晴天に輝く

Chi

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第五話

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 京東大学付属病院は年がら年中人で溢れている。初めて訪れた時、世の中にこんなに病人がいるのかと思った。あまりの患者の数に、予約を取っても待たされることは珍しくない。本当に具合が悪い時にはお勧めしない病院だ。きっと待っている間に余計具合が悪くなる。病院というところに最後に来たのは、膝の抜糸をした時だった。あの時は五分と待たずに先生に診てもらい、三分も経たないうちに処置を終え、五分で会計をした。滞在時間は僅か十五分だった。ここでは一日仕事になりそうだ。
 学校帰り、病院の玄関から入り、長く長い廊下を突き進み、突き当たりを右に行くとエレベーターが三基ある。「上」ボタンを押すと、すぐに真ん中のエレベータのドアが開いた。「6」のボタンを押してすぐに「閉」を押しても病院のエレベーターはなかなか閉まらない。最初のうちはこのスローなドアに苛立ちを覚えたが、今ではもう気にもならない。車椅子のおばあちゃんがいたりすると、ただでさえ閉じないドアを延々と開けて待ってあげることにも慣れた。少し温厚になった気がする。
 あの日、輝が輝を轢いたあの男、安西良太郎(あんざい りょうたろう)を連れてきてから毎日、この病院に通う羽目になり、二学期が始まった今もそれは続いている。
 六階に着くとナースセンターから「こんにちは」と声をかけられた。もうすっかり見慣れた顔もいくつかある。
「先程お休みになりましたよ」
「そうですか」
 ナースステーションから一番近い部屋が安西の妻、早月(さつき)さんの病室だった。中に入ると、全身管に繋がれた早月さんが、いつものように静かに眠っていた。ベッドの脇の椅子に腰をかけ、鞄から参考書を取り出し、パラパラとページをめくる。
 携帯が小さく震え、メッセージの受信を知らせた。開くと幸村から一件、美耶子ちゃんから一件。幸村はふざけた絵文字を一つ、毎日必ず送ってくる。元気付けようとしてくれている。幸村なりの応援。本当にいい奴。
美耶子ちゃんからは短い応援のメッセージ。「ありがとう」と短く返す。あの笑顔の下にはどうやら悪魔はいないらしい。
 受験勉強は思いの外、順調だった。一人でひたすら机に向かい、問題を解く。解いて、解いて解きまくる。これは訓練だ。ある種サッカーの練習にも似ている気がした。同じことを繰り返し、基礎ができたら応用編。ただ体の使う部分が違うだけ。
 夏休み前に受けたセンター試験では志望校はB判定。安全圏内。文学部を受験する。本は好きだ。将来はぼんやりと出版社か新聞記者と思い描いているけれど、まだはっきりとはわからない。母さんは「人生長いんだから焦らずに決めなさい」と言ってくれるし、本当にその通りだと思う。まだ十七歳だ。一生の方向性を決めるなんて、できるわけがない。
 サッカーと違うのはチーム戦じゃないってところ。受験は孤独だ。孤独だから雑念が脳内を埋め尽くし、集中できないこともしばしば。
「思いつくことは全部やろうって言ってくれたよな? 」
 あれはずるい。確かにそう言ったし、本当になんでもしてやるつもりだった。でもいくら何でもこれはひど過ぎやしないか。これは輝のためじゃなく、安西のためだ。まったく理解できない。どうして自分が死んだ事故の原因である安西を助けたいと思うのか、どうしてあんなにも寛大でいられるのか。
もうサッカーできないんだぞ。死んでしまったら、もう何もできないんだ。そりゃ、憎しみ続けることに意味がないことは頭では理解しているし、人を恨んで、憎んで、いいことなんか何もないのかもしれないけれど、みんな人間だ。生きている以上感情があるものだ。時には怒りに任せて人を殴ることだってあるはずなんだ。なのに、なんで輝はあんなにも冷静に安西を見つめていられたんだ。なぜ救いの手を差し伸べるのか、わからないことだらけ。輝が死んでからすっかり、輝の手の平で踊らされているような気分。
