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1話 婚約解消
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リリィ・アスター。
彼女は「商業の番犬」と称されるアスター侯爵家の長女である。
アスター侯爵家は王国経済に影響力を持つ大貴族で、代々優秀な財務官を輩出し、王国経済を支えてきた。
革新よりも保守。
派手な政争や大勝負を避け、税制と庶民の暮らしの調整や、優秀な商人への出資で王国を支え、他の貴族にはない堅実な手腕を発揮している。
決して表舞台で光が当たることはないが、経済安定に不可欠な役割を果たし、縁の下の力持ちとして尊敬されている。
家族の期待を背負って育てられたリリィは、常に美しく、品位を持ち、誰にでも好かれる存在であろうと努めてきた。
目上の貴族であるヴァスタ公爵家の長子であるカインとの婚約も決まっており、順風満帆な人生を歩んでいた。
カインは才色兼備の体現と称される程の美丈夫である。
すらりと長い身体に、端正な顔立ちに透き通るような白い肌。
少し冷たいところはあるが、リリィも婚約者である彼を慕っており、自分と同じ年頃でありながら商業や政治で既に多くの実績を残す彼に対し、強い憧憬を抱いている。
だが、リリィの幸福な生活は、婚約者であるカインの言葉によって終わりを告げることとなった。
「リリィ、婚約を解消する」
リリィの目の前に立つカインの表情は、まるで何事もないかのように無表情で、ただひときわ冷たさを帯びていた。
リリィは唇を震わせ、どうしても言葉が出てこなかった。
「え……」
動揺に、言葉が結びつかない。
リリィの辛うじて出した声を聞いたカインは、呆れたように小さく首を振るうと、言葉を続けた。
「婚約を解消する、と言ったんだ。君の家がもはや我々にとって有益ではなくなった」
カインの目は冷徹で、リリィの目には何も映っていないかのようだった。
「そ、それは…どういう意味ですか? 私はあなたを愛していますし、ずっと……」
「愛……ね。君の愛など、最初から私には何の価値もない。君の家が有する影響力や財力が、当初は私の目的にかなうと思っていた。しかし今、ヴァスタ公爵家は私の裁量によって持ち直した。地味で落ち目の貴族家の娘を嫁にもらう必要はなくなったというわけだ。だから婚約を解消する」
冷徹な言葉に、リリィは胸が締め付けられるのを感じた。
心の中で何度も反論しようとしたが、口から出る言葉は空しく、ただ震える手のひらを握りしめるだけだった。
「そんな……」
リリィは言葉を続けようとしたが、言葉が出ない。頭の中で何が起きているのかが理解できなかった。
心臓が激しく鼓動し、体が震えた。
何度も呼吸を整えようとしたが、それが余計に苦しくなり、涙が溢れそうになるのを必死にこらえていた。
「君がどう思おうと、私の決定は変わらない。君はもう、私にとって必要な存在ではない。せいぜい自由に生きることだ」
政略結婚であることなどわかっていた。
ただ、それでもリリィはカインを愛していた。
彼が自分の世界の中心で、全てが彼のために存在していると信じていた。
しかし、今、目の前にいる彼は、全く別人のようだった。
冷徹で、無慈悲で、何の情もない男だ。
「何があったんですか……カイン様……? わ、私は、何か悪いことをしたんでしょうか……?」
この期に及んでも、リリィは今の状態が到底信じられなかった。
だが、帰った言葉は無情な溜め息交じりの返答であった。
「鬱陶しい。悪いところ、ね。その卑屈なところや、何も考えていない無能なところは、人として尊敬できないと考えていたよ。ただ、私にとって、婚約者の中身などどうでもいい。強いていえば、アスター家が私に益を齎さなかったところか」
何を言っても言葉は響かない。
目の前の男は、リリィの全てを切り捨て、まるで最初から彼女など必要なかったかのように振る舞っていた。
その瞬間、リリィの心に何かが壊れた音がした。
彼女の中で、何かが消えていった。
今まで信じていた全てが無駄だったということを理解した瞬間だった。
愛していたはずの男にとって、自分はただの使い捨ての道具に過ぎなかったのだ。
リリィの手は震え、涙が頬を伝い始めた。
それでも彼女は、涙を拭うことができなかった。
カインは冷たく鼻を鳴らすと、リリィへ背を向けた。
