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第1章:接触の始点
第1話:甘い鉄錆の泡沫
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【前回のあらすじ】(プロローグ)
著名な動物学者・神代沙耶が熊に襲われる凄惨な映像が拡散され、日本中が恐怖に包まれた。
黒崎蓮司は監視網〈ECO-SCAN〉を緊急始動。森は常時監視される「檻」となった。
その森で、クマコは狩りに挑むが、命がけで逃げるウサギを前に爪を止めてしまう。
守るために狩らねばならない――それでも、彼女は殺せなかった。
◆
まだ「朱」に染まりきっていない森の奥。
朝の冷えが残る巣穴で、私は眠っていた。
まぶたの裏に、古い記憶が滲み出る。
~
甘い。
頭が痺れるほど、甘い匂い。
まだ小さかったあの日。
母熊の「行くな」という唸り声を背中で聞きながら、私はその匂いに負けた。
落ち葉の上に置かれた、銀色の缶。
舌を伸ばすと、ねっとりとした白い蜜が絡みついた。
練乳の味。
森には存在しない、暴力的なまでの糖分が、喉を焼き、脳髄を蕩かしていく。
もっと、欲しい。
夢中で缶に顔を突っ込んだ瞬間――世界が落ちた。
ガシャアン!!
牙のような音がして、空が鉄の格子に変わる。
暴れれば暴れるほど、鉄の網が柔らかな毛皮に食い込む。
やがて、冷たい目をした男たちが集まってきた。
彼らは手に、黒くて長い棒を持っていた。
言葉はわからない。けれど、本能が告げていた。
ここで「殺される」のだと。
その直後――「パシン」と、乾いた音がした。
痛みは小さい。
けれど、刺さった場所の奥から――何かが、体の中へ入ってくる。
冷たくて、嫌なもの。
血の流れにまぎれて、じわじわと広がっていく感触。
唐突な違和感に暴れた。
けれど、暴れれば暴れるほど、空が遠くなる。
鉄の網の冷たさだけが、妙に鮮明で――
次第に体が動かなくなった。
恐怖に震えた。
震える私の前に、一人の男が割り込んだ。
他の人間とは違う。
敵意ではなく、ひどく澱んだ、悲しい匂いがした。
男は網越しに手を伸ばし、何か銀色の小さなものを握りしめていた。
それは、キラキラと光る、綺麗な石のついた装飾品に見えた。
男はそれを、壊れ物を扱うような手つきで指でなぞっていた。
まるで、大切な宝物であるかのように。
「…………」
男の喉から、低く、湿った音が漏れた。
それは言葉というより、傷ついた獣の呻きに似ていた。
彼は私の頭を荒々しく掴んで固定すると、ためらいがちに、けれど最後は強く、その銀色の金具を左耳に押し当てた。
バチンッ。
鋭い痛みと共に、左耳に「固いもの」が食い込む。
「……、…………」
男は、私の頭を押さえつけていた手を、ゆっくりと離した。
その指先が、わずかに震えていた。
何かを言っていた。意味はわからない。
ただ、去り際に私の毛並みに触れた掌だけが、他の人間のように冷たくなかった。
震えていて、熱くて、ひどく重かった。
その感触だけが、痛みと共に耳に焼き付いた。
鉄の匂い。男の悲痛な息遣い。
そして、口に残る練乳の甘さ。
それらが混ざり合って、黒い泥のように私を飲み込んでいく――。
~
「ッ……!」
弾かれたように、意識が浮上する。
心臓が早鐘を打っていた。
鼻先に、土と草の匂い。ここは鉄の檻ではない。
岩の天井。枯れ草のベッド。巣穴の中だ。
『ふぅ……』
重い息を吐き出す。身体が、重かった。
けれどそれは、冷たい鉄の網ではない。
お腹の上に、毛玉のような塊が二つ、乗っかっているのだ。
『むにゃ……』
一匹が、幸せそうな寝言を漏らして、私の毛皮によだれを垂らした。
ハルとハラ。まだ小さな、守るべき命たち。
その温かさと重みが、今、ここにある現実だった。
私は、あの日の無力な小熊ではない。
そう自分に言い聞かせて身じろぎをした時――左耳についた「異物」が、硬い音を立てた。
――カツン。
小さな音に、ハルがむにゃりと眉を寄せ、ハラが爪先をぴくりと動かした。
私は、静かに息を潜めた。
耳の奥に残る冷たさが、悪夢を現実に引きずり出したようで、背筋が凍る。
夢の代償のように残された、銀色のタグ。
それが、私が背負う現実の重さだった。
※次は本日17:50更新。よければ お気に入り登録 をお願いします。
著名な動物学者・神代沙耶が熊に襲われる凄惨な映像が拡散され、日本中が恐怖に包まれた。
黒崎蓮司は監視網〈ECO-SCAN〉を緊急始動。森は常時監視される「檻」となった。
その森で、クマコは狩りに挑むが、命がけで逃げるウサギを前に爪を止めてしまう。
守るために狩らねばならない――それでも、彼女は殺せなかった。
◆
まだ「朱」に染まりきっていない森の奥。
朝の冷えが残る巣穴で、私は眠っていた。
まぶたの裏に、古い記憶が滲み出る。
~
甘い。
頭が痺れるほど、甘い匂い。
まだ小さかったあの日。
母熊の「行くな」という唸り声を背中で聞きながら、私はその匂いに負けた。
落ち葉の上に置かれた、銀色の缶。
舌を伸ばすと、ねっとりとした白い蜜が絡みついた。
練乳の味。
森には存在しない、暴力的なまでの糖分が、喉を焼き、脳髄を蕩かしていく。
もっと、欲しい。
夢中で缶に顔を突っ込んだ瞬間――世界が落ちた。
ガシャアン!!
