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シモーヌの場合は、あまりにもおばかさん。----ヴェイユ素描----〈10〉
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不幸と向き合い、それに敢えて自ら関わろうとする力、注意力。それは自然のうちに身につくようなものではない。「…おそらくはすべての努力のうちで最大の努力…」(※1)を払わなければ、ならないものなのだ、とヴェイユは言う。
「…不幸な人に注意をむけることのできる能力は、めったに見られないものであり、大へんむつかしいものである。それは、ほとんど奇跡に近い。奇跡であるといってもよい。そういう能力を持っていると信じこんでいる人々の中のほとんどは、実際は持っていないのである。…」(※2)
一時的な同情を差し向けて、自分は不幸な人に関心を持っている、「善意」をもって彼らに接している、などという人は、単に思い上がっているのにすぎないのだ。なぜなら彼らは、不幸を見なくてもいいとき・見たくないときには、いつでも見ないでもいられる。不幸の孤島からいつでも任意に出て行くことができる。彼ら自身は少しも不幸ではないのだから。
一方で、そのような注意=関心を向けられた当の「不幸な人々」は、一体どう思うことだろうか。
「…不幸のために自分自身が傷ついている人たちは、ほかのだれに対しても救いをさしのべることのできる状態にはいないし、そうしたいと思うことすら、まずありえないであろう。…」(※3)
「普通」の人たちが注意力を自然に身につけてなどいないように、「不幸な人々」もまたその力を自然には手中にはしていない。だから、自分自身が現に不幸であるような人が、他人の不幸に注意=関心を向けるということはまずありえないことなのだ。不幸な人の関心事は、まず第一に「自分の不幸」であり、普通の人よりさらに一層、「自分の不幸」に注意を傾けるのに精一杯だ。
「不幸な私」に注意=関心を向けることができるような人は、自分自身では「不幸ではない人」なのだ。そうに決まっている。自分自身が不幸である人もまた、やはりそのように思うことだろう。
また、「私の不幸」に、注意=関心を向けてくる人があるとしても、その人は何らかの「魂胆を持っている」のではないか?私の不幸を単に彼の魂胆で染め上げてしまおうというだけではないのか?
「…ほどこしは(中略)ものを買う行為とそうかわらない。ほどこしによって、不幸な者を買おうとするのだ。…」(※4)
私の不幸を「自分の利益」に転化させたいがために、あなたは私に近寄ってきて、私の不幸を「買おうとしている」のにすぎないのではないのか?そして、私の不幸を吸い尽くしたら、あなたは私を「不幸にしたまま」で立ち去ってしまうだけではないのか?
そのような、不幸な人の抱く疑念について、まさに「不幸な人」であったヴェイユ自身がこのように証言している。
「…たとえいかなる人間にせよ、またどのような状況においてであれ、私に対して粗暴でない話し方をいたしますときには、この人は間違っているにちがいない、その間違いは、不幸なことに、たぶんうやむやに消散してしまうだろうという印象を抱かざるを得ないのです。…」(※5)
「粗暴ではない」というだけで、それが何か積極的ないたわりであるように受け取れてしまうとしたら、それはそれであまりに過敏であるが、そのようなものでさえ他人から受け取る機会のないのがまさしく不幸、ということなのであろう。それはそれとして、そのように「私に注意=関心を向けている(と私には思える)人」が、むしろ私には間違っているように思えてしまう。そしてそのような「間違った注意=関心」でさえもが、不幸の真っ只中にあっては、いずれうやむやのうちに消え去ってしまう、はじめからなかったこと(=無)になる、そのように私は「予感」せざるをえない。この「予感」というのが、先述の通り、まさしく「不幸な人の心理」なのである。
ならば、そんな予感=予見を与えずに、不幸な人々に注意を向けるには、一体どうすればよいのか?
