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抑制剤
しおりを挟む見つめ続けてきた兄の瞳には、翼だけが映り続けていた。同じ熱量の視線が交わり、離れ、再び絡み合う。そんなことを日々繰り返しているのだから、双子のシンパシーなどなくても、どんな馬鹿でも気づくというもの。
自分たちは結局ずっと、お互いのことしか見ていなかった。
(ほんと、よく我慢してるよな、俺)
伸ばしかけて引っ込められた腕を、何度掴んでやろうと思ったことか。
けれど、彼は常識を捨てられず、世間体を軽んじることができない。翼のようには割り切れない。
勿論、翠自身の中に育っている社会性──禁忌への忌避感もあるのだと思う。だが、おそらくそれが理由ではない。きっと、耐えられないのだ。家族が世間にバッシングされることが。
翼も、家族に害が及ぶことは避けたい。当たり前だ。けれど、ならば世間にバレないように動こうと思考を切り替えることはできる。しかし、翠にはそれが難しいのだ。どうしても、もし露見してしまったら、という恐れを拭うことができないでいる。
それを臆病だと批難することはできなかった。寧ろ、当たり前の反応だろう。
翠が双子の弟に恋焦がれ、葛藤し、結果なにも捨てられずに苦しんでいることを、そばで見てきた翼が一番よくわかっていた。だからこそ、兄を欲しがる己を押し留められている。
(なのに、勢いに任せた間違いなんかで番になったら、翠が本気で絶望する)
双子として生まれたから翠を好きになり、双子だからこそ兄に手を出せない。
そのジレンマがひどく歯痒かった。
せめて、翠が納得できるくらいの安心材料を確保してからでないと、捕まってはくれないだろう。せっかく、抑制剤という理性を保てる手段があるのだ。それが効いている内は、後先のない状況に追い込むことはしたくなかった。
(このまま番にならず、二人きりで生きて死ねれば、それが一番なんだろうけど)
年老いてしまえば可能かもしれないが、現時点では現実味のない案でしかなかった。抱きたいという欲求を、どうしても捨てられない。そして、抱いてしまえば最後、最中の自分がうなじを噛まずにはいられないことを翼は自覚していた。きっと、欲に溺れて理性など弾け飛んでしまうから。
だからこそ、キスすら仕掛けられなかった。
一度でも翠に触れたら、ギリギリのところで保てている我慢など吹き飛んでしまう。箍が外れた自分に対する信頼は、ゼロだ。これまで抑え込んでいた欲望を暴走させこそすれ、すぐに制御できるようになるとは到底思えなかった。
今のぬるま湯のような関係を維持するためには、うっかり理性を手放す可能性がある不用意な言動は慎むほうがいい。
(抑制剤があって、マジでよかった)
翠への欲望とΩに対するαの本能。その両方を抑え込まなければならない翼にとって、片方を担ってくれる薬には感謝の念しかない。おかげで、なんとか理性が勝っている状態だった。
日常使用の抑制剤は、バース性の特徴であるフェロモンの分泌を抑えるためのものだ。翼も翠も、第二の性が判明した時から欠かさず服用している。
だが、発情したΩが発する強い誘惑フェロモンに対してはさすがに効き目が弱く、いま翼が取りに動いている発情時専用の抑制剤が必要となってくる。
発情用の抑制剤は、現在認可されている抑制剤の中で最も強い効き目を発揮するものだ。Ω用だけでなく、α用も開発されている。万が一、Ωの発情期に当てられても、それをすぐに服用すればαの発情期にならぬよう抑えてくれる優れものだった。日常用よりは副作用が出やすいというデメリットはあるが、望まぬ事故を防ぐための最適薬として使われている。
発情用の抑制剤が出たおかげで、Ωのヒート期間も昔より短くなっていた。今では、番がいれば平均で一日、番のいない者でも二日から三日程度で症状が治まっている。
その上、理性を失うほど増幅されるヒート中のセックス願望や誘惑フェロモンが格段に薄まるため、発情期のΩであっても外に繰り出し日常を送れるようになっていた。
(この薬がなきゃ、今もまだΩは苦労してたかもな)
ただ、運命の番だけは例外で、抑制剤などなんの役にも立たないらしい。
発情の際、そばに相手がいれば、どうしても求めずにはいられないのだという。研究者であり、自身も研究対象として治験に参加している母親が、困ったように笑っていた。
『絶対に無理なのよ。薬が効いてくれなくて。日数については他と同じように改善が見られるんだけど、欲求についてはもうほんと駄目』
『だが、これ以上効き目を強くすると、今度は副作用が怖いからな』
そう言って頭を抱える父親に、まずは現時点で運命の番として成立しているαとΩが何組いるのかって調査から始めないと、と翠が口にしていた。悩む両親への慰めでもあっただろうし、そもそも奇跡と呼ばれるほど希少な者たちのためにどこまで研究費が使えるのかという問題の提示でもあった。
そんなことを考えながらたどり着いたキッチンで、α用の発情抑制剤を水と一緒に飲み込む。そこでようやく、翼は大きく息を吐いた。
「マジでやべぇな、あれ……」
つらつらと思考を巡らせていたのは、そうしないと先程嗅いだフェロモンの威力に呑まれそうだったからだ。
(馬鹿みたいに良い匂いだった)
気づいてすぐ離れたというのに、驚くほどはっきりと影響が出ている。
家の構造的にリビングとキッチンは別室となるため、ここまでフェロモンが届くことはない。にもかかわらず、翠の匂いが脳内を埋めつくし、彼の体を暴きたい衝動に駆られ続けていた。
Ωの発情に居合わせたのは初めてだが、発情抑制剤を飲んでいない状態だとこんなにもきついものなのかと驚愕する。誘発され、ラットを起こしかけている可能性すらあった。
翼は、翠に惚れている。だからこそ余計に、彼のフェロモンに対して反応しているのかもしれないが。
今すぐ抱いて噛んで番いたい。自分だけのものにしたい。
けれど、苦しめたくはない。
(難儀だな、本当に)
何もかもを振り切るように勢いよくコップに水を注ぎ、足早にリビングへと戻る。こちらの足音に気づいたのか、ソファで蹲っていた翠がゆっくりと顔を上げた。
「翠、薬と水」
「ありがと……」
念の為、なるべくフェロモンを吸わないよう息を最小限にしながら、翠が薬を飲むのを見守る。
発情抑制剤は即効性だ。すぐに効いてくるはず、──だった。
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