令和熊戦紀くまたん〈熊譚〉―熊の少女が人間の少年を拾った日、世界は彼女の敵となった―

LackRock

文字の大きさ
4 / 9
第1章:接触の始点

第3話:冷たい沢とあったか毛皮と変な匂い

しおりを挟む
【前回のあらすじ】(第2話)ハルとハラの賑やかな朝。シロとブドウを分け合う穏やかな時間の終わりに、風が変わり――鉄の鳥の気配が森に滲んだ。南の沢は、朝の顔をしていた。



霧は薄くほどけ、木漏れ日が水面に小さな光を散らす。
澄んだ水の匂い。
濡れた石。
苔の青さ。
沢の流れは絶えず、森の静けさの中でそれだけが確かな音だった。

クマコは沢の縁に腰を下ろし、両手ですくった水を顔にかける。
ひんやりとした感触が、眠気の名残を静かに引き剥がしていった。

『……冷たい。いいね』

少し離れた場所で、ハルとハラが小石を拾って遊んでいる。
水面へ投げて、ぽちゃん、と波紋が広がるのを並んで覗き込む。
騒がないのに、楽しさだけが伝わってくる。

ハルが、ふいに沢へ手を突っ込んだ。

次の瞬間――
びくん、と体を跳ねさせて手を引っ込める。
指先をぶんぶん振り、わざと大げさに眉を寄せた。

『なんなのこれ!なんかに噛まれた!』
『噛まれてないよ。冷たかっただけでしょ』

その横で、ハラは静かに手を入れ、すぐに引き上げた。

『……指がしびれる。秋だ』
『寒いの来ないでほしい!』

ハルがむくれて、クマコの方へ歩いてくる。
冷えた手を見せつけるように突き出した。

『クマコねぇ、あったかいのちょうだい』
『はいはい。こっちおいで』

クマコはハルの手を取り、ぐいっと胸元へ引き寄せる。
毛皮の中へ押し込むように抱え、腕で包んだ。
ハルの肩から、すっと力が抜ける。

『……これ。これがいい』
『じっとして。すぐ戻るから』

それを見て、ハラも黙って近づいてくる。
差し出される手は、ハルより控えめだ。

『…ん』
『うん。おいで』

クマコはハラも反対側へ引き寄せた。

左右に小熊を抱え、三人でひとかたまりになる。
沢の冷たい気配は外に残り、内側には体温だけが増えていく。

ハルが鼻先をクマコの胸に押し当て、満足そうに息を吐いた。

『クマコねぇ、ぬくぬく』
『……落ち着く』
『ふふ。冷たい水に手を入れに行ったのは、自分たちでしょ』
『だって気になったんだもん』
『勉強』
『勉強はいいけど、風邪ひくからほどほどにね』

ハルが「はーい」と小さく返事をして、ハラも真面目に頷いた。

沢の音が一定のリズムで耳に届く。
三人の呼吸が、少しずつ揃っていく。

朝の森は、まだやさしい。

――そのやさしさが、ふっと薄まった。

沢の音が、妙に大きく聞こえる。
鳥の声が途切れ、葉擦れも消えたように感じる。
ハルが蹴った石が、ころん、と乾いた音を立てた。

『……ねぇ』
『……匂い』

二匹の鼻が同時に動く。

薄くて、人工的で、頼りない匂い。
そして、微かな血。
クマコも息を吸って、背中が粟立つ。

森の匂いじゃない。
獣の脂でも、土でもない。

――人の匂いだ。

クマコの胸の奥が冷える。
檻。
鉄格子。
甘い餌。
耳の奥で鳴った、あの硬い音。
身体が、勝手に覚えている。

クマコは一歩前へ出た。
二匹の前に立ち、背中で庇う。
目線だけを二匹に戻す。

『……ハル。ハラ。こっちを見て』

二匹がすぐに顔を上げる。
今は、その素直さがありがたい。

『遊びは終わり。巣に戻りなさい。……シロを探して、見つけたら離れないで』
『……え? どうしたの、クマコねぇ……?』
『匂い? 何か、いた?』
『大丈夫。すぐ戻る。だから――シロのそばにいて』
『……わかった。クマコねぇ、待ってる』
『姉上、すぐ帰ってきてね……』
『……うん。いい子』

