ディストピア系アイドルゲームの指揮官に転生したので、クズを演じながら推し活することにした

西嶽 冬司

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2章【楽園、あるいは独裁国家】

第21話【蜘蛛の糸、あるいは贈り物】

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食堂に集められた第九部隊のメンバーたちを前に、響が大きな地図を広げた。
第九地区の全域を示す、ボロボロの紙だ。
所々に赤いマーカーで印がつけられている。

「オーグリーの観測センサーを要所に設置。
 九区内だけで連結し、独立稼働させる」

響の指が、地図上のポイントを次々となぞっていく。

「ただ、一箇所ずつ回ってたらムダに時間がかかる。
 そこで、四つのチームに分かれて行動する」

響が丸めていた紙を広げながら、バチコンとホワイトボードへ叩きつけた。
さっきから、なんでそんなにアナログなの?

「まずAチーム千紗、真凜。 北方面を担当してもらう。
 続いてBチームは湊、リリィ。 担当は南だ。
 Cチームはベラドンナで東。 そしてDチームが高宮、万里で西だ」

「ちょっと待ってよ、響」

その時、カレンの気だるげな声が響き渡った。
彼女は椅子の背もたれに深く寄りかかり、不満そうに片眉を上げている。

「私の名前がないんですけどぉ」

「アナタはお留守番ですぅ」

響は一瞥もせず、今日の天気を告げるような気軽さで即答した。

「……あぁ?」

カレンの声が、地の底から響くような低音に変わった。
食堂の空気が、一瞬だけビシリと震えた錯覚に陥る。 怖い。

「アナタは妊娠二ヶ月でしょ。 つわりの時期に、無茶させるわけにいきませ~ん」

「まだ動けるよ。 つわりなんて——気合でどうにかなる」

カレンが立ち上がろうとするが、響の声がそれを制した。

「ダメだ」

響が、カレンの方を向く。
その表情は真剣そのもので、冗談の入り込む余地はなかった。

カレンが言葉を詰まらせた。
響は真っ直ぐにカレンを見つめ、穏やかに、しかし断固として言った。

「頼むから、今回は基地で大人しくしててくれ。
 俺の大事な『推し』と、大事な『未来』を守らせてくれ」

カレンの目が揺れた。
彼女は唇を噛み——やがて、深く息を吐き出した。
張り詰めていた空気が、ふっと緩む。

「……ったく。 狡い言い方するねぇ、アンタは」

カレンは舌打ちしたが、その頬は僅かに赤らんでいた。
彼女は乱暴に髪をかき上げ、椅子に座り直す。 ツンデレが感染した?

「分かったよ、旦那様。言うこと聞いてあげる」

「さんきゅう、奥様。 やっぱりカレンは最高だぜ」

響がニカッと笑う。

——なんかいい雰囲気になってきた——

美咲は生暖かい目で二人を見守っていた。

千紗は無表情だが、どこか満足げに小さく頷いている。
リリィはタブレットで何かを入力しながら、「またイチャイチャしてる……データ更新しなきゃ」とボソッと呟いた。
真凜は腕を組み、「『英雄色を好む』というわけですね」と一人で納得していた。
万里は、隣にいた高宮を無言でどついている。 なんで? 