 こういう時、早月さんを見ることにしている。何も知らない、ただ生きることに懸命な人の姿。そこには憎しみも怒りもない。少し冷静になって、あの日のことを思い出す。
 不愛想なおばさんが出したコーヒーは最高だった。
 アイス珈琲の氷はすっかり溶けて、グラスは汗をかいていた。カランと氷の音がした。
「どういうことだよ? 輝」
「この人……安西さんの奥さんは病気で——」
「本郷君、自分で話します」
 安西は輝の前に立ち、暗い顔で話し出した。
「付き合っている時に早月はすでに癌を煩っていました。でも発見が遅くて、治療してもどんどん全身に転移していってしまって……余命一年と言われてから結婚を決めました。最後にあいつにいい思い出を、最高の花嫁衣装を着せてやりたくて……」
 涙を見られまいと顔を覆った安西は震える声を我慢して話し続けた。
「結婚式は無事上げることができました。皐月の両親も泣いて喜んでくれて……。幸せな日々も束の間、すぐに経済的な問題にぶち当たりました。治療費がものすごくかかるんです。保険外治療ですから。……本当の死に向かっている早月に言うのはおかしな話ですが、死にものぐるいで働いたんです。早月との面会時間以外は、お金を稼ぐためにできることはなんでもやりました。でもそれが自分でも知らず知らずの内にストレスになっていたようで、慢性胃潰瘍になってしまって……結果的に関係のない本郷君を巻き込んでしまいました……」
「だから、それはもういいんだって」
 輝の言葉に憤りを感じずにはいられなかった。
「よくないだろう! 」
 いいわけがない。すっかり頭に血が上ってしまい、うまく言葉が出てこない。
「いくら事情があったって、お前を轢いたんだぞ? お前はそのせいで死んだんだぞ! なんで怒らねぇんだよ! 悔しくねぇのかよ! 」
「……安西さんだって死んでる」
「……」
 冷静で冷たい声だった。輝のまっすぐな視線を思わず逸らした。
「……早月の余命はあと数か月……本当はそばにいてあげたかった。いるべきだったんです。俺はあいつを一人で死なせたくない……」
「……」
 安西は膝をついて、悔いて、悔いて、悔やみきれずここにいる。
「俺に何をしろと? 」
「……それは」
「あんたには聞いてない。俺は輝のために動く」
「……ハル」
「何をして欲しいんだよ。言ってみろ」
 想像はついているんだ。でも輝、お前の口から聞かなきゃ動けない。安西のために動くのはまっぴらごめんだ。
「早月さんが死ぬまで、そばにいてあげて欲しい。一人で死なせないであげて欲しい」
 まっすぐな目。
「……わかったよ」
「ハル……! 」
「勘違いするなよ、俺は輝のためにやるんだ。安西さん、正直、俺はまだあんたを直視できない。許すとか許さないじゃなくて、時間が必要なんだ。約束は守る。だからあんたはしばらく俺の前に現れないでくれ」
「……わかりました。ありがとうございます……」
 あれからすでに五ヶ月が経った。安西に最初抱いた怒りや嫌悪感はいつしか薄れ、今ではよくわからない感情が腹の中に立ち込めて、ぐるぐると渦を描くように蠢いている。あの日以来、約束通り安西は現れない。姿を表すなと自ら言っておきながら、五ヶ月もの間現れないと罪悪感に苛まれる。安西は早月さんのそばにいたいはずなのに、あんなことを言ってしまったがために今もどこかを彷徨っている。毎日ここへ来て早月さんの顔を見ながら罪滅ぼしをしていると言ってもいい。
 早月さんは毎日数時間起きて、看護師の介護の元、食事をして、また眠ってしまう。痛み止めの副作用で起きていられないらしい。おかげでまだ会ったことはない。一方的に見ているだけ。早月さんの両親は毎朝見舞いに来るそうで、会わずに済んでいる。色々と説明をする手間が省けてよかったと、少しホッとしている。ここへは安西の親戚ということで通しているから、家族と出くわすと何かと面倒だ。
 早月さんは安西が死んだことをまだ知らされていない。看護師さんは「今日も旦那さんいらっしゃいましたよ」と優しい嘘をついていると言う。すると早月さんはホッとした表情で眠りにつくらしい。世界はどうやら優しい嘘で溢れている。
