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伏龍

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 皇帝の仕事は早朝から始まる。その皇帝を支える側近の高官たちの朝はもっと早い。生まれたての太陽が、ほんの少し空を白い気配に染めた頃、彼らは動き出す。

 今日も審議すべき案件、決裁を仰ぐ案件は山とある。それを万事滞りなく済ませるようにするのが彼らの役目。だが、その日の朝は様子が違った。

「探せ! 何としてもだ」

 慌ただしい靴の音が宮殿を駆け巡る。皆小声で耳打ちをし合い、あちらこちらを駆けずりまわった。

「……なんだと」

 そんな高官たちの苦労も実らず、彼らは床に這いつくばり叩頭し報告をすることとなった。

「玉璽が無いとはどういうことだ」

 皇帝の声に怒気が混じる。高官たちは額を擦り付けるようにして頭を下げた。

「け、今朝……当番の者が玉璽を運ぼうとしたところ、蔵の中が空になっていまして」

「馬鹿な! 番人は何をしていたのだ」

「それが、何者かに切りつけられ絶命していました」

 震える声で、彼らは報告をした。それだけの一大事なのだ。玉璽とは皇帝の印、皇帝の勅詔は玉璽の印と共に初めて力を持つ。つまり皇帝が皇帝たる印である。

 それだけではない。もし、皇帝を名乗りたい者が玉璽を手に入れ、自分こそ帝位にあるべきと唱えれば、それは重大な力を持ち、帝国をひっくり返す可能性もある。それくらい重要な物なのだ。それが今、どこにも見当たらないという。

「誰の手にも渡してはならぬ。必ず探せ……!」

「ははっ」

 皇帝はぐっと拳を握りしめる。その手は、あまりに力を入れるので節が白く浮かび上がった。



「おはよう、アリマ」

「おはようございます。蓮花様。ご機嫌がよろしいようで」

「そ、そう?」

 目を覚まし、洗顔の水を受け取った蓮花は、アリマの言葉に頬を染めた。冷たい水でそれを冷やしつつも、昨晩の劉帆の言葉が耳に蘇る。

「……アリマ、私はこれから朝は乳を今の倍飲むわ」

「どうしたんです」

「だって、殿方ってちょっとふっくらしてた方が好きでしょ? もう少し……あったほうが」

「それは人の好みによるんじゃないですかね」

 はっきり言って蓮花は浮かれていた。劉帆がようやっと自分の気持ちを言ってくれたのだ。今まで邪険にされたことなどなかったけれど、自分たちは互いに好いて一緒になった夫婦と違う。劉帆がそんな態度を示してくれたことはこの上なく嬉しかったのだ。

「蓮花様……?」

 明らかに様子のおかしい主に、アリマは怪訝そうな顔をしている。

「……ごめん」

 蓮花は恥ずかしさがこみ上げてきて顔を覆った。

 だが、その幸福は長くは続かなかったのだった。



 宮殿の内廷の金鴉殿、ここは皇帝が日常の政務を行い、寝宮となっている場所だ。皇帝は重大な事件を受けて奥に引きこもっていた。

「まさかこんなことが起ころうとは」

「本当に……陛下の心中、如何ばかりかお察ししますわ」

 その横に侍るのは江貴妃だ。柳のような眉を寄せ、胸が痛いとばかりに押さえてしなだれかかる。

「皇帝の玉璽を盗み出すなんて、信じられません」

「ああ、よもやそんな不心得者が居ようとは」

「恐ろしい……国家転覆を考えているのでしょうか。陛下のお立場は盤石でありますのに」

 皇帝は江貴妃の言葉に、そんなはずはないと首を振った。

「まさか……そんな訳はあるまい。近頃は大きな戦も無いし、反乱も少ない。北の騎馬民族は押さえてあるしな」

 江貴妃は立ち上がり、香炉を手にすると静かに香を焚きはじめた。

「ですが、現に事件が起きた……。犯人を闇雲に探すよりも、それで利を得る人間を探した方がいいのかもしれません」

「……と言うと」

「陛下は皇太子が亡くなられてから、なかなか次の後継者を指名なさらないでしょう?  もしや、と思いまして」

「何が言いたいのだ」

 皇帝は焦れたように江貴妃の手を掴んだ。江貴妃はそのまま皇帝の胸の中に滑り込み、囁く。

「もしかしたら……顕王殿下かもしれません」

「まさか」

「わたくしもそんなこと考えたくありませんわ。ですが顕王殿下にはいまや叶狗璃留とぐりるという後ろ盾がある。あのお妃との婚姻で……。叶狗璃留とぐりるが勢力を得るのに殿下が利用されているとしたら……」

 馬鹿な、と江貴妃の言葉を否定しようとして、皇帝ははっとした。五皇子の顕王と言えば、以前は目立つような皇子ではなかった。ところがあの妃との婚儀の後は人が変わったように秀でた面を見せるようになった。それは男としての責任感が生まれたのだと、単純にその成長を喜んでいたのだが、裏で叶狗璃留トゥグリルが糸を引いているのだとしたら……。

「なんと……どうすれば」

「簡単です、陛下。聞いてみればいいのです。直接……顕王殿下に」

 江貴妃はにっこりと微笑んだ。赤い紅を引いた唇が三日月のように裂ける。

「そ、そうだな。さっそく使いを出そう」

「ええ、そうなさいませ」

 納得した皇帝を見て、江貴妃は内心で高笑いをしていた。やはり凡庸で浅才な男だと。平穏な世だからなんとか務まっているだけで、本来はきっと皇帝の器ではないのだ。政治よりも芸事や美術を愛する柔な男……だが、それだからこそ江貴妃には都合が良かった。

 賢く聡い皇帝であったら扱いにくくて仕方ない。彼には息子の瑞王を後継者にして貰わなくてはならないのだから。そうして江貴妃は国母となり、この国の隅々まで支配するのだ。