「それと、みな——ハニー」

響の声に、湊がビクッと肩を跳ねさせた。
あ、今の彼女「ハニー」って呼ばないと返事しないの。 面倒臭いよね。

「ハニーも本当は外したいんだが——」

「嫌よ」

湊が即座に遮った。 食い気味に、有無を言わせぬ口調で。
その瞳には、普段の甘えたような色はなく、揺るぎない意志が宿っている。

「部隊リーダーが、大事な作戦で留守番なんてできないわ」

「でも、みな——ハニーも——」

「分かってる」

湊が自分の腹に手を当てた。
まだ平坦なお腹。 けれどそこには、新しい命が宿っている。
彼女はその温もりを確かめるように、優しく撫でた。

響は難しい顔で湊を見つめていた。

彼女の覚悟と、身体へのリスク。
天秤にかけて——やがて、観念したように深い溜息を吐いた。

「……絶対に無茶するなよ。 少しでも危険だと感じたら、すぐに撤退しろ」

「分かってるわよ。 私は——」

湊の頬が、ほんのりと染まる。
彼女は響を見つめ、恥ずかしそうに、けれど幸せそうに微笑んだ。

「この子を、ちゃんと産みたいから。
 貴方との子供に会うまでは、絶対に死なないわ」

響の表情が、一瞬だけ崩れた。
泣きそうな、笑いそうな、複雑な色。
彼は照れ隠しのように鼻をこすった。

「何かあったら、すぐ助けを呼べよ。
 俺が光の速さで駆けつけるからな」

「分かってるわ……ありがと、ダーリン」

——あまーーーーーーい!!——

美咲は心の中で絶叫した。 誰か今すぐ私を56し……いややっぱりやめて。
でもこの糖度には耐えられない! なんだこの空気は!!
砂糖と蜂蜜を混ぜて煮詰めたものを、直接静脈注射されている気分だ。

リリィが小声で美咲に囁いた。

「毎度のことですが、聞いてるこっちが恥ずかしいと、リリィは思います」

「ほんとにね……」

美咲は深く同意した。
だが同時に、少しだけ羨ましくもあった。

こんな世界で、これほど真っ直ぐに誰かを想えることが。

命がけの戦場の前に、こんな風に笑い合える強さが。



***



作戦開始から数日が経過した。
『支配からの卒業』作戦は、表向きは順調に進んでいた——表向きは。

「リリィ! ちゃんと歩いて!!」

現場からの通信音声。
湊の悲鳴に近い叫び声が、作戦室に響く。

『むりぃ……お外こわぁ……』

スピーカーから聞こえるのは、リリィの呻き声だ。
完全な引きこもり生活を送っていたリリィには、外出自体のハードルが激高だったらしい。

「リリィが対人恐怖症とネット禁断症を拗らせてるわ! 誰か鎮静剤持ってきて!」

『太陽が……リリィを殺しにきてますぅ……Wi-Fiも飛んでないぃ……。
 ネットがない空間なんて、深海と一緒……水圧で死ぬぅ……』

「死なないわよ! センサー設置するまで頑張んなさい!」

『ぐぅぉあおぁ……リリィ、帰りたいぃ……』

湊の絶叫と共に、ガサガサというノイズが走る。
どうやら物理的に引きずって移動しているらしい。

一方、特攻野郎Dチーム。

『ママぁ! 見て! ボク、こんなに重い鉄骨運べたよ!』

映像モニターには、瓦礫の山で懸命に作業する元・エリート監査官の姿が映っている。
顔は泥だらけだが、その瞳は幼児のようにキラキラと輝いていた。

『……チッ』

その横で、万里が舌打ちをする音。
彼女はダンプカーのような勢いで瓦礫を粉砕しながら、冷たく言い放つ。

『うるさい。56すぞ』

『ぴぇッ……! ご、ごめんなさいママぁ……もっと頑張る……!』

高宮は怯えながらも、その倍の速度で働き始めた。
恐怖と幼児性が入り混じった、見てはいけないものを見ている気分だ。



そして——



「義兄さん義兄さん義兄さん義兄さん義兄さん義兄さん義兄さん義兄さん義兄さん義兄さん義兄さん義兄さん義兄さん義兄さん義兄さん義兄さん義兄さん義兄さん義兄さん義兄さん義兄さん義兄さん義兄さん」

「こちらAチーム。
 千紗さんがコンダクター不足で発狂寸前ですが、作業は予定通り進行中。
 問題ありません」



「順調だな、ヨシ!」

響がモニターを見ながら、満足げに頷く。

「どこがですか!?」

美咲がツッコミを入れる。 ヨシじゃねぇよ! ネコより節穴じゃん!

リリィちゃんはゾンビみたいになってるし。
高宮さんは完全に壊れてるし。
千紗ちゃんに至っては、その……あの……うん……。

「これ、本当に大丈夫なんですか!?」

「作戦が順調なら問題ない」

響が悪魔のような笑みを浮かべる。 鬼かしら?

