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バンティの背中
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エミリアはただただ気味が悪かった。
一月もの間、新婦に触れようともしない夫が謎であったし、突然床に蹲り、背中に座ってほしいと懇願する生き物はもっとエミリアを怖がらせた。彼女が背中に座るという行為が、どうやらルースの官能につながるらしいことが、その気味悪さを増長させた。
今振り返れば、エミリアが背中に座ってあげてもよいと一度は合意する前から、ルースの顔はもう上気してしまっていた。そして、彼女が合意したそのときには、彼の顔はそれこそ神々しさを感じるほどに輝いた。
エミリアにはそのことが無性に腹立たしかった。
いったいルースは、一月後の今に至るまで、エミリアに指一本触れなかったのである。女性としてのエミリアに全く興味を示さない彼が、彼女に背中に座ってもらうことをただ想像しただけで、官能を大いに刺激されている。
エミリアは、〈わたしはいったい何なのだ〉といいたかった。女性としての自分が侮辱されたと感じたのだ。エミリアは悔しかった。
だいいち椅子というものは無生物である。エミリアは体温のあるものに座りたいとは思わなかった。が、
〈いや、待ってよ〉と彼女は考えた。〈木の椅子が好まれるのは無生物とはいえ、有機物の温かみが感じられるからではないのかしら……〉
また、雪の降る日に、主人の草履を懐に入れ、温めていたという下男の話を聞いたことがある。体温のある椅子というのも、寒い日には案外に具合のよいものなのかしら……
エミリアがそんなふうに考え、〈やっぱりちょっと座ってみようかしら〉と思案したのは、何といってもルースを愛しているからだろう。夫であるルースの希望を叶えてやりたいという優しさが彼女のどこかにあった。
それでもエミリアはやはり気味が悪かった。
ルースの上気した顔を見ると、その背中も、体温をほっこりと感じるといった程度の温かさではないと想像された。きっと火照っているのではないか。そのうえ、じっとりと汗ばんでいるかもしれない。
エミリアは最後の一歩がどうしても踏み出せなかった。
困惑の窮まったエミリアは、胸が苦しくなるばかりで、もう何も考えられない。彼女は逃げるように部屋を飛び出した。
呆然とした表情のルースが独り残された。
◇◇◇
エミリアが向かった先は東屋である。澄んだ空気のなかで頭を冷やしたかった。
〈だいじょうぶ。きっとうまく行くわ〉
エミリアは腰を下ろすと、そっと自分の胸に言い聞かせた。彼女としても、嫁いだランデル家から一月やそこらで逃げ出すことなど考えられず、不安を押し殺すしかなかった。
それにしても、冷たく硬いベンチの何と気持ちのよいことか。ルースの上気した顔を思い出して、エミリアはぶるっと身震いした。
かようの夫婦の事情について、まだ打ち解けたわけでもない義父母に相談するわけにもいくまい。本来であれば、勝手知らぬランデル家にあって、何か心配事があれば夫のルースにこそ親身になってほしいところだが、ほかならぬ彼が悩みの種なのだから、もうどうしようもなかった。
そんなとき、エミリアの脳裏に浮かんだのは、女中であるバンティのしなやかな背中である。
過日、廊下を歩いていたエミリアは、何か尋常ならざる呻きが漏れてくるのを耳にした。
〈キース・ジャレットでもかけているのかしら〉
と、ふとエミリアは思ったが、もちろんそうではなかった。
〈だいじょうぶかしら?〉
事と次第によっては、介抱するなり、助けを呼ぶなりしなくてはならない。五センチほど開いていたドアの隙間にエミリアは顔を近寄せた。
と、まず目に飛び込んできたのがバンティの後姿だった。
一月もの間、新婦に触れようともしない夫が謎であったし、突然床に蹲り、背中に座ってほしいと懇願する生き物はもっとエミリアを怖がらせた。彼女が背中に座るという行為が、どうやらルースの官能につながるらしいことが、その気味悪さを増長させた。
今振り返れば、エミリアが背中に座ってあげてもよいと一度は合意する前から、ルースの顔はもう上気してしまっていた。そして、彼女が合意したそのときには、彼の顔はそれこそ神々しさを感じるほどに輝いた。
エミリアにはそのことが無性に腹立たしかった。
いったいルースは、一月後の今に至るまで、エミリアに指一本触れなかったのである。女性としてのエミリアに全く興味を示さない彼が、彼女に背中に座ってもらうことをただ想像しただけで、官能を大いに刺激されている。
エミリアは、〈わたしはいったい何なのだ〉といいたかった。女性としての自分が侮辱されたと感じたのだ。エミリアは悔しかった。
だいいち椅子というものは無生物である。エミリアは体温のあるものに座りたいとは思わなかった。が、
〈いや、待ってよ〉と彼女は考えた。〈木の椅子が好まれるのは無生物とはいえ、有機物の温かみが感じられるからではないのかしら……〉
また、雪の降る日に、主人の草履を懐に入れ、温めていたという下男の話を聞いたことがある。体温のある椅子というのも、寒い日には案外に具合のよいものなのかしら……
エミリアがそんなふうに考え、〈やっぱりちょっと座ってみようかしら〉と思案したのは、何といってもルースを愛しているからだろう。夫であるルースの希望を叶えてやりたいという優しさが彼女のどこかにあった。
それでもエミリアはやはり気味が悪かった。
ルースの上気した顔を見ると、その背中も、体温をほっこりと感じるといった程度の温かさではないと想像された。きっと火照っているのではないか。そのうえ、じっとりと汗ばんでいるかもしれない。
エミリアは最後の一歩がどうしても踏み出せなかった。
困惑の窮まったエミリアは、胸が苦しくなるばかりで、もう何も考えられない。彼女は逃げるように部屋を飛び出した。
呆然とした表情のルースが独り残された。
◇◇◇
エミリアが向かった先は東屋である。澄んだ空気のなかで頭を冷やしたかった。
〈だいじょうぶ。きっとうまく行くわ〉
エミリアは腰を下ろすと、そっと自分の胸に言い聞かせた。彼女としても、嫁いだランデル家から一月やそこらで逃げ出すことなど考えられず、不安を押し殺すしかなかった。
それにしても、冷たく硬いベンチの何と気持ちのよいことか。ルースの上気した顔を思い出して、エミリアはぶるっと身震いした。
かようの夫婦の事情について、まだ打ち解けたわけでもない義父母に相談するわけにもいくまい。本来であれば、勝手知らぬランデル家にあって、何か心配事があれば夫のルースにこそ親身になってほしいところだが、ほかならぬ彼が悩みの種なのだから、もうどうしようもなかった。
そんなとき、エミリアの脳裏に浮かんだのは、女中であるバンティのしなやかな背中である。
過日、廊下を歩いていたエミリアは、何か尋常ならざる呻きが漏れてくるのを耳にした。
〈キース・ジャレットでもかけているのかしら〉
と、ふとエミリアは思ったが、もちろんそうではなかった。
〈だいじょうぶかしら?〉
事と次第によっては、介抱するなり、助けを呼ぶなりしなくてはならない。五センチほど開いていたドアの隙間にエミリアは顔を近寄せた。
と、まず目に飛び込んできたのがバンティの後姿だった。
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