「ふふふ……」

 隠れてこっそりと浮かべるその笑みは、なんとも不気味な底知れぬものであった。



***



 その一団は、宮殿の廊下を早足で進んでいく。通りがかった人は、その勢いに思わず避けて道を空けた。彼らが向かうのは劉帆たちの居宮であった。

「皇帝陛下の命で来た、ここを開けよ!」

 強引に門を突破し、表の扉までなだれ込むようにしてやって来た彼らの前に立ちはだかったのは栄淳だった。

「何者です。どの様な用件で参ったのですか」

「どけ! 邪魔だ」

 武装した男達は、栄淳を押しのけて中に入ってこようとした。だが、先頭の男の腕を栄淳は掴んで離さない。当然、男はその手を払おうとしたが、全く動かない。

「く……おのれ、皇帝の使いである我々に逆らうつもりか。逆心ととるぞ!」

「栄淳、離してやれ」

 そこに劉帆が現れた。すると、男達はさっと身を引き、剣の柄に手をやる。

「おいおい……随分なお迎えだな。一体何があった」

「顕王殿下。おとなしくこちらにお越し下さい。陛下からお呼び出しです」

「……いいだろう」

 劉帆は階段を下りる。その周りを警戒するように槍兵が囲んだ。

「劉帆!」

 そのまま連れて行かれそうになる劉帆の後ろから蓮花の叫び声がした。

「なんなの、あなた達! これじゃまるで罪人じゃないの」

「蓮花、大丈夫だ。ここで抵抗するのは返ってまずい……大人しく待っていてくれ」

「でも……」

「曲がりなりにも俺は皇子だ。ちゃんと帰ってくるよ。栄淳! 蓮花のことは頼んだ」

 そう言って、劉帆は兵に囲まれて大正殿へと向かって行き、蓮花は固唾を飲んでその後ろ姿を見守るしか無かった。

「どうしてこんなことに……。ねぇ栄淳、劉帆は本当に大丈夫よね!?」

「……福晋、中にお入りください」

「ねぇ、答えて!」

「何があったのか探って参ります。ですから今は……」

 見れば栄淳も真っ青な顔をしていた。蓮花はそれで、これは何かまずいことが起こっているのだと察した。



 人の口に戸は立てられないものである。特に後宮ここでは。昼間の一件は瞬く間に噂となり、その原因についてあれやこれやを憶測が流れた。

「おい、聞いたか。玉璽の話」

「もっと小声で! 殺されるぞ」

 そして、その原因が玉璽の行方が分からなくなったことだと噂された。

 と、すれば注目が行くのは劉帆の方である。

「ついに誰も来なくなったわね」

 蓮花は窓の外を眺めながら呟いた。あれだけあった来客がぴたりと止んだ。誰も彼も危ない橋は渡りたくないのである。

「殿下は、西の外れの黎汀宮にいらっしゃるようです。警備がやたらと厳重になったので間違いないと思います」

 栄淳はこの後宮の崩れ落ちそうな打ち捨てられた宮殿に劉帆が押し込められていることを探り出していた。しかし公にはなんの知らせも無い。

「……面会も差し入れも出来ないなんて」

「賄賂を握らせて着替えと食料を渡しましたが、果たして殿下の手に渡っているか」

「まったく……! 何よ玉璽って! そんな物は知らないわ。濡れ衣を着せようって言うの?」

 蓮花は怒りのあまりに卓を叩いた。一度、宮の中を探させろと言って役人が大勢来た。後ろ暗いところなどない蓮花は彼らの好きなようにさせたのだがそれでは気が済まないようだ。

「劉帆……大丈夫かしら。ご飯食べられてるかしら……ちゃんと眠れているかしら……」

「蓮花様こそ、ちゃんと食事をお召し上がりになりませんと」

 アリマは蓮花に強い口調でそう言うと、コトリと卓の上に乳粥の椀を置いた。

「いざという時に動けるように。戦の心得として一番大事なことですわ」

「アリマ」

「違いますか? 今は戦の時。戦ならば攻め込まれることもございましょう。その時にうじうじと柔弱であれば負けは確定です。いいですか、顕王殿下のいらっしゃらない今、ここの大将は蓮花様なのですよ」

 戦。その言葉に蓮花はハッとした。そうだ、劉帆があの誕生日の宴で自身の能力を披露してから、とっくに戦は始まっていたのだ。

「アリマ、匙をちょうだい。……食べるわ」

 蓮花は椀をガッっと掴んで粥を掻き込んだ。



 月が随分細くなった、と思いながら劉帆は外を眺めた。壊れた窓枠には乱暴に木が打ち付けられ、簡単には出られないようになっている。まあ、出たところで衛兵に捕まるのが落ちなのだが。

「寒……」

 夏とはいえ夜は冷える。しかも寝床には布団もない。冷たく固いところに身を横たえるしか無く、食事は日に一度、冷え切った雑炊が出されるだけだった。

「ここまでやるとはな……」

 容疑があるといっても、ただそれだけの皇族、それも皇子をこのような場所に監禁してこの仕打ち。昼間はずっと身に覚えの無い取り調べが続き、劉帆も大分参ってきた。だが、それよりも心配なのは蓮花のことだった。

 大丈夫だと言い残して、もう何日たっただろうか。劉帆はきっと心配しているだろう蓮花のことを考えながら、再び窓の外に目を移した。すると、なにかが視界の端にうごめいたのが見えた。

「劉帆」

 小さな囁き声。その聞き慣れた声に劉帆は耳を疑った。

「蓮花……!?」

 それは二皇子の宮に忍び込んだ時のように黒装束に身を包んだ蓮花だった。

「静かに。誰か来ちゃうわ。……良かった無事で。乱暴なことはされてない?」

「ああ。そっちこそ」

「私は元気。これ、着替えと食べ物よ。干しいちじく、好きだって聞いたから入れておいたわ。ごめんね、少ししか持ってこれなくて」

「それはありがたいが……こんなところに来たら危ないぞ」

「分かってるわ。今、栄淳が表の衛兵の注意を引きつけてるの。あんまり長くは居られない」

 蓮花の細い手が窓の木の隙間から伸びる。劉帆はその手を握り返した。

「とにかく無事が分かって良かった。絶対に助けるからね」

「ああ……」

 名残惜しげに離れていった蓮花の手のぬくもりを、劉帆はそれからずっと思い出していた。



「どうでしたか」

 無言のまま宮に戻ってきた栄淳は、無事に辿り着くと、真っ先に劉帆の様子を蓮花に聞いた。きっと彼も一緒に駆けつけたかったと思うのに囮を買って出て、蓮花に行かせてくれたのだ。

「無事だった。でも、随分やつれていたわ」

「無理もありません。やってもいないことを証明するのは並大抵のことではありませんから」

「本当よ。劉帆は暗くて何もない部屋に居たわ。あんな扱いって……」

 蓮花は悔しくて唇を噛んだ。叶うならばあのまま劉帆を連れ出してしまいたかったのに、と。

「無駄かもしれませんがまた皇帝陛下に拝謁の要望を出しましょう」

「ええ……」

 蓮花はこれまで三度、劉帆のために皇帝に手紙を出していた。だがいずれも返事がなかった。それでも何もしないよりはいいと、蓮花はまた筆を執った。

「皇帝陛下からの返答をお持ちしました」

 翌日、そんな使いが来た。正直また無視されるとばかり思っていた蓮花は、使者を笑顔で迎えた。だが、その答えを聞いて青ざめた。

「……なんですって」

「ですから、斗武南福晋は当面の間、外出を禁止とし外部との連絡を禁ずる、とのことです」

「……」

 今度は蓮花までが閉じ込められてしまった。劉帆のように獄舎も同然のところに押し込められた訳ではないものの、こうなると一層何も動けなくなってしまう。

「裏目に出てしまいましたか……まともに皇帝の元に手紙が届いているのかも怪しいですね」

 栄淳もこの決定は予想以上だったらしく、悔しげに顔を歪めた。

「……一人にさせて」

 蓮花はがっくりと肩を落とし、自室へと引っ込んだ。そして寝台の上に突っ伏すと、声を出さずに泣いた。もう、どうしていいか分からない。この動きの裏に江貴妃たちがいることは明らかだが、ここまで強硬な手を使ってくるとは思わなかった。劉帆を確実に潰してやる、という強い意志を感じる。