「それに、千紗は主人公様とくっ付くんだ。
 いい加減に義兄離れしてもらわないとな。
 想像するだけで、マジで腸が捻じ切れそうだけど」

まず、アナタが義妹離れできてませんが?
青い顔でお腹をさする響へ、美咲はじとっとした視線を向けた。



***



窓から差し込む午後の光が、舞い上がる埃を照らす。

カレンは愛用のベースを膝に乗せ、丁寧にメンテナンスしていた。
弦を一本一本確認し、ボディを柔らかな布で磨いていく。

慣れ親しんだ感触。指先に伝わる木の温もり。
それは彼女にとって、戦友であり、分身であり、魂の拠り所だった。

その手が、ストラップに触れた瞬間——

動きが止まった。

ボロボロの革製ストラップ。
擦り切れ、色褪せ、何度も補修された跡がある。

もういつ千切れてもおかしくない、限界を超えた代物。
新しいものに変えればいい。もっと良いものがいくらでもある。

けれどカレンは、これを絶対に手放さなかった。

指先が、傷だらけの革の表面をなぞる。
そのざらついた感触が、封印していた記憶の扉を、静かにこじ開けていく——



***



「——遅いよカレン! 私の背中、見失うんじゃないよ!」

廃墟を駆け抜ける、歪んだディストーションの咆哮。
脳髄を痺れさせるような高音で切り裂きながら、カノンが振り返って笑った。

瓦礫の山。黒煙。飛び散る火花。
その地獄のような風景の中で、彼女だけが輝いていた。

長い金髪を風に靡かせ、口元には煙草を咥え、不敵な笑みを浮かべて。
姉御肌の先輩は、いつだってカレンの前を走っていた。

「うるさいね! あんたが走りすぎなんだよ!」

カレンが叫び返す。
ベースを叩きつけるように弾く。
重低音が地を震わせ、迫りくるディストルの足を止める。

当時のカレンは——荒れていた。
誰彼構わず噛みつき、攻撃的で、防御を顧みず突っ込む狂犬。
生きることに執着がなく、むしろ死に場所を探すように戦っていた。

『死にたがり』

それが、当時のカレンにつけられた異名だった。
誰もが彼女を遠巻きにし、腫れ物のように扱った。

そんなカレンを、カノンだけが見捨てなかった。

「私たちって名前が似てるじゃん? カレンとカノン。
 一文字違いで、他人とは思えないねぇ」

出会いは、些細なきっかけだった。
ロッカールームで独り佇むカレンに、カノンが声をかけたのだ。

「なんか運命感じない? ほら、一本やるよ」

「……いらない。 馴れ合いは嫌いなんだ」

「遠慮すんなって。 先輩の好意は素直に受け取っときな」

カノンは強引だった。
拒絶しても、無視しても、しつこく絡んできた。
煙草の吸い方を教え、美味い酒の銘柄を教え——

ベースの楽しさを️——『生きる意味』を教えてくれた。

「カレン。 あんた、才能あるよ」

ある日、激しい訓練の後で、汗だくのカノンが言った。

「あんたの低音、すげぇ好き。 重くて、暗くて、でも芯があって。
 私の高音と合わせたら、最強じゃない?」

「……別に、そんなつもりで弾いてない。
 ただ、イラつくから叩きつけてるだけだ」

「それでもだよ」

カノンの目が、真っ直ぐにカレンを射抜いた。
その瞳には、嘘も媚びもない、純粋な称賛があった。

「もったいないじゃん。
 あんたの音、こんな掃き溜めで死なせるには惜しいよ。
 私と一緒に鳴らしなよ。 世界中を震わせてやろうぜ」

それから二人は、『ツー2カーコンビ』と呼ばれるようになった。 恥ずかし過ぎる。
カレンが低音で暴れ、ディストルの動きを封じる。
その隙に、カノンが高音で切り裂き、殲滅する。

背中を預け合い、喧嘩しながら、誰よりも音を重ねていた日々。
灰色だったカレンの世界に、初めて色が差した日々。



そうやって月日を重ねた、ある激しい戦闘の後だった。

カレンのストラップが、度重なる激闘に耐えきれず、ブツリと音を立てて千切れた。

「チッ……また買い替えかよ。安物はこれだから」

舌打ちするカレンに、カノンが無造作に包みを投げて寄こした。

「えっ。 なに、これ」

「誕生日プレゼントだよ……半年くらいズレてるけど」

包みを解くと——
上等な革で作られた、頑丈なストラップが入っていた。

黒く艶やかな光沢。触れただけで分かる、ベルベットのような繊細で上質な手触り。
丁寧なステッチが施され、カレンのイニシャルが刻印されている。

「特注だよ。 あんたの荒っぽい演奏にも耐えられるようにね。
 これなら、どんなに暴れても切れないだろ?」

「……これ、高かったんじゃないの?」

カレンが眉をひそめる。
こんな高価なものを、なぜ自分ごときに?