その「すぐ」が、どれだけ長くなるかを――クマコはまだ知らない。

二匹が森の奥へ消えていく。
足音が遠ざかるにつれて、心臓の音がはっきりしてくる。

大切なものは、危険なこの場からは離した。

匂いを追う。
音を立てない。
枝を揺らさない。

距離は匂いで測る。
しかし、ずいぶん匂いが弱い。
不思議な感じだ。
よく嗅ぎ取れない。

木々が少しだけ開ける。
木漏れ日が斜めに落ち、光の粒が漂う小さな空間。

その中心に、小さい影があった。

人の子供?

泥にまみれ、肩を抱くようにうずくまっている。
片足は赤く濡れ、血が土に吸われて黒ずんでいた。
息が浅く、身体が小刻みに震えている。

人は危険だ。関わるべきではない。

そう分かっているのに、足が止まる。

子供の手が宙を掻く。
掴めない。
力がない。
それでも生きようとして、指が微かに動く。

その動きが、胸の奥を刺した。

冷たい鉄格子。
甘い匂い。
震えるしかなかった、あの日。

……同じだ。

枝が小さく鳴る。
子供が弾かれたように顔を上げた。

目が合う。


泣いているのに声が出ない。
恐怖が喉を塞ぎ、息だけが漏れる。
肩が、凍えるように震える。

その瞬間――

ブゥゥゥゥン。

森の音ではない、低い羽音。

木々の隙間から、黒い機体が降下してくる。
赤い単眼が、地上をなぞる。

(……まずい)

ここで見つかれば、騒ぎになる。
この子のためじゃない。
森のためだ。

鉄の鳥が“何か”を知れば、空がざわつく。
もっと来る。
もっと覗きに来る。
もっと低く飛ぶ。

そうなれば、巣も、沢も、皆で駆け回った遊び場も――平穏ではなくなる。
ハルとハラの場所まで、嗅ぎまわられる。

それだけは、嫌だった。

子供が人間に見つけられれば、迎えが来る。
――本当は、それだけの話だ。

もし鉄の鳥が、ここで少年を見つけていたなら――
森は、いつも通りの朝が迎えられるはずだった。

だがクマコにとって鉄の鳥は違う。
あの赤い目に捉えられたら――何かを奪われる。
弱って震える命ごと、どこかへ持っていかれる。

そんな気がした。

正しいかどうかなんて、考えられなかった。
考えるより先に、身体が動く。

……見つけさせた方が早い。分かっている。

ガサッ!

クマコは少年の前に飛び出し、覆いかぶさるように視線を遮った。

少年が息を呑む。
声が出ない。
クマコは少年の背中の布を、歯先でそっとつまんだ。

強く噛まない。
痛くしない。
運ぶための力加減。

抵抗はない。
ただ恐怖で、身体が硬い。

走らない。
影を選び、遮蔽物を使い、音を切る。

羽音が追ってくる。

洞窟へ滑り込み、闇に身を沈める。

外で、羽音が戻ってくる。

ブゥン……ブゥン……と、洞窟の入口をなぞるように旋回し始めた。
サーチライトの光が、洞窟の壁に一瞬だけ走る。

白い線が闇を切り裂き、すぐに消える。
同じ角度で、同じ距離で、何度も入口をなぞる。
まるで「ここにいるだろ」と決めつけているみたいに。

けれど機体は、入口を越えてこない。
洞窟の奥は、電波が届きにくい。
機体損失リスクが高い地形には侵入しないように設計されている。
見えない繋ぐ糸が薄くなれば、この鉄の鳥は戻れなくなる。

旋回が、少しずつ大きくなる。
入口から距離を取り、もう一度だけ光を流す。

――そして、羽音が遠ざかった。

静けさが戻る。
ただ、洞窟の外の空気だけが、まだ落ち着かない。

クマコは身を低くし、少年の肩に前足を添えた。
押すのではなく、影の奥へ導くように。

息を殺す。
少年の喉が、小さく鳴った。
震えが止まらない。

クマコは入口から目を離せない。
監視が終わったとは、言い切れない。

奥歯を噛みしめる。

助けてしまった。
拾ってしまった。
弱って震える少年を、匿って連れてきてしまった。

まだ――何も始まっていない。終わってもいない。

※次は本日23:50更新。よければ お気に入り登録 をお願いします。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

屈辱と愛情

守 秀斗
恋愛
最近、夫の態度がおかしいと思っている妻の名和志穂。25才。仕事で疲れているのかとそっとしておいたのだが、一か月もベッドで抱いてくれない。思い切って、夫に聞いてみると意外な事を言われてしまうのだが……。

JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――

のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」 高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。 そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。 でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。 昼間は生徒会長、夜は…ご主人様? しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。 「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」 手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。 なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。 怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。 だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって―― 「…ほんとは、ずっと前から、私…」 ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。 恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。

彼の言いなりになってしまう私

守 秀斗
恋愛
マンションで同棲している山野井恭子(26才)と辻村弘(26才)。でも、最近、恭子は弘がやたら過激な行為をしてくると感じているのだが……。

セクスカリバーをヌキました!

ファンタジー
とある世界の森の奥地に真の勇者だけに抜けると言い伝えられている聖剣「セクスカリバー」が岩に刺さって存在していた。 国一番の剣士の少女ステラはセクスカリバーを抜くことに成功するが、セクスカリバーはステラの膣を鞘代わりにして収まってしまう。 ステラはセクスカリバーを抜けないまま武闘会に出場して……

旧校舎の地下室

守 秀斗
恋愛
高校のクラスでハブられている俺。この高校に友人はいない。そして、俺はクラスの美人女子高生の京野弘美に興味を持っていた。と言うか好きなんだけどな。でも、京野は美人なのに人気が無く、俺と同様ハブられていた。そして、ある日の放課後、京野に俺の恥ずかしい行為を見られてしまった。すると、京野はその事をバラさないかわりに、俺を旧校舎の地下室へ連れて行く。そこで、おかしなことを始めるのだったのだが……。

触手エイリアンの交配実験〜研究者、被験体になる〜

桜井ベアトリクス
恋愛
異星で触手エイリアンを研究する科学者アヴァ。 唯一観察できていなかったのは、彼らの交配儀式。 上司の制止を振り切り、禁断の儀式を覗き見たアヴァは―― 交わる触手に、抑えきれない欲望を覚える。 「私も……私も交配したい」 太く長い触手が、体の奥深くまで侵入してくる。 研究者が、快楽の実験体になる夜。

愛しているなら拘束してほしい

守 秀斗
恋愛
会社員の美夜本理奈子(24才)。ある日、仕事が終わって会社の玄関まで行くと大雨が降っている。びしょ濡れになるのが嫌なので、地下の狭い通路を使って、隣の駅ビルまで行くことにした。すると、途中の部屋でいかがわしい行為をしている二人の男女を見てしまうのだが……。

転移先で日本語を読めるというだけで最強の男に囚われました

桜あずみ
恋愛
異世界に転移して二年。 言葉も話せなかったこの国で、必死に努力して、やっとこの世界に馴染んできた。 しかし、ただ一つ、抜けなかった癖がある。 ──ふとした瞬間に、日本語でメモを取ってしまうこと。 その一行が、彼の目に留まった。 「この文字を書いたのは、あなたですか?」 美しく、完璧で、どこか現実離れした男。 日本語という未知の文字に強い関心を示した彼は、やがて、少しずつ距離を詰めてくる。 最初はただの好奇心だと思っていた。 けれど、気づけば私は彼の手の中にいた。 彼の正体も、本当の目的も知らないまま。すべてを知ったときには、もう逃げられなかった。 【ご報告】 2月28日より、第五章の連載を再開いたします。毎週金・土・日の20時に更新予定です。 また、誤字脱字の修正および一部表現の見直しを行いました。ただし、記載内容の趣旨に大きな変更はございません。 引き続きよろしくお願いいたします。

処理中です...