「こんなことなら……願掛けなんかしなきゃ……」

 そんなものは無視して、夫婦の契りを結んでおけば良かった、と蓮花は後悔していた。あの夜、抱きしめられた時の体温をまた感じたい。声が聞きたい。今は劉帆が側に居ないことが悲しく、苦しい。蓮花は絶望で目の前が真っ暗になるのを感じた。



***



 翌日から、蓮花の宮の周りに衛兵が配備された。もちろん蓮花を外に出さないためである。彼らは昼も夜も見回りをしているので、また抜け出して劉帆の元に忍んで行くことも出来ない。

「福晋、お話が」

 そんな日が何日も続いた。すると栄淳は思い詰めた顔をして、蓮花の前にやってきた。

「私はここを出て、殿下について調べてこようと思います」

「私も行くわ」

「福晋はここに留まってください。あなたが居ないとなったらさすがに騒ぎになります。それにこの警備体制では無理です。でも……私一人なら何とか抜け出せる」

 栄淳は膝を突き、蓮花に頭を垂れた。

「どうか許してください。顕王殿下からはあなたを頼むと言われたのに」

「栄淳……顔を上げて。私からもお願い。どうか劉帆を救って」

「はい。必ずや」

 そうして栄淳は夜陰に紛れ、行方をくらませた。



「やぁ、お元気ですかな」

 そんな折に蓮花の元を訪れる者がいた。

「律王殿下……どうして」

 それは七皇子だった。玉璽盗難の疑いをかけられて、人の寄りつかなくなったこの宮に一体どんな訳で訪れたというのだろうか。

「ここに来たら、あなたまで疑われるわ。何が起こっているのか知らない訳ではないでしょう」

 うろたえながら蓮花がそう聞くと、彼は豪快に笑うのだった。

「ええ、分かっていますとも。だからこそ来たのです。皇兄あにうえの為、師父しふの頼みですから」

「師父……ってもしかして栄淳のこと!? 確かに体術習ってたけど」

「ふふ。彼はよく分かってますね。私なら情勢を理解せず、ここに出入りしてもおかしくはない。なにしろ考え無しの無骨者と思われてますから。実際小難しいことを考えるのが性に合わないのは確か。私も今更喪うものも大してありませんし」

「そんな……」

「あ、でもうんとかわいい妃を娶るっていうのは遠のいたかな。ま、それはいいのです。私は伝言を届けに来ました」

 七皇子はそこまで言うと、急に真面目な顔になる。そして声をひそめると、口早に用件を告げた。

「……顕王殿下が黎汀宮から姿を消しました」

「えっ!?」

 七皇子の言葉に、蓮花は耳を疑った。

「殿下の拘束から今まで、江一族の息のかかった者が動いています。それでも後宮の中にいるなら様子も分かったのですが……師父は今、その行方を追っています」

「分かりました」

 蓮花はただ、こわばった顔をして頷いた。

「……劉帆」

 一体どこに姿を消したというのか。劉帆の言っていた、四皇子の元からは何人もの行方不明者が出ているという話を思い出す。彼らはどんな目にあってどこへ行ったのだろう。蓮花は背筋がぞくっとした。

「このままでは……殺されてしまう……?」

 蓮花は悶々とそう考え、夜半を過ぎても眠れないままでいる。そんな蓮花を見守るようにして部屋の隅で繕いものをしていたアリマは、机に肘をついて眠り込んでしまっていた。

「アリマ。風邪をひくわよ」

 蓮花が上掛けを掛けてやろうと近づいた時だった。

「……が炎に……」

 アリマがぽつりと呟いた。

「鳳凰……炎に……包まれて」

 アリマは苦しそうに眉を寄せて、何度もうわごとを繰り返している。

 これはアリマの夢占なのだろうか。鳳凰が炎に包まれるとは、どういう意味なのだろうか。悪い夢だとしたら、蓮花と劉帆のこの先は……。蓮花は恐ろしくなってアリマを揺さぶって起こした。

「あ……蓮花様……私、寝てましたか」

「風邪引くわ。ちゃんと寝床で寝なさい」

 目を覚ましたアリマは夢を全く覚えていなかった。なので、その夢の意味はよく分からない。ただ、蓮花は不安と嫌な予感を覚えた。そんな不安を振り払うよう、暗い部屋で手燭の灯りだけを頼りにに蓮花は外を見つめた。新月の夜、星ばかりが明るい。

 ――その時だった。蓮花は背後から急に口を塞がれた。

「むぐ……」

 蓮花は身をよじり、相手のみぞおちに肘打ちを入れようとしたがするりと躱されてしまう。こんな動きをするのは……もしかして、と顔を上げるとそこに居たのは栄淳だった。黒ずくめの格好で、闇に溶け込むようにしている。

「静かに」

「栄淳、帰ってきたの」

 栄淳はこくりと頷くと、蓮花から手を離した。

「顕王殿下の居場所がわかりました。城外の廃寺に移送されているようです」

「なんでそんなことを……」

「きっと殿下を好きなように痛めつけるつもりなのでしょう。瑞王は大の拷問好き。外ならば死体の始末も楽で、うやむやにしやすいですからでしょう」

 蓮花は腹の底から憎しみが湧き上がってくるのを感じる。彼らに人の心はないのだろうか。半分は血の繋がった兄弟だというのに。

「このままでは無罪を証明する前に、劉帆が殺されてしまうわ」

「今から助けに行けば、きっと間に合います」

「でも、そうしたら……」

 この宮の周りの包囲を突破することになる。そうすれば蓮花が外に出たことがばれてしまうだろう。そうなれば、せっかく劉帆を助け出したところで二人とも拘束されないともかぎらない。最悪もうここには戻ってこられない・

「福晋、ちょっと耳をお貸しください」

 栄淳の申し出に、蓮花は不思議に思いながら近づいた。

「……」

「え……」

 驚きで、蓮花の目が大きく見開かれる。まじまじと栄淳を見つめ返すと、彼は黙って頷いた。

「本気なのね……分かったわ」

 戸惑いはあった。だけど今は栄淳のことを信じよう。そう蓮花は心に決めた。

 そしてすぐにあの黒装束に身を包むと、弓とかつて劉帆から送られた刀、ゾリグを腰に差した。

「行きましょう」

 蓮花と栄淳はそっと門に向かって忍び寄る。栄淳が、小さな笛を取り出し三度吹いた。すると突然反対方向から爆発が起こった。

「わっ!」

「福晋、今のうちです」

 門の前の衛兵たちがそれに気をとられているうちに、蓮花たちはそこを突破した。

「さっきのは……」

「律王殿下に協力を仰ぎました。式典用の花火に火をつけただけです」

 先ほどの笛は合図だったのだ。そして都合のいいことに、あの爆発で宮殿の大門も警備が手薄になっており、横の茂みの木を伝って二人は城の外に出た。

「寺の位置は分かっているの?」

「もちろんです。ここから東です」

 二つの黒い影が、深夜の帝都の街を駆け抜けて行った。



 隙間風の音で劉帆は意識を取り戻した。窓は破れ、壁が崩れかけているのは同じだが、あの監禁されていたボロボロの宮とは違う。そして何より後ろ手に縛られ、脚も縄でくくられていて身動きが出来ない。

