晴天に輝く

Chi

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第四話

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 聞こえるのは乱れた鼓動だけ。ぼやけた視界。狂った平行感覚。五感で感じるリアリティはない。腕も足も、ピクリとも動かせない。
 ここはどこだろう。確か学校に向かっていたはずだ。わからない。とにかく疲れた。何も考えたくない。それなのにどうしても思い出してしまう。
 全員が黒い衣装に身を包んだ葬式は、モノクロの無声映画みたいで、すぐそばで輝の母親が声を押し殺しながら泣いていた。木魚のリズミカルな音、独特な音で読み上げられる経、そしてすすり泣く声。時間が自分一人を置き去りにして通り過ぎて行く気がした。不思議と涙は出なかった。人間本当に悲しいと涙が出ないって言うのは本当らしい。参列者のほとんどは京東の学生で、目を赤く腫らしていた。唯一飾られた写真の中の輝だけが笑顔だった。
 輝が死んだ。葬式が始まっても、まったく現実味はなかった。棺桶で花に包まれた輝の顔はまるで眠っているようで、穏やかで、今にも起き上がりそうだった。
交通事故だった。あの日、朝練に行く輝の背中を見送った直後の出来事。嗤う膝でよろよろと走って現場に駆け付けた。傾いた電柱と、グニャグニャに曲がったガードレールにのめりこんだトラック。運転席のフロントガラスは割れて、血の跡が広がっていた。トラックのタイヤのワキから覗いたぐったりとした手。しばらくして、道路にゆっくりと大量の血が広がっていくのを見た。とっさに駆け寄ろうとすると、たまたま居合わせた警官に行く手を阻まれ、その場にしゃがみこんでしまった。
翌日、警察がうちにやってきて、誰がどうしたとか、どっちがどうとか、色々言っていたけれど、そんなことどうでも良かった。どんな言葉も耳に入らなかった。
親友が死んだという事実を、どうやって受け止めればいいのかわからなかった。頭と心がバラバラで、もういない、ということは理解っているのに、思考回路が繋がらない。鈍器で殴られたように、いつまでもぼぅっとしてしまう。
 最後に交わした会話をいくら思い出しても、そこに自分の言葉はなかった。最期のあの笑顔を見て、誰がこんな未来を予想しただろうか。
 それから部屋に籠もる日々が、何日も続いた。何もやる気が起きない。一日に一度、母さんが食事に呼びにドアをノックした。食欲はない。何も喉を通らない。
「ハル。……何か食べなきゃ」
「……」
「……ご飯、あるからね」
息子同然だった輝が死んで、ショックなのは母さんも同じはずだった。それでも毎日ご飯を作って、パートにも出るようになった。学校から何度か連絡が来た時も、気丈に振る舞って対応していた。
 悲しみに果てはあるんだろうか。遮光カーテンを閉め切った部屋では、今が昼か夜かもわからない。どこまでも堕ちていくだけ。
 スマホには無数の通知が届いていた。サッカー部の先輩達や、幸村、美耶子ちゃん。返信どころか、読んでもいない。気力がない。いつしか充電が切れて、電源はオフになった。
 不思議と日に日に増していくのは悲しみじゃなく、怒りに似た感情だった。
「……嘘つき……」
 願わくば輝に届いて欲しい、独り言だ。
「俺より先に死んだら、会いに来るんだろう……? 」
 子供のころに交わした約束を口にする。輝は覚えているだろうか。
「なんで……会いに来ないんだよ」
 あぁ、そうか。きっと輝には思い残すことなんて何一つなかったんだ。だから死んですぐ成仏したんだ。だからここへは来ないんだ。なんとか自分を納得させる言い訳を探す。何故会いに来ないかの理由は考えたくもなかった。
「……くそっ」
 ベッドに横たわり、どうにもならない苛立ちを落ち着かせようする。そんなわけがない。夢を叶えられずに死んだんだ。まだ何も成していないのに、満足して成仏したわけがない。
 こんな気持ちで眠れるはずもなく、ベッドの上をゴロゴロと無駄に動き回った。すると、ふと学校のグランドにいる輝が頭を過ぎった。
「……もしかして」
 慌ててベッドを飛び出し、学校に一目散に走る。
「ちょっと、ハル! 」
後ろで母さんの呼ぶ声が聞こえた。久しぶりに触れた外気が、いかに自室の空気が濁っていたかを教えてくれた。外はまだ明るい。今日が何日で何曜日なのかは分からないが、人通りの多さで平日だと予想する。
 まだ全力疾走はできない。右膝の軋む音は忘れて、できるだけ早く走った。苦しい。一年でこんなにも体力が落ちたのか。息ができない。そんなことはお構いなく、とにかく走る。たくさんの花が手向けられた事故現場が視界に入って、蘇る記憶や感覚を振り切るように走った。
