33 / 84
1.Cape jasmine
32
しおりを挟む
それはまだ、小学校に上がって間もない頃だったと思う。
夜中にトイレで目を覚ましたら、書斎にしている和室で父が明かりを付けずに、月明かりで本を読んでいたことがあった。入り口で覗き込んでいたら気付いた父に手招きされて、近寄って見ると、父が見ていたそれは古い建築雑誌だった。
『お母さんが設計したんだよ。』
言われて、驚いた。
そこに写っていたのはコンクリート打ち放しに大きな開口部の建物で、子供から見ても、格好いいな…と思えるデザインだったと思う。正直、お母さんが設計したって、ホントに?って位、意外だった。
だって、学校から帰ってくるといつも、「手を洗って、うがい、宿題。」って言って、その後でないと、絶対おやつを出してくれないんだよ?大好きないちごのチョコは1日2個って、それ以上は絶対くれないし!
そう言ったら、おかしそうに笑ってたっけ。トーコさんらしいなぁ…って。それから、少し寂しそうな顔で、雑誌のページを指でなぞって。
『まだ建築士を取ってなかったから、お母さんの名前にはならなかったけどね』
そう言って、父はふ…と微笑んだ。
いつか…と父は言った。
いつか、お母さんは―――
母お気に入りの“パングラタン”は、ガーリックバターを塗ってカリカリに焼いたバケットを、チーズがたっぷり入ったホワイトソースで食べるものだった。チーズフォンデュとはまた違う味わいだ…何が入ってるのか、後で聞いたら教えてもらえるかな?なんて考えてると、ぷに―――と、横から頬に人差し指が突き当てられた。
「カスミ、今、晩御飯の事考えてたね?」
「え、…別に…」
「これ、家でも作れるかな?って考えてなかった?」
「う…うん…」
ダメかな?確かにうちは和食メインだけど、たまには…と思ってる目の前で、母がヤレヤレと大げさに首を振ってみせた。
「女子高生が、毎日ご飯のメニューばっか考えてるってどうなのよ?」
やらせてるあたしが言うなってヤツだけど、と言って、母はグラスの残りを一息であおると、とん、とグラスをテーブルに置いた。
「正直、あたしはしんどかったよ。」
朝起きて、洗濯機を回しながら朝ご飯とお弁当を作って。あんた達を見送った後で、洗濯物を干して、掃除して。残り物でお昼を食べたら直ぐに、晩御飯何にしよう―――って考える。
「毎日、その繰り返しで。そりゃ、買い物に行ったりとかもしたけどね、毎日、毎日…要するに、向いてなかったんだろうね、専業主婦ってヤツに。」
母は頬杖をついて、ふふ、と笑うと、微かに首を傾げるような仕草でこっちを見て、言った。
「だからあの日カズに言ったの、カスミももう3年生になったし、働いていい?って。そしたら、何て言ったと思う?」
視線を少し遠くに飛ばして。返事を待たずに続けた。
「やっと言ったね…て。」
ホントはだいぶ前から気付いてたんだけど、トーコさん言って来なかったから甘えてた、ごめんね?…なんて。
「いつもそう、先回りして、ニコニコ笑って、自分勝手なのはあたしなのに、なんであんたがゴメンなのよ、って。言えないまんま、居なくなるとか、しかもそれが最後の会話って…ねぇ?」
いつになく饒舌になった母が、自嘲気味に微笑んでから視線を伏せた。
「もしあんな事言ってなかったら、なんて、考えたって仕方ないのにね。でも考えるのよ、あたしが欲張ったりするから、神様がカズのこと取り上げちゃったのかな?って…」
「お母さん…」
「なーんてねっ」
へ?…と思った時には、両頬を指で摘まれていた。
目を半眼にした母に、
“たて、たて、よこ、よこ、まーるかいて、ちょん”
と、頬を引っ張られて、訳が分からず呆然と目を見開き、両手で頬を押さえた。
「とりあえず、その嘘くさい笑顔は禁止するから。」
そう言って、口角を上げる。
「あと、言っとくけど、あたし、あの時死のうとか全然思ってなかったからね。」
あの時って、あの―――?