「……ここはどこだ」

 全身に奇妙な気怠さを感じながら、劉帆はかすれた声を出した。するとそれに応える声が飛んできた。

「ようやく目を覚ましたか。ちと薬が強かったな」

「瑞王……」

 それは四皇子、瑞王であった。椅子に脚を組んで座り、刑罰に使う罰杖を手に、床に転がった劉帆を見下ろしていた。そしてその横には六皇子が立っている。

 彼は食事に混ぜた薬で眠らせた劉帆が目覚めるまでわざわざ待っていた。それはこの手で意識のある劉帆を痛めつけたいのと、聞きたいことがあったからだ。

「顕王。お前に聞きたい。玉璽はどこにある?」

「知らん。もとより俺は一度も触れたことすらない」

 その劉帆の答えに、瑞王は表情をゆがませて大きくため息をついた。

「違うんだよ、顕王。私は役人のような決まり通りの詰問をしている訳じゃない。玉璽はある・・・・・はずなんだ。どこに隠した?」

「何のことだ」

 その途端、瑞王は劉帆を殴打した。

「しらばっくれるな!」

 瑞王の焦った口調に、劉帆ははっとした。

「お前まさか……玉璽を盗んで俺の元に……」

 言い終わらないうちに瑞王は再び劉帆の顔を拳で殴った。唇の端が切れ、血が滲む。さらに腹を蹴り飛ばされて劉帆は身を折りたたんで呻いた。そんな劉帆の髪を掴み、その顔を引き寄せて、瑞王はうわずった声で語りかけた。

「ああ、もう本当にお前は手を煩わせてくれるね。おとなしく玉璽盗難の犯人となって捕まれば良かったものの。ま、とにかく犯人はお前で決まりだ。それは覆らない。でも、肝心の玉璽がどこにあるのか分からないのは困る」

 その声はどこか嬉しそうでもあった。玉璽の紛失という一大事にあって、なぜそんな態度が出来るのか、やはりこの男は狂っている、と劉帆は思った。

「玉璽のありかを吐け」

「本当に知らん」

 その答えに、瑞王は杖を持って力一杯、何度も何度も劉帆を叩き伏せる。

「……ふん。簡単には吐かないか。辰王、アレを持っておいで」

「はい、兄上こちらに」

 それは水の入った盥だった。そして劉帆の髪を掴むとそのまま盥の水に顔を沈める。

「ごほっ……げほっ」

「さあ、もう一度だ」

 そして何度も何度も劉帆を水責めにする。苦しさから劉帆が身をよじるのを、瑞王は楽しげに眺め、ギリギリのところで水から引き上げて玉璽のありかを聞いた。しかし聞かれたところで本当にそんなことは知らない劉帆は答えようがなく、さらに水に沈められることになった。

「はぁ……はぁ……」

 荒く息をして、ぐったりと身を横たえる劉帆。瑞王は劉帆を床に叩き付けるとにやりと笑った。

「しぶとい男だね。辰王、来い!」

 瑞王は六皇子に命令して何かを受け取ると、笑顔で振り返った。

「これが何か分かるかい? 刺繍の針だ。細いだろう? これを今からお前に刺してやろうと思う」

 言い終わるか言い終わらないかのうちに、瑞王は劉帆の指を取ってその爪の間に針を突き立てた。

「ぐあっ……」

 痛みで劉帆が声をあげると、瑞王は楽しげに含み笑いを漏らす。

「地味だけど痛いだろう。全部の爪に刺したら今度は爪そのものを剥がしてやろうね」

 そんな恐ろしいことを囁きつつ、瑞王は劉帆の手を取った。

 その時だった。一閃、窓から飛び込んできた何かが瑞王の手を弾き飛ばす。見ればそれは一本の矢だった。

「何者だ!」

 瑞王が動揺しつつ、声を上げると、廃寺の戸が音を立てて倒れた。

「私よ」

 中に入って来た小柄な影を室内の灯りが照らした。その火に浮かぶ金色の瞳。黒い、短い上衣にぴったりとした袴を着て、庶民の男のようななりをしている。それは獲物を見定めた狼のようにギラギラと四皇子と六皇子を睨み付けていた。

「まさか顕王の……妃」

 直接ここに乗り込んでくるなど、予想もしていなかった瑞王たちは狼狽えた。

「瑞王、劉帆を返して貰うわ」

 蓮花は弓を引き、矢を放つ。それは瑞王の服の裾を床に縫い止めた。

「うわ……」

 それを見て、六皇子は後ずさりした。そこにまた矢が飛んでくる。思わず背を向けて逃げだそうとした目の前の壁に矢が突き刺さって彼は短く悲鳴をあげる。

「どこに行こうっていうの?」

 蓮花の怒りに満ちた、だが静かな声が廃寺の中に響く。二人の皇子に向けて矢をつがえ、蓮花は劉帆の側に駆け寄った。

「劉帆、大丈夫?」

「……ああ」

 弱々しかったが、劉帆はそう答えた。蓮花はぐっと弓を引く手に力を込め、連続で矢を放った。

「ぐあっ」

 狙うのは皇子たちの脚。二人の動きを封じて、早く劉帆の手当をしなければならない。

「劉帆、ごめんね」

 突き刺さった矢を抜こうと脚を抱えて呻いている彼らを尻目に、蓮花は刀を抜いて、劉帆を拘束していた縄を切った。

「ありがとう……うっ」

 劉帆は立ち上がろうとしてうめいた。どうやら瑞王の拷問によって脚を痛めたらしい。

「無理をしないで、劉帆」

 蓮花が劉帆に手を差しのばし、起き上がるのを手伝ってやろうとした時だった。

 ピィーッと甲高い笛の音が鳴る。蓮花と劉帆が顔を上げると、瑞王が勝ち誇った顔で高笑いをした。

 するとそれを合図に、どっと奥から何人もの武装した男達がなだれ込んでくる。

「あはははは! 丁度良い、二人まとめて死んでしまえ!」

「そんなことさせないわ」

 蓮花は刀を握り直し、向かってくる男達を切り捨てる。それはまるで蝶が舞うように軽く、男達はその動きに翻弄された。しかし、そうは言っても怪我をした劉帆をかばいつつ、多勢に無勢のこの状況。暴漢の手は蓮花のすぐそこに迫り、ついにその腕を掴んだ。