 とにかく必死で、そのあとのことは、あまり覚えていない。
「永井君……永井君……」
 ぼやけた視界に人影が現れた。遠くで聞き覚えのある声がする。
「永井君! 」
 両肩を掴まれ揺さぶられ、ふと我に返った。
「幸村……? なんで……」
「ここは学校だよ。君は本郷君を探して学校中、走り回っていたんだ」
「……」
「錯乱状態だったと言ってもいい。まともじゃなかったよ」
「……そうか……、迷惑、かけたんだな……ごめん」
「ふざけるよ! 」
 幸村は珍しく声を荒げて、握りしめた拳で力いっぱい壁を叩いた。
「迷惑? 迷惑なんてもんじゃない! 君はどれだけ人に心配をかけて、こんな……っ」
「……」
 幸村の頬に涙が流れた。
「……ごめん、幸村」
「本郷君は……死んだんだよ」
「……わかってる……」
「彼とはまだ……? 」
 会えてない。喉が震えてうまく話せない。首を横に振った。
「……そうか……」
「……俺が死ねばよかった」
「……」
「あいつには夢があって、それに見合う実力もあって、誰より努力もしてた……こんなの理不尽だ……なんで輝なんだ……俺が……死んだのが俺だったらよかったのに……」
 輝が死んで、初めて泣いた。蛇口をひねったように、涙が溢れて止まらない。
「……立てるかい?」
 足が痛い。ジンジンする。
「車で送るよ」
 幸村の肩に身を預ける。うまく歩けない。力が入らない。幸村の車に乗り込むまで、学校中が異様に静かに感じた。みんな足を止めてこちらを見るだけ。実際の距離以上の距離感。どうやら相当イカれた姿を晒したらしい。
「……僕は君が死ぬのも嫌だよ」
 車のエンジン音に紛れてしまうほどの声だった。
「……永井君、悲しいのは君だけじゃないよ」
「……そうだな……」
 事故現場の前を通ると、女子生徒が手を合わせているのが見えた。輝のファンだろう。
「永井君、他に思い当たるところはないのかい? 」
「…………中学校」
 二人で通った母校。もしかして、あそこなら。
「行ってくれ」
 車はぐるっと方向転換して、懐かしい母校を目指した。
 夕暮れ時のグランドではサッカー部が練習をしていた。会ったこともない後輩たちだけど、しっかりと受け継がれている。校舎の壁にはサッカー部全国一位の垂れ幕。車を降りて、フェンス越しに輝の姿を探す。
「……」
 蘇る記憶。そのどこにも笑顔の輝がいる。
「……永井君? 」
 久しぶりに聞いても分かる、太田先生の声。
「……先生」
「久しぶりだね。元気?」
「……まぁ」
 きっとうまく笑えていない。
「久しぶりだろう? ちょっと話していかないか」
 太田先生はそう言って、二人でゆっくりフェンスに沿って歩き出した。
「わが校のサッカー部はお陰様で、全国レベルを維持できているよ」
「……垂れ幕、見ました」
「あぁ、あれね。僕もただの部活顧問からコーチになったんだよ。すごいだろう」
「……そうですか」
「あれからかなり勉強もしたんだよ、サッカーの」
「……へぇ……」
「…………聞いたよ。本郷君のこと」
「……」
 振り返る先生の目は赤くなって、潤んでいた。
「……永井君は、もうサッカーやらないのかい? 」
「……知ってるんですね、怪我のこと」
「あの試合は僕も見に行っていたからね」
「……俺のことは、どうでもいいんです」
「本郷君はそんなこと、思っていないと思うよ」
「……先生に何がわかるって言うんですか」
「わかるよ。本郷君は心の底から君のことを認めて、尊敬していたんだから」
「……気休めはいいで——」
「本人がそう言っていたんだ。君には敵わないって。一生のライバルだって」
「……」
「本郷君は努力型の天才だったと思う。誰よりも練習をして、地道な努力の末、実力を伸ばしていた。そんな本郷君だったからこそ、ちゃんとわかっていたんだよ、君のずば抜けたセンスの良さと、才能を」
「……そんな……俺の方が……あいつは俺の憧れで。いつもあの背中を見ていたんです」
 輝の姿はここでも見当たらない。記憶の中の輝は笑顔で、ボールを追いかけている。
「先生……また、来てもいいですか」
「……もちろんだよ。いつでもおいで」
 先生は優しく微笑んで、見送ってくれた。車で待っていてくれた幸村は窓から心配そうにこちらを見ている。首を小さく左右に振ると、少し寂しそうに俯いた。
「お待たせ」
「……」
「……心配かけてごめん。学校もちゃんと行くから」
 家の前に着くと、母さんが心配そうに玄関の前に立っていた。幸村の車から降りると細い腕に抱きしめられた。一回り小さくなった気がする。
「心配したんだから」
「……ごめんなさい」
 自室に戻り、ベッドに腰掛ける。
 もしかしたら、今頃学校では騒ぎになっているかもしれない。そうなったら親が呼び出されるんだろうか。
「俺は何をやってるんだ……」
「ホントだな」