カノンは煙草を咥え、ふぅっと紫煙を吐き出した。
その横顔が、夕陽に照らされて赤く染まっていた。

「先行投資さ」

カノンがニヤリと笑う。
その目は——どこか、切なげだった。

「その革が擦り切れるまで、あんたは生きな。
 ……私の隣でね」

カレンは何も言えなかった。
言葉の意味を、正確には理解できなかった。

けれど——
それが『死にたがり』を現世に繋ぎ止めるための、『鎖』だということは分かった。

嬉しかった。
ただ、素直に礼を言うのが恥ずかしくて、黙ってストラップを付け替えた。

これからも二人でバカやりながら、この灰色の世界を生きていくんだと思っていた。



なのに——



ロッカールームで着替えていた、カノンの異変に気づいた。

彼女の左手。 その指先が——黒く変色し、痙攣していた。
まるで、皮膚の下で無数の虫が蠢いているかのように。
血管が黒く浮き上がり、脈打つたびにその範囲を広げている。

「……チッ。 最近、Fコードの押さえが甘いと思ったら……これか」

カノンが舌打ちする。 まるで虫に刺されたかのような、軽い口調。
だが、その額には脂汗が滲み、唇は白く震えていた。

「カノン、それ……」

カレンの声が震えた。
認めたくなかった。信じたくなかった。

ノイズ侵食。 レゾナントの宿痾。

避けられない——死の宣告。

「見るな!」

カノンが初めて、カレンを拒絶した。
その声は——聞いたこともないほど、甲高く歪んでいた。
金属同士が擦れ合うような、耳障りなノイズ混じりの声。

「見るなっつってんだろ……!」

カノンは乱暴にロッカーを閉め、逃げるように部屋を出ていった。
その後ろ姿には、何かに追われるような、怯えが伺えた。

その日から、カノンの『音』が変わった。

かつては空を切り裂くように澄んでいた高音が、濁り始めた。
チューニングは合っているはずなのに、どこか不協和音が混じる。

まるで、弦の代わりに神経を張り詰めて弾いているような——悲鳴に似た音色。

焦り。 恐怖。 絶望。

災害バケモノ』に変わっていく自分への、拭いようのない恐怖が——

音の端々から、どす黒い汚泥のように滲み出ていた。

カレンは気づいていた。
夜中、カノンの部屋から嗚咽と共に、爪で壁を掻きむしる音が聞こえることを。
「ガリッ、ガリッ」という不快な音が、薄い壁を通して響いてくる。
鎮痛剤の空き瓶が、ゴミ箱に山のように捨てられていることを。

日に日に痩せていくカノンの頬。
焦点の合わなくなる瞳。
会話の端々に混ざる、意味不明な言葉。

それでも、カレンには何もできなかった。
声をかけることすら、躊躇われた。
「大丈夫?」なんて無責任な言葉は言えない。

認めてしまえば——カノンが完全に壊れてしまう気がしたから。

自分もまた、その恐怖から目を逸らしていたのだ。



そして——その日は来た️。



夕暮れ。 第九基地の屋上。
フェンスの向こう側、崩れかけた縁にカノンが立っていた。
夕陽を背にしたそのシルエットは、ひどく細く、頼りなく見えた。

眼下に広がるのは、響のガーデニングエリアになる以前の——剥き出しのコンクリート。

瓦礫と鉄骨が散乱する、冷たい墓場。

「よせ! 早まるなカノン!」

カレンが叫ぶ。
声が届かない。 手が届かない。
数メートルの距離が、永遠のように遠い。

「……もう、限界なんだ」

カノンが振り返った。
その顔半分は、すでに残像のようにブレ始めていた。
輪郭が時折崩れ、左目は白濁して機能を失っていた。
右目だけが——かつてのカノンのままで、泣いていた。

