あんたの砂、減るの早い」と不満そうに言いながらも、きっちり砂が落ちる前に立ち上がる。
愛祈も、見回りの途中でふらりと寄るようになった。
「門の風と違って、ここは柔らかいな」
湯たんぽを持ち上げながら言う。
「見張りの目まで緩んだら困りますよ」
みうが言うと、愛祈は「ここから見える範囲だけは、俺が守る」と真顔で返した。
「じゃあ、『陽だまり駐在』って肩書をつけておきますね」
「そんな怪しい肩書は要らん」
そんなやりとりを聞いていた子どもたちが、「陽だまり番だ」「番人だ」と笑いながら駆けていく。
◇
ある日の夕暮れ。
収穫祭の片付けもひと段落し、陽苑の中にようやく静けさが戻ってきた頃。みうは、ひとりで陽だまりの角に腰を下ろした。
夕陽はすでに壁の向こう側に傾き、昼間のような暖かさはない。それでも、石に染み込んだ熱が、かすかに背中を温めてくれる。
湯たんぽを抱えながら、みうは空を見上げた。
(この一年で、陽苑の中にいろんな「休める場所」が増えたな)
菜園の畝のあいだの小さな踏み石。洗濯場の縄の内側。厨房の片隅の、まかないの卓。
そこに、今は陽だまりの角も加わっている。
「働く場所」だけだった陽苑が、「戻って息をつける場所」に少しずつ変わっているのを感じる。
(……私も、いつかここを出る日が来るのかな)
ふと浮かんだ考えに、自分で驚いた。
陽苑に来たばかりの頃は、「行き場を失わないように」と必死にしがみつくばかりだったのに。
今は、ここを離れる可能性を思い浮かべても、足元がすぐに崩れるような怖さはない。
だって――。
「ここが『帰ってこられる場所』だって、誰かが教えてくれたからかな」
小さく呟いた。
愛祈が門で言った言葉。晴矢が鍋の前で笑った顔。奈津海が涙と一緒に前を向いた日。景衣が紙に残そうとしてくれた数々の出来事。
その全部が、この小さな角にも染み込んでいる気がする。
「みう」
ふいに名前を呼ばれて振り向くと、晴矢が立っていた。
「こんな時間まで、寒くないのか」
「湯たんぽがありますから」
みうは、陶器を軽く持ち上げて見せた。
「晴矢さんこそ。鍋から離れていると冷えますよ」
「……たまには、火から少し離れないとな」
晴矢は、少しだけ遠慮がちに隣に腰を下ろした。
「ここ、いい場所だな」
「でしょう」
みうは、胸の奥がじんわり温かくなるのを感じた。
「晴矢さんが見つけてくれたんですよ。私は、そこに毛布と湯たんぽを置いただけです」
「いや、俺はただ、風の当たらない角だなと思っただけで……」
「それを『休める場所』にしたのは、みんなですよ」
みうは、湯たんぽを両手で包み込んだ。
「誰かが来て、三つ数えて、また出発していく。その背中を見ていると、『ああ、ここは大丈夫なんだ』って思えるんです」
「大丈夫?」
「はい。寒い日が続いても、忙しい日が続いても、ここまで戻ってこられるなら、また前に進めるって」
晴矢は、少しだけ驚いたような顔をして、それからゆっくりと頷いた。
「……そうだな」
短く同意し、膝の上で手を組む。
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