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シモーヌの場合は、あまりにもおばかさん。----ヴェイユ素描----〈5〉
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ヴェイユ自身にも、自分自身では選んで出て行くことができないような、彼女自身の不幸という孤島があった。短い工場体験の中で彼女が直面したのは、他人である工場労働者たち一般の不幸であるより、なおさらのこととして自分自身に染み込んでいる自分自身の不幸ではなかったか。
彼女の終生の持病だった、慢性的な激しい頭痛。それは「潜伏性竇炎(とうえん)」あるいは「全副鼻腔炎」に起因するものであったと考えられている。思春期の頃から、事あるごとに頻繁に繰り返し彼女を苦しめ続け、そのさなかでは話すことも食べることも眠ることさえ困難になるような激しい痛み。それはやがて彼女自身の感覚において、我が身の不幸そのものの象徴であるかのように見出されていったと思われる。
「…身体の素質の方からヴェイユの思想の旋回をみてゆくと、このはげしい頭痛の発作は、大切な契機になっていることがわかる。〈慢性の肉体的苦痛〉は、たんにその都度の肉体の苦痛とまったくちがう、とヴェイユはいっている。それは根源的な不幸のひとつなのだ。ヴェイユの言葉でいえば、〈生命が根こそぎにされる不幸〉にほかならない。そして〈生命が根こそぎにされる不幸〉は、不幸という概念をテコに、肉体的なところからはじまって精神にも、社会にもおしひろげられ、徹底してゆく。不幸な魂の状態によって、人間のかんがえはピンでとめられて、遠くまで行けなくなってしまう。逆にいえば、生命が根こそぎにされることの根源的な不幸にふれえないような不幸は、ほんとの不幸とはいえないというかんがえにヴェイユはたどりつく。…」(※1)
ヴェイユ自身は「不幸」なるものについて次のように言っている。
「…不幸は、人生を根だやしにするものであり(中略)いわば死と相等しいものであり、肉体的な苦痛をともなっておそいかかったり、または、肉体的な苦痛の接近を不安がらせたりして、否応なくたましいの目の前に立ちはだかるのである。…」(※2)
「…苦痛の度合がどんなに軽いものであっても、肉体的な苦痛におそわれて、否応なく、不幸の現存を思考の中でみとめなければならなくなるとき、いわば、死刑囚がやがて自分の首を切断するはずの断頭台を、何時間もの間じっと眺めていなければなならない状態と、同じすさまじい状態が生じる。…」(※3)
ヴェイユは無論「肉体的苦痛そのもの」を不幸と言っているわけではないし、「どの程度の苦痛ならば不幸に該当するか?」などということを言っているのでもない。むしろヴェイユは、もし苦痛が肉体的なものにとどまるならば、それはあくまでも「個人的な不幸」であり、いわばそれは「半分だけの不幸」なのだとする。
人は、ある肉体的苦痛を現に感じるときばかりでなく、それが「まだ我が身に襲いかかってきてはいない」のにもかかわらず、あるいはそれが「すでに我が身から過ぎ去った」のにもかかわらず、再び、あるいは初めてか、そのいずれにせよ「その我が身への接近が予感されるだけ」でも、不幸はその人の魂の中で、あるいはまたその社会的関係の中で再現され、彼はその不幸の中で身動きすることもできず、自分自身では避けることもできないようなものとして、不幸は彼の目の前に立ちはだかる。たとえ苦痛が現に感じられているものでなくとも、それが繰り返しおとずれるのが「予感」され、なおかつ「その予感がほぼ確実である」という、その状態全体が、人を不幸の真っ只中に押し留める=閉じ込めることとなる。
予感の只中で苦痛の訪れをあたかも自分自身として待っているかのような、「その状態そのもの」が彼を不幸にしている。予感は、思考=精神=魂において感じられている不幸であり、「待っている」という行為は、「社会的なものに関連づけられる不幸」であると言える。このようにして不幸は、「苦痛それ自体」である以上に、「その人の人生、あるいはその生命全体」に対して、一体となって襲いかかってくるものなのだと言える。
(つづく)
◎引用・参照
(※1)吉本隆明『甦えるヴェイユ』
(※2)ヴェイユ「神への愛と不幸」(『神を待ちのぞむ』所収)
(※3)ヴェイユ「神への愛と不幸」(『神を待ちのぞむ』所収)
◎参考書籍
シモーヌ・ヴェイユ
『抑圧と自由』(石川湧訳 東京創元社)
『労働と人生についての省察』(黒木義典・田辺保訳 勁草書房)
『神を待ちのぞむ』(田辺保・杉山毅訳 勁草書房)
『重力と恩寵』(田辺保訳 ちくま学芸文庫)
『シモーヌ・ヴェイユ アンソロジー』(今村純子編訳 河出文庫)
吉本隆明
『甦るヴェイユ』(JICC出版局)
冨原真弓
『人と思想 ヴェーユ』(清水書院)
彼女の終生の持病だった、慢性的な激しい頭痛。それは「潜伏性竇炎(とうえん)」あるいは「全副鼻腔炎」に起因するものであったと考えられている。思春期の頃から、事あるごとに頻繁に繰り返し彼女を苦しめ続け、そのさなかでは話すことも食べることも眠ることさえ困難になるような激しい痛み。それはやがて彼女自身の感覚において、我が身の不幸そのものの象徴であるかのように見出されていったと思われる。
「…身体の素質の方からヴェイユの思想の旋回をみてゆくと、このはげしい頭痛の発作は、大切な契機になっていることがわかる。〈慢性の肉体的苦痛〉は、たんにその都度の肉体の苦痛とまったくちがう、とヴェイユはいっている。それは根源的な不幸のひとつなのだ。ヴェイユの言葉でいえば、〈生命が根こそぎにされる不幸〉にほかならない。そして〈生命が根こそぎにされる不幸〉は、不幸という概念をテコに、肉体的なところからはじまって精神にも、社会にもおしひろげられ、徹底してゆく。不幸な魂の状態によって、人間のかんがえはピンでとめられて、遠くまで行けなくなってしまう。逆にいえば、生命が根こそぎにされることの根源的な不幸にふれえないような不幸は、ほんとの不幸とはいえないというかんがえにヴェイユはたどりつく。…」(※1)
ヴェイユ自身は「不幸」なるものについて次のように言っている。
「…不幸は、人生を根だやしにするものであり(中略)いわば死と相等しいものであり、肉体的な苦痛をともなっておそいかかったり、または、肉体的な苦痛の接近を不安がらせたりして、否応なくたましいの目の前に立ちはだかるのである。…」(※2)
「…苦痛の度合がどんなに軽いものであっても、肉体的な苦痛におそわれて、否応なく、不幸の現存を思考の中でみとめなければならなくなるとき、いわば、死刑囚がやがて自分の首を切断するはずの断頭台を、何時間もの間じっと眺めていなければなならない状態と、同じすさまじい状態が生じる。…」(※3)
ヴェイユは無論「肉体的苦痛そのもの」を不幸と言っているわけではないし、「どの程度の苦痛ならば不幸に該当するか?」などということを言っているのでもない。むしろヴェイユは、もし苦痛が肉体的なものにとどまるならば、それはあくまでも「個人的な不幸」であり、いわばそれは「半分だけの不幸」なのだとする。
人は、ある肉体的苦痛を現に感じるときばかりでなく、それが「まだ我が身に襲いかかってきてはいない」のにもかかわらず、あるいはそれが「すでに我が身から過ぎ去った」のにもかかわらず、再び、あるいは初めてか、そのいずれにせよ「その我が身への接近が予感されるだけ」でも、不幸はその人の魂の中で、あるいはまたその社会的関係の中で再現され、彼はその不幸の中で身動きすることもできず、自分自身では避けることもできないようなものとして、不幸は彼の目の前に立ちはだかる。たとえ苦痛が現に感じられているものでなくとも、それが繰り返しおとずれるのが「予感」され、なおかつ「その予感がほぼ確実である」という、その状態全体が、人を不幸の真っ只中に押し留める=閉じ込めることとなる。
予感の只中で苦痛の訪れをあたかも自分自身として待っているかのような、「その状態そのもの」が彼を不幸にしている。予感は、思考=精神=魂において感じられている不幸であり、「待っている」という行為は、「社会的なものに関連づけられる不幸」であると言える。このようにして不幸は、「苦痛それ自体」である以上に、「その人の人生、あるいはその生命全体」に対して、一体となって襲いかかってくるものなのだと言える。
(つづく)
◎引用・参照
(※1)吉本隆明『甦えるヴェイユ』
(※2)ヴェイユ「神への愛と不幸」(『神を待ちのぞむ』所収)
(※3)ヴェイユ「神への愛と不幸」(『神を待ちのぞむ』所収)
◎参考書籍
シモーヌ・ヴェイユ
『抑圧と自由』(石川湧訳 東京創元社)
『労働と人生についての省察』(黒木義典・田辺保訳 勁草書房)
『神を待ちのぞむ』(田辺保・杉山毅訳 勁草書房)
『重力と恩寵』(田辺保訳 ちくま学芸文庫)
『シモーヌ・ヴェイユ アンソロジー』(今村純子編訳 河出文庫)
吉本隆明
『甦るヴェイユ』(JICC出版局)
冨原真弓
『人と思想 ヴェーユ』(清水書院)
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