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イデオロギーは悪なのか〈12〉
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「イデオロギーが物質的な存在を持つ」ということは、「イデオロギーが物質化する」ということとは違うのであるのはすでに言ってきたことである。
それについてアルチュセールは、「ひざまずき、祈りのことばを口ずさみなさい。そうすればあなたは神を信じることになる」というパスカルの言葉を引いて、それにいくらかの皮肉を並べた後、次のように言っている。
「…われわれは、一個の主体(ある個人)のみを考え、次のように言おう。この主体がもつ信仰にかんする諸観念の存在は物質的である。それは、この主体の諸観念が、当の主体の諸観念が属している物質的なイデオロギー装置によってそれ自体決定されている物質的ないくつかの儀式によって調整されている物質的ないくつかの実践のなかに挿入されている主体の物質的な諸行為であるという点において、そうなのである。…」(※1)
そしてその後にすぐ、次のようにつけ加える。
「…「物質的な」という形容詞には、いくつかの異なった様態が与えられなければならない。すなわちミサに出るために外出すること、ひざまずくこと、十字を切るとか自分の罪を告白する動作、言葉、祈り、悔悛、贖罪、視線、握手、口頭で行われる外的あるいは内的な談話(良心)などの物質性は、唯一の同じ物質性ではないのである。…」(※2)
「イデオロギーの持つ物質的な存在」は、「いくつかの、あるいはいくつもの異なる関係の動作として、その様態を与えられ」ている。そしてその物質性は、「それぞれに異なる関係の様態に応じて、それぞれに異なっている」と言うことができる。「握手をすること(手を動かすこと)」と「話すこと(口を動かすこと)」の「それぞれの物質性」は、「唯一の同じ物質性ではない」ということは、ただこれだけのことでも明らかだと言える。
しかし、それはあくまでもそのイデオロギーの「外側」から見たうえでの分析である。そのイデオロギーの「内部」ではむしろ、イデオロギーの物質的存在は「唯一の同じ物質性を持つもの」として、つまり「イデオロギーが物質化した存在」として見出されていると言うことができる。
そのように見出されている「物質」とは、一体何か?
それはまさに「当の、手を動かし口を動かす主体=その人自身」であるということになる。
その「手を動かし口を動かす行為」がイデオロギー的「表現」であるという意味において、「手を動かし口を動かす主体」は、「イデオロギー的行為の主体」としてそれらの行為の物質性を「唯一で同一なもの」としているものと見なされる。言い換えると、イデオロギー的諸行為の物質性は「イデオロギー的行為の主体」が持つ「唯一で同一の物質性=身体」にもとづき、それに支えられている、ということである。
このことを先の引用の文脈において要約すれば、信仰というイデオロギーは信仰する個人を信仰する主体として「物質化している」のであり、信仰というイデオロギーを物質化した存在である「信仰する個人=主体」は、どのような異なる動作を行為しようとも個人=主体として「唯一の物質性を持つ」と見なすことができるのだ、というわけである。そしてその、唯一の物質性を持つ存在=個人は、同時に「唯一の現実性を持つ存在」と見なすことができる。そのように「存在する」ということが、「その存在」にとって「唯一の現実」であり「真の現実」すなわち「真実」であると見なすことができる。
以上のことを、あらためてそのイデオロギーの「外側」から見て分析したものとして、ここで取り上げたアルチュセールの定義に加えて、次のように言うことができる。
「…イデオロギーは、物質的なイデオロギー装置のなかに存在し、この装置は物質的な儀式によって調整される物質的な諸実践を命令し、これらの諸実践は自己の信仰に従って全く意識的に行動する主体の物質的な諸行為のなかに存在する。…」(※3)
