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第1章:接触の始点
第4話:暖かい場所
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【前回のあらすじ】(第3話)匂いの先で、クマコは傷ついた少年と出会う。鉄の鳥の降下を避け、洞窟へ匿った。羽音は去ったが、監視は終わったとは言えない。洞窟の奥は、冷たかった。
◆
外の光は入口で折れて、闇に飲まれていく。
湿った岩肌から水がにじむ。
ぽたり、ぽたり。
苔と土と、古い獣の匂い。
――そして今は、かすかな血の匂いが混じっていた。
クマコは息を殺したまま、耳を澄ます。
さっきまで入口付近を旋回していた羽音は、しばらくして遠ざかった。
鉄の鳥は入口を何度かなぞるように旋回したあと、やがて高度を上げて離れていった。
完全に去ったわけじゃない。
ただ、「今は追わない」と判断された――そんな気配だけが残る。
洞窟の外の空気は、まだ張りつめている。
背中の方で、小さな音がした。
少年が、身じろぎしたのだ。
震えた肩が岩に触れて、かすかに擦れる。
呼吸は浅く、速い。
泣き声は出さない。
喉の奥で押しつぶされている。
クマコはゆっくり振り向いた。
闇に目が慣れるにつれ、少年の輪郭が浮かび上がる。
小さく、弱そう。
泥で黒ずんだ上着が、肩に張りついている。
片足は布の下まで赤く、血が乾ききらずに鈍く光っていた。
目だけが大きい。
まばたきの回数がやけに多くて、喉が鳴るたびに身体がびくりと跳ねる。
逃げたいのに、逃げる力がない。
それが、見ただけで分かった。
目が合う。
少年は、すぐに視線を逸らさない。
逃げ場がないからだ。
逃げ場がないのに、目の前の巨大な存在が「襲ってこない」ことが、理解できずにいる。
その不可解さが、恐怖を長引かせていた。
クマコは一歩近づき――止まる。
これ以上距離を詰めれば、少年の心が壊れてしまう気がした。
だから、鳴き声は抑える。
代わりに、身体を使って伝えようとする。
前足を折り、腹を地面につける。
攻撃する姿勢ではなく、休むための姿勢。
大きさを、小さく見せるための形。
それでも、少年の肩は強張ったままだ。
クマコは、呼吸をゆっくり吐く。
洞窟の闇がその温度を受け取り、わずかにやわらぐ。
少年の手が、震えながら動いた。
何かを探すように、空を掻く。
けれど力が入らず、そのまま落ちる。
弱い。
放っておけば、簡単に死ぬ。
森では、そう珍しいことじゃない。
それでも――今は、それを「よくあること」にできなかった。
理由は分からない。
考えるより先に、身体が決めている。
クマコは、少年の少し手前で身体の向きを横にした。
真正面から向き合わない。
視線が合い続ければ、少年の恐怖は消えない。
腹の毛を広げるようにして、ゆっくり横たわる。
少年と同じ高さになるように。
闇の中で、二つの呼吸が並ぶ。
大きな呼吸と、小さな呼吸。
小さい方は途切れがちで、何度も引っかかる。
少年の喉が、かすかに鳴った。
「……さむ……い……」
言葉の意味は、クマコには分からない。
けれど、声の震えと、呼気の弱さが限界を告げている。
クマコは腹をずらした。
近づくのではない。
自分の温かさを、少年の方へ寄せる。
岩の冷えを遮るように、毛皮の壁を置く。
触れない。
だが、寒さは通さない距離感。
少年は一瞬、固まった。
逃げたいのに動けない身体が、さらに縮こまる。
次の瞬間。
小さな身体が、ふらりと倒れた。
自分で支えられない。
恐怖より先に、限界が来た。
少年の額が、クマコの腹の毛に触れる。
一瞬だけ跳ねて――そのまま、しがみついた。
掴む。
毛皮を。
温度を。