牙のような音がして、空が鉄の格子に変わる。
暴れれば暴れるほど、鉄の網が柔らかな毛皮に食い込む。
やがて、冷たい目をした男たちが集まってきた。
彼らは手に、黒くて長い棒を持っていた。
言葉はわからない。けれど、本能が告げていた。
ここで「殺される」のだと。
その直後――「パシン」と、乾いた音がした。
痛みは小さい。
けれど、刺さった場所の奥から――何かが、体の中へ入ってくる。
冷たくて、嫌なもの。
血の流れにまぎれて、じわじわと広がっていく感触。
唐突な違和感に暴れた。
けれど、暴れれば暴れるほど、空が遠くなる。
鉄の網の冷たさだけが、妙に鮮明で――
次第に体が動かなくなった。
恐怖に震えた。
震える私の前に、一人の男が割り込んだ。
他の人間とは違う。
敵意ではなく、ひどく澱んだ、悲しい匂いがした。
男は網越しに手を伸ばし、何か銀色の小さなものを握りしめていた。
それは、キラキラと光る、綺麗な石のついた装飾品に見えた。
男はそれを、壊れ物を扱うような手つきで指でなぞっていた。
まるで、大切な宝物であるかのように。
「…………」
男の喉から、低く、湿った音が漏れた。
それは言葉というより、傷ついた獣の呻きに似ていた。
彼は私の頭を荒々しく掴んで固定すると、ためらいがちに、けれど最後は強く、その銀色の金具を左耳に押し当てた。
バチンッ。
鋭い痛みと共に、左耳に「固いもの」が食い込む。
「……、…………」
男は、私の頭を押さえつけていた手を、ゆっくりと離した。
その指先が、わずかに震えていた。
何かを言っていた。意味はわからない。
ただ、去り際に私の毛並みに触れた掌だけが、他の人間のように冷たくなかった。
震えていて、熱くて、ひどく重かった。
その感触だけが、痛みと共に耳に焼き付いた。
鉄の匂い。男の悲痛な息遣い。
そして、口に残る練乳の甘さ。
それらが混ざり合って、黒い泥のように私を飲み込んでいく――。
~
「ッ……!」
弾かれたように、意識が浮上する。
心臓が早鐘を打っていた。
鼻先に、土と草の匂い。ここは鉄の檻ではない。
岩の天井。枯れ草のベッド。巣穴の中だ。
『ふぅ……』
重い息を吐き出す。身体が、重かった。
けれどそれは、冷たい鉄の網ではない。
お腹の上に、毛玉のような塊が二つ、乗っかっているのだ。
『むにゃ……』
一匹が、幸せそうな寝言を漏らして、私の毛皮によだれを垂らした。
ハルとハラ。まだ小さな、守るべき命たち。
その温かさと重みが、今、ここにある現実だった。
私は、あの日の無力な小熊ではない。
そう自分に言い聞かせて身じろぎをした時――左耳についた「異物」が、硬い音を立てた。
――カツン。
小さな音に、ハルがむにゃりと眉を寄せ、ハラが爪先をぴくりと動かした。
私は、静かに息を潜めた。
耳の奥に残る冷たさが、悪夢を現実に引きずり出したようで、背筋が凍る。
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