思わず体を強張らせた、その前で、母が何でもない事のように、肩を竦めて言った。
「単純に寝ようと思ったのよ。こりゃまずい、しっかりしなきゃ、と思って。けどほら、寝付き悪いからさ、1回分じゃ効かなくて。」
もうちょっと、もう少し―――って…やってたらつい、ね?
俄には信じられなくて呆然となる。
つい、ってなに?!ついって―――?!
「ばかじゃないの?」
と言う心底呆れた声が聞こえてハッとする。
「トーコちゃん、あの時どんな騒ぎになったと思ってんの?」
「んー、でも死ぬ程の量は飲んでない…」
「そーゆう問題じゃないでしょ?ねえ?」
亜衣子さんに振られて、ぎこちなく頷いた。母の方を見ながら、ゴクンと息を呑む。
「…ホントに、ちがうの?…お父さんのとこ…」
「行く訳無いじゃない、あんたがいるのに」
苦笑交じりに言って、母は亜衣子サンにおかわりをした。
「“カナン”にもすっごい泣かれてさ、何考えてんのばか~っって、それを宥めてるうちにこっちまで泣けてきちゃって、二人で大泣きしたんだよね。」
懐かしむような目つきで言った後、母が不意にこっちを見て言った。
「ゴメンね。」
そう言って、優しく微笑む。
「ホントはあんたにそうしなきゃいけなかったのに、勘違いしてた、…ゴメンね。」
言いながら、髪を撫でる。その手が、昔と同じだった。
「ありがと、―――あんたが、いてくれて良かったよ、ホント。」
夜中にトイレで目を覚ましたら、書斎にしている和室で父が明かりを付けずに、月明かりで本を読んでいたことがあった。入り口で覗き込んでいたら気付いた父に手招きされて、近寄って見ると、父が見ていたそれは古い建築雑誌だった。
『お母さんが設計したんだよ。』
言われて、驚いた。
そこに写っていたのはコンクリート打ち放しに大きな開口部の建物で、子供から見ても、格好いいな…と思えるデザインだったと思う。正直、お母さんが設計したって、ホントに?って位、意外だった。
だって、学校から帰ってくるといつも、「手を洗って、うがい、宿題。」って言って、その後でないと、絶対おやつを出してくれないんだよ?大好きないちごのチョコは1日2個って、それ以上は絶対くれないし!
そう言ったら、おかしそうに笑ってたっけ。トーコさんらしいなぁ…って。それから、少し寂しそうな顔で、雑誌のページを指でなぞって。
『まだ建築士を取ってなかったから、お母さんの名前にはならなかったけどね』
そう言って、父はふ…と微笑んだ。
いつか…と父は言った。
いつか、お母さんは―――
母お気に入りの“パングラタン”は、ガーリックバターを塗ってカリカリに焼いたバケットを、チーズがたっぷり入ったホワイトソースで食べるものだった。チーズフォンデュとはまた違う味わいだ…何が入ってるのか、後で聞いたら教えてもらえるかな?なんて考えてると、ぷに―――と、横から頬に人差し指が突き当てられた。
「カスミ、今、晩御飯の事考えてたね?」
「え、…別に…」
「これ、家でも作れるかな?って考えてなかった?」
「う…うん…」
ダメかな?確かにうちは和食メインだけど、たまには…と思ってる目の前で、母がヤレヤレと大げさに首を振ってみせた。
「女子高生が、毎日ご飯のメニューばっか考えてるってどうなのよ?」
やらせてるあたしが言うなってヤツだけど、と言って、母はグラスの残りを一息であおると、とん、とグラスをテーブルに置いた。
「正直、あたしはしんどかったよ。」
朝起きて、洗濯機を回しながら朝ご飯とお弁当を作って。あんた達を見送った後で、洗濯物を干して、掃除して。残り物でお昼を食べたら直ぐに、晩御飯何にしよう―――って考える。
「毎日、その繰り返しで。そりゃ、買い物に行ったりとかもしたけどね、毎日、毎日…要するに、向いてなかったんだろうね、専業主婦ってヤツに。」
母は頬杖をついて、ふふ、と笑うと、微かに首を傾げるような仕草でこっちを見て、言った。