イデオロギーが、「唯一で同一なものとして、物質的な諸行為の中に存在する」ためには、「全く意識的に行動する主体が、全く同一の物質性をもって行為する」のでなければ叶わないことである。それは、その「全く意識的な行動」が自己の信仰に従うもの、すなわちイデオロギーにもとづくものであろうとなかろうと、ということである。だからこそイデオロギーは何よりもまず、この「全く同一の物質性をもって行為する主体=個人」を見つけ出し、それに向かって呼びかけるということになる。そしてイデオロギーは、多様でそれぞれに異なる諸関係のそれぞれの主体である個人を、唯一で同一の主体としてのイデオロギー的主体、イデオロギーを現実化する主体に作り替えるのである。
ここで、「ひざまずき、祈りのことばを口ずさみなさい。そうすればあなたは神を信じることになる」というパスカルの言葉に戻ると、まさに「ひざまずき、祈る」というふるまい=行為が、神を信じる=信仰というイデオロギーを「現実化させている」ということになる。そしてその、「ひざまずき、祈る」という実際の行為が、信仰する個人=主体という物質的な存在が行為する物質的な行為であるがゆえに、それをもって「イデオロギーを物質化している」というように見なさしめているというわけである。
かくして、信仰のイデオロギーにおいて「ひざまずき、祈る」という「イデオロギーが物質化されたと見なさしめる行為」は、そのイデオロギーがその主体=個人の存在の「現実的な条件」となる。そこからさらに進むと、ひざまずき祈りのことばを口ずさむことを「してさえいれば」、それをもってその人は「神を信じていることになる」とさえ見なされることになっていく。一方で、いくら「心の中」で本当に神を信じているのだとしても、その人がひざまずきもせず祈りもしなければ、そのような人は結局本当には神を信じていないのだと「誰から見てもそう思われてしまう」ことになる。
ある意味では、人が「本当に神を信じている」のかどうかということは、どうでもいいことかもしれない。そんなことは結局のところ誰にもわからないのだ。だからそれを「人に信じてもらう」には、「誰もがやっているように」ひざまづき祈るという、「イデオロギーが物質化された表現」でその人の信仰を示さなければならない。その「表現」が、神を信じているということを「人に信じてもらうこと」の現実的な条件となるわけである。
(つづく)
◎引用・参照
(※1)アルチュセール「イデオロギーと国家のイデオロギー諸装置----探究のためのノート」 西川長夫訳
(※2)アルチュセール「イデオロギーと国家のイデオロギー諸装置----探究のためのノート」 西川長夫訳
(※3)アルチュセール「イデオロギーと国家のイデオロギー諸装置----探究のためのノート」 西川長夫訳
それについてアルチュセールは、「ひざまずき、祈りのことばを口ずさみなさい。そうすればあなたは神を信じることになる」というパスカルの言葉を引いて、それにいくらかの皮肉を並べた後、次のように言っている。
「…われわれは、一個の主体(ある個人)のみを考え、次のように言おう。この主体がもつ信仰にかんする諸観念の存在は物質的である。それは、この主体の諸観念が、当の主体の諸観念が属している物質的なイデオロギー装置によってそれ自体決定されている物質的ないくつかの儀式によって調整されている物質的ないくつかの実践のなかに挿入されている主体の物質的な諸行為であるという点において、そうなのである。…」(※1)
そしてその後にすぐ、次のようにつけ加える。
「…「物質的な」という形容詞には、いくつかの異なった様態が与えられなければならない。すなわちミサに出るために外出すること、ひざまずくこと、十字を切るとか自分の罪を告白する動作、言葉、祈り、悔悛、贖罪、視線、握手、口頭で行われる外的あるいは内的な談話(良心)などの物質性は、唯一の同じ物質性ではないのである。…」(※2)
「イデオロギーの持つ物質的な存在」は、「いくつかの、あるいはいくつもの異なる関係の動作として、その様態を与えられ」ている。そしてその物質性は、「それぞれに異なる関係の様態に応じて、それぞれに異なっている」と言うことができる。「握手をすること(手を動かすこと)」と「話すこと(口を動かすこと)」の「それぞれの物質性」は、「唯一の同じ物質性ではない」ということは、ただこれだけのことでも明らかだと言える。
しかし、それはあくまでもそのイデオロギーの「外側」から見たうえでの分析である。そのイデオロギーの「内部」ではむしろ、イデオロギーの物質的存在は「唯一の同じ物質性を持つもの」として、つまり「イデオロギーが物質化した存在」として見出されていると言うことができる。
そのように見出されている「物質」とは、一体何か?