「畜生、このアマ。手間取らせやがって!」

「くっ」

「おい、皇子さんよぉ! 男の方は殺すとして、これは好きにしてもいいんだよなぁ」

 彼らの頭目と思われる、大柄な頭の禿げた男が大声で瑞王に向かって叫んだ。

「ああ。煮るなり焼くなり、どうぞ。私はそんな狂犬みたいな女はごめんだけどね」

 瑞王は同じ空気を吸いたくない、とでも言いたげに口元を隠し、男に答える。

「だとさ、ねえちゃん楽しもうか。おい、男を殺っちまえ!」

 頭目は下卑た笑みを浮かべ、上機嫌でそう言いながら振り返ったが、次の瞬間固まった。

「私の殿下にそんなことはさせませんよ」

「栄淳!」

 ホコリのついた手をはたいている栄淳の足下には、気を失った男達が伸びている。

「表のならず者の始末をしたら遅れました。で、なんですって? うちの殿下を殺して、妃に乱暴をするおつもりでしたっけ」

 栄淳の凍りつきそうな目に、状況を理解した頭目はだらだらと脂汗を流した。

「いやいや……聞き違いでしょう」

 そう言うや否や、頭目はその巨体からは考えられない身軽さで、廃寺から飛び出していった。

「やれやれ……ああいうのが案外長生きしたりするんですよね。本当はとっ捕まえて一発食らわせてやりたいところですが、今はそれどころではないので」

 と、そこで栄淳は言葉を切って、視線を廃寺の奥にいる二人の皇子に向けた。

「あ……あ……。あれをなんとかしろ、辰王!」

「そうは言われましても、兄上」

 手持ちの駒を失って、瑞王は焦り、六皇子をけしかけようとするが、二人とも蓮花に脚を射貫かれて思うように動けない。そこにギラギラした目をした蓮花と栄淳が迫ってくる。

「さあて、どうしてくれようかしら」

「これは過ぎたいたずらですからね。相応の報いが必要かと思います」

 皇子たちは最早これまでと目をつむった。



 ――翌朝。その男はふらふらと路地をさまよっていた。昨晩は痛飲し、途中から記憶がない。気がつけばこの街外れの通りにひっくり返っていた。財布は消えていたが、服は着ている。命があったのがありがたい。どうにか家への道を探して歩いているところで、男はそれを見つけた。

「うわぁああああっ!」

 その悲鳴に他の家々から人がどうしたどうしたと顔を出す。そんな人々に、男は震える指で、廃寺の門を指し示した。

「首つり死体だーっ!」

 その声で辺りは大騒ぎとなった。門の近くの木に、人間が二人ぶら下がっている。

 腰を抜かす者も居たし、早速成仏を祈って手を合わせる者も居る。すると、急にそのぶら下がっている人間が動いた。

「馬鹿者! まだ生きているぞ、早くここから降ろせ!」

「ひゃああ! 喋った!」

 それは目隠しをされ、木に吊された四皇子・瑞王と六皇子・辰王だった。

 駆けつけた警邏によって、この二人の身元が分かると、さらに騒ぎは大きくなった。そしてなんとか後宮に辿り着いた二人であったが、騒ぎとなったことが問題となり、大いに咎められ、なぜあんなところにいたのかと皇帝に問い詰められた。とは言え、まともに答えれば、醜聞では済まない。

「……市井を見物する折に、酒を飲み過ぎまして、暴漢にやられました」

 瑞王は内心煮えくり返りそうなところをぐっと堪えて、そう答えるしかなかった。



 ――そしてそのまま、蓮花と劉帆は帝都から姿を消した。



***



「おじさん、羊の肉を、えーと……二斤ちょうだい」

「あいよ」

「しっかり見てるからね。ちょろまかしたら駄目よ」

「奥さんにはかなわんなぁ」

 ここは南頌県のとある町の市場。肉屋の店先で肉を注文した若妻に、店の主人は苦笑する。その様がなんとも初々しかったからだ。

「はい、お代は八銭だよ」

「ありがとう!」

 商品を抱え、小走りで去って行く彼女を、肉屋は苦笑しながら見送った。

「お肉買えました?」

「ええ、アリマ。ほら」

 先ほどの若妻が、馬の手綱を持って待機していた女に話しかけられて頭に被っていた布を取る。それは蓮花だった。肉を受け取ったアリマはそれを馬にくくった籠にしまい込んだ。

「では行きましょうか」

 その馬はもちろんソリルである。重たい買い物の荷物を背負って歩き出すソリルの首元を蓮花が優しく撫でた。二人は町を離れ、村の山道をしばらく歩くと、高台にある寺に辿り着いた。

「劉帆! ただいま」

「おう、お帰り」

 劉帆は境内の裏で薪割りをしているところだった。

 四皇子と六皇子をあの廃寺の木に吊した後、二人はそのまま帝都から離れた。そうして目指したのは南頌――以前、水害に遭い、劉帆と蓮花が支援したこの地だったのだ。

 住民たちの避難先となっていたこの寺は、そんな訳ありの二人を受け入れ、境内の隅の庵を住居として差し出してくれたのだった。

「荷物を下ろすのを手伝ってくれる?」

「ああ、もちろん」

 劉帆はそう答えると、ソリルに近づいた。するとソリルは首を伸ばして劉帆の服に噛みついた。

「痛っ! おい、やめろ」

「あははは、ソリルは本当に劉帆が好きね」

「違うだろう、これは嫌われてると思うんだが……」

 劉帆はいまいち納得のいかない顔で荷物を降ろしている。その顔を見て蓮花はとうとう吹き出した。

「それにしても、アリマがソリルを連れてきた時はびっくりしたわ」

「そうだな。宮殿の警備を振り切って駆けつけてくるなんて」

 アリマは何でも器用にこなす出来た侍女だが、命をかけてソリルを連れて、二人の元に駆けつけてきたのには二人とも驚いていたのだった。

「本当は私よりアリマのほうがずっと馬を操るのが上手なの。同年代の子供たちの間でもいつも一等だった。でも、だからって後宮を飛び出してくるなんて思わなかった」

「だって蓮花様の居ない後宮に用はありませんから」

 だが、おかげで二人の逃亡がかなり楽になったのは確かだ。

 一方で、栄淳は宮殿へと戻った。顕王殿下の宮を空にする訳にはいかない、誰かが都に残り動ける人間が必要で、それこそが私だと思う、と言って朝靄の中を彼は去って行った。

「栄淳……後は自分に任せろって言っていたけれど、無事かしら」

「栄淳は蓮花が嫁いで来るまで、俺のたった一人の味方だった。それこそ信じるしかないさ」

 栄淳の身を案じて肩を落とす蓮花の手を、劉帆はそっと握って励ました。蓮花が彼を見上げると、彼は黙って頷く。じっと見つめ合う形になって、蓮花は急に気恥ずかしくなって手を離した。

「あっ、えっと! 昼食作らなきゃ」

「お、おう」

「市場に行って肉が手に入ったから、肉入りの麺を作るわ。叶狗璃留トゥグリルの料理よ」

「そうか、楽しみだな」

 蓮花とアリマは鍋に水を入れ、塩と刻んだ肉を入れて火をおこした。常に混ぜながら煮立つのを待ち、あくを取る。その間にアリマは麺を打つ。小麦粉に水を入れて練り、丸めて棒で伸ばし、しばし風にさらす。それを食べやすい幅に切って鍋に入れ、一緒に煮込む。椀に盛ったら刻んだ葱を散らして出来上がりだ。

 手早く作られる料理の様子を、劉帆は興味深げに見ていた。

「はい、どうぞ」

「ありがとう。蓮花は手際がいいな」

 大国の皇子として育った劉帆は、人が料理を作るところを見たこともないのだ。しきりに感心して頷いているので、蓮花は少し笑ってしまった。

「姫って言ったって、八つある氏族の族長の娘よ。放牧もするし、料理もするわ」

「そうか。では俺は妃の手料理が食べられる、幸運な皇子ということだ。うん、うまい」

 塩のみの味付けのあっさりした汁は、いくらでも食べられそうだった。

「草原では冬の前に羊を潰してね、それをこうして食べながら寒い冬をみんなで過ごすの。お年寄りの昔話を聞いたり、たまに客人が来たら珍しい話をねだったり」

 蓮花はふっと叶狗璃留トゥグリルに残してきた弟妹のことを思い出していた。一番下の弟は三歳。そろそろ馬の扱いを覚え始める頃だ。小さいから、大きくなったら自分の顔は思い出せないだろう、と思うと少し寂しい。

