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イデオロギーは悪なのか〈1〉
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イデオロギーとは一般に「特定の政治的な信条や主義主張である」というように考えられていることが多いだろう。そもそもはナポレオン・ボナパルトが自身の反対者に対して「イデオローグ」と揶揄したところから世に広まったとも伝わっている。要するに、そのような口が達者なだけの頭でっかちの連中など信用ならん、ということだ。
一方でマルクスは、書き上げた後「鼠に食われるままにしておいた」その書物の冒頭で、ドイツにおける新しい革命的哲学者すなわちイデオローグを「人が水に溺れるのは重力の思想に取り憑かれたからだと思い込んでいる健気な男」と評し書き込んでいる。彼の書物を食い散らかしたという「鼠」とは、まさにこの健気な男たちのことである。
イデオロギー。この言葉が使われるときはきまって、その観念性や非現実性に対する非難と嘲弄のトーンが前面に出てくる。例えばこのように。
「…われわれがイデオロギーと名づけるのは、存在を超越していながら、そのうちに考えられている内容が、現実にはけっして実現されえないような観念のことである。…」(※1)
「…考えられている内容どおりには実現されないというところに、イデオロギーのイデオロギーたるゆえん[虚偽の意識という性格]がある、ということである。…」(※2)
イデオロギーは幻想であり虚偽である。これもやはりイデオロギーに対する非難の色合いが強く出ている言葉である。そしてこういう場合はたいてい、その反対側には「実現された現実」あるいは「真の現実」が対置され、転じて「ヤツらの実態のない妄想に比べて、自分たちの考えは普遍的で正当なものなのだ」との主張が前面化されるわけである。こっちが本物でそっちはニセモノだよ、アンタも早く目を覚まして現実を直視しなさい、とでもいうように。
しかしどうだろうか。イデオロギーを単に幻想だ虚偽だと言っていれば、イデオロギーなどというものは斥けることができるものだろうか。そのように「考えられた通りに実現された現実」に、イデオロギーは存在しないだろうか。その現実ははたして本当に本物か?
イデオロギーはけっしてその考えられた通りに実現することはない、実現することのない「考え」などというものはすなわち虚偽なのである、幻想なのである。等々。イデオロギーに対する批判は、ともあれもっぱらそれが「現実と一致することのない観念・想像であること」に集約されるようである。
「…一般に、宗教的イデオロギー、道徳的イデオロギー、法的イデオロギー、政治的イデオロギー等々について、これらはそれだけの数の《世界観》であると言われている。もちろん、人が(例えば神、義務、正義を《信じている》としても)これらのイデオロギーのひとつを真実として生きていない限り、人はそのとき(…中略…)イデオロギーを検証し、批判的観点からイデオロギーを論じるが、こうしたイデオロギーや諸々のこうした《世界観》は大部分想像上のもの、すなわち《現実に対応》していない、ということは広く認識されている。…」(※3)
しかしもし、ある一つのイデオロギーを「真実な世界観として、それを信じて生きる」のだとして、そのイデオロギーが「現実と一致せず、対応もしていない」のだとしたら、それを「信じて生きた現実」は、それもまた虚偽であり幻想であるというのだろうか。
そして、そのような批判の一方で、「真の現実」あるいは「唯一の現実」が、あたかも「実在しているかのように想像されている」のではないだろうか。それを、虚偽でも幻想でも思い込みでもないなどと、はたして本当に言えるものなのだろうか。それもまたイデオロギーなのではないのか。
イデオロギーおよびその世界観は想像であり、つまり幻想であり、すなわち現実に一致していない。そうであるがゆえにイデオロギーは現実に対して虚偽であり欺瞞を働いている。そのようにイデオロギーは、一般に批判されるところとなるのだろう。
しかし、にもかかわらず人間はイデオロギーを、自らの存在する現実の世界に対する観念として「現実的に受け入れている」のではないだろうか。そしてそれを信じて「現実に生きている」のではないだろうか。その現実に生きている世界は「観念にすぎない」のか、虚偽であり幻想であるのか。
実際のところ、「イデオロギーは虚偽であり幻想である」という言い方で批判し告発することにはほとんど意味がないのだと断言してもよいくらいである。「王様は裸だ」と暴露したところで、現にその裸ん坊を君主としてうやうやしく推し戴いて、その王国の「内部」は機能しているのだ。
ゆえに考えるべきなのは、なぜ民は、その裸ん坊を王様であると考えるに至ったのかということなのである。