生きているものを。
クマコは呼吸を止める。
壊れそうで、怖い。
少年の指は冷たく、弱く、それでも何かを掴もうと必死だった。
クマコは前足をそっと動かす。
押さえつけない。
囲い込まない。
ただ、落ちないように添える。
少年はすぐには安心できない。
しがみついたまま、怯える目だけがクマコを見上げている。
クマコは息を整え、低く声を落とした。
『……だいじょうぶ。……噛まない』
意味は届かない。
ただ、怒っていないような低い音だけが伝わる。
怒っていない。
それだけが、耳に残る。
少年は恐る恐る、指先でクマコの毛を撫でた。
確かめるように、何度も。
そのたびに、クマコは動かない。
やがて少年の肩が、ほんの少しだけ落ちた。
喉の奥で詰まっていたものがほどけ、細い息が長く吐き出される。
「……だい……じょ……ぶ……」
言葉は分からない。
けれど、匂いが変わった。
尖っていた怯えが、わずかに薄れる。
少年はクマコの腹の毛に頬を押し当てた。
温かさが、身体の奥まで染みていくみたいに。
クマコは、さらに声を落とす。
『……そう。……そこで、いい』
少年は答えない。
だが、逃げようとする力が抜けていく。
呼吸が軽くなる。
ひゅ、ひゅ、と引っかかっていた音が消え、細い寝息に変わる。
少年が、もう一度だけ声を出した。
「……あったかい……」
短い。
でもその声は、さっきより安堵していた。
まぶたが、ゆっくり閉じていく。
怖いのに、眠い。
眠ってはいけないのに、身体が言うことをきかない。
最後に、少年はクマコの毛皮に頬を預けた。
涙か汗か分からない湿り気が残る。
クマコは、それを振り払わなかった。
洞窟の闇の中で、二つの命が寄り添う。
外の世界はまだ尖っているのに、ここだけが薄い布で包まれたように静かだった。
――……これから、どうしよう。
答えは出ない。
出ないまま、夜は深くなる。
そして――
遠く、森の上のどこかで。
もう一度だけ、低い羽音がした気がした。
※明日からは 毎日20:50更新 です。よければ お気に入り登録 をお願いします。
◆
外の光は入口で折れて、闇に飲まれていく。
湿った岩肌から水がにじむ。
ぽたり、ぽたり。
苔と土と、古い獣の匂い。
――そして今は、かすかな血の匂いが混じっていた。
クマコは息を殺したまま、耳を澄ます。
さっきまで入口付近を旋回していた羽音は、しばらくして遠ざかった。
鉄の鳥は入口を何度かなぞるように旋回したあと、やがて高度を上げて離れていった。
完全に去ったわけじゃない。
ただ、「今は追わない」と判断された――そんな気配だけが残る。
洞窟の外の空気は、まだ張りつめている。
背中の方で、小さな音がした。
少年が、身じろぎしたのだ。
震えた肩が岩に触れて、かすかに擦れる。
呼吸は浅く、速い。
泣き声は出さない。
喉の奥で押しつぶされている。
クマコはゆっくり振り向いた。
闇に目が慣れるにつれ、少年の輪郭が浮かび上がる。
小さく、弱そう。
泥で黒ずんだ上着が、肩に張りついている。
片足は布の下まで赤く、血が乾ききらずに鈍く光っていた。
目だけが大きい。
まばたきの回数がやけに多くて、喉が鳴るたびに身体がびくりと跳ねる。
逃げたいのに、逃げる力がない。
それが、見ただけで分かった。
目が合う。
少年は、すぐに視線を逸らさない。
逃げ場がないからだ。
逃げ場がないのに、目の前の巨大な存在が「襲ってこない」ことが、理解できずにいる。
その不可解さが、恐怖を長引かせていた。
クマコは一歩近づき――止まる。
これ以上距離を詰めれば、少年の心が壊れてしまう気がした。
だから、鳴き声は抑える。
代わりに、身体を使って伝えようとする。
前足を折り、腹を地面につける。
攻撃する姿勢ではなく、休むための姿勢。