輝の声。
「……」
「ハル」
 声のする方を振り返ると、生きている時と何ら変わらない、元気な輝の姿がそこにある。
「よっ」
「……なんでっ、俺の所に一番に来ねぇんだよ……! 」
「ごめん」
 もう会えないかと思った。こうして言葉を交わすことなく、消化しきれない思いを抱えて生きていかなくてはならないのかと、絶望していたのに、何事もなかったかのようにそこにいる輝に拍子抜けしてしまった。言いたいことは山のようにあるのに、喉が開かない。いざとなると、言葉は出てこない。
「……大丈夫、なのか? 」
「大丈夫……って言えるのかな、死んじゃったし」
「……」
 ちゃんとわかっているようだ。
「……でも、まぁ、もう痛くないし。大丈夫か」
 輝は笑顔を見せた。これが本当に死んでしまった人間の表情なんだろうか。
「……お前が俺の所に来るって事は、何か思い残したことがある、ってことだよな」
「んー、そういうことになるのか」
 思い残すことだらけだろう。何もかも中途半端で終われるわけがない。それがわかっていたからこそ、死後も輝に会えるはずだと思っていたわけで。
「……まぁ、時間はあるし、ゆっくり考えろよ」
 本当は、「俺にできることは何でもやるから」と言えばよかったと思った。でも早く解決してしまえば、その分早く輝の成仏を手伝うことになる。本当はそれが一番いいことだとわかってはいても、まだ消えてほしくない。これはエゴだ。もう少し時間が欲しかった。
「そうだな」
 笑う輝を見て、これはズルさだと、罪悪感を覚えた。
 不意に母さんがドアをノックする。
「ハル……あの——」
 ドアを開けると不安げな母さんの顔があった。
「……ご飯、食べるよね? 」
 鏡を見なくても分かる、下手くそな笑顔で小さく頷いた。
「……おばさん」
 すっかりやつれた母さんの姿を見て、輝が心配そうに手を伸ばす。触れられないし、声も届かない。寂しそうに、申し訳なさそうな顔をする輝の表情を見て、思わず——。
「……あのさ、母さん——」
「さっ、ご飯食べよう」
 輝がここにいるんだよ、と言いかけて止めた。
結局言い出せないまま、母さんと向かい合って食事をした。輝はキッチンに立ったままこちらを見ている。会話のない食卓。まだ食べ物が喉を通らないけど、母さんと輝を心配させたくなくて、その一心で箸を口に運ぶ。
「ごちそうさま」
 結局、元の食事量の半分も食べられなかった。それでも何も食べないよりはマシだ。母さんは終始微笑んでいた。
 自室に戻ると、いつものように音楽をかける。
「おばさんの飯……もう食べられないんだな」
「……」
「……なぁ」
「うん? 」
「心残りってさ、後悔みたいなこと、なのかな」
「……多分」
「俺にも後悔してることがあるってことか……」
 インターハイに行けなかったこと、もうプロにはなれないこと、もうサッカーができないこと。輝の後悔なんてきっと数えられないほどあるだろう。でももうどうにもならないことは言葉に出しても仕方がないと、口を噤んだ。
「……」
「後悔しないように生きてきたつもりだったんだけどな」
 輝がポツリと言う。拳を握った。
「……とにかく、考えてみろよ。この際、思いつくこと全部やろうぜ」
 輝のあのニカッとした眩しかった笑顔を真似てみる。頬の筋肉がうまく動かない。きっと今の笑顔はこの上なくぎこちない。
「早く寝ろよ。明日、一緒に学校行こうぜ」
 こうして輝との奇妙な共同生活が始まった。
 今の輝は食事も風呂もトイレも睡眠も要らない、スーパーエコモードだ。しかも瞬間移動機能付き。体という箱に縛られた人間からすると、不謹慎ながら羨ましくもある。寝坊した朝は特に。
「行ってきます」
 久しぶりによく眠れた気がする。少なくとも無気力感からは脱した。体はすっかりなまってしまった。朝食を食べる時間がなくてトーストを頬張りながら靴を履く。
「気をつけてね」
 母さんの顔色は心なしか良くなった気がする。
「行ってらっしゃい」
 輝が死んでから初めて学校へ行く。授業について行けるか心配だ。
「ハル」
 玄関を出ると輝が待っていた。いつもの制服に身を包み、声も笑顔も変わらない正真正銘、輝本人。まだ死んだとは思えない。
 二人で静かに、肩を並べ歩き始めた。影は一つ。何を話せばいいのか、言葉が出てこない。
「考えたんだけどさ」
 とうとう何も話さず校門まで来て、先に沈黙を破ったのは輝だった。
「心残りってやつ」
「あぁ」
 学校に着いた途端、多くの視線を感じた。
「あの人サッカー部の……」
「この間は……」
「かわいそうに……」
 薄っぺらな哀れみと同情の言葉の数々。陰口じゃないのに、なんだか居心地が悪い。居場所に困る。こんなに注目されていては輝と話せない。