それはまさに「当の、手を動かし口を動かす主体=その人自身」であるということになる。
その「手を動かし口を動かす行為」がイデオロギー的「表現」であるという意味において、「手を動かし口を動かす主体」は、「イデオロギー的行為の主体」としてそれらの行為の物質性を「唯一で同一なもの」としているものと見なされる。言い換えると、イデオロギー的諸行為の物質性は「イデオロギー的行為の主体」が持つ「唯一で同一の物質性=身体」にもとづき、それに支えられている、ということである。
このことを先の引用の文脈において要約すれば、信仰というイデオロギーは信仰する個人を信仰する主体として「物質化している」のであり、信仰というイデオロギーを物質化した存在である「信仰する個人=主体」は、どのような異なる動作を行為しようとも個人=主体として「唯一の物質性を持つ」と見なすことができるのだ、というわけである。そしてその、唯一の物質性を持つ存在=個人は、同時に「唯一の現実性を持つ存在」と見なすことができる。そのように「存在する」ということが、「その存在」にとって「唯一の現実」であり「真の現実」すなわち「真実」であると見なすことができる。
以上のことを、あらためてそのイデオロギーの「外側」から見て分析したものとして、ここで取り上げたアルチュセールの定義に加えて、次のように言うことができる。
「…イデオロギーは、物質的なイデオロギー装置のなかに存在し、この装置は物質的な儀式によって調整される物質的な諸実践を命令し、これらの諸実践は自己の信仰に従って全く意識的に行動する主体の物質的な諸行為のなかに存在する。…」(※3)
イデオロギーが、「唯一で同一なものとして、物質的な諸行為の中に存在する」ためには、「全く意識的に行動する主体が、全く同一の物質性をもって行為する」のでなければ叶わないことである。それは、その「全く意識的な行動」が自己の信仰に従うもの、すなわちイデオロギーにもとづくものであろうとなかろうと、ということである。だからこそイデオロギーは何よりもまず、この「全く同一の物質性をもって行為する主体=個人」を見つけ出し、それに向かって呼びかけるということになる。そしてイデオロギーは、多様でそれぞれに異なる諸関係のそれぞれの主体である個人を、唯一で同一の主体としてのイデオロギー的主体、イデオロギーを現実化する主体に作り替えるのである。
ここで、「ひざまずき、祈りのことばを口ずさみなさい。そうすればあなたは神を信じることになる」というパスカルの言葉に戻ると、まさに「ひざまずき、祈る」というふるまい=行為が、神を信じる=信仰というイデオロギーを「現実化させている」ということになる。そしてその、「ひざまずき、祈る」という実際の行為が、信仰する個人=主体という物質的な存在が行為する物質的な行為であるがゆえに、それをもって「イデオロギーを物質化している」というように見なさしめているというわけである。
かくして、信仰のイデオロギーにおいて「ひざまずき、祈る」という「イデオロギーが物質化されたと見なさしめる行為」は、そのイデオロギーがその主体=個人の存在の「現実的な条件」となる。そこからさらに進むと、ひざまずき祈りのことばを口ずさむことを「してさえいれば」、それをもってその人は「神を信じていることになる」とさえ見なされることになっていく。一方で、いくら「心の中」で本当に神を信じているのだとしても、その人がひざまずきもせず祈りもしなければ、そのような人は結局本当には神を信じていないのだと「誰から見てもそう思われてしまう」ことになる。
ある意味では、人が「本当に神を信じている」のかどうかということは、どうでもいいことかもしれない。そんなことは結局のところ誰にもわからないのだ。だからそれを「人に信じてもらう」には、「誰もがやっているように」ひざまづき祈るという、「イデオロギーが物質化された表現」でその人の信仰を示さなければならない。その「表現」が、神を信じているということを「人に信じてもらうこと」の現実的な条件となるわけである。
(つづく)
◎引用・参照
(※1)アルチュセール「イデオロギーと国家のイデオロギー諸装置----探究のためのノート」 西川長夫訳
(※2)アルチュセール「イデオロギーと国家のイデオロギー諸装置----探究のためのノート」 西川長夫訳
(※3)アルチュセール「イデオロギーと国家のイデオロギー諸装置----探究のためのノート」 西川長夫訳
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