(つづく)
◎引用・参照
(※1)ヴェイユ「神への愛のために学業を善用することについての省察」(『神を待ちのぞむ』所収)
(※2)ヴェイユ「神への愛のために学業を善用することについての省察」(『神を待ちのぞむ』所収)
(※3)ヴェイユ「神への愛と不幸」(『神を待ちのぞむ』所収)
(※4)ヴェイユ「神への暗黙的な愛の種々相」(『神を待ちのぞむ』所収)
(※5)ヴェイユ「(手紙(四)別れの手紙《精神的自叙伝》)」(『神を待ちのぞむ』所収)
◎参考書籍
シモーヌ・ヴェイユ
『抑圧と自由』(石川湧訳 東京創元社)
『労働と人生についての省察』(黒木義典・田辺保訳 勁草書房)
『神を待ちのぞむ』(田辺保・杉山毅訳 勁草書房)
『重力と恩寵』(田辺保訳 ちくま学芸文庫)
『シモーヌ・ヴェイユ アンソロジー』(今村純子編訳 河出文庫)
吉本隆明
『甦るヴェイユ』(JICC出版局)
冨原真弓
『人と思想 ヴェーユ』(清水書院)
「…不幸な人に注意をむけることのできる能力は、めったに見られないものであり、大へんむつかしいものである。それは、ほとんど奇跡に近い。奇跡であるといってもよい。そういう能力を持っていると信じこんでいる人々の中のほとんどは、実際は持っていないのである。…」(※2)
一時的な同情を差し向けて、自分は不幸な人に関心を持っている、「善意」をもって彼らに接している、などという人は、単に思い上がっているのにすぎないのだ。なぜなら彼らは、不幸を見なくてもいいとき・見たくないときには、いつでも見ないでもいられる。不幸の孤島からいつでも任意に出て行くことができる。彼ら自身は少しも不幸ではないのだから。
一方で、そのような注意=関心を向けられた当の「不幸な人々」は、一体どう思うことだろうか。
「…不幸のために自分自身が傷ついている人たちは、ほかのだれに対しても救いをさしのべることのできる状態にはいないし、そうしたいと思うことすら、まずありえないであろう。…」(※3)
「普通」の人たちが注意力を自然に身につけてなどいないように、「不幸な人々」もまたその力を自然には手中にはしていない。だから、自分自身が現に不幸であるような人が、他人の不幸に注意=関心を向けるということはまずありえないことなのだ。不幸な人の関心事は、まず第一に「自分の不幸」であり、普通の人よりさらに一層、「自分の不幸」に注意を傾けるのに精一杯だ。
「不幸な私」に注意=関心を向けることができるような人は、自分自身では「不幸ではない人」なのだ。そうに決まっている。自分自身が不幸である人もまた、やはりそのように思うことだろう。
また、「私の不幸」に、注意=関心を向けてくる人があるとしても、その人は何らかの「魂胆を持っている」のではないか?私の不幸を単に彼の魂胆で染め上げてしまおうというだけではないのか?
「…ほどこしは(中略)ものを買う行為とそうかわらない。ほどこしによって、不幸な者を買おうとするのだ。…」(※4)
私の不幸を「自分の利益」に転化させたいがために、あなたは私に近寄ってきて、私の不幸を「買おうとしている」のにすぎないのではないのか?そして、私の不幸を吸い尽くしたら、あなたは私を「不幸にしたまま」で立ち去ってしまうだけではないのか?
そのような、不幸な人の抱く疑念について、まさに「不幸な人」であったヴェイユ自身がこのように証言している。
「…たとえいかなる人間にせよ、またどのような状況においてであれ、私に対して粗暴でない話し方をいたしますときには、この人は間違っているにちがいない、その間違いは、不幸なことに、たぶんうやむやに消散してしまうだろうという印象を抱かざるを得ないのです。…」(※5)
「粗暴ではない」というだけで、それが何か積極的ないたわりであるように受け取れてしまうとしたら、それはそれであまりに過敏であるが、そのようなものでさえ他人から受け取る機会のないのがまさしく不幸、ということなのであろう。それはそれとして、そのように「私に注意=関心を向けている(と私には思える)人」が、むしろ私には間違っているように思えてしまう。そしてそのような「間違った注意=関心」でさえもが、不幸の真っ只中にあっては、いずれうやむやのうちに消え去ってしまう、はじめからなかったこと(=無)になる、そのように私は「予感」せざるをえない。この「予感」というのが、先述の通り、まさしく「不幸な人の心理」なのである。
ならば、そんな予感=予見を与えずに、不幸な人々に注意を向けるには、一体どうすればよいのか?
(つづく)
◎引用・参照
(※1)ヴェイユ「神への愛のために学業を善用することについての省察」(『神を待ちのぞむ』所収)
(※2)ヴェイユ「神への愛のために学業を善用することについての省察」(『神を待ちのぞむ』所収)
(※3)ヴェイユ「神への愛と不幸」(『神を待ちのぞむ』所収)
(※4)ヴェイユ「神への暗黙的な愛の種々相」(『神を待ちのぞむ』所収)
(※5)ヴェイユ「(手紙(四)別れの手紙《精神的自叙伝》)」(『神を待ちのぞむ』所収)
◎参考書籍
シモーヌ・ヴェイユ
『抑圧と自由』(石川湧訳 東京創元社)
『労働と人生についての省察』(黒木義典・田辺保訳 勁草書房)
『神を待ちのぞむ』(田辺保・杉山毅訳 勁草書房)
『重力と恩寵』(田辺保訳 ちくま学芸文庫)
『シモーヌ・ヴェイユ アンソロジー』(今村純子編訳 河出文庫)
吉本隆明
『甦るヴェイユ』(JICC出版局)
冨原真弓
『人と思想 ヴェーユ』(清水書院)
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