(つづく)
◎引用・参照
(※1)マンハイム「イデオロギーとユートピア」 高橋・徳永訳
(※2)マンハイム「イデオロギーとユートピア」 高橋・徳永訳
(※3)アルチュセール「イデオロギーと国家のイデオロギー装置」 柳内隆訳
一方でマルクスは、書き上げた後「鼠に食われるままにしておいた」その書物の冒頭で、ドイツにおける新しい革命的哲学者すなわちイデオローグを「人が水に溺れるのは重力の思想に取り憑かれたからだと思い込んでいる健気な男」と評し書き込んでいる。彼の書物を食い散らかしたという「鼠」とは、まさにこの健気な男たちのことである。
イデオロギー。この言葉が使われるときはきまって、その観念性や非現実性に対する非難と嘲弄のトーンが前面に出てくる。例えばこのように。
「…われわれがイデオロギーと名づけるのは、存在を超越していながら、そのうちに考えられている内容が、現実にはけっして実現されえないような観念のことである。…」(※1)
「…考えられている内容どおりには実現されないというところに、イデオロギーのイデオロギーたるゆえん[虚偽の意識という性格]がある、ということである。…」(※2)
イデオロギーは幻想であり虚偽である。これもやはりイデオロギーに対する非難の色合いが強く出ている言葉である。そしてこういう場合はたいてい、その反対側には「実現された現実」あるいは「真の現実」が対置され、転じて「ヤツらの実態のない妄想に比べて、自分たちの考えは普遍的で正当なものなのだ」との主張が前面化されるわけである。こっちが本物でそっちはニセモノだよ、アンタも早く目を覚まして現実を直視しなさい、とでもいうように。
しかしどうだろうか。イデオロギーを単に幻想だ虚偽だと言っていれば、イデオロギーなどというものは斥けることができるものだろうか。そのように「考えられた通りに実現された現実」に、イデオロギーは存在しないだろうか。その現実ははたして本当に本物か?
イデオロギーはけっしてその考えられた通りに実現することはない、実現することのない「考え」などというものはすなわち虚偽なのである、幻想なのである。等々。イデオロギーに対する批判は、ともあれもっぱらそれが「現実と一致することのない観念・想像であること」に集約されるようである。
「…一般に、宗教的イデオロギー、道徳的イデオロギー、法的イデオロギー、政治的イデオロギー等々について、これらはそれだけの数の《世界観》であると言われている。もちろん、人が(例えば神、義務、正義を《信じている》としても)これらのイデオロギーのひとつを真実として生きていない限り、人はそのとき(…中略…)イデオロギーを検証し、批判的観点からイデオロギーを論じるが、こうしたイデオロギーや諸々のこうした《世界観》は大部分想像上のもの、すなわち《現実に対応》していない、ということは広く認識されている。…」(※3)
しかしもし、ある一つのイデオロギーを「真実な世界観として、それを信じて生きる」のだとして、そのイデオロギーが「現実と一致せず、対応もしていない」のだとしたら、それを「信じて生きた現実」は、それもまた虚偽であり幻想であるというのだろうか。
そして、そのような批判の一方で、「真の現実」あるいは「唯一の現実」が、あたかも「実在しているかのように想像されている」のではないだろうか。それを、虚偽でも幻想でも思い込みでもないなどと、はたして本当に言えるものなのだろうか。それもまたイデオロギーなのではないのか。
イデオロギーおよびその世界観は想像であり、つまり幻想であり、すなわち現実に一致していない。そうであるがゆえにイデオロギーは現実に対して虚偽であり欺瞞を働いている。そのようにイデオロギーは、一般に批判されるところとなるのだろう。
しかし、にもかかわらず人間はイデオロギーを、自らの存在する現実の世界に対する観念として「現実的に受け入れている」のではないだろうか。そしてそれを信じて「現実に生きている」のではないだろうか。その現実に生きている世界は「観念にすぎない」のか、虚偽であり幻想であるのか。
実際のところ、「イデオロギーは虚偽であり幻想である」という言い方で批判し告発することにはほとんど意味がないのだと断言してもよいくらいである。「王様は裸だ」と暴露したところで、現にその裸ん坊を君主としてうやうやしく推し戴いて、その王国の「内部」は機能しているのだ。
ゆえに考えるべきなのは、なぜ民は、その裸ん坊を王様であると考えるに至ったのかということなのである。
(つづく)
◎引用・参照
(※1)マンハイム「イデオロギーとユートピア」 高橋・徳永訳
(※2)マンハイム「イデオロギーとユートピア」 高橋・徳永訳
(※3)アルチュセール「イデオロギーと国家のイデオロギー装置」 柳内隆訳
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