雨に薫る

はなの*ゆき

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1.Cape jasmine

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 それはまだ、小学校に上がって間もない頃だったと思う。

 夜中にトイレで目を覚ましたら、書斎にしている和室で父が明かりを付けずに、月明かりで本を読んでいたことがあった。入り口で覗き込んでいたら気付いた父に手招きされて、近寄って見ると、父が見ていたそれは古い建築雑誌だった。

『お母さんが設計したんだよ。』

 言われて、驚いた。
 そこに写っていたのはコンクリート打ち放しに大きな開口部の建物で、子供から見ても、格好いいな…と思えるデザインだったと思う。正直、お母さんが設計したって、ホントに?って位、意外だった。

 だって、学校から帰ってくるといつも、「手を洗って、うがい、宿題。」って言って、その後でないと、絶対おやつを出してくれないんだよ?大好きないちごのチョコは1日2個って、それ以上は絶対くれないし!

 そう言ったら、おかしそうに笑ってたっけ。トーコさんらしいなぁ…って。それから、少し寂しそうな顔で、雑誌のページを指でなぞって。

『まだ建築士を取ってなかったから、お母さんの名前にはならなかったけどね』

 そう言って、父はふ…と微笑んだ。



 いつか…と父は言った。

 いつか、お母さんは―――








 母お気に入りの“パングラタン”は、ガーリックバターを塗ってカリカリに焼いたバケットを、チーズがたっぷり入ったホワイトソースで食べるものだった。チーズフォンデュとはまた違う味わいだ…何が入ってるのか、後で聞いたら教えてもらえるかな?なんて考えてると、ぷに―――と、横から頬に人差し指が突き当てられた。

「カスミ、今、晩御飯の事考えてたね?」
「え、…別に…」
「これ、家でも作れるかな?って考えてなかった?」
「う…うん…」

 ダメかな?確かにうちは和食メインだけど、たまには…と思ってる目の前で、母がヤレヤレと大げさに首を振ってみせた。

「女子高生が、毎日ご飯のメニューばっか考えてるってどうなのよ?」

 やらせてるあたしが言うなってヤツだけど、と言って、母はグラスの残りを一息であおると、とん、とグラスをテーブルに置いた。

「正直、あたしはしんどかったよ。」

 朝起きて、洗濯機を回しながら朝ご飯とお弁当を作って。あんた達を見送った後で、洗濯物を干して、掃除して。残り物でお昼を食べたら直ぐに、晩御飯何にしよう―――って考える。

「毎日、その繰り返しで。そりゃ、買い物に行ったりとかもしたけどね、毎日、毎日…要するに、向いてなかったんだろうね、専業主婦ってヤツに。」

 母は頬杖をついて、ふふ、と笑うと、微かに首を傾げるような仕草でこっちを見て、言った。

「だからあの日・・・カズに言ったの、カスミももう3年生になったし、働いていい?って。そしたら、何て言ったと思う?」

 視線を少し遠くに飛ばして。返事を待たずに続けた。

「やっと言ったね…て。」

 ホントはだいぶ前から気付いてたんだけど、トーコさん言って来なかったから甘えてた、ごめんね?…なんて。

「いつもそう、先回りして、ニコニコ笑って、自分勝手なのはあたしなのに、なんであんたがゴメンなのよ、って。言えないまんま、居なくなるとか、しかもそれが最後の会話って…ねぇ?」

 いつになく饒舌になった母が、自嘲気味に微笑んでから視線を伏せた。

「もしあんな事言ってなかったら、なんて、考えたって仕方ないのにね。でも考えるのよ、あたしが欲張ったりするから、神様がカズのこと取り上げちゃったのかな?って…」
「お母さん…」
「なーんてねっ」

 へ?…と思った時には、両頬を指で摘まれていた。

 目を半眼にした母に、

 “たて、たて、よこ、よこ、まーるかいて、ちょん”

 と、頬を引っ張られて、訳が分からず呆然と目を見開き、両手で頬を押さえた。

「とりあえず、その嘘くさい笑顔は禁止するから。」

 そう言って、口角を上げる。

「あと、言っとくけど、あたし、あの時・・・死のうとか全然思ってなかったからね。」

 あの時って、あの・・―――?
 思わず体を強張らせた、その前で、母が何でもない事のように、肩を竦めて言った。

「単純に寝ようと思ったのよ。こりゃまずい、しっかりしなきゃ、と思って。けどほら、寝付き悪いからさ、1回分じゃ効かなくて。」

 もうちょっと、もう少し―――って…やってたらつい、ね?
 俄には信じられなくて呆然となる。
 つい、ってなに?!ついって―――?!

「ばかじゃないの?」

 と言う心底呆れた声が聞こえてハッとする。

「トーコちゃん、あの時どんな騒ぎになったと思ってんの?」
「んー、でも死ぬ程の量は飲んでない…」
「そーゆう問題じゃないでしょ?ねえ?」

 亜衣子さんに振られて、ぎこちなく頷いた。母の方を見ながら、ゴクンと息を呑む。

「…ホントに、ちがうの?…お父さんのとこ…」
「行く訳無いじゃない、あんたがいるのに・・・・・・・・

 苦笑交じりに言って、母は亜衣子サンにおかわりをした。

「“カナン”にもすっごい泣かれてさ、何考えてんのばか~っって、それを宥めてるうちにこっちまで泣けてきちゃって、二人で大泣きしたんだよね。」

 懐かしむような目つきで言った後、母が不意にこっちを見て言った。

「ゴメンね。」

 そう言って、優しく微笑む。

「ホントはあんたにそうしなきゃ・・・・・・いけなかった・・・・・・のに、勘違いしてた、…ゴメンね。」

 言いながら、髪を撫でる。その手が、昔と同じだった。

「ありがと、―――あんたが、いてくれて良かったよ、ホント。」
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