「蓮花、いつか叶狗璃留トゥグリルにまた行こう」

 故郷を思う蓮花の気持ちを察したのか、劉帆はそんなことを口にした。

「劉帆……そんなこと、出来るの?」

「ああ、二つの国の和平の使者として、蓮花の家族に会いに行こう。皇太子になればきっとできる」

 その言葉に、蓮花は夢想した。自分たちが大使として叶狗璃留トゥグリルを訪れ、長じた蓮花の弟妹が旺を訪れる、そんな風景を。

「さぁ、洗い物してお風呂の準備しなきゃ、と」

 だけど今はそんな夢の前にやることがある。この南頌で行われていたと思われる江一族の不正の疑惑だ。昼間、蓮花と劉帆は手分けをして、その証拠を固めている。

 中でも二人を唖然とさせたのは、貧民救済や災害時の時のための穀倉が空になっていたということだった。それはもしもの時の為に民から集めたものだ、とこの寺の住職が証言してくれた。

「馬鹿な。帳簿上では備蓄していても、倉が空ならすぐにばれるぞ」

 それを聞いた劉帆はそう呟いて唇を噛んだ。それだけ汚職が横行していたということなのだろう。この県の知事も、その上の府の知事もみんな江一族の縁者である。訴え出たところでもみ消されるのが落ち、出世の道は閉ざされ、下手をすれば殺される。

「劉帆、お湯の用意ができたからさっぱりしてきたら?」

 難しい顔をしている劉帆に、蓮花が明るく声をかける。

「難局こそ、しっかり食べて寝るのが肝心! さ、行ってきて」

「……ああ」

 劉帆はここに来て蓮花の明るさに助けられていた。あの草原に住む民族特有のあっけらかんとした大らかさの所為だろうか。言われた通りに劉帆は汗を流してさっぱりすると、床についてさっさと寝ることにした。

「……」

 すっと寝付いた劉帆と裏腹に、蓮花は胸をドキドキさせていた。この庵は本当に小さくて、寝ている部屋は一緒。すぐそこに劉帆の寝息が聞こえるのだ。

「落ち着いて……夫婦なのよ」

 そんな訳で、ここに来てから蓮花の寝付きはいつもいまいちだった。



 翌日、さっと朝の仕度と朝食を済ませ、三人はいそいそと準備をはじめた。

 まずは昨日、市場で買ってきた小麦の粉を劉帆が運んでくる。それを大鉢にどさっと入れ、水、ごま油、塩を加える。アリマがそれを手早く練っていく。やがて生地はなめらかにまとまっていった。

「たぶんこんな感じだと思います」

 切り分けた生地を伸ばして、ねじりながら形成する。蓮花と劉帆もそれをお手本にしながら生地をねじっていった。

 その作業の合間にアリマは鍋に油を熱した。

「生地を持ってきてください」

 そしてそれを油で揚げる。こんがりときつね色にあがったそれを鍋から取り出して、奮発して買った砂糖を惜しみなくたっぷりとまぶす。

「出来た! おいしそう」

「たいしたもんだな、アリマは。一度食べただけの菓子を作れるなんて」

「そんな……うふふ」

 褒められたアリマは恥ずかしそうに頬を覆う。その横で、できたて熱々の揚げ菓子に蓮花の目は釘付けだ。

「ねぇねぇ、味見してみましょうよ、みんな!」

「そうだな」

 目の前には揚げたてのねじり菓子。これを食べないという選択肢はないだろう。おのおの、その黄金色の菓子をつまみ上げ、ぱくっと口にする。さくさく、香ばしい美味しさが口いっぱいに広がる。

「うまい!」

「あっ、劉帆。そんなに食べたら無くなっちゃう」

 もう一つ、もう一つと食べ始めた劉帆の手を、蓮花は慌てて止めた。

「これはお世話になってるみんなに配るんだから!」

「そうだった」

 蓮花たちはさっそく山を下りて、それを村の子供たちに分け与えた。子供たちは夢中になってお菓子を頬張っている。

「ありがとうございます。お妃さま」

 お菓子を貰った子供たちの母たちが、蓮花と劉帆を囲んだ。

「いやいや、こちらこそ。お野菜も貰っちゃって」

 ここの村の皆は、水害の時に蓮花たちの顔を知っている。

「そんな、わたしらこそご恩返し出来て光栄なんです。なにしろ、芝居や歌にもなったあのお妃様のお役に立てるのですから」

「あはは……それは忘れて貰っても」

 蓮花たちがこの地を離れた後、女神の生まれ変わりだとか、やたらと蓮花たちを褒め称える小説や芝居がこの辺りでは流行っていたのだった。

「それより、例の件は何かわかりましたか?」

「はぁ、ここから三つ隣の村まで聞きに行きました。やはり、堤防はなにも工事はしていないそうで」

 村人たちがもたらしてくれるのは野菜などのお裾分けだけではなかった。付近の村の情報や役人の横暴な振る舞いなど、色々なことを教えてくれる。

「ありがとう!」

 蓮花と劉帆は新たな情報を得ると村を離れ、寺へと戻ってきた。

「堤の普請に年間百両は国から出ているはずだ。それもあいつら懐に入れていたか」

 劉帆は矢立を手にすると、帳面にそれらを書き付けた。これにはこの村に来てから聞き取った、不正、汚職の証言が書き連ねてある。

「おかえりなさいませ」

 山門をくぐると、住職が丁度掃き掃除をしているところだった。

「ご苦労様です。住職さん。よかったら、お菓子を作ったのでどうぞ」

「ああ、これは美味しそうですね。どうですか、暮らしに何か不便はありませんか」

 住職は菓子を受け取ると、心配そうに二人に聞いた。村人には詳しい事情は話していないが、この住職には今まであったことを話していた。

 なにかあれば役人が来て、住職も罪に問われるかもしれない。それを承知で彼は寺に蓮花たちを受け入れてくれているのだった。

「いえ、十分です。大変感謝しています」

 蓮花はそう気持ちを込めて答えた。ここに居られなければ、当て所ない逃亡生活をするしかなかったのだから。

「そうですか。殿下は水害で畑を失った農家の税の軽減も提言していただいたと聞いております。こちらもご恩返しできて嬉しい限りです。それから、その……」

 住職はきょろきょろと辺りを見回して、声を潜めた。

「こちらをお受け取りください。当寺の縁者からお耳にいれたいことがあると」

「ああ」

 それは何かの書簡だった。それは劉帆が受け取り、菓子を入れていた籠にしまい込んだ。

「何かしら、それ」

 庵に戻って、劉帆はその書簡を開く。それに目を通すうちに、劉帆の顔は厳しくなっていった。

「どうしたの?」

 何か悪い知らせだろうか、と蓮花は劉帆の顔をのぞき込む。

「これは……江一族の反乱軍の証拠。府の知事宛の内情の報告書だ」

「反乱軍!?」

「正確には私的な軍隊を集めている、だな。地方の豪族が軍備をすることはある。だが……この規模は……」

 ごくり、と劉帆の喉が鳴る。

「禁軍の大軍に対抗できる規模だ。軍備も、自衛や治安の為と言うにはあまりにも多すぎる。知事のやり方に疑問を持った側近からの手紙もある。必要ならば宮廷で証言もすると」

「それって、もしかして瑞王が皇太子に指名されなかったら反乱を起こすつもりだったということ!?」

「そうだな……。民から得た税をこんなことに使うとは。想像以上に腐っている」

 劉帆は顔を歪め、振り返って蓮花を見た。

「蓮花。帝都へ帰るぞ。時は来た」

「ええ」

 ついに反撃の時が来た。蓮花たちは、江一族の不正の証拠と共に荷物をまとめ、寺を後にすることになった。

「蓮花、そろそろ行くぞ」

「うん……」

 蓮花は、しばらく隠れて暮らした、寺の庵を振り返って見つめている。しばしの短い間だったが、劉帆と一緒に眠り、家事をして暮らした場所。まるでままごとの様だったが楽しかった。もしかしたらこんな風に平凡な夫婦として暮らす道もあったのかもしれない、と思うと少し寂しくもある。

 だけど……劉帆が旺の皇子でなければ、蓮花が叶狗璃留トゥグリルの姫でなければ二人は出合わなかった。

「行くわ。待って!」

 こうして蓮花たちは南頌を後にした。



***



 瑞王は苛立ちを押さえられずにいた。頬杖をして、卓を指先でせわしなく叩く。その様を見て、六皇子は密かに嘆息した。

「兄上、少し落ち着かれては」

「こんなところで落ち着くことなど出来るか!」

 六皇子の言葉に、瑞王は怒りを爆発させて卓に拳を叩き付けた。茶碗が倒れ、お茶がこぼれる。慌てて片付けに来た女官を瑞王は蹴り飛ばした。

「兄上……」

 二人はあの騒動以来、別の宮にまとめて押し込められ、外出を禁止されていた。宮が狭くて質素なのも苛立ちの原因のひとつではあるのだが、それ以上に瑞王を怒らせていたのは、毎日のように役人が来て、玉璽のありかを知らないか聞いてくるということだった。

 瑞王、いや江一族の機嫌を損ねたくないという態度をありありと示しながら、形ばかりの聞き取りをしていく。それは、皇帝の疑惑がこちらに向いているということだ。

「……まったく」

 玉璽ならば、顕王の宮に隠したのだ。そして、それが発見され、奴は獄舎に入れられるはずだったのに。それなのに何故かいくら探させても玉璽が出てくることはなかった。今となっては本当に玉璽がどこにいったのかなんて瑞王にも分からない。

 しかし、玉璽がないとなれば皇帝の威信に関わる。時間が経てば経つほど彼らは追い詰められていく。

「それにしても顕王とその妃はどこにいったのだ」

「どこぞに逃げたのでしょう」

 六皇子はそう吐き捨てるように言ったが、瑞王はそうとは思えなかった。自分たちを木に吊した後、そのまま宮殿に戻ることもできたのだ。嫌な感じがする。瑞王は頭を抱えたくなった。

 その予感は、一人の使者によって現実となった。

「失礼いたします。瑞王殿下、辰王殿下。皇帝のお召しです。至急、正殿に起こし下さい」

「く……」

 皇帝からの呼び出しを無視するにも行かず、二人は渋々正殿に向かった。

「拝謁いたします。瑞王、辰王ともに参上致しました」

 皇子たちは皇帝の前に跪いた。

「顔を上げよ」

 いつになく重たい皇帝の声が二人の上に降ってきた。恐る恐る顔を上げると、厳しい目つきで皇帝が見下ろしている。

「何事でしょうか……」

 冷や汗をかきながら、瑞王が声を絞り出すと、皇帝の叱責の声が飛んだ。

「黙れ、この痴れ者が!」

 二人は再び顔を伏せた。その視界の端に母である江貴妃の姿が見えた。彼女は顔を真っ青にして床に這いつくばっている。

「そなたら、朕を謀ったな」

「そ、そのようなこと……」

 震える声が空しく正殿の広間に響いた。

「ではこれはなんだ。どれもこれも江一族の不正な蓄財や職務放棄、臣民に対する横暴などが記されている」

 皇帝は机の上に山積みになった書き付けや書簡の文書に手を置いた。

「そ、それは……何かの間違いでは」

「黙れ! すでに調べは付いているのだ。非常用の穀倉は空、公庫の数字も合わない、不正は明らかだが何とする」

「あ……」

 誰がそんなものを。瑞王は目眩がした。だが、このままではまずい、弁明をしなくてはならない、ともつれる舌で何とか声を絞り出す。

「大変申し訳ありません。血族でありながら目が行き届きませんでした……」

 駆け寄ってきた江貴妃も、床に伏して陳情する。

「陛下、どうかご容赦を。瑞王はこの件には関わっておりませぬ。一族の失態は不徳の致すところではございますが」

「江貴妃。朕はお前に失望した。あれだけ目を掛けてやったというのに、それを仇で返すとは」

「そ、そのような……そのようなつもりは御座いませぬ……」

 江貴妃と瑞王は額をこすりつけ、皇帝に許しを請うた。こうなればただ、この嵐を忍び、皇帝の怒りをやりすごすしかないと。しかし彼の前に吹いたのは更なる大風だった。

「その方ら、南の地方に武器を蓄えておろう」

「は……」

 冷たい汗が一筋、瑞王のこめかみを流れていく。

「……この書簡の内容によると、その規模は謀反を疑わざるを得ない。さらに人員を集め訓練も施しているというが。これは朕への逆意ではないのか!」

 そんなことまで明るみになっている。一族の影響下の土地で秘密裏に用意していた軍備の情報など、一体どこから。確かに、玉璽の一件があっても皇帝がこのまま自分を皇太子に指名しないというのなら、最後の手段と思ってあの地方の軍備を厚くさせはした。だが……瑞王は震える拳をぎゅっと握りしめた。

「……陛下、確かに行き過ぎた軍備であったかもしれません。ですが、謀反の意など我らにはありませぬ」

 人は嘘をつく時、その嘘が大きいほどまず己を騙すのだ。瑞王はもう皇帝を謀っている意識などなかった。一族の不正は少々の行き過ぎとし、軍を準備したことはただのやり過ぎと過小評価した。だから見逃されるべきである、と。

「そんな訳はないでしょう」

 そんな瑞王の背中から声がした。その声を瑞王が忘れるはずもない。皇子としての面目を丸つぶれにし、この上ない恥辱を瑞王に与えたあの男。

「顕王……」

 正殿の入り口から劉帆が入ってくる。その後ろから蓮花と栄淳が静かに付き従う。彼らはまっすぐに皇帝の前に跪いた瑞王と江貴妃、六皇子の三人を見つめている。

「これは皇兄あにうえ、ご健勝でなにより。ちゃんと木から下ろして貰ったんですね。……しかしこれはいただけません。皇帝は神にも等しい、尊いお方。それに反意を向けるとは」