「こんなこと、ハルに頼むのはちょっと気が引けるんだけど……。怒らないで聞いてくれよ? 」
 お構いなく話しかけてくる輝に、怒らないから早く言ってくれと目で訴えた。
「俺……」
 輝の信じられない発言に一瞬時が止まった。その内どうしようもない怒りがふつふつと沸いてきて教室まで猛ダッシュし、勢いよく教室のドアを開ける。
「幸村! 」
「な、永井君! 君、もう大丈夫なのかい? 」
「ちょっと来て! 」
 幸村の首根っこを掴んで教室から引っ張り出し、人目のない階段の踊り場に行って小声で話す。急な事に幸村の思考は置いてきぼりだった。
「永井君……一体どうし——」
「今、ここに輝がいる」
「! 」
「よっ、幸村、久しぶり! って見えないか」
 その一言で状況を把握してくれる幸村の存在はありがたい。特に今は。
「今から幸村に話すフリして輝に話すから、つきあってくれ」
「わ、わかった」
 幸村の了解を得てから、大きく息を吸い込んで、声量の限界に挑む。
「バカか! お前は! 」
 その声は学校中に響いた。幸村にはとんだとばっちりだ。
「一晩考えて出した答えが〝女の子とデートしてみたい〟だと⁉ ふざけるな! 」
 幸村の胸ぐらを掴む。幸村は何のことだかさっぱりという顔で、目をぱちくりさせている。そのすぐ隣で頬をポリポリと掻きながら輝は苦笑いしている。
「いやぁ。だって、本当にそれくらいしか思いつかなくてさ」
 呆れてため息が出てきた。大声を出すのにも体力がいる。まだ学校に来たばかりなのにくたくただ。
「……それが本郷君の望みなのかい? 」
 乱れた制服を直しながら幸村が会話に参加する。
「あぁ、ふざけてるだろう? 」
「そんなこともないだろう? 思春期の男子が女子と交流したいと思うのはごく普通のことだと思うのだが」
「だよな! さすが幸村、話が分かる! 」
「……それはそうなのかも知れないけど」
 気に入らない。こんな奴のために泣いていたのか。まったく、あの涙を返して欲しい。
「本郷君は彼女とかはいなかったのかい? 」
「いるわけないっしょ。そんな時間なかったし」
 幸村の声は届くのに、輝の声は届かないことに歯がゆさを覚える。
「……いないってさ」
「ならば女の子と触れ合ってみたいと思うのも当然だよ」
「理解あるなー、幸村は」
 調子が狂う。輝ってこんな奴だった? そもそもサッカー関連の会話以外ほとんどしたことがないんだ。恋愛事情だの、好みのタイプだの、聞いたこともなかった。
「永井君。もしもそれが彼の本当の望みなら、叶えない訳にはいかないんじゃないのか? 」
「うっ……」
 確かに幸村の言う通りだ。何でもやると言った自分の言葉を思い出す。反論の余地もない。
「ハル……」
「……わかったよ」
 負けた。捨て犬のような顔した輝に見つめられ、渋々そう答えるしかなかった。
「よっしゃ! 」
 ガッツポーズの輝はなんだか、とても楽しそうだった。
 朝から授業そっちのけで考え続けて、もうすぐ放課後だというのにどうすればいいのかわからない。結局あのクリスマスパーティ以降女子と関わるようなこともなく、相変わらず女子と話すのは苦手なままだ。もうため息が止まらない。ため息をつくと幸せが逃げると言うけれど、それが本当ならもう一生分の幸せを使い果たしてしまったかも知れない。そこへ幸村からメッセージが届く。
〝クリスマスの時のあの子達をまた誘えば? 〟
 確か美耶子ちゃんと未来ちゃん、だったな。そんなに簡単に言うなよ。
〝お前あの時、あの子達を置き去りにしたの、覚えてるか……? 〟
 返信してすぐ幸村を見ると、しまったという顔。あの後、彼女達には一応謝罪文を送ったけれど返信はないままだった。まぁ、怒るのも無理はないのだけど。
「はい、今日の授業は終わり。復習しとけよー」
 終礼が鳴り、先生が教室を出て行くのと同時に幸村は立ち上がった。
「よし、永井君! 僕が責任を持って彼女達に謝って、誘ってくるよ。ちょっと待っていてくれ」
 そう言い残して二年生の教室の方へ走って行ってしまった。
「……大丈夫なのか」
 心配だ。さっきよりも更に大きなため息をついて頭を机に伏せる。言われた通り待っている間、輝のことを考える。女の子とデートだなんて、正直未だに信じられない。死んで人が変わってしまったのか、それともこれが本当の輝なのか。考えれば考えるほど混乱するばかりで、また一つため息が出た。
最後はちゃんと輝を見送りたい。その日まではどんなに下らない我が儘も聞いてやると、そう決めたのだから仕方がない。
 しばらくして戻ってきた幸村がVサインを掲げているのを見て、ため息が止まった。結果的に美耶子ちゃんと未来ちゃんは怒っていなかったらしい。ただ、あの後幸村と憧れのモデル・アンナとの関係を知ってファン心理が働き、恐れ多くて連絡などできなかったという。
「怒るどころか、本郷君の訃報を聞いて永井君のことを心配していたよ」
「……で、今回は何をするんだ? 」
 まさか、またクルージングパーティなんて言いださないかと、恐る恐る聞く。
「我が家の食事会に二人を誘ったよ。もちろんアンナも同席する」
 意外とまともな提案にホッとした。なるほど、そうすれば一応男女同数ということになる、ということにしよう。アンナファンの彼女達も喜ぶだろうし、埋め合わせとしては最高のプランだ。
「今週の土曜日の七時。嫌いな物やアレルギーがあるなら連絡してくれ。シェフに伝える」
「……シェフ、ね」
 いちいち反応するのももう面倒で、こういう人種も世の中にはいるのだと諦めることにした。
「あ、でも俺、英語できないけど……みんなは……」
「何を言っているんだ? アンナなら日本語ペラペラだぞ」
「だって、この前はお前とずっと英語で……」
「それは僕が英語を話せるからだろう? 」
 当たり前だろう、と言わんばかりの口調だった。鎖国国家日本に生まれ育つと人が二カ国語以上話せることをまるで想定しない。幸村がすごいのは、こんな嫌味とも取れる発言を、嫌味なく言えるところだ。最近だんだんつきあい方が分かってきた。
「まぁ、今回は任せた。なんか悪いな」
「君には返せないほどの借りがある。これくらい朝飯前だよ」
「借りなんてよせよ。俺はただ——」
「永井君。いいかい、僕はあの幸村グループの跡取り、幸村真一だよ? 恩を売ったと思ってくれていいんだよ。いつか役に立つから」
 高校生らしくないビジネスライクなものの考え方。ギブアンドテイク。でもそれは決して、これをしてあげたから、あれをしてくれ、という甘いものではない。これをしてもらったから、できるだけのことをしてあげたい、という幸村なりの優しさなんだろう。
「また何かあったらいつでも相談して。おっと、今日はもう行かないと。アンナと約束があるんだ。また明日な」
授業の遅れを取り戻すのに、必死で教科書と睨めっこをしていたら、あっという間に土曜日はやってきた。
「……でっか」
 大きな門の向こうは歴史の教科書や時代劇で見るような日本庭園で、大きな松の木が見える。左右、どこまでも続く塀。どれだけ広い土地なんだ。幸村の家はまさしく大豪邸だった。
「輝、いるか? 」
「おぅ」
 美耶子ちゃんと未来ちゃんは「見える」体質のことを知らない。言う必要もないと思っている。故に全員が揃う食事の席で輝と会話するのはかなり難しい。幸村は「この前みたいに僕に話すフリをして話せばいいではないか」と言ってくれたけれど、誤魔化すのにも限界がある。そもそも女の子とデートがしたいのは輝なのに、その場にいる女子が誰も輝を認識できないのは矛盾してないか? と今更疑問に思う。
「あ、来た、来た」
「先輩! 」
「お久しぶりです」
 二人は幸村家の食事会に相応しいワンピース姿でやって来た。いくらファッションに疎くても、髪型やメイクも相当気合いを入れて来たのが見てわかる。あの甘い香りも纏って、高いヒールを履いているその姿に高校生の面影はなく、すっかり大人の女性だった。一応白いシャツにジャケットは羽織って来たものの、いつも履いている破れたジーンズで来てしまったことを、少し恥ずかしく思った。
「それにしても、どうやって入るんでしょう? 」
 美耶子ちゃんが門をぐるりと見渡して首を傾げる。確かにインターフォンらしきものは、どこにも見えない。
「永井君! みんな! お待たせ」
 するとそこへ幸村とアンナが、日本庭園に敷かれた石畳を歩いてやって来た。
「幸村、とアンナ……さん」
「永井さん、こんばんは。先日はシンがお世話になりました」
 仲良く手を繋いで現れた二人。アンナはニコニコしながら手を振って、グリーンアイにダークブラウンの髪に似つかわしくない、流暢な日本語で挨拶した。
 ジーンズにジャケット、同じような服装なのに、様になっている幸村。アンナは抜群のスタイルに相応しいドレス姿。どう見てもお似合いカップルだ。後輩女子二人は、緊張のせいか、カチンコチンに固まっている。
「開けてくれ」
 幸村が門の左上角にある、小さな防犯カメラに向かって手を振ると、門はゆっくりと開いた。まさかこれが自動ドアだとは誰も思わず、絶句する。まるで不思議な国に迷い込んだかのような気分だ。
「こっちの門は車専用でね。人専用の出入り口は反対側なんだ。あっちで待っていてもなかなか来ないから、もしやと思ってね」
 歩きながら幸村は話す。門から入って玄関まで徒歩数分はある。意外と洋風な造りの玄関を入ると、吹き抜けの天井からシャンデリアが吊り下がり、キラキラと輝いていた。映画のセットみたいだ。
「ようこそ、わが家へ」
「お邪魔します」
 部屋中ぐるりと見渡しても果てが見えない、広い空間だった。
「外は日本庭園なのに、中は洋式なんだな」