リリィはその背中をただ見つめることしかできなかった。
何もかもが壊れたような気がして、ただその場に立ち尽くすことしかできなかった。
彼女は「商業の番犬」と称されるアスター侯爵家の長女である。
アスター侯爵家は王国経済に影響力を持つ大貴族で、代々優秀な財務官を輩出し、王国経済を支えてきた。
革新よりも保守。
派手な政争や大勝負を避け、税制と庶民の暮らしの調整や、優秀な商人への出資で王国を支え、他の貴族にはない堅実な手腕を発揮している。
決して表舞台で光が当たることはないが、経済安定に不可欠な役割を果たし、縁の下の力持ちとして尊敬されている。
家族の期待を背負って育てられたリリィは、常に美しく、品位を持ち、誰にでも好かれる存在であろうと努めてきた。
目上の貴族であるヴァスタ公爵家の長子であるカインとの婚約も決まっており、順風満帆な人生を歩んでいた。
カインは才色兼備の体現と称される程の美丈夫である。
すらりと長い身体に、端正な顔立ちに透き通るような白い肌。
少し冷たいところはあるが、リリィも婚約者である彼を慕っており、自分と同じ年頃でありながら商業や政治で既に多くの実績を残す彼に対し、強い憧憬を抱いている。
だが、リリィの幸福な生活は、婚約者であるカインの言葉によって終わりを告げることとなった。
「リリィ、婚約を解消する」
リリィの目の前に立つカインの表情は、まるで何事もないかのように無表情で、ただひときわ冷たさを帯びていた。
リリィは唇を震わせ、どうしても言葉が出てこなかった。
「え……」
動揺に、言葉が結びつかない。
リリィの辛うじて出した声を聞いたカインは、呆れたように小さく首を振るうと、言葉を続けた。
「婚約を解消する、と言ったんだ。君の家がもはや我々にとって有益ではなくなった」
カインの目は冷徹で、リリィの目には何も映っていないかのようだった。
「そ、それは…どういう意味ですか? 私はあなたを愛していますし、ずっと……」
「愛……ね。君の愛など、最初から私には何の価値もない。君の家が有する影響力や財力が、当初は私の目的にかなうと思っていた。しかし今、ヴァスタ公爵家は私の裁量によって持ち直した。地味で落ち目の貴族家の娘を嫁にもらう必要はなくなったというわけだ。だから婚約を解消する」
冷徹な言葉に、リリィは胸が締め付けられるのを感じた。
心の中で何度も反論しようとしたが、口から出る言葉は空しく、ただ震える手のひらを握りしめるだけだった。
「そんな……」
リリィは言葉を続けようとしたが、言葉が出ない。頭の中で何が起きているのかが理解できなかった。
心臓が激しく鼓動し、体が震えた。
何度も呼吸を整えようとしたが、それが余計に苦しくなり、涙が溢れそうになるのを必死にこらえていた。
「君がどう思おうと、私の決定は変わらない。君はもう、私にとって必要な存在ではない。せいぜい自由に生きることだ」
政略結婚であることなどわかっていた。
ただ、それでもリリィはカインを愛していた。
彼が自分の世界の中心で、全てが彼のために存在していると信じていた。
しかし、今、目の前にいる彼は、全く別人のようだった。
冷徹で、無慈悲で、何の情もない男だ。
「何があったんですか……カイン様……? わ、私は、何か悪いことをしたんでしょうか……?」
この期に及んでも、リリィは今の状態が到底信じられなかった。
だが、帰った言葉は無情な溜め息交じりの返答であった。
「鬱陶しい。悪いところ、ね。その卑屈なところや、何も考えていない無能なところは、人として尊敬できないと考えていたよ。ただ、私にとって、婚約者の中身などどうでもいい。強いていえば、アスター家が私に益を齎さなかったところか」
何を言っても言葉は響かない。
目の前の男は、リリィの全てを切り捨て、まるで最初から彼女など必要なかったかのように振る舞っていた。
その瞬間、リリィの心に何かが壊れた音がした。
彼女の中で、何かが消えていった。
今まで信じていた全てが無駄だったということを理解した瞬間だった。
愛していたはずの男にとって、自分はただの使い捨ての道具に過ぎなかったのだ。
リリィの手は震え、涙が頬を伝い始めた。
それでも彼女は、涙を拭うことができなかった。
カインは冷たく鼻を鳴らすと、リリィへ背を向けた。
リリィはその背中をただ見つめることしかできなかった。
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