「貴様……なんの証拠があって」

「これらは私とこの側近、栄淳が三年かけて集めた証拠と南頌で直近に集めた証言です。皇帝陛下の勅命によりすでに裏付けもとれております」

「ぐ……」

「それに、叛逆の意を示すものが……ほら」

 そこに表より、大層慌てた様子の官吏が飛び込んできた。彼は高官であるが、髪はほつれ、その服の袖は濡れてひたひたと水を滴らせている。そのような見苦しい姿のままにも関わらず、皇帝のいるこの正殿に駆け込んできたのには訳があった。

「へ、陛下……!」

 それでも、はっと己の姿を振り返った彼は床に膝を突き、頭を床につけた。

「よい。面を上げ、用件を申せ」

「は……ご命令通り、瑞王殿下の宮殿の池を捜索しましたところ……こ、こちらが」

 男は震える手で、袖から布に包まれた塊を差し出した。それをめくると、龍の彫刻を施された四角い翡翠の姿。それこそが玉璽、この皇城から行方知れずとなった玉璽そのものであった。

「……やはりあったか」

 皇帝の声色には失望の色があった。皇帝自身が江貴妃に寵愛を傾けた結果が、今目の前にある。そのために増長し、皇帝の威を借りて好き放題をしていた江一族。それをのさばらせていた責任は皇帝自身にもある。

「それはっ……この顕王の策略です!」

「申し開きはゆっくりと聞こう」

「そんな……陛下、陛下!」

 皇帝が手を鳴らすと、衛兵たちが瑞王たちを取り囲んだ。彼らはそれでもなお自分たちに非は無いと大声で喚いていたが、引きずられるようにして連れていかれて、正殿の扉は閉まった。

「……顕王、済まなかった」

「陛下」

 しん、静まりかえった広間で皇帝がぽつりと漏らした謝罪の声に、ことの次第を見守っていた劉帆は少し驚きながら振り返った。そして皇帝の前に跪く。蓮花と栄淳もそれに倣った。

「廃墟となった宮で尋問を受け、挙げ句に拷問を受けたと聞いた。朕の目が行き届かず、済まなかった」

「いえ……すでに傷も完治しました。たいしたことはございません」

 皇帝の勅命に携わった江一族の手のものによって、劉帆は必要以上の扱いを受け、蓮花やそれらの訴えが握り潰されていた。

 皇帝は、江一族が出て行った扉をじっと見つめて、ふうと大きなため息を吐いた後、劉帆たちに視線を戻した。

「貞彰……皇太子亡き後、朕が後継を決めずにいたのが、此度の騒動の発端だな。さて、顕王よ。そのことについては後日正式に言い渡すが……そなた、この旺の皇太子となれ。今のそなたならばきっと務まるであろう」

「は、謹んでお受けいたします」

 劉帆の肩がピクリと動いたのを蓮花は見た。そしてその後、劉帆は落ち着いた声で皇帝の言葉に応えた。



「……これで劉帆は皇太子に決まったってこと?」

 正殿を出て、久々の自分たちの宮に帰ってきた蓮花はぼうっとした表情でそう呟いた。

「そうだよ、蓮花。この国では皇帝の言うことを絶対だ。正式な勅命の前に邪魔する者も、もういないしな」

 これから江一族は徹底的な追求を受けるだろう。勅命の前に何かする余裕はないはずだ。

「その為に三年間、不正の証拠を固めていたのね」

「そうだ」

 蓮花はあの正殿の間で初めて目にした、劉帆と栄淳が集めたという証拠の山を見て実は驚いていた。表向きは愚鈍な皇子を演じながら、こんなものまで揃えていたのかとその苦労を思う。その一方で、一つだけ蓮花には腑に落ちないことがあった。

「結局、あの玉璽を盗んだのは瑞王だったのかしら」

 玉璽は四皇子の宮にあった。だが、自分たちで盗み出したとはいえ、見つかれば大騒ぎになるものをあんな池に沈めて置くだろうかという疑問が湧いてくる。

「どうでしょうね」

 蓮花の呟きを聞いた栄淳がくるりと振り向いた。

「状況から言えば瑞王としか思えませんが。玉璽を盗み出してうちの殿下の書斎に隠すなんていかにもやりそうじゃないですか」

「え、玉璽って書斎にあったの!? で、なんで栄淳がそれを知っているのよ」

 蓮花が驚いて大声を出すと、栄淳はしれっとした顔で答えた。

「私が見つけましたから。殿下の書斎の物の配置は私が熟知しています。誰にも触らせずに、いつも私が掃除してますからね。ですから瑞王の宮の池に放り込んでおきました」

「そ……それっていのかしら」

「身に覚えがあるからあれだけ焦っていたのでしょう」

「そうなんだけど……」

 どうも納得のいかない気持ちが蓮花の中に残る。そんな蓮花の肩を劉帆は軽く叩いた。

「蓮花。これは皇太子の位を巡る戦だろう。戦っていうのは正しいか正しくないかじゃない。どう勝つか、が大切だ。それに……あのまま瑞王がこの国の皇太子に、そしていずれ皇帝になったらどうなると思う」

「それは……」

 蓮花は劉帆を痛めつけて笑っていた瑞王の姿が脳裏に蘇った。

「駄目よ。あの人では駄目。そんなことになったらこの国の民は報われないわ」

「そう、これから平和で豊かな国をどう作るか、そちらの方が重要だ」

「そうね」

 彼らは敗れたのだ。劉帆と蓮花はこれから次の段階に進む。彼らがその行いの報いを受けるのをいちいち気にしてはいられないのだ。

「よっし、そしたらお祝いしなきゃ! 叶狗璃留トゥグリル流の祝杯と行きましょう! 羊を一頭潰すわよ。アリマ! 手伝って」

「は……はい!」

 蓮花はアリマを連れて駆けだした。

「蓮花らしいな」

「……そうですね」

 その後ろ姿を見送る劉帆の呟きに、栄淳は頷いた。

「彼女ならたとえ俺の道が逸れても、きっと正してくれるだろう」

「はい。私は殿下と地獄の底であってもお付き合いしますが。それだけではきっと大義は成せないと思います」

 劉帆は栄淳らしい答えに笑った。そして栄淳の為にも、正道を行かねばならないとも思うのだった。

「何してるの? 羊の解体の仕方を教えるから来てよ!」

「あー、はいはい」

 蓮花に呼ばれた二人は、一体いつ役に立てるのか分からない解体の仕方を披露されるはめになった。

「……これでよし。ね、一滴も血をこぼさなかったでしょ。血も内臓も毛皮もぜーんぶ食べたり使ったりする。無駄なものはないの」

 それは見事な手さばきだった。今なら羊を殺された時に、彼女たちが烈火のごとく怒っていた訳が分かる。彼女らにとって家畜は財産であり、生きる糧なのだ。

 蓮花とアリマは使用人たちを呼んで中庭にいつかのように簡易なかまどを作ると料理を始めた。丸焼きにしたり、塩ゆでにしたり、蒸し饅頭にