ノンフィクション・アンチ

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第1章 柳田 影

第4話 空想

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 日が暮れ始めた頃、澤部が定時で帰ろうとしていた。帰宅の準備をしている澤部の肩を、影が叩いた。
「澤部さん…ちょっと、いい?」
「あっ、そうでしたね。」
 影も会社を出た。まだ仕事はあったが、どうしても今日は澤部と話したい。澤部は昼に影から貰ったミルクコーヒーを飲んでいた。
「何でそんなにリンさんの事を知りたいんです?好きになったんですか?」
「そういう訳じゃないんだけど…」
 少し複雑で、正直何もわからなかった。もしかしたら、偶然に妹のエピソードと一致しただけなのかもしれない。でも、知りたい。
「とにかく、教えてほしいの。」
「…わかりました。とりあえず、この動画とか。リン先生のアカウントです。」
 動画から声が流れてくる。陰気のある、暗く、低い声。

『こんにちは。勿忘リンです。私、本を発売致します。題名は、「苦しみのレイラ」。オリジナル作品です。この物語はフィクションなのですが、少しだけ、私の実体験も入っています。この中の誰かが、私の小学生時代をイメージしています。』

 影はハッとした。『小学生時代をイメージしている』。思っていた通りだった。レイラは、妹。アンは、杏子。そして、リョウコが、作者。そう影は考えた。ならば、他のキャラクターも実在する人物なのか。
「先輩?どうしました?」
 ボーッとしていたらしい。影は澤部に「大丈夫!大丈夫!」と微笑む。
「小学校時代って凄いですよね。よく覚えてますよね…20歳超えたら、ほぼ小学校の記憶なんて無いのに…(汗)」
「確かに、全ては覚えていないけど、いい思い出くらいは覚えていようよ…」
 影は静かに突っ込んだ。アハハ、と笑いが起こる。会話が少し途切れた後、澤部が続けた。
「そんなに、小学生時代が印象に残っているんでしょうね。私なんか、悪い思い出しか覚えてませんよ…いじめられたりした時とか。」
「印象に…」
 確かに、と思った。悪い思い出はよく覚える。そして思い出して後悔する。影も何度も経験したことだ。妹の死や、両親の死を思い出して、何度も吐き気を催した。単純に考えれば、作者の小学生時代は、嫌な事があったから覚えている、ということになる。逆に、楽しすぎて忘れられない思い出となっているのか。
「この作者の印象的に、小学校時代が楽しそうだとは思えないな…」
「先輩…!?なんてことを…!?偏見すぎますよ!?!?」
 あっ、と声が出た。また笑いが起こる。

ーーー電車が来た。
「じゃ、先輩!楽しかったです!」
「うん。澤部さん、ありがとう。」
2人は微笑みながら、別れた。少し肌寒い。影は家へと歩き出した。帰る時間はいつもより早い。寄り道をしていこうか、と考えた。
「………あっ、杏子ちゃんの家に行こう」
 1番気になっている人。近所に家があるはずなので、杏子の家に行くことにした。好奇心からだが、たまには悪くないと思う。綺麗な一軒家。場所は覚えている。家に近づく。少し、様子がおかしいと思った。表札が、素朴になっている。前は豪華な表札に、明朝体で「佐藤」と刻まれていたが、今は違う。「片山」。知らない苗字だ。結婚したのか。その話も聞きたいな、と思った影は、インターホンを押した。ゆっくり足音が聞こえてくる。会うのは何年ぶりだろうか。覚えられているのだろうか。ガチャリ、と扉が開いた。出てきたのは、白髪の老人だった。
「あっ…こんにちは…」
「なんだ?どうしたんだ?」
 急に不安に襲われた。誰だ。見たこともない。手を震わせながら聞いた。
「あの…佐藤、杏子さんにお会いしたくて来ました。いらっしゃいますか?」
 老人は顔をしかめた。
「誰だ。そいつは。」
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