令和熊戦紀くまたん〈熊譚〉―熊の少女が人間の少年を拾った日、世界は彼女の敵となった―

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第2章:空白の検索結果(ゼロリザルト)

第3話:ドーナツホール

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【前回のあらすじ】(第2話)
澪は職場へ向かう車中で、行方不明の少年のニュースを見ていた父の横顔から、母・神代沙耶との「一週間」を思い出す。
澪は駅前の喫茶店で久しぶりに母と会い、ぎこちない会話の中で初めて笑った。母は「来週も会える?」と約束を求め、「見せたいものがある」と言い残す。
だが「来週」が来る前に、母は山で熊に襲われて死んだ――「時間がある時なら」は、結局“ない”と同じだった。



ECO-SCAN管理局――通称「EDS(Eco-scan Data Station)」。

官民合同で設立されたこの施設は、国の防災拠点も兼ねている。

エントランスのセキュリティゲートを抜け、エレベーターで最上階へ。
ガラス張りのオペレーションルームに入ると、完璧に管理された冷暖房の空気が、無機質に肌を撫でた。

壁一面を覆う巨大なメインスクリーンには、日本地図が映し出されている。
無数の光点が、リアルタイムで動いていた。

青は監視ドローン。
赤は追跡中の野生動物。

すべてが数値化され、IDを与えられ、コントロール下に置かれている。

ここには、泥の臭いも、獣の息遣いもない。

あるのは――清潔なデータだけだ。

「あ、八雲先輩! おはようございます」

緊張感のあるフロアに、場違いに間延びした声が響いた。

デスクの影から顔を出したのは、袖石羊(そでいし・よう)だ。

白衣を羽織った細身の体。
着こなしはどこか気取らず、肩の力が抜けている。

袖石は「んぐ」と喉を鳴らしてドーナツを飲み込み、口元の砂糖を親指で拭った。

短く整えられた黒髪。
顎には薄く無精ひげ。
丸いフレームの眼鏡が、柔らかな印象を添えていた。

首から下げたIDカードが、動くたびに小さく揺れる。
研究者としては珍しく、現場にも馴染みそうな雰囲気がある。

外部機関からの出向組で、澪の助手。
年齢は澪よりいくつか上のはずだが、その飄々とした態度のせいか、上下関係を意識させない。

「おはよう、袖石。……ドーナツの粉、キーボードに落とさないでよ」
「大丈夫ですよぉ。私、食べるの上手なんです。ほら、一口」
「……頬張りすぎ。リスじゃないんだから」

澪は呆れつつ、自分のデスクに鞄を置いた。

袖石は――ほんの少しだけ、表情を引き締めた。
仕事に戻る合図のように。

「で、先輩。昨日の『遭難案件』の件ですけど」
「ああ。解析終わった?」

澪はモニターを起動し、ログを確認する。

昨日の午後から今朝にかけて、遭難現場周辺の山域をスキャンしたドローンのデータ。
何テラバイトもの映像データと熱源解析ログ。
AIによる一次解析の結果は、すでに画面に表示されていた。

《RESULT: 0 (ZERO)》
《NO MATCH FOUND》

「……ゼロ?」

澪は眉をひそめた。

該当なし。
人間サイズの熱源反応も、形状一致も、音声データも。
すべて「検出されず」だった。

「はい。ゼロです。再スキャンも三回かけましたけど、結果は同じです」
「リス一匹、タヌキ一匹まで拾ってるのに、人間だけがいません」
「不思議ですよねぇ。まるで透明人間だ」
「……光学迷彩じゃあるまいし」
「でもぉ、岩の隙間も木の洞も、全部なめ回すように撮ってます」
「これで映ってないなら、その子は透明になって消えたか、あるいは――」

袖石は言葉を切り、少しだけ声を落とした。

「――すでに、熱を持っていないか」

冷たくなっていれば、サーモグラフィーには映らない。

あるいは、何者かに捕食され、バラバラになっていれば――
形状認識も機能しない。

澪は唇を結んだ。

脳裏に、母の最期の現場写真がフラッシュバックする。
赤黒い染みと、原型を留めていない何か。

「……これだけのカバー範囲よ。移動したとしても、痕跡くらいは残るはず」

澪はキーボードを叩き、別レイヤーのデータを呼び出す。
熊の個体識別データだ。

「このエリアの熊の動きは?」
「数頭いましたけど、みんな遭難現場からは離れてますね。接触した形跡はありません」

画面には、数点の赤い光点が表示されている。
だが、どれも現場から数キロ以上離れていた。

澪は誰にも気づかれない速さで、画面のレイヤーを切り替える。

捜索範囲外の北の森。
そこに、澪だけが知る緑色の光点がある。

(……よかった。あの子は、遠くにいる)

少年がいるはずの場所と、その光点がある場所。
距離は二十キロ以上。無関係だ。

澪は心の中で安堵の息をつき、すぐに画面を元に戻した。

「……接触はなしか」

システム上は「接触なし」。

データは嘘をつかない。
少年はいない。熊も関与していない。

だとすれば、少年はどこへ消えたのか。

捜索範囲の設定自体が間違っている?
いや、目撃証言とGPSの最終消失地点はここだ。

ここから動いていないはずなのに、ここにはいない。

「……黒崎代表への報告は?」
「十分後です。会議室でお待ちかねですよ」

袖石はいつもの調子で答え、軽く肩をすくめた。

澪は立ち上がる。

「行くわよ。……事実(データ)だけを報告するわ」

冷たい床をヒールで鳴らし、会議室へ向かう。

背後で――

「ZERO」

その文字だけが、静かに明滅していた。

※次回は明日21:00更新。よければお気に入り登録をお願いします。
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