「お祖父様とお祖母様が住んでいた本邸が奥にあってね、そっちは和式だよ。こっちは新しく建てた別邸」
 あっ、そうですか。
「ところで本郷君は来ているのかい? 」
 アンナが女子二人の相手をしているのを横目に、幸村が耳打ちする。
「あぁ、お前の目の前にいるよ」
「そうか。本郷君、今日は存分に楽しんで行ってくれ」
「へへ、ありがとう」
 輝の声は届かない。
「……ありがとうだってさ」
 外国語の通訳もこういう心境なんだろうか。二人とも面と向かって話しているのに伝わらない歯がゆさ。赤の他人の時ですら感じていたじれったさが、友達となると更に増して、どうにもならない現状に嫌気すら覚える。
 食卓にはすでにナイフとフォークに挟まれ、真っ白なぴかぴかの皿がそれぞれの席に並んでいた。高級レストランに行ったことはないが、こういう感じなんだろうと想像する。部屋の隅には、ウェイターのような人が立っていて、トレイに乗せた料理がどんどん運び込まれる。
「アンナのアイディアでね。フランス式だと料理が一つずつ順番に出てきて時間が掛かってしまうから、中華風にして、みんなで好きな物を好きなだけセルフで取るスタイルにしたよ」
 テーブルに並んだ料理の数々。さすがシェフと言うだけのことはある。見たこともない料理ばかりだ。男女それぞれ横並びに三人ずつ、向かい合って着席する。幸村が左端で、向かいはもちろんアンナ。真ん中は輝で向かいは未来ちゃん、その隣に美耶子ちゃんは座った。
「あれ、先輩、もう一人はいらっしゃらないんですか? 」
 未来ちゃんは向かいの席を指差す。
「確か、六人で食事をするって……」
 正確には輝が座っているのだからまったくの空席ではないのだけど、仕方ない。ここは笑って適当に言ってごまかすのがいいに決まっている。
「実は」
「本郷君だよ」
 作り話で乗り切ろうと思った矢先、幸村が本当のことを言ってしまった。場が固まる。
「亡くなったあの本郷君がここにいるんだ。今日の食事会は彼のためのものでもあるんだよ」
 おい、幸村。本当のことを言ってどうする。誰もそんな話信じてくれる訳がないだろう。変な奴、頭のおかしい奴だと言われておしまいだ。ほら見ろ、三人とも反応に困って黙ってしまったじゃないか。血の気が引くのを感じた。
「そうだったんですね! 」
「先輩! 私、感動しました! 」
「楽しみましょう」
「………………え? 」
 何故か分からないが場が和んだ。
「ハル、何お前固まってんだ? 」
「い、いや……別に」
 慣れないナイフとフォークが、皿にカチャカチャとぶつかる音に無性にイライラして、箸をもらった。食事中、幸村は率先して輝の話をする。
「最初に本郷君の成績を見たときは本当にびっくりしたよ。ほとんどの科目の点数が一桁なんだ。彼に数学を教えるのは苦労したな」
 輝の成績の悪さは天下一品だ。勉強しているところなんて見たことがなかった。根っからのサッカーバカだったんだ。自然と笑みがこぼれた。
「いやー、あの時は助かったぜ、マジで」
「本当に大変だったよ。一度あまりに点数が悪いんで、答案用紙をムシャムシャと食べたこともあったな」
 不思議だ。会話が成り立っている。まるで本当にここにいるみたいだ。輝が誰よりも楽しんでいるように見えた。
「シン、ほとんどってどういうこと? 」
「本郷君、英語だけは成績が良かったんだよ。いつか世界中の選手とプレイするのに、英語くらい話せないと困るだろうと言っていたよ」
「……」
 自分が知らない輝の一面をまた知った。なんとなく、ショックだった。誰よりも輝と長く過ごしてきて、誰よりも輝を知った気でいたのに、輝が死んでから新たな一面をもういくつも見ている。
「先輩、食べてます? 」
 美耶子ちゃんの言葉でしばらくぼぅっとしていたことに気づいた。
「え? あ、うん。食べてるよ。大丈夫」
「……先輩……」
「ハルはアキラとは長い付き合いなの? 」
 アンナの質問で全員の視線が自分に集まるのを感じた。
「……小学生のころからです」
「それは長い付き合いね」
「ずっと一緒でしたから、……まるで半身を失ったみたいで……まだ慣れないんですよ」
「それはそうですよ。大切な人を失うことに慣れることはありません」
「……そうですね」
「……」
 瞬間的に暗い雰囲気になったものの、その後も楽しい食事会は夜遅くまで続いた。
 気づけば時計はもう十二時を指していて、みんな満腹な上に笑い疲れて、眠そうな顔をしている。さっきから瞼が重くて仕方がない。
「今日は実に楽しかった。また是非来てくれたまえ」
「先輩、ご馳走様でした。アンナさん、サインまで頂いてありがとうございました! 」
 タクシーを二台呼んでもらい、同じ方向だと言う女子二人は一緒に乗って行った。
「幸村、ありがとうな」
「何水臭いことを。永井君、本郷君は楽しんでくれたかな? 」
「すっげー楽しかった! 」
 アンナの方を見ると、何もかもお見通しと言う顔で笑っている。サワさんのこともあったし、幸村から聞いて、輝がここにいることも、分かっているんだろうけれど、それを信じて受け入れてくれたことがありがたい。
「楽しかったって。すごく喜んでるよ」
「そうか……、よかった」
「ところで、さっき話してて思いついたんだけどさ」
「なんだよ」
 みんな「見える」ことを知っているなら、輝と会話するのも問題ない。
「俺、ハルと旅行に行きたい」
「旅行? 」
「だってさ、俺たち合宿は行ったことあるけど、修学旅行とか行ったことないし」
 言われてみれば。確か小、中、どちらも修学旅行はサッカーの試合と重なって、結局試合を優先したんだ。試合はいずれも勝ったと記憶している。
「……高校の修学旅行は行けないし」
「……わかったよ」
「よっしゃ」
 今度は一人で解決できることでホッとした。
「永井君、本郷君と旅行に行くのかい? 」
「それが次の望みなんだとよ」
「なら、僕に任せてくれたまえ! 」
「え? 」
「旅行と言えば僕だろう? 幸村グループは旅行代理店国内最大手だぞ? 」
 確かにこのまま家に帰って、宿泊先や交通手段を調べようとネットで検索しても、幸村グループの、いずれかの会社のサイトに行き当たるのが関の山。今ここで幸村に託しても大差はない。でも。
「今回は一人で」
「じゃあ幸村も行くか、旅行」
「え? 」
「本郷君はもしかして、僕に一緒に来いと行ってないか? 永井君」
 なんだか通じ合っている二人だけで、話がどんどん進んで行く。
「お前、よくわかったな……」
「なんとなくだよ。もうすぐゴールデンウィークだし、本郷君はどこに行きたいんだ? 」
「……うーん」
 月の光に青白く光る輝の横顔が儚く見えた。輝が行きたい場所を想像する。今が二◯一八年ならロシアだろう。ワールドカップを生で見るのは輝の夢の一つだった。果たしてこのゴールデンウィークに行きたい所なんてあるんだろうか。幸村がこちらを返答を催促するような目で見ている。
「温泉、とか? 」
 無難な答えで安心した。
「温泉、だって」
「よし、わかった! すぐに手配して連絡する! 」
 幸村の行動力には脱帽だ。もう姿が見えない。アンナはそんな幸村について行ってしまった。
 待っていたタクシーに乗り込み、家の住所をナビに入力してもらうと、携帯を耳に当てる。
「あ、もしもし、輝? 」
 こうして話せば、運転手に独り言だとは思われない。
「お、頭いいな。いやー、今日は楽しかったよ」
 隣にいる輝が満足げに言う。
「よかったな」
「飯が食えなかったのが残念」
 仏壇の前のお供え物と同じ原理なのか、輝は何も口にしていない。することができない、と言うべきか。母さんの手料理をバクバク食べていたあの姿が懐かしい。
「あの美耶子ちゃん、だっけ? 可愛いじゃん」
「なんだよ、急に」
「あれはハルに惚れてるな」
「ばっ」
 かやろう、と唐突な話に言葉が続かなかった。この手の話は免疫がない。苦手なんだ。
「照れてやんの」
「照れてなんか……」
 同じくらい女子に免疫がないはずの輝に言われると、なんだかムカつく。
「ハル。……旅行楽しみだな」
 子供のころと変わらない笑顔を見せる輝。
「……そうだな」
 ゴールデンウィークまであと少し。受験生である事は束の間忘れることにしよう。そんなことよりも大切なことがある。
 翌日、朝起きたら幸村から大量の温泉の資料が届いていた。何十という旅館の情報。各県の温泉の情報やイベント、お土産の情報まで、事細かく記されたその資料は、読む気も失せるほどの文章量だ。
「論文かよ」
 それにしてもすごいやる気だ。ありがたい。
「輝、見ろよこれ」
 返事がなかった。
「輝? ……どこ行ったんだ? 」
 いくら呼んでも返事がない。
「なんだ、散歩か? 」
 幽霊が散歩というのも変な話だけれど、いないものは仕方がない。すると幸村から着信が入った。
「もしもし」
「永井君、資料は見てくれたかい? 」
「見たよ」
「ならなんで早く返事をくれない? ずっと待っていたんだぞ! 」
 ずっとって。まだ朝の十時だ。日曜日くらいゆっくり寝たい。
「そんなこと言われても……こんなにたくさんあっちゃ、選びきれないよ」
「……むぅ、それもそうか。ではこれから会えないか? 本郷君の意見も聞きたいし」
「それは構わないけど、輝の奴、さっきからいないんだよ」
「何! まさか」
「いやいや、まだ逝っちゃったわけではないと思う」
 まだ何もしていない。まだ何もしてやれていない。
「そうか、ならいいんだが……。では今から会おう。駅前に僕の行きつけの喫茶店がある。そこで。僕はこれから向かうよ」
「わかった」
 電話を切るとすぐに家を出て、駅に向かって走り出した。もう膝の違和感もそんなに気にならなくなった。
 駅前の喫茶店は見るからに古い建物だった。よく言えばアンティーク調。ドアを開けるとチリンと鈴の音がなり、カウンターの奥から無愛想なおばさんが出てきた。誰もいない店内。席に案内されることはなく、おばさんがただ、ぼぅっとこちらを見ている。「お好きなところへ」という意味だと解釈し、適当な席に座った。テーブル席はおもちゃみたいに小さくて、椅子に座ると足が組めない。
「珈琲一つ。アイスで」
「はいよ」
 それだけ言っておばさんは再びカウンターの奥に引っ込んでいった。
「永井君、待ったかい? 」
 勢いよく鈴が鳴り、幸村がやってきた。
「はぁ、今日はもう暑いね」
「なんだ、歩いてきたのか? 」
 幸村が席に着くと、またおばさんが無言でやってきて、幸村が「同じのを」と言うと今度は返事もないまま行ってしまった。この店、よくつぶれないな。
「本郷君は? 」
「いや……」
「そうか。では我々だけで始めよう」
「うん」
「はい、アイス珈琲二つ」
 二人の間に先程の無愛想なおばさんが、ぬっと手を伸ばして珈琲を置いた。内心、幽霊が急に現れる時よりも驚いた。それほどこのおばさんは気配がない。人間なのに恐ろしい、とおばさんを凝視しながら珈琲を一口飲んだ。
「……うま」
「だろう? 」
 幸村は得意げな笑みを見せて、手に持っていたA4サイズの茶封筒から、大量の資料を改めて出した。
「まず、これが箱根だろう。それからこっちが草津。熱海に、湯布院……」
 まるで客の要望に必死に応えようとしている営業マンみたいだった。笑っちゃいけないのだけれど、笑えちゃうくらい真剣な幸村がなんだか可愛く思えてしまった。
「ハル」
「輝? 」
「本郷君? 」
 不意に輝は現れた。幸村は見えない輝の姿を探してキョロキョロとする。
「輝、お前どこに行ってたんだよ……って、その人、誰? 」
 輝のすぐ後ろに男の人が立っている。歳は二十代半ばくらいのお兄さんで、グレーのつなぎを着ている。
「この人は、トラックの運転手だよ。俺が死んだ事故のトラック運転してた」
「……! 」
 思わず立ち上がり、椅子がひっくり返った。
こいつが輝を轢いた、運転手。頭を鈍器で殴られたような衝撃だった。輝を死に至らしめた事故の当事者がここにいる。
「ハル、落ち着け。この人が悪いわけじゃない」
「……」
 握った拳に力が入り、震える。警察はなんて言ってた? 覚えてない。思い出せない。輝のニュースはできるだけ避けてきた。報道ではなんて言ってた? 事故の原因は? 知ることを拒むことを選んだ過去の自分に腹が立った。
「俺は横断歩道を、赤に変わるぎりぎりの点滅状態で渡っていたんだ。半分渡ったところで赤になった。そこへ、この人が運転していたトラックがやってきて——」
「自分が悪いんです! 」
 説明する輝の言葉を遮って男は声を上げた。
「持病はありません。ただ、ストレスから来る胃痛でずっと苦しんでいて、薬を処方されていました。ついに胃に穴が空いてしまって、あの日、運転中に急に息もできないほど苦しくなったんです。そしたら目の前に彼が……」
 頭を抱え泣くその男が輝と会話をしているということは、つまりそういうことだ。
「……あなたいつ、亡くなったんですか? 」
「……あの事故で意識不明の重体だったんですが、昨日の夜、遂に……」
 椅子を元に戻し、再び座って落ち着こうと努めた。
「永井君、僕にも分かるように説明してくれ」
「……輝を轢いた奴が今ここにいる」
「……なんだって? 」
 幸村の表情が曇った。
 腹は立つが、死んだ奴をいくら罵倒しても輝が生き返る訳じゃない。ショートした思考回路をもう一度繋ぎ、巡らせ、深呼吸を一つ。
「で、なんで輝はそいつをここへ連れてきたんだ? 」
「……ハル。俺の思い残し、考えろって言ったよな? 」
 輝がそう口にした瞬間、嫌な予感がした。
「……ん」
 口籠もりながら、小さく頷いた。
「なら頼む。この人を助けてあげて欲しい」 
「なんでだよ。この人を助けるのと、お前の思い残しと、なんの関係があるんだよ? 」
「……後悔したくないんだよ」
「思い残しって普通は生前のものだろう! この人のことは死後のことじゃないのか? 」
「それはそうだけど……頼む……このままだと、多分、俺、後悔すると思うんだ」
 これ以上ないほど深いため息を吐いた。
「永井君、本郷君はなんて? 」
まったく現状が理解できていない幸村にとって、最も残酷な一言を口にしなければならないと思うと気が重かった。
「幸村、悪い。旅行は中止だ」
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