「だからあの日カズに言ったの、カスミももう3年生になったし、働いていい?って。そしたら、何て言ったと思う?」
視線を少し遠くに飛ばして。返事を待たずに続けた。
「やっと言ったね…て。」
ホントはだいぶ前から気付いてたんだけど、トーコさん言って来なかったから甘えてた、ごめんね?…なんて。
「いつもそう、先回りして、ニコニコ笑って、自分勝手なのはあたしなのに、なんであんたがゴメンなのよ、って。言えないまんま、居なくなるとか、しかもそれが最後の会話って…ねぇ?」
いつになく饒舌になった母が、自嘲気味に微笑んでから視線を伏せた。
「もしあんな事言ってなかったら、なんて、考えたって仕方ないのにね。でも考えるのよ、あたしが欲張ったりするから、神様がカズのこと取り上げちゃったのかな?って…」
「お母さん…」
「なーんてねっ」
へ?…と思った時には、両頬を指で摘まれていた。
目を半眼にした母に、
“たて、たて、よこ、よこ、まーるかいて、ちょん”
と、頬を引っ張られて、訳が分からず呆然と目を見開き、両手で頬を押さえた。
「とりあえず、その嘘くさい笑顔は禁止するから。」
そう言って、口角を上げる。
「あと、言っとくけど、あたし、あの時死のうとか全然思ってなかったからね。」
あの時って、あの―――?
思わず体を強張らせた、その前で、母が何でもない事のように、肩を竦めて言った。
「単純に寝ようと思ったのよ。こりゃまずい、しっかりしなきゃ、と思って。けどほら、寝付き悪いからさ、1回分じゃ効かなくて。」
もうちょっと、もう少し―――って…やってたらつい、ね?
俄には信じられなくて呆然となる。
つい、ってなに?!ついって―――?!
「ばかじゃないの?」
と言う心底呆れた声が聞こえてハッとする。
「トーコちゃん、あの時どんな騒ぎになったと思ってんの?」
「んー、でも死ぬ程の量は飲んでない…」
「そーゆう問題じゃないでしょ?ねえ?」
亜衣子さんに振られて、ぎこちなく頷いた。母の方を見ながら、ゴクンと息を呑む。
「…ホントに、ちがうの?…お父さんのとこ…」
「行く訳無いじゃない、あんたがいるのに」
苦笑交じりに言って、母は亜衣子サンにおかわりをした。
「“カナン”にもすっごい泣かれてさ、何考えてんのばか~っって、それを宥めてるうちにこっちまで泣けてきちゃって、二人で大泣きしたんだよね。」
懐かしむような目つきで言った後、母が不意にこっちを見て言った。
「ゴメンね。」
そう言って、優しく微笑む。
「ホントはあんたにそうしなきゃいけなかったのに、勘違いしてた、…ゴメンね。」
言いながら、髪を撫でる。その手が、昔と同じだった。
「ありがと、―――あんたが、いてくれて良かったよ、ホント。」
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
思い出さなければ良かったのに
田沢みん
恋愛
「お前の29歳の誕生日には絶対に帰って来るから」そう言い残して3年後、彼は私の誕生日に帰って来た。
大事なことを忘れたまま。
*本編完結済。不定期で番外編を更新中です。
あるフィギュアスケーターの性事情
蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。
しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。
何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。
この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。
そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。
この物語はフィクションです。
実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる