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第2章 日常讃歌・相思憎愛
第12話 神にならんと欲する者
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刺股とは江戸時代に作られた捕縛用の道具であり、現在使われている物は概ねU字型の金具に2、3メートルの柄がついた物が主流だ。
捕縛が主用途であるため殺傷能力は無いが、物によっては手足を引っ掛ける金具が付いていたり、伸縮して持ち運びを考慮された物などもある。
深山高校に配備されている刺股は、シンプルなU字型の先端に2メートル程の柄がついた単純な構造のものであり、折り畳みもできない物であった。
「くっ!長い!室内でこの長さは取り回しが悪いだろ!」
室内では木刀でも取り回しが難しいのに、槍と同じような長物を扱うのは余程慣れないと至難の業である。
耶蘇光は手に持った刺股に文句をいいながら、階段を走り降りる。
「校舎内に入ってたらこれは殆ど役にたたないか……いや、寧ろ廊下の方が工藤くんの動きを封じられるか……あれは校庭で動かれたら対処するの厳しいそうだし……」
長物を基本とするならば、狭い室内は不利と考えるのが普通だ。しかし、相手になるであろう工藤は人間離れした反応と速度で動き回る。
で、あれば、室内で対峙する方が相手の行動をある程度制限できる。
勿論、光の持つ刺股の動きも制限されるが、刺股は槍や薙刀とは違い、横に薙いだりするものではない。
「相手の動きを封じる」これに主眼を置いた道具であり、その動きは前後に動くのみである。
「うまいこと廊下まで誘導しないとまずいことになりそうだな……でも他の生徒の身の安全も確保しなきゃ……あぁっ!状況が分からないから判断できない!とりあえず向かうしかないか……」
状況が分からないまま、光は生徒たちの元へと急ぐ。
◇◇◇
「さぁて、次は何やろうかねぇ」
狂気を解き放った純真の怪物が、ナイフを片手にゆっくりと歩き出す。
「「……」」
悠々と校舎に向かって歩き出す工藤を、校庭の真ん中から呆気に取られて追いかける事ができない仁代真理と西風舘。
まるで血を垂らしたかの様な紅い紋様のナイフを、ゆらゆらと揺らしながら、仁代伊緒、躬羽玲、野口雫、東風谷の4人の方へと近付いて行く工藤。
「ヒヒッ!」
皆が呆気に取らて、やはり動くことも、声を発することもできずに固まっている。
人間離れした動き、つい先程まで同じ生徒だった男が、今は化け物に見える。
いや、人を1人躊躇いなく刺し殺した正真正銘の殺人鬼であるのは間違いない。
そんな人物が近付いてくるのに、身体が動かない。
(なん、なんだ……マズイ、このままじゃ、マズイのに!身体が!動かないっ!!)
ただ、目線だけはゆっくりと歩いてくる工藤を追っている。
視界から逃してはならないと、脳が警告している。
(守らなきゃ!守らなきゃ!俺が!守らなきゃ!!皆んなを!!玲を!!!)
伊緒が指先すら動かない身体に無理矢理命令を流そうとする。
しかし、指先はピクリとも動かず、唇は乾き、自身の呼吸と鼓動だけが聞こえる。
(もう、あの時の俺じゃないんだ……動け、今度こそ動けて!!)
弛緩し、開かれていた掌がグッと握り込まれる。
漸く言うことを聞いた己の身体に鞭打ち、こちらへと近付いてくる工藤に向けて声を上げようと肺に空気を入れる。
「止ま「とっ、止まってください!!」」
伊緒のすぐ後ろにから震えた声が発せられる。
「ナ、ナイフを置いて、こっちに来ないで、ください!!」
玲が力の限り声を上げる。
伊緒の横に立ち、工藤に近付くなと警告する。
「玲……」
伊緒が横目で玲を見ると、玲は今にも泣き出さんばかりに震え、真っ白な顔で工藤を見据えていた。
片手で伊緒のワイシャツの袖を掴み、必死に恐怖と戦っている。その脇には雫が校庭にへたり込んでいるのが見える、視界には映らないが東風谷も同じ様な状況だろう。
「フヒッ!何だよ、別に殺しゃしねぇよ。あれはつまんねぇこと言ったからな。だからいらねぇじゃん?俺の世界にそんなつまんねぇ奴、いらねぇもんなぁ。ヒヒッ!」
工藤は歩みを止め、先程のナイフの感触を思い出しながら、うっとりとナイフの背をなぞる。
「お前等もつまんねぇこと言うなよ?折っ角サイコーな世界になったんだ!楽しくやろうぜ?イヒッ!」
工藤がお構いなしに、また一歩足を踏み出す。
「動くな!何が楽しくやろうぜだ……人殺しは大人しくナイフを捨てろ!」
「イヒッ!さっきまで声も出せなかった奴が、守ってもらった途端に何イキってるのかなぁ?ビビりはそのまま下がってろよ。フヒッ!」
ザッとまた一歩前に進む工藤。
伊緒は無言で一歩前に進み、玲を庇う様に構えを作る。
「……玲、下がってて」
「伊緒くん!でも……まだ動けないんじゃ……」
「大丈夫……玲を見たら、動けるようになったよ」
そう宣言したものの、一瞬でも気を抜けば身体が固まってしまそうになる。
「それでも!相手は刃物だよ!」
「分かってる……刃物相手の実戦なんてしたことないけど……やるだけやってみる!」
心配そうに見つめる玲の顔を見て、伊緒は意思を固めた。
「お、やるんか?イイネッ!!やっぱ殺り足りねぇからなぁ!!」
そんな伊緒の姿を見て、工藤が嬉しそうに口角を吊り上げる。
眼をドス黒く輝かせ、構えもせず、両手をだらりと下げたまま歩き出す。
(怖い……実戦がこんなに怖いなんて……それでも――俺は――もう二度と――決めたから――)
伊緒はチラリと玲の顔を横目で再度一瞥する。
不思議と恐怖が薄れていくのを感じる。
そして、父親である星斗の言葉が浮かんでくる。
◆◆◆
「伊緒、真理お前たちにお父さんのとっておきの言葉を教えてやろう」
「「なになに!」」
「もしも、目前に何かが立ち塞がったとき、誰かを守らなきゃいけないとき、それでも怖くて逃げだしたくなったら、こう唱えるんだ」
◆◆◆
「……俺がやらなきゃ……誰がやる……」
幼いころから何度も聞いてきた、とっておきの言葉。
何度も何度も唱えてきた、魔法の言葉。
「俺がやらなきゃ、誰がやる!」
守るべき者を背に、伊緒は己に言い聞かせるようにして、猛る。
(お父さんの様にはできないかもしれないけど……それでも、俺だって!)
伊緒は左腕を前に軽く突き出し、縦拳ではなく少し斜めに傾ける。
右腕は腰構えではなく側頭に近い位置に構える。
「ウヒッ!カッコイイネ!俺もやってみっかな!」
工藤は伊緒を真似してナイフを握った右腕を側頭まで掲げる。そしてナイフを逆手に握り替えて構える。
「ウハハハハハハッ!!!」
工藤はそのまま前傾姿勢になり、走り出す。ただ真っ直ぐに、但し、尋常ではない速度で。
伊緒はその場を動かず、ゆっくりと息を吸い、左手を手刀に変えて真正面から突っ込んでくる工藤を見据えて迎え撃つ。
工藤の動きを一瞬たりとも逃さぬように捉え続ける。
「死ねええええええぇぇぇぇぇ!!!!」
工藤は右手を大きく振りかぶる。
「ふっ!」
小さく息を吐き、工藤を真正面に捉えたまま、伊緒は滑る様に大きく1歩前に出る。
工藤が伊緒の顔面目掛けてナイフを全力で振り下ろすその一瞬の間に、伊緒は工藤の懐に潜り込む。
振り上げて、振り下ろす。
それだけの動作。今の工藤の速度で振り下ろされれば、それを捌いたり防いだりするのは困難を極める。
ならば、腕の速度が零になる瞬間を狙う。
そのための、1歩。
(意外と冷静でいられるな……)
全神経を集中させ工藤の動きを捉える。時がゆっくりと進むように感じられる。
伊緒は自分の身体に起こっている現象を、不思議と思わずに俯瞰しながら捉えていた。
(ここだ……)
工藤の振りかぶった右腕が振り下ろされる瞬間を捉えて、伊緒は左手刀を下から潜り込ませる。
ナイフが当たらぬように工藤の右前腕をカチ上げる。
ナイフを握った右手が弾き上がり、それに伴って工藤の身体も開く。
工藤は無防備に身体の正面を晒す。
(今だ!)
工藤は突然のことで呆気に取られた表情となり、弾き上げられた右手に視線が泳ぐ。
その瞬間を、伊緒は逃さない。
「はっ!」
踏み込んだ1歩と捌いた左手の勢いをそのまま、短く息を吐くと共に左腕を引き付ける。
身体を捻りながら右側頭付近に構えていた右拳を工藤の左顔面、顎目掛けて叩き込む。
鈍い音と共に一撃必殺のカウンターが、正確に顎を打ち抜く。
(よしっ!入った!)
伊緒の集中が一瞬、緩む。
そして伊緒はまだ気が付いていない、自身の拳が振り抜けていないことを。
「ウヒッ!!」
工藤が嗤う。
「――えっ」
間の抜けた声を漏らす伊緒。
その時、工藤の右手に握られたナイフが伊緒に向かって振り下ろされようとしていた。
(ヤバっ――避け――いや――受け――)
コンマ1秒の思考の迷いは、致命的な迷いとなる。
目の前に迫る紅と翠色の切先。
工藤の右手を受けようと動き始める伊緒の左手刀、だが致命の速度で迫るナイフに届き得るのか。
(いける、か――)
伊緒は致命傷を回避する事だけに注力し、傷を負うことは勘定から外す。
しかし、工藤の人外の一撃が更なる加速を見せる。
グンッと一段ギアを上げたかのように、ナイフが奔る。
(間に合わ……)
圧縮された思考の中で、伊緒は自身の不利を悟る。
「死ね!」
工藤は一撃が入る事を確信したかのように叫び、全力でナイフを振り下ろす。
突如、壁を蹴る様な轟音が鳴る。
その瞬間、伊緒の視界に一足のローファーが飛び込んできた。
ローファーの足裏が、工藤の素首を胴体から引き剥がさんばかりの勢いで左頬を捉え、そのまま振り抜く。
工藤の姿が伊緒の視界から消え、その代わりに、中を舞う青黒い髪が目に入る。
スカートをなびかせながら、跳び後ろ回し蹴りを決めた真理の姿が宙に踊っていた。
(――真理!)
工藤の身長は然程高い訳ではないが、それでも170センチメートル位あるだろう。
その身長の男子高校生の顔面に蹴りを入れてなお、高い位置で舞っている真理。
(空中でも、バランス全然崩れてないじゃん……)
伊緒は真理を受け止めるべきかと、身体を動かそうとするも、その心配は無用と思い留まる。
身体を捻りながら、ザッと着地する真理。
物凄い勢いでゴロゴロと校庭を転がっていく工藤。
「スカートでさっきの技とか、女子高生としてどうなの?」
「助けてもらって第一声がそれ?今のは危なかったでしょ」
伊緒の軽口に真理が呆れながら返す。
「うん、まぁ、ね……ありがとう、助かった」
「よろしい、これも姉の務めだし」
「それはいいから。それよりさっきの技は人前ではやらない方がいいよ?恥じらい的に」
「分かってるって!あっ、光さんなら別にいいかも!」
「いや、良くないだろ……」
ほんの数秒前まで命の危機だったことをまるで感じさせない、何時もの双子のやり取り。
だが、2人とも目線は転がっていった工藤から離さず、伊緒は構えを解かない。
真理も着地した体勢から左腕を垂直に立てる様にし、右腕を腰まで引く。
2人とも何時でも攻撃に移れる体制を整える。
「伊緒、その構えやり辛いでしょ。徒手用に変えなさいよ」
「今更無理。それに慣れたこっちの方がやり易いんだよ」
2人が話をしている間に、工藤がのそりと起き上がる。
「ヒヒッ、あぁ痛てぇなぁ。でもまぁ、やっと真理に触れて貰ったなぁ……フヒッ!」
首が捥げる様な一撃を喰らいながら、工藤は何ともないように立ち上がる。
「全く効いてないな。真理、あいつ誰だ?知り合いか?名前で呼んでるぞ?」
「同じクラスの男子、確か……工藤?だったかな……話したこと無いけど」
「何か滅茶苦茶親し気だけど……」
「知らない。光さん以外興味ないし」
「ですよねー」
工藤が真理の名前を呼んだことに伊緒が反応し真理に確認するが、案の定真理は全く知らないと答える。
で、あるならば工藤のあの状況は大分不味いのかもしれない。
「ストーカー?」
「真理……何やったんだよ……」
「何も」
伊緒と真理の会話は工藤の耳には入っていないようで、工藤は更に喋り続ける。
「あぁ……この後何してやろうか……フヒッ!まずはあと何人か殺して!それで!俺の世界を作るか!俺が最強で主役の世界!!いいね!最高だ!俺が神だ!そんで神の女となるのは真理だ!!神の女だ、強くなくちゃいけねぇ、だが神はもっと強くなくちゃいけねぇ。いいぜ、相手してやるよ!そんで証明してみろよ!神の女に相応しいってな!!」
工藤が吠える。
自分自身の言葉に酔っているのか、伊緒たちのことはチラリとも見ないで独演を続けている。
「――仁代さん!怪我は無い?!」
「西風舘先輩、大丈夫です。すみません、飛び出してしまって」
「はぁ……よかった……いきなり飛び出すからどうなるかと思ったよ」
真理と一緒にいた西風舘も合流し、戦闘態勢となって構える。
「えっと、君は仁代さんの弟の……あれお兄さんだっけ?」
「双子の兄の伊緒です、真理の言うことは気にしないでください」
「何?その言い草は……それよりどうするあれ。3人でいく?」
伊緒と西風舘の顔合わせも済み、未だ独演を続けている工藤を横目に今後の方策を練ることにする。
「いや、西風舘先輩には後ろの3人を連れて、校舎内に避難してもらった方がいいんじゃない?」
「流石に2人だけであれと戦うのは危険じゃないか?俺も一緒に戦うよ」
「先輩には3人の避難と、光さん……耶蘇先生と加茂先生を連れてきて欲しいんです」
「確かに、光さんが来れば全部大丈夫!」
西風舘に残る3人、東風谷と野口雫、躬羽玲の避難と、教師2人を連れてくるようにお願いする伊緒。
「だが……それなら俺も残って、3人に先生たちを呼んできて貰ったほうがいいんじゃないか?」
「そうですね……でも、すみません。俺、先輩と連携できる自信がないんです。真理となら、いつもやっているんで大丈夫なんですけど……」
「西風舘先輩、私からもお願いします。なんとか2人で凌ぎますので、その間に光さんたちを……お願いします!」
西風舘は後輩2人にこの場を任せてしまうことに対する罪悪感がある。
一撃でも貰えば致命傷になりかねないナイフを持った相手。
だが、2人が言わんとすることも最な話だ。西風舘は試合形式の実戦であれば全国大会に出場する程の技量を持っている。
しかし、対ナイフの実戦も、複数人の連携もやったことがない。
「分かった、それでいこう。東風谷さん、野口さんに躬羽さん、動けるかな?すぐにこの場を離れて校舎の中に避難しよう」
先程の2人の動きを見ても、とても素人ができる動きではなかった。
そこまで考え、西風舘は2人の提案を了承し、すぐさま3人の女生徒の避難に移る。
「は、はい!」
「えっと……仁代くんたちは……大丈夫、ですか?」
東風谷はすぐにそれを了承するも、雫は残る2人のことを気に掛ける。
「大丈夫よ雫。伊緒と何とかするから。早く光さんたちを連れてきて」
「任せた。玲、みんなのこと、頼む」
「うん……分かった……伊緒くんも真理ちゃんも無理しちゃ駄目だよ」
「分かってるって!」
伊緒と真理から光たちを連れてくるよう託された雫は何とか頷き、玲は心配そうに振り返りながら校舎に向かって走り出す。
「ヒヒッ!話は終わったかぁ?」
神にならんと欲する者が、ナイフを片手にゆっくりと迫る。
捕縛が主用途であるため殺傷能力は無いが、物によっては手足を引っ掛ける金具が付いていたり、伸縮して持ち運びを考慮された物などもある。
深山高校に配備されている刺股は、シンプルなU字型の先端に2メートル程の柄がついた単純な構造のものであり、折り畳みもできない物であった。
「くっ!長い!室内でこの長さは取り回しが悪いだろ!」
室内では木刀でも取り回しが難しいのに、槍と同じような長物を扱うのは余程慣れないと至難の業である。
耶蘇光は手に持った刺股に文句をいいながら、階段を走り降りる。
「校舎内に入ってたらこれは殆ど役にたたないか……いや、寧ろ廊下の方が工藤くんの動きを封じられるか……あれは校庭で動かれたら対処するの厳しいそうだし……」
長物を基本とするならば、狭い室内は不利と考えるのが普通だ。しかし、相手になるであろう工藤は人間離れした反応と速度で動き回る。
で、あれば、室内で対峙する方が相手の行動をある程度制限できる。
勿論、光の持つ刺股の動きも制限されるが、刺股は槍や薙刀とは違い、横に薙いだりするものではない。
「相手の動きを封じる」これに主眼を置いた道具であり、その動きは前後に動くのみである。
「うまいこと廊下まで誘導しないとまずいことになりそうだな……でも他の生徒の身の安全も確保しなきゃ……あぁっ!状況が分からないから判断できない!とりあえず向かうしかないか……」
状況が分からないまま、光は生徒たちの元へと急ぐ。
◇◇◇
「さぁて、次は何やろうかねぇ」
狂気を解き放った純真の怪物が、ナイフを片手にゆっくりと歩き出す。
「「……」」
悠々と校舎に向かって歩き出す工藤を、校庭の真ん中から呆気に取られて追いかける事ができない仁代真理と西風舘。
まるで血を垂らしたかの様な紅い紋様のナイフを、ゆらゆらと揺らしながら、仁代伊緒、躬羽玲、野口雫、東風谷の4人の方へと近付いて行く工藤。
「ヒヒッ!」
皆が呆気に取らて、やはり動くことも、声を発することもできずに固まっている。
人間離れした動き、つい先程まで同じ生徒だった男が、今は化け物に見える。
いや、人を1人躊躇いなく刺し殺した正真正銘の殺人鬼であるのは間違いない。
そんな人物が近付いてくるのに、身体が動かない。
(なん、なんだ……マズイ、このままじゃ、マズイのに!身体が!動かないっ!!)
ただ、目線だけはゆっくりと歩いてくる工藤を追っている。
視界から逃してはならないと、脳が警告している。
(守らなきゃ!守らなきゃ!俺が!守らなきゃ!!皆んなを!!玲を!!!)
伊緒が指先すら動かない身体に無理矢理命令を流そうとする。
しかし、指先はピクリとも動かず、唇は乾き、自身の呼吸と鼓動だけが聞こえる。
(もう、あの時の俺じゃないんだ……動け、今度こそ動けて!!)
弛緩し、開かれていた掌がグッと握り込まれる。
漸く言うことを聞いた己の身体に鞭打ち、こちらへと近付いてくる工藤に向けて声を上げようと肺に空気を入れる。
「止ま「とっ、止まってください!!」」
伊緒のすぐ後ろにから震えた声が発せられる。
「ナ、ナイフを置いて、こっちに来ないで、ください!!」
玲が力の限り声を上げる。
伊緒の横に立ち、工藤に近付くなと警告する。
「玲……」
伊緒が横目で玲を見ると、玲は今にも泣き出さんばかりに震え、真っ白な顔で工藤を見据えていた。
片手で伊緒のワイシャツの袖を掴み、必死に恐怖と戦っている。その脇には雫が校庭にへたり込んでいるのが見える、視界には映らないが東風谷も同じ様な状況だろう。
「フヒッ!何だよ、別に殺しゃしねぇよ。あれはつまんねぇこと言ったからな。だからいらねぇじゃん?俺の世界にそんなつまんねぇ奴、いらねぇもんなぁ。ヒヒッ!」
工藤は歩みを止め、先程のナイフの感触を思い出しながら、うっとりとナイフの背をなぞる。
「お前等もつまんねぇこと言うなよ?折っ角サイコーな世界になったんだ!楽しくやろうぜ?イヒッ!」
工藤がお構いなしに、また一歩足を踏み出す。
「動くな!何が楽しくやろうぜだ……人殺しは大人しくナイフを捨てろ!」
「イヒッ!さっきまで声も出せなかった奴が、守ってもらった途端に何イキってるのかなぁ?ビビりはそのまま下がってろよ。フヒッ!」
ザッとまた一歩前に進む工藤。
伊緒は無言で一歩前に進み、玲を庇う様に構えを作る。
「……玲、下がってて」
「伊緒くん!でも……まだ動けないんじゃ……」
「大丈夫……玲を見たら、動けるようになったよ」
そう宣言したものの、一瞬でも気を抜けば身体が固まってしまそうになる。
「それでも!相手は刃物だよ!」
「分かってる……刃物相手の実戦なんてしたことないけど……やるだけやってみる!」
心配そうに見つめる玲の顔を見て、伊緒は意思を固めた。
「お、やるんか?イイネッ!!やっぱ殺り足りねぇからなぁ!!」
そんな伊緒の姿を見て、工藤が嬉しそうに口角を吊り上げる。
眼をドス黒く輝かせ、構えもせず、両手をだらりと下げたまま歩き出す。
(怖い……実戦がこんなに怖いなんて……それでも――俺は――もう二度と――決めたから――)
伊緒はチラリと玲の顔を横目で再度一瞥する。
不思議と恐怖が薄れていくのを感じる。
そして、父親である星斗の言葉が浮かんでくる。
◆◆◆
「伊緒、真理お前たちにお父さんのとっておきの言葉を教えてやろう」
「「なになに!」」
「もしも、目前に何かが立ち塞がったとき、誰かを守らなきゃいけないとき、それでも怖くて逃げだしたくなったら、こう唱えるんだ」
◆◆◆
「……俺がやらなきゃ……誰がやる……」
幼いころから何度も聞いてきた、とっておきの言葉。
何度も何度も唱えてきた、魔法の言葉。
「俺がやらなきゃ、誰がやる!」
守るべき者を背に、伊緒は己に言い聞かせるようにして、猛る。
(お父さんの様にはできないかもしれないけど……それでも、俺だって!)
伊緒は左腕を前に軽く突き出し、縦拳ではなく少し斜めに傾ける。
右腕は腰構えではなく側頭に近い位置に構える。
「ウヒッ!カッコイイネ!俺もやってみっかな!」
工藤は伊緒を真似してナイフを握った右腕を側頭まで掲げる。そしてナイフを逆手に握り替えて構える。
「ウハハハハハハッ!!!」
工藤はそのまま前傾姿勢になり、走り出す。ただ真っ直ぐに、但し、尋常ではない速度で。
伊緒はその場を動かず、ゆっくりと息を吸い、左手を手刀に変えて真正面から突っ込んでくる工藤を見据えて迎え撃つ。
工藤の動きを一瞬たりとも逃さぬように捉え続ける。
「死ねええええええぇぇぇぇぇ!!!!」
工藤は右手を大きく振りかぶる。
「ふっ!」
小さく息を吐き、工藤を真正面に捉えたまま、伊緒は滑る様に大きく1歩前に出る。
工藤が伊緒の顔面目掛けてナイフを全力で振り下ろすその一瞬の間に、伊緒は工藤の懐に潜り込む。
振り上げて、振り下ろす。
それだけの動作。今の工藤の速度で振り下ろされれば、それを捌いたり防いだりするのは困難を極める。
ならば、腕の速度が零になる瞬間を狙う。
そのための、1歩。
(意外と冷静でいられるな……)
全神経を集中させ工藤の動きを捉える。時がゆっくりと進むように感じられる。
伊緒は自分の身体に起こっている現象を、不思議と思わずに俯瞰しながら捉えていた。
(ここだ……)
工藤の振りかぶった右腕が振り下ろされる瞬間を捉えて、伊緒は左手刀を下から潜り込ませる。
ナイフが当たらぬように工藤の右前腕をカチ上げる。
ナイフを握った右手が弾き上がり、それに伴って工藤の身体も開く。
工藤は無防備に身体の正面を晒す。
(今だ!)
工藤は突然のことで呆気に取られた表情となり、弾き上げられた右手に視線が泳ぐ。
その瞬間を、伊緒は逃さない。
「はっ!」
踏み込んだ1歩と捌いた左手の勢いをそのまま、短く息を吐くと共に左腕を引き付ける。
身体を捻りながら右側頭付近に構えていた右拳を工藤の左顔面、顎目掛けて叩き込む。
鈍い音と共に一撃必殺のカウンターが、正確に顎を打ち抜く。
(よしっ!入った!)
伊緒の集中が一瞬、緩む。
そして伊緒はまだ気が付いていない、自身の拳が振り抜けていないことを。
「ウヒッ!!」
工藤が嗤う。
「――えっ」
間の抜けた声を漏らす伊緒。
その時、工藤の右手に握られたナイフが伊緒に向かって振り下ろされようとしていた。
(ヤバっ――避け――いや――受け――)
コンマ1秒の思考の迷いは、致命的な迷いとなる。
目の前に迫る紅と翠色の切先。
工藤の右手を受けようと動き始める伊緒の左手刀、だが致命の速度で迫るナイフに届き得るのか。
(いける、か――)
伊緒は致命傷を回避する事だけに注力し、傷を負うことは勘定から外す。
しかし、工藤の人外の一撃が更なる加速を見せる。
グンッと一段ギアを上げたかのように、ナイフが奔る。
(間に合わ……)
圧縮された思考の中で、伊緒は自身の不利を悟る。
「死ね!」
工藤は一撃が入る事を確信したかのように叫び、全力でナイフを振り下ろす。
突如、壁を蹴る様な轟音が鳴る。
その瞬間、伊緒の視界に一足のローファーが飛び込んできた。
ローファーの足裏が、工藤の素首を胴体から引き剥がさんばかりの勢いで左頬を捉え、そのまま振り抜く。
工藤の姿が伊緒の視界から消え、その代わりに、中を舞う青黒い髪が目に入る。
スカートをなびかせながら、跳び後ろ回し蹴りを決めた真理の姿が宙に踊っていた。
(――真理!)
工藤の身長は然程高い訳ではないが、それでも170センチメートル位あるだろう。
その身長の男子高校生の顔面に蹴りを入れてなお、高い位置で舞っている真理。
(空中でも、バランス全然崩れてないじゃん……)
伊緒は真理を受け止めるべきかと、身体を動かそうとするも、その心配は無用と思い留まる。
身体を捻りながら、ザッと着地する真理。
物凄い勢いでゴロゴロと校庭を転がっていく工藤。
「スカートでさっきの技とか、女子高生としてどうなの?」
「助けてもらって第一声がそれ?今のは危なかったでしょ」
伊緒の軽口に真理が呆れながら返す。
「うん、まぁ、ね……ありがとう、助かった」
「よろしい、これも姉の務めだし」
「それはいいから。それよりさっきの技は人前ではやらない方がいいよ?恥じらい的に」
「分かってるって!あっ、光さんなら別にいいかも!」
「いや、良くないだろ……」
ほんの数秒前まで命の危機だったことをまるで感じさせない、何時もの双子のやり取り。
だが、2人とも目線は転がっていった工藤から離さず、伊緒は構えを解かない。
真理も着地した体勢から左腕を垂直に立てる様にし、右腕を腰まで引く。
2人とも何時でも攻撃に移れる体制を整える。
「伊緒、その構えやり辛いでしょ。徒手用に変えなさいよ」
「今更無理。それに慣れたこっちの方がやり易いんだよ」
2人が話をしている間に、工藤がのそりと起き上がる。
「ヒヒッ、あぁ痛てぇなぁ。でもまぁ、やっと真理に触れて貰ったなぁ……フヒッ!」
首が捥げる様な一撃を喰らいながら、工藤は何ともないように立ち上がる。
「全く効いてないな。真理、あいつ誰だ?知り合いか?名前で呼んでるぞ?」
「同じクラスの男子、確か……工藤?だったかな……話したこと無いけど」
「何か滅茶苦茶親し気だけど……」
「知らない。光さん以外興味ないし」
「ですよねー」
工藤が真理の名前を呼んだことに伊緒が反応し真理に確認するが、案の定真理は全く知らないと答える。
で、あるならば工藤のあの状況は大分不味いのかもしれない。
「ストーカー?」
「真理……何やったんだよ……」
「何も」
伊緒と真理の会話は工藤の耳には入っていないようで、工藤は更に喋り続ける。
「あぁ……この後何してやろうか……フヒッ!まずはあと何人か殺して!それで!俺の世界を作るか!俺が最強で主役の世界!!いいね!最高だ!俺が神だ!そんで神の女となるのは真理だ!!神の女だ、強くなくちゃいけねぇ、だが神はもっと強くなくちゃいけねぇ。いいぜ、相手してやるよ!そんで証明してみろよ!神の女に相応しいってな!!」
工藤が吠える。
自分自身の言葉に酔っているのか、伊緒たちのことはチラリとも見ないで独演を続けている。
「――仁代さん!怪我は無い?!」
「西風舘先輩、大丈夫です。すみません、飛び出してしまって」
「はぁ……よかった……いきなり飛び出すからどうなるかと思ったよ」
真理と一緒にいた西風舘も合流し、戦闘態勢となって構える。
「えっと、君は仁代さんの弟の……あれお兄さんだっけ?」
「双子の兄の伊緒です、真理の言うことは気にしないでください」
「何?その言い草は……それよりどうするあれ。3人でいく?」
伊緒と西風舘の顔合わせも済み、未だ独演を続けている工藤を横目に今後の方策を練ることにする。
「いや、西風舘先輩には後ろの3人を連れて、校舎内に避難してもらった方がいいんじゃない?」
「流石に2人だけであれと戦うのは危険じゃないか?俺も一緒に戦うよ」
「先輩には3人の避難と、光さん……耶蘇先生と加茂先生を連れてきて欲しいんです」
「確かに、光さんが来れば全部大丈夫!」
西風舘に残る3人、東風谷と野口雫、躬羽玲の避難と、教師2人を連れてくるようにお願いする伊緒。
「だが……それなら俺も残って、3人に先生たちを呼んできて貰ったほうがいいんじゃないか?」
「そうですね……でも、すみません。俺、先輩と連携できる自信がないんです。真理となら、いつもやっているんで大丈夫なんですけど……」
「西風舘先輩、私からもお願いします。なんとか2人で凌ぎますので、その間に光さんたちを……お願いします!」
西風舘は後輩2人にこの場を任せてしまうことに対する罪悪感がある。
一撃でも貰えば致命傷になりかねないナイフを持った相手。
だが、2人が言わんとすることも最な話だ。西風舘は試合形式の実戦であれば全国大会に出場する程の技量を持っている。
しかし、対ナイフの実戦も、複数人の連携もやったことがない。
「分かった、それでいこう。東風谷さん、野口さんに躬羽さん、動けるかな?すぐにこの場を離れて校舎の中に避難しよう」
先程の2人の動きを見ても、とても素人ができる動きではなかった。
そこまで考え、西風舘は2人の提案を了承し、すぐさま3人の女生徒の避難に移る。
「は、はい!」
「えっと……仁代くんたちは……大丈夫、ですか?」
東風谷はすぐにそれを了承するも、雫は残る2人のことを気に掛ける。
「大丈夫よ雫。伊緒と何とかするから。早く光さんたちを連れてきて」
「任せた。玲、みんなのこと、頼む」
「うん……分かった……伊緒くんも真理ちゃんも無理しちゃ駄目だよ」
「分かってるって!」
伊緒と真理から光たちを連れてくるよう託された雫は何とか頷き、玲は心配そうに振り返りながら校舎に向かって走り出す。
「ヒヒッ!話は終わったかぁ?」
神にならんと欲する者が、ナイフを片手にゆっくりと迫る。
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