令和熊戦紀くまたん〈熊譚〉―熊の少女が人間の少年を拾った日、世界は彼女の敵となった―

LackRock

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第1章:接触の始点

第2話:泥の落とし所

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【前回のあらすじ】(第1話)
クマコは、眠りの中で幼い日の記憶を見る。
甘い匂いに誘われ、人間の罠に落ちた小熊の頃。
左耳に打ち付けられた銀色のタグ。
それは悪夢であり、今も消えない現実だった。


カツン。

左耳の奥で鳴った硬質な音が、微睡みの底からクマコの意識を引きずり上げた。
反射的に身構える。

鉄の格子か。罠か。

――いや、違う。身体が動かない。
何かが、重い。

息を吸おうと胸を膨らませた瞬間、強烈な圧迫感が肺を潰しにかかった。
金縛り? 違う。これは物理的な質量だ。しかも、ほんのり温かくて、妙に獣臭い。

『んふふ……おにく……』
『……あねうえ、まくら……たかい……』

耳元で、くぐもった寝言と、濡れた鼻息が聞こえる。

クマコは恐る恐る薄目を開けた。
視界いっぱいに広がっていたのは、無機質な鉄格子でも岩天井でもない。

茶色い、もふもふした毛玉だった。

ハルとハラだ。

クマコの胸の上でハルが大の字になってよだれを垂らし、
あろうことかハラはクマコの腹をクッションにして丸まっている。

今年の春、原っぱで拾った血の繋がらない弟妹たち。
拾った時は片手で持てるサイズだったのに、秋を迎えた今は、二匹合わせれば立派な漬物石だ。

『……もう。アンタ達、起きなさい!』

クマコは鼻先で小さく息を吐き、やや強めに言った。
反応はない。

ハルが「むにゃ」と口を動かし、クマコの胸毛によだれを擦り付けてくるだけだ。

『ちょ、ちょっと……重いってば。潰れちゃうよ』

押しのけようと肩を動かした瞬間、毛玉はぐにゃりと沈み、さらに圧が増した。

『……もーっ! ほんとに、重い!』

クマコが上半身を跳ね上げると、二つの毛玉は「ぶべっ」と変な声を上げて左右に転げ落ちた。

どん、ごん、と岩床にぶつかる音。

『……いったぁ……なにするのさ、クマコねぇ……』
『姉上ぇ……いきなりは、ひどい……』


目をこすりながら文句を言う二匹に、クマコは呆れて鼻を鳴らした。
悪夢の余韻なんて、吹き飛んでしまった。

『上に乗って寝ちゃだめ。ほんとに息ができなくなるんだからね』
『だってぇ、クマコねぇがいちばんあったかいんだもん』
『そうです。姉上は、あったかい……』

ハルとハラは悪びれもせず、ニシシと笑い合っている。
たくましいものだ。

クマコは首筋を掻き上げた。
耳元でタグがカチリと鳴る。

その音だけが、ここにある平和とは違う「異物」だったが、今の騒がしさの中では気にする暇もない。

『ほら、行くよ。朝のうちに沢で水を飲んで、木の実も拾っておく』

『は~い』
『わかった、姉上』

二匹はまだ眠たげな目をこすりながらも、すぐに並んでついてくる。
その足取りは軽い。

――いつもの朝だ。

巣穴を出て、朝霧の残る森を進む。

沢へ向かう道は、クマコたちにとって“いつもの道”だった。

ハルは眠たげに瞬きを繰り返し、
ハラは足元の葉を踏むたびに小さく鼻を鳴らしている。

どちらもまだ完全には目が覚めていないのに、歩くのだけは早い。

クマコはその後ろ姿を見ながら、つい口元を緩めた。

水場の手前、岩が露出した小さな開けた場所に差しかかったとき――
そこに、白い影がいた。

朝日に照らされた岩場に、巨大な白い毛の塊が座っている。

シロだ。

この森でも一際大きな体躯を持つ雄熊。
真っ白な毛並みは所々泥で汚れているが――本人はそれが気に入らないらしい。

シロは前足で胸元を几帳面に払って、泥を落とそうとしていた。
払っても払っても、落ちない。

苛立ったように鼻を鳴らし、もう一度。さらにもう一度。

『……取れないな』

低く短い声。
なのに、動きが妙に真剣で可笑しい。

ハルが目を見開き、ハラが小さく息をのむ。
二匹は駆け出したいのを堪えるみたいに一歩だけ前へ出て、クマコの顔を見た。

『……シロ、いる』
『ご挨拶、してもいい? 姉上』
『いいよ。前みたいに突進してシロに体当たりするのはなしね』

二匹は素直に頷いてから、小走りで近づいた。
――ただし、シロの手前でちゃんと減速して、ぴたりと止まる。

『シロ! おはよ!』
『おはようございます、シロ』

普通の熊なら威嚇するところだが、シロは動じない。
重たいまぶたを半分だけ上げ、二匹を見下ろした。

『……朝から元気だな』

短い。けれど拒む響きはない。

シロの太い前足が、ハルの頭をぽん、と叩き、次にハラの背をぽん、と叩いた。
叩き方が雑じゃない。優しさがある。

ハルは嬉しそうに目を細め、ハラは「僕はいつも元気です」と言いたげに頷いた。

クマコが岩場へ近づくと、シロは片目だけを開けてこちらを見る――
が、次の瞬間、視線がクマコの顔のあたりで止まった。

『……クマコ』
『なに?』
『寝癖』
『……え?』

クマコは反射的に自分の髪――いや、毛並みを手で押さえた。
確かに、どこかが変な方向に跳ねている気がする。

『……うそ。やだ、今?』
『今』

即答。

クマコは思わず頬を膨らませて、小熊たちを見る。

『……ねえ。さっきから気づいてたなら、言ってくれればよかったのに』
『だってさ、クマコねぇ怒りそうだったし……』
『ボクは、言おうと思ったよ。ほんとだよ』
『うそ。絶対、面白がってたでしょ』
『アタシは面白がってないよ?ちょっとだけだよ?』
『ボクも、ちょっとだけ』
『ちょっとだけ、ね』

クマコはため息をついてから、照れ隠しみたいに前を向いた。

『……もういい。沢で直す!』

クマコは誤魔化すようにシロへ視線を戻した。

『……で。どうしたの?さっきからずっと、そこ』

シロは胸元を払う手を止めず、短く返す。

『……別に』
『別に、って顔じゃないけど』

シロは視線をそらして、また胸元を払った。
白い毛の奥に、泥がこびりついている。

『それ、固まってる。払っても落ちないよ』
『……分かっている』

短く返されて、クマコは苦笑した。

『ちょっと、じっとして』

クマコは岩に前足をかけ、シロの胸元へ顔を寄せた。
近すぎる距離に、シロの肩がわずかに強張る。

クマコは迷わず、こびりついた箇所に鼻先を当て――

ぺろ。

舌先の唾液で泥の端を湿らせ、毛並みを痛めないようにゆっくりほどく。
もう一度、ぺろ。

泥が柔らかくなって、粒がぽろりと落ちた。
シロの呼吸が、一瞬だけ止まる。

『……ほら。こうすると取れるでしょ』

シロは何も言わない。
その代わり、耳の先がほんの少しだけ前へ倒れた。



クマコは顔を上げて、きょとんとする。

『……ん? どうしたの』
『……いや』

短く否定して、シロは別の方向を見る。
目が合わない。

クマコは「そっか」とだけ言って、もう少しだけ毛づくろいを続けた。

ぺろ、ぺろ、と手早く整えると、白い毛並みが戻る。

『ほら、できた。綺麗になったね』

クマコは笑って、ぱっと顔を上げた。

『……助かった』

声は小さい。
でも、それはちゃんと礼だった。

『寝癖、教えてくれたおかえし』

クマコはイタズラっぽく笑って、わざともう一度だけ、ぺろ、と胸元を整える。
――さっき寝癖で恥をかいた、その仕返しだと。

『お前……』

シロは少し呆れたような顔をして、視線を逸らした。

そして、何でもないふうを装って顎で茂みの方を示す。

『……それより。あそこだ』

茂みの陰に、熟したヤマブドウの蔓が山積みになっていた。

『……ブドウ?』
『朝のうちがいい。いっそう甘い』

それだけ言って、シロはもう一度だけ胸元を見た。
落ちた泥が気になるのか、気にならないふりをしたいのか、よく分からない顔だ。

ハルとハラは目を輝かせる――が、クマコの顔をちらりと見てから控えめに近づいた。

『食べていい? クマコねぇ』
『姉上、いただいても……?』
『いいよ。……でも、沢に着いたら顔を洗うんだよ。寝癖も直す』

二匹は揃って返事をしてから、ぱくり、と控えめに噛んだ。
次の瞬間、甘い果汁が弾ける。

『……うま』
『……おいしいです』

声は小さいのに、目が光る。
クマコはそれを見て、肩の力が抜けた。

クマコがシロの隣に腰を下ろすと、シロがぼそりと呟く。

『……沢へ行くのだろう』
『うん。いつものやつ。――シロも顔、洗いに来たら?』
『……行かん』
『なんで』
『冷たい』
『冷たいの苦手なくせに、格好つけるから』
『うるさい』

小熊二匹が遠間でコソコソ話す。

『シロ、カワイイね』
『……聞こえちゃうよ』

次の瞬間、シロの目が細くなる。
小熊二匹を、じろり。

『エヘヘ……』
『ボクは何も言ってないよ?』

二匹が露骨にごまかす。
クマコは口元を押さえて、笑いが漏れるのを必死に堪えた。

クマコはブドウをひと粒だけ口に入れた。

『……甘いね』
『そうだな』

シロの返事はそれだけ。
でも、その一言で十分だった。

――そして。

シロの声の温度が、ふっと落ちた。
遊びの時間は終わりだと言わんばかりに、視線が森の奥――南の方角へ向けられる。

『……風が変わった。わかるか』

言われて、クマコも鼻を動かす。

甘いブドウの香りの裏側。
湿った土の匂いに混じって、微かな違和感。

焦げ臭いような、ピリつく鉄の匂い。

『……鉄の鳥?』
『ああ。羽音は聞こえないが、近くを飛んでいる』

最近、この「空からの監視者」が増えている。
実害はない。ただ見ているだけだ。

けれど、見られているという事実が落ち着かない。

『北を見てくる。尾根で妙な音がした』
『わかった。じゃあ私たちは沢へ行く。岩陰が多いし、姿も隠せる』

会話は短く、簡潔だ。
深入りはしない。けれど、背中を預けられる信頼がある。

シロは立ち上がり、小熊たちへ目を向けた。

『……食べすぎるな。腹を壊す』

『はーい』
『はい、シロ』

ハルが最後に少しだけ近づいて、シロの前足に額をこつんと寄せた。

『シロ、いってらっしゃい』
『……ああ』

シロは一度だけクマコと目を合わせると、音もなく茂みの中へと消えていった。

白い巨体が森の緑に溶けていく。
日常の中に、薄い墨を一滴落としたような不穏さが残った。

クマコは無意識に、左耳のタグに触れた。
霧の奥が――ほんの少しだけ、冷たくなった気がした。

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