「音が……雑音に聞こえる」

カノンの声は、不思議なほど穏やかだった。
だが、喉の奥から時折、「ギギッ」「ザザッ」という異音が混じる。
それは、人間が発していい音ではなかった。

「弾けば弾くほど、自分がバケモノになっていく気がする。
 私の音が……人を傷つけるかもしれない。
 あんたを……傷つけるかもしれない」

「そんなの——!」

「カレン」

カノンが微笑んだ。
侵食された口元を引きつらせて——それでも、最期まで先輩らしく、気丈に。

「あんたと組めて、楽しかったよ。
 あんたの低音、最高だった……私の心臓みたいで、温かかった」

「やめろ……やめてくれカノン……! 置いていかないで!」

「じゃあね」

カノンが手を振った。
まるで、明日また会うみたいに——



「最高のセッションだったよ。
 また——一緒にやろうな」



——背中から、空へ落ちた。



悲鳴はなかった。
風に乗って、微かに煙草の香りと——鉄錆のような血の匂いが漂う。

肉塊がコンクリートに叩きつけられる、生々しく鈍い音だけが——

夕暮れの第九地区に、虚しく響き渡った。

カレンは叫び声を上げることもできず、ただその場に崩れ落ちた。

その日、カレンの世界から——音が消えた。



***



カレンはストラップを指でなぞった。
革は擦り切れ、ボロボロになっている。
もう何度も修理を重ねて、原型をとどめているのが不思議なくらいだ。
カノンのイニシャルは、もう読み取れないほど薄くなっている。

「……あの時のあんたと、同じくらい使ったかな」

独り言が、静かな部屋に響いた。

カレンは自分の腹には触れなかった。
代わりに、ストラップを強く握りしめる。

5年。
カノンが死んでから、5年が経った。

その間に、カレンは変わった。
『死にたがり』から『一人の母』へ。
響と出会い、子供を産み、退役し——そして、戻ってきた。

愛する人ができた。守るべき家族ができた。
今のカレンは、かつてないほど幸せだ。

けれど——

カレンの目が、窓の外を見つめた。
空には、不穏な雲が垂れ込めている。
まるで何かの予兆のように、重く、暗い。

幸せであればあるほど、恐怖もまた大きくなる。

失うことへの恐怖。

自分が壊れることへの恐怖。

「醜いバケモノになって、一人めの子アキラや……この子を悲しませるわけにはいかない」

お腹の中の子供。
愛しい響の子供。

守りたい。 絶対に守りたい。
彼らの未来を、自分の手で壊すことだけはしたくない。

カレンの中にはずっと、一つの恐怖があった。
自分もいつか、カノンと同じように——ノイズに飲み込まれ、愛する人を傷つけるのではないか。

その時、自分は正気を保っていられるだろうか。

「……ねぇ、カノン」

カレンはふと視線を上げ、虚空を見つめた。
カノンがいるかもしれない、どこか遠い場所を。

「アンタはまだ、私を待っててくれてる?」

答えはない。 当然だ。 死者は語らない。
ただ、ボロボロのストラップだけが、彼女が生きていた証としてここにある。

カレンは静かに立ち上がり、ベースをスタンドに戻した。
そして机に向かい、走り書きでメモを残す。

風がカーテンを揺らし、メモがかさりと音を立てた。



***



九区の港湾施設『ターミナル』。

轟の部下である運送部隊員が、監視塔の上で双眼鏡を構えていた。
海風が冷たく吹き付け、彼の制服をバタつかせている。
沖合に、見慣れた船影が近づいてくるのが見えた。

「何だ? 三区からの定期便か?
 ……いや、待て——」

彼は目を凝らした。
何かがおかしい。

定期便は、無期限の延期になっているはずだ。
それに定期便なら、入港前には必ず識別信号を送り、減速する。

今、接近してくる船は——まっすぐに『ターミナル』へ向かっている。

減速する気配がないどころか、全速力で突っ込んでくる。

「なんだ、あの船は……? 操舵ミスか?」

双眼鏡の倍率を上げる。
船の甲板が視界に入った瞬間——

彼の顔から、血の気が引いた。
持っていた双眼鏡を取り落としそうになる。

船の上には、大量の『ソレ』が蠢いていた。
人の形をした、黒い影の群れ。
手足が異様に長く、顔のない頭部が痙攣している。

かつて人間だった者たち。
今は理性が崩れ、破壊の衝動だけで動く災害体。

ディストルの群れが、船の甲板を埋め尽くしていた。

「嘘だろ……! 総員、退避!」

警報ボタンを叩く。
けたたましいサイレンが鳴り響くが、もう遅かった。

輸送船は減速することなく、『ターミナル』の係留ドックへ突っ込んだ。

轟音。

コンクリートが砕け散り、火柱が上がる。
金属が軋む悲鳴のような音が、空気を引き裂いた。

そして——

大量のディストルが、九区の大地へ上陸した——
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