大きさを、小さく見せるための形。
それでも、少年の肩は強張ったままだ。
クマコは、呼吸をゆっくり吐く。
洞窟の闇がその温度を受け取り、わずかにやわらぐ。
少年の手が、震えながら動いた。
何かを探すように、空を掻く。
けれど力が入らず、そのまま落ちる。
弱い。
放っておけば、簡単に死ぬ。
森では、そう珍しいことじゃない。
それでも――今は、それを「よくあること」にできなかった。
理由は分からない。
考えるより先に、身体が決めている。
クマコは、少年の少し手前で身体の向きを横にした。
真正面から向き合わない。
視線が合い続ければ、少年の恐怖は消えない。
腹の毛を広げるようにして、ゆっくり横たわる。
少年と同じ高さになるように。
闇の中で、二つの呼吸が並ぶ。
大きな呼吸と、小さな呼吸。
小さい方は途切れがちで、何度も引っかかる。
少年の喉が、かすかに鳴った。
「……さむ……い……」
言葉の意味は、クマコには分からない。
けれど、声の震えと、呼気の弱さが限界を告げている。
クマコは腹をずらした。
近づくのではない。
自分の温かさを、少年の方へ寄せる。
岩の冷えを遮るように、毛皮の壁を置く。
触れない。
だが、寒さは通さない距離感。
少年は一瞬、固まった。
逃げたいのに動けない身体が、さらに縮こまる。
次の瞬間。
小さな身体が、ふらりと倒れた。
自分で支えられない。
恐怖より先に、限界が来た。
少年の額が、クマコの腹の毛に触れる。
一瞬だけ跳ねて――そのまま、しがみついた。
掴む。
毛皮を。
温度を。
生きているものを。
クマコは呼吸を止める。
壊れそうで、怖い。
少年の指は冷たく、弱く、それでも何かを掴もうと必死だった。
クマコは前足をそっと動かす。
押さえつけない。
囲い込まない。
ただ、落ちないように添える。
少年はすぐには安心できない。
しがみついたまま、怯える目だけがクマコを見上げている。
クマコは息を整え、低く声を落とした。
『……だいじょうぶ。……噛まない』
意味は届かない。
ただ、怒っていないような低い音だけが伝わる。
怒っていない。
それだけが、耳に残る。
少年は恐る恐る、指先でクマコの毛を撫でた。
確かめるように、何度も。
そのたびに、クマコは動かない。
やがて少年の肩が、ほんの少しだけ落ちた。
喉の奥で詰まっていたものがほどけ、細い息が長く吐き出される。
「……だい……じょ……ぶ……」
言葉は分からない。
けれど、匂いが変わった。
尖っていた怯えが、わずかに薄れる。
少年はクマコの腹の毛に頬を押し当てた。
温かさが、身体の奥まで染みていくみたいに。
クマコは、さらに声を落とす。
『……そう。……そこで、いい』
少年は答えない。
だが、逃げようとする力が抜けていく。
呼吸が軽くなる。
ひゅ、ひゅ、と引っかかっていた音が消え、細い寝息に変わる。
少年が、もう一度だけ声を出した。
「……あったかい……」
短い。
でもその声は、さっきより安堵していた。
まぶたが、ゆっくり閉じていく。
怖いのに、眠い。
眠ってはいけないのに、身体が言うことをきかない。
最後に、少年はクマコの毛皮に頬を預けた。
涙か汗か分からない湿り気が残る。
クマコは、それを振り払わなかった。
洞窟の闇の中で、二つの命が寄り添う。
外の世界はまだ尖っているのに、ここだけが薄い布で包まれたように静かだった。
――……これから、どうしよう。
答えは出ない。
出ないまま、夜は深くなる。
そして――
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引き続きよろしくお願いいたします。
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