 輝は元気にしているだろうか。あの日から姿を見ていない。正直どんな顔をして会えばいいのかわからないでいた。ずっと考えている。安西のこと。輝のこと。早月さんのこと。事故のこと。「見える」ことの意味。きっと答えなんかないんだろうけれど、考えずにはいられなかった。
 輝は死んで変わった、と思っていた。でも輝が変わったのではなくて、自分が見ていた輝とは違う一面を見ているだけなのだと、ようやく最近理解できてきた。頭で理解するのと本当の意味で理解するのはまったく別のことだと知った。輝-サッカー=今の輝。そういうことだ。今まで見て来たのが輝=サッカーである以上、違和感を覚えるのは当然だ。幸村の言う通り、思春期の男子が女子に興味を持つのは至極当たり前のことであるし、サッカーで世界に行くことを夢見ていた輝が、英語勉強を頑張っていたとしても、不思議な話ではない。それだけ本気だったと言うこと。
ならば道半ばで死んでしまったことは、尚更悔しいはずなのに、なぜ輝は安西を怒らないのか、恨まないのか、理解に苦しむ。こうして毎回、考えが巡り巡って元の位置に戻って来てしまう。もういい加減、疲れてしまった。そろそろ答えが知りたい。
「輝、そこにいるんだろう? 」
 眠った早月さんの顔を見ながら問う。
「あぁ」
 案の定、輝は姿を現した。自信があった。輝は絶対にそばにいる。自分が約束を守っている限り、どこにも行かないことを確信していた。
「なんで、安西さんを助けようと思ったんだ? 恨んでないのか? 」
「まぁ最初はね。思ったよ。なんで俺なんだって。お前のせいだって。だから毎晩安西さんの病室に行ってたんだ」
「え? 」
 初耳だった。自分が寝ている間、何をしているんだろうとは思っていたが、まさか事故の当事者に会いに行っているとは。
「起きるまで待ってやろうと思ってたんだ。起きたら声が届かなくても、力一杯罵倒して蔑んで、恨みつらみ全部ぶつけてやろうって思っててさ。色んな言葉用意して、ずっと待ってたんだよね。でも不思議なもんで、意識なく呼吸して、生きているだけの安西さん見てたらさ、いっそ死んじゃった自分の方が幸せだなって思えてきちゃってさ。ほら、俺はハルに会えたし。安西さんは生きるでもなく、死ぬでもなく、病気の奥さんが戦っている間も、ずっと宙ぶらりんで何週間も苦しかったんだろうなって」 
 輝は優しい。自分もあの事故で死んでしまったのに、他人の気持ちを考えられる。自分がとんでもなく器の小さな人間のように思えるじゃないか。
「……輝は強いのな」
 早月さんの寝顔は穏やかで、無垢だった。こんなにも生きている。刻一刻死に向かっていく姿は、触れたら割れてしまうガラスのように儚く、力強い。
「俺はさ、物覚えもよくないけど、すぐ忘れちゃうから。試験の時は困ったけど、これはこれで便利なんだよ。憎しみとか、怒りをずっと抱えているのは疲れちゃうし、辛いじゃん。俺はすぐそういうのも忘れちゃうみたいなんだよ、多分」
 人は忘れゆくもの。だから世界は愛で溢れている。
「そしたらさ、残るのは綺麗な思い出だけじゃん? 俺はその方が楽だし、幸せかなって」
「……」
 輝の言葉で何か肩から荷が降りた気がした。軽くなった。スッと腹の中の黒く蠢いていたものが消えるのを感じた。ふと今だと思った。
「……安西、さん」
「はい」
 名前を口にすると安西はそこにいた。よかった。やっとあなたと向き合えます。
「……本当に毎日通ってくれたんですね。ありがとうございます」
 安西さんは頭を深々と下げた。
「早月さんのそばにいてあげてください。最期までちゃんと付き合いますから」
 そして伝えよう。安西さんの想い。愛情。
「……りょ……ちゃん? 」
 か弱い、今にも消えてしまいそうな声がした。早月さんが目を覚まし、こちらを見ている。
「早月……! 」
 安西さんは思わず早月さんに駆け寄った。早月さんの頬を撫でながら、ひたすら名前を呼ぶ。打ち明けなければならない、その時が思いの外、早く来たことに戸惑わずにはいられない。息を飲んで、早月さんに何が起きたのか事実を伝えようとしたその時、信じられない言葉を聞いた。
「りょうちゃん、聞こえないよ」
 早月さんは明らかに安西さんを見ていた。
「早月……? 見える、のか? 」
 どういうことだ? 早月さんも「見える」体質なのか?
「りょうちゃん、なんで泣いてるの? 聞こえるように話して……」
 あぁそうか、とこの不可解な状況を理解するのに、さほど時間はかからなかった。
「安西早月さん。どうか落ち着いて聞いてください」
 早月さんの手を優しく握った。痩せた指先は冷たくて、細くて折れてしまいそうだ。どうしたら安西さんの深い愛情を、傷つけることなく伝えることができるんだろう。考えている時間は恐らく、もうない。
「……温かい……」
 一筋の涙が頬を伝うのを感じた。同時にピーと機械音が部屋に響き渡り、握った早月さんの手がやけに重く感じた。
「早月? 早月! 早月! 」
 安西さんの届くことのない声が、耳にこだまする。
「安西さん! 」
 駆けつけたナースと医師に引き剥がされ、みんなが蘇生のため慌ただしく動くのを見ているだけだった。必死で早月さんの命を繋ぎとめようとしている彼らの姿は滑稽に思えた。今生き返らせてどうするんだ。愛する人がいないこの世界で、余命幾許の彼女をこのまま逝かせてあげることは、いけないことなのか。
 頑張れ。もう頑張らなくていい。頑張れ。もう頑張らなくていい。頭の中に矛盾が押し寄せる。
「離れて! 」
 電気ショックで早月さんの体が宙に浮いた。機械音が鳴り止まないまま時間が過ぎていく。
「……十七時二十一分」
 結局誰も何もできないまま、あっけなく早月さんは息を引き取った。早月さんの手の感触が生々しく残っている。なぜもっと早く許してあげられなかったんだろう。なぜもっと早く伝えられなかったんだろう。もっと何かしてあげられたはずなのに、なぜ。なぜ。なぜ。
 病室から追い出され、廊下の椅子に座り込んで、頭を抱えて静かに泣いた。声をあげて泣いてしまいたいのに、喉が詰まって声にならない。まるでこの思いを外に吐き出すことを禁止され、死ぬまで苦しめと言われているみたいで、痛くて仕方がない。張り裂けそうだ。
 しばらくして、早月さんの両親が連絡を受け駆けつけると、逃げるように病院を後にした。思うように足が動かない。もっと早く走りたいのに、足が前に出ない。息もできない。手足に感覚もない。限界まで来て、足を止めるとそこはあの事故現場だった。
 なかなか整わない呼吸のせいで酸欠だ。頭がくらくらする。そのままその場に倒れ込んだ。月が青白く光って星がほとんど見えない。暗く深い深海のような空に、このまま飲み込まれたならどんなにいいか。
 五ヶ月。安西さんが早月さんのそばに居られる時間を奪ってしまった後悔が押し寄せる。輝を奪ったあの事故が憎かった。一生分泣いた、と思う。怒りの行き場がなくて、それを安西さんにぶつけた。まるで子供だ。とっくに許していたのに、どんな顔して会えばいいのかわからなくて逃げ続けていただけ。ただ向き合うことを避けていた自分自身にどうしようもなく腹が立った。
「ハル、見て。あれ」
 地面に吸い付いた体をなんとか起こして、輝の目線の先を見ると安西さん、と寄り添う早月さんがいた。
「永井さん。ありがとうございました」
「……え」
「りょうちゃんから聞きました。ずっとそばに居てくれたんですね。本当にありがとう」
 繋いだ手を固く握って二人は消えて行った。笑顔の二人を初めて見た。
「ハル、ありがとうな」 
「……なんで……」
「だって、ちゃんと約束守ったじゃん」
「……」
 確かに一人で死なせたくないから、ずっと早月さんのそばにいて欲しいというのが、安西さんの頼みごとだった。それでも安西さんが早月さんのそばに居たかったはずなのに、それを許さなかった自分が許せない。
「ハルが見ているものと、人が見ているものが違う時があるんだよ、きっと。安西さんはすごくハルに感謝しているし、二人は幸せそうに逝ったんだから、そんなに思い詰めるな」
 生ぬるい夜風が頬を撫でる。涙は乾いて、詰まっていた喉が開いた。
「今夜の月はでっかいなー。うさぎがよく見える」
 輝はすぐ隣に寝転がり、言った。
「……そうだな」
 ぽっかり夜空に浮かんだ月の光に優しく包み込まれ、罪悪感をほんの少し癒してくれるような気がした。
 再び幸村とあの喫茶店へ行ったのは翌日のことだ。
「安西さんの件が片付いたなら、早速旅行だ! 」
 言い出したら聞かない幸村の性格。ニューヨークの大学に進学することを決めている幸村には、日本の受験は関係ないから、受験勉強で忙しいという言い訳がまるで通用しない。自分勝手というか、自己中心的というか、とにかく人の都合はまるで無視だ。
「というわけで、本郷君に今一度聞いてくれ。どこに行きたいのか」
 幸村は前回よりも更に大量の資料を、今度は鞄いっぱいに詰め込んで持ってきていた。
「で、どうなんだ? 」
「んー」
「っていうか輝、お前旅行本当に行きたいのか? 」
 素朴な疑問だった。あんまり行きたそうには見えない。
「うん? まぁ……行きたいけど」
「なんだよ、今の間は」
「いやぁ」
 笑って誤魔化している輝を見てふと思った。そもそも輝の願いをすべて叶えて、思い残しをなくして、ちゃんと成仏してもらうために今までやってきたんだ。ちょっとだけ、もう少しこの世にいて欲しいという、自分のワガママもあったことは事実だが、本当の願いをそろそろ知りたい。考える時間は十分あったはず。
「そろそろ言えよ。本当に思い残したこと」
「……マジでわかんないんだよ」
「おいおい、一体何の話をしているんだい? 」
 幸村が通訳を求める。
「輝の思い残したことをちゃんと解決してやらないと、いつまで経っても成仏できないだろう? だからこっちは必死で色々考えてるのに、こいつがまったく話にならないから」
「なるほど。つまり本郷君が本当に望むことを探せばいいんだな? 」
「そういうこと」
 日下部さんに奥さんと娘さんに伝えたい思いがあったように、直樹くんがお母さんに伝えたいことがあったように、サワさんが幸村を想っていたように、安西さんが早月さんのそばに居たかったように、輝にも何かあるはずなんだ。誰かに何か伝えられていないこと。それなのに本人にまったく自覚がない。それを解決しない限り輝はずっと彷徨い続ける。そばにいてくれること自体はありがたいけれど、それはきっと正しくない。
「悪いな、ハル。ずっと考えてるんだけど、本当に思い浮かばないんだよ」
「はぁ……ならもう少し考えろよ」
 他人の気持ちにはあんなに親身になって考えられるのに、自分のこととなるとこうも鈍感な輝に嫌気が差す。
「なぁ……」
 幸村は顎に手を添えながら、首を傾げている。
「……本郷君は本当にわからないのかい? 」
「あぁ、そう言ってる」
「永井君もかい? 」
「俺に分かるはずがないだろう」
「……ならば二人共、もう少し一緒に悩んだ方がいいな」
「な、どういう意味だよ。まさか、わかったのか? 」
「明日、放課後にまた話そう。今日はもう行くよ」
 幸村は一人さっさと帰って行ってしまった。
「……なんだよ。わかったなら言えっての」
 すっかり取り残された輝と二人で、帰り道に散々頭を悩ませたが答えは出なかった。
 家に着いて、夕飯を食べている間も、風呂に入る間も、ベッドに入ってからもずっと考えているのに、まだわからない。
「大体なんで俺らにわからないのに、幸村にわかるんだよ……」
 幸村に一体何が見えているのか、皆目見当もつかない。自室で輝と向かい合い、睨めっこしながら心当たりを片っ端から聞いていく。
「あ! 輝の親に何かメッセージとかは? 」
「別にないなぁ。最近は割と元気になったみたいだし、前に進めてるっぽいから、特に心配もしてない」
「じゃあ、好きな子に告白? 」
「そんな子いないよ」
「部屋に隠した一桁の点数の答案用紙が気がかりとか? 」
「隠したことないよ。成績に関しては親も諦めてたし」
「じゃあ、マジで旅行に行きたいのか? 」
「旅行はまぁ、行きたいけど。別に行かなきゃ、それはそれで」
「なんなんだよ、もう! さっぱりわかんねぇよ」
「俺ももう半年以上考えてるけど、思い当たらないんだよ」
「でも、まだここにいるってことは何かしらあるんだろ、未練みたいなものが」
「……なのかなぁ」
 輝は自分のことなのに、他人事みたいに言う。
「あー、もう、いいよ! 寝る! 明日幸村に聞こう」
 枕に顔を埋め、「もう考えたくありません」のポーズを決め込む。そのまま眠りに落ちるまでの間も色々と考えてみたものの、それらしい答えは思いつかなかった。
 また天気予報が外れる。六限目の授業中、一日晴れのはずが、窓の外からかすかに雨の匂いがした。上を見上げると真っ青な空も西の方を見ると雲行きが怪しい。
「傘持って来てないのに……」
 受験前に風邪を引くのはごめんだ。できるだけ風邪を引く原因は潰しておきたいこの時期に、天気予報を鵜呑みにした今朝の自分に馬鹿野郎と言いたい。
「お前はいいよな、瞬間移動できるし」
 目線は黒板に向けたまま、隣にいる輝に小さな声で言う。
「でも外にいればちゃんと濡れるよ? 寒さは感じないし、いつの間にか乾いてるけど」
「へー……」
 そう言うものなのか。幸村の方に目をやると、ちゃんと真面目に授業を受けている様子だった。約束の放課後まであと少し。こんなにも六限の授業が長く感じたのは小学生のとき以来だ。サッカーの練習をしたくてうずうずしていたあのころ、授業が早く終わらないかと時計と睨めっこしていた。一分は意外と長い。四十五分の授業は永遠に思えた。今まさしくあんな感じだ。終礼が鳴って、先生が教室を出たのを確認すると、すぐ幸村の席に向かった。
「なんだい、永井君。そんなに慌てて」
「……」
 こっちが何を言いたいのかわかった上で、素知らぬ顔をしている幸村が憎らしい。
「まぁまぁ、そう急かさないでくれよ。彼はいるのかな? 」
「……いるよ」
「そうか。場所を変えようか」
 幸村について歩く。教室を出て階段を下って行く。
「幸村には何が見えてんのかな」
 独り言のような輝の問い。それはこっちが聞きたい。幸村に見えて、二人に見えないもの。それが何なのかもうすぐわかる。幸村が立ち止まったのは誰もいないグラウンドだった。あまりに突然立ち止まるもんだから、幸村の背中にぶつかった。
「っ何だよ、幸村。こんなとこで」
「永井君、僕はね、ずっと不思議で仕方がなかったんだ」
 幸村はこちらを振り返ることなく話し出した。
「みんなで食事をした時も、君が本郷君に望みを聞いた時も、そして今も。君達は本当に気づいていないのかい? 」
「だから何が」
 それがわからないから聞いている。
「君達はどうしてサッカーの話をしない? 」
「え? 」
 そんなこと、意識していなかった。いや、意識していた。ずっと、ずっと意識して、意識から外していた。
「君達は京東サッカー部のエースだった。二人ともずっとサッカーに明け暮れていたじゃないか。この高校に入学する前からずっと、してからもずっとそうだっただろう? 僕は仲良くなる前から君達のことをずっと知っていたよ。二人とも有名だったからね。ずっと不思議だったんだ。永井君、君はもうどれくらいサッカーの話をしていない? きっと本郷君ともしていないだろう」
 いつからだ。思い出せ。あの試合の後、怪我をした後、輝とサッカーの話を一度でもしただろうか。
「永井君、どうしてか聞かせてくれよ。きっと本郷君も聞きたいと思うよ」
 輝の顔を見る。輝は相変わらずまっすぐな目でじっとこちらを見つめている。
「ハル……」
 責められている気がした。どこから話せばいいのか、わからない。長い時間をかけて絡まった糸を解くのは、本当に難しい。
「永井君、今まで君は死んだ人たちからたくさんのメッセージを受け取って、残された人たちにそれを伝えることで、たくさんの人達を救ってきた。僕も例外ではないし、君には感謝している。だから僕なりに色々と考えたんだ。どうしたら本郷君を救えるのか。そして至った答えがこれだよ。今回は永井君、君が話す番なんだよ」
 黒い大きな雲がすぐそこまで迫ってきている。太陽は覆われ、辺りが次第に暗くなってきた。とうとう、自分自身と向き合わなければいけない時が来たようだ。
 遠くで雷が鳴る音が聞こえた。強風に髪が靡く。
「ハル」
「永井君」
 二人が引き出そうとしているのは、自分の中の深く深いところに隠してきた気持ち。できれば誰にも話すことなく、このまま忘れ去ってしまおうとしていたもの。実際今の今まで忘れていた。
「……ずっと、言えなかったことが、あるんだ」
 初めて打ち明ける。きっと輝を傷つけてしまうだろう、事実。
「……サッカーは、楽しかった」
 ダメだ。輝の顔を直視できない。
「……でもお前みたいに、俺にとってサッカーは〝一番〟ではなかったんだよ」
「……」
 二人は何も言わない。ただじっと聞いている。
「最初、俺にとってサッカーは逃げ場だった。……幽霊なんて見えなくなれば……他人に変だと思われない子供になれれば、それでよかった。サッカーは確かに楽しかったけど、〝見える〟ことから逃げ出したくて、必死で練習に励んでいただけなんだよ」
 すべてが壊れていく音がした。思い出の欠片がガラス玉みたいに割れる音。
「ただサッカーがたまたま向いてたから、あそこまでやれたってだけ。だから怪我した時も、そこまで落ち込まなかった。俺にとってサッカーのない人生を想像することは、そんなに難しいことじゃなかった。他のことをやればいいやって、すぐに切り替えられた」
 毎日見舞いに来る母さんと輝には、口が裂けても言わないつもりだった。きっと傷つくだろうと思ったから。だって、もう長い間サッカーに対して本気だと思われてきたのに、今更本当は本気じゃありませんでした、なんて言っても誰も信じてくれないだろうし、強がりに見えるだけだ。信じてもらえないのは、もう嫌だった。
 母さんが、もう二度とサッカーができなくなるんじゃないかと、泣いていたことを知っていた。あんなに大好きだったサッカーがもうできないなんて、なんて我が子は可哀想なんだろうと。そんなこと、これっぽっちも思っていなかったのに。受験のことを話した時に、一瞬言葉に詰まった母さんのあの顔をまだ覚えている。
「俺が怪我した時、思っただろう? 二度とサッカーができないなんて、俺にとってどんなに辛いことだろうって。あんなにサッカーの話しかしてこなかったお前も、あの時ばかりは一度もサッカーの話、しなかったもんな」
 もしも怪我したのが輝だったなら、自分もサッカーの話をしなかっただろう。そんな傷口に塩を塗るような真似、できるはずがない。輝からサッカーを奪ったら何も残らないと言っても過言ではない。それほど輝にはサッカーはすべてだ。
 でも違ったんだよ。あの時落ち込んでなんていなかった。みんなが思うほど、辛くも苦しくもなかった。
「ごめんな。俺はサッカーに対してお前みたいに誠実じゃなかった」
 本当のことだ。
「世界に行きたいっていうのは、お前の夢だ。俺の夢じゃない」
 輝を見る。ここまで腹を割って話したのは初めてだ。幸村はただ黙ってそこに立っていた。
「……ハル」
 輝は大きく息を吸って、笑って言った。
「サッカー、やろうぜ」
 雨がポツポツと降り始めた。グラウンドが濡れ始めたけれど試合は決行。幸村がとってきてくれたボールを二人の間に置く。一年以上振りのサッカー。まったく自信はない。でも他でもない輝が望むことだ。やらないわけにはいかない。
「あー、雨だ。雨の日のサッカーって嫌なんだよ」
「なんだよ、言い出したのはお前だろう」
「晴れ男はどこに行ったんだよ」
 輝は駄々をこねる子供みたいに地団駄を踏む。
「ところで輝、ボールに触れるのか? 」
「……前にさ、日下部さんが柿の木にぶつかったって言ってたじゃん? あれって娘が大学受験に合格して感情が高ぶってる時だったんだよね」
 輝はそう言いながら、ボールの上に足を置き、転がした。
「今なら触れる気がしたんだ」
「Ready……」
 幸村は右手を大きく上げながら叫んだ。
「Play! 」
 サッカーを知らない幸村の独特な声がけでゲームは始まった。昔と同じ、ただのボールの奪い合い。ただひたすらボールを奪い合うだけの単純で終わりのないゲーム。幸村は屋根のあるところまで走っていき、遠くからこちらの様子を見ている。一人でサッカーをしているようにしか見えない自分の今の姿はどう考えても頭のおかしな奴にしか見えないだろうに。
 輝はボールを器用に左右に蹴りフェイントをかける。一年前なら簡単に取れたはずのボールも触ることもできない。それどころか開始数分で呼吸すらままならない状態だ。
「ハル! 手ェ抜くなよ! 」
「ぬ、抜いてねぇよ」
息が苦しい。足がもつれる。それでも食らいつく。
「俺は、ハルがずっと羨ましかった! 」
「……っなんだよ、急に! 」
 地面が雨に濡れ、ボールが水を吸って重くなったせいか、輝のコントロールが突然悪くなった。その隙にボールを奪う。
「あっ! 」
「集中してないからだろう」
「……本当に、ずっと羨ましかったんだ! 」
 さすがに輝の方が体力は数段上だった。動きが俊敏ですぐにまたボールを奪われる。
「俺よりずっとサッカーの才能があって! 」
「くっ」
 まったく歯が立たない。
「みんなから期待されて! 」
 ついに輝の両足の間にあるボールめがけて、捨て身のスライディングでボールを取りに行った。つい一年前までプロになれると言われていた選手とは思えないほど雑で、幼稚なプレイ。すっかり泥まみれだ。格好つけてる余裕なんて、もうどこにもなかった。ボールは遠くに転がっていき、二人はダッシュでボールを追う。
「俺は必死で練習して、努力して、やっとだったのに! 」
 輝の足の速さに敵うわけがない。
「ハル! お前はずっと俺の一歩前を行っていて! 」
 ボールに追いついた輝はこちらを振り向き、睨んでいる。
「なのに、お前はサッカーに本気じゃなかったって? その程度のものだったのかよ! 」
 ものすごい剣幕で走ってくる輝はまるで、獣のような迫力だった。輝の中に怒りを見たのは初めてだ。
「その程度って、なんだよ」
 聞き捨てならない言葉だ。プチンと何かが切れた。
「俺にとって、サッカーがどんなに大事だったか、お前にわかってたまるか! 」
 再び輝に立ち向かう。
「変なもんが見えて! ずっと友達ができなくて! ずっと独りで! そんな時お前が誘ってくれて! サッカーが俺の世界を変えてくれたんだ! 」
 水を吸って重くなりすぎて転がらない、跳ねないそれはボールとはもう呼べないほど扱いにくい。雨は更に強くなるばかりで、視界はどんどん狭くなる。
「本当にすべてが変わったんだ! 」
 激しい雨に声が掻き消されそうで、懸命に叫んだ。
「楽しかったんだよ! 」
 ボールを奪い合い、今度は一歩下がって間合いを取る。上がった息を整えたい。
「……輝には感謝してる。ありがとな」
「……ちくしょうっ! 」
 休む間も無く輝がボールに足を延ばす。そう簡単に渡すわけにはいかない。
「ハル! まだあんだろ! 言いたいこと! 」
「なんだよ! 」
「言えよ! 」
「俺は、お前にプロになって欲しかった! 」
 輝のパワーには敵わない。力づくでボールを奪われ、またボールを追う。
 ところで幽霊に体力の限界なんてあるんだろうか。どう考えても圧倒的に不利であることに今更気がついた。早く言いたいことすべて言って、ゲームを終えないとこっちが死んでしまう。
「あの日、怪我したのが俺でよかった! 」
 もうどのくらい走ってるんだ。時間の感覚がない。体も冷えて手足の指先がジンジンしてる。
「ふざけんな! ちゃんと言えよ! 」
 出した足が輝の足に絡れ、二人同時に転んだ。雨なんだか、泥なんだか、もうわからないほどぐちゃぐちゃだ。
「いてて……」
「ハル! 」
 輝に馬乗りで胸ぐらを掴まれ、少し体が浮いた。
「言えよ! 本当は俺が憎いって! 」
 光った稲光に照らされ、この大雨でも隠せない輝の大粒の涙を見た。輝は泣いていた。
「あの試合で俺があんなパスさえ出さなければ! ハルが怪我することはなかったんだ! 」
 そんなこと、考えていたのか。
「ハル……、ごめん。ごめんな。俺……ずっと謝りたかったんだ」
 知らなかった。気持ちを隠して来たのは自分ばかりではなかった。
「サッカーの話をしなかったのは、怖かったから。ハルからサッカーを奪ったのはこの俺だ。ハルに恨まれても仕方がない。でも、怖くて、何も言えなかった」
 輝のこんな泣き顔を見るのも初めてだ。弱さ。嫌われたくなくてずっと隠していた、本当の気持ち。お互い様じゃないか。どうしてそれを責めることができるんだ。
「恨んでなんかないよ。怒ってもない。言っただろう? お前とサッカーできただけで十分だったんだ」
 お互いがお互いに気を使って、自分自身を守ることに一生懸命だった。ただそれだけ。それ故に口を閉ざし、自分に嘘をついて、お互いの気持ちを隠し続けた結果、あんなに一緒にいたのにずっと表面ばかりを見ていて、何も見ていなかった。
「ごめんな」
 沈黙は雨音に。空が泣いている。
「もっと早く、話せばよかった」
「そうだな」
「俺はサッカーが好きだ」
「……俺も」
「将来は世界で活躍するプロのサッカー選手になりたかったんだ」
 もうなれない。そんなこと百も承知だ。でも無理なことを口にするのは無駄だと諦めたあの日、言えなかったことを言いたい。
「輝なら、きっとなれたよ」
 全身が冷たいのに、目頭だけが熱くなった。
「来年のワールドカップ、見に行きたかった」
「ロシアは遠いな」
「……もっと、サッカーやりたかった」
「……あぁ、そうだな」
 輝の声が少し小さくなった。それでもはっきり聞こえたのは雨が弱まってきたからだろう。
「……悔しい……」
「……あぁ……」
 黒い雲は流れ、次第に空が明るくなり出した。輝は空を見上げた。
「やっぱり、無敵の晴れ男だな。ハルは」
「バーカ、こういうのを夕立って言うんだよ。って言うか、いい加減どけよ」
「悪い、悪い」
 そう言って立ち上がった輝に重さはなかった。改めてここにいないと言うことを思い知った。もう死んで、いない存在。受け入れたはずの事実なのに、どうしてこんなにも心に突き刺さるんだ。
「あー、すっきりしたな」
「だな」
「雨も止んだし」
「色んなもん、水に流したって感じだな」
「ハル、それうまいこと言ったつもりか? 」
 よかった。いつもの輝に戻って安心した。
「おーい! 永井君! 」
 屋根のある方から走ってきた幸村に手を振る。
「本郷君とは、話せたかい? 」
「あぁ。……幸村、ありがとな。色々」
「何を言うんだ。友達だろう」
 タオルを持ってこちらに走ってきた幸村に礼を述べると、いつもの返事で安心する。
「俺、これからはちゃんと正直に生きていくことにするわ。言わなきゃ何も伝わらないってことも、伝えたいことはちゃんと伝えなきゃ後悔するってことも、今回のことで、嫌ってほどわかった」
 死者の代弁をしてきて、死んでから伝えることにも意味があるように錯覚していた。自分みたいな存在が他にいないなら、自分が死んだら誰も自分の代弁はしてくれないじゃないか。せっかく生きているんだ。今のうちに伝えるべきなんだ。
「ハル、ありがとう」
「礼を言うのは俺のほ……」
 振り返ると輝の姿はなかった。
「……あ、きら? 」
 見渡す限り輝はもう、いない。どこにもいない。本当にいなくなってしまった。逝ってしまった。こんなにも唐突に、あっさりと。輝の思い残したこと。それは自分だったんだと、今更悟った。
 見上げた空は雲がかっていて、その雲の切れ目から太陽の光が差し込んだ。さっきまでの大雨が嘘のようだった。
「逝ってしまったのかい」
「……あぁ」
「今日は車で送っていくよ。その格好では風邪を引いてしまう」
「……ありがと」
 幸村は泣き顔が見えないように頭からタオルをかけ、ただ黙って家まで送ってくれた。その後はただひたすら泣いて、泣き疲れて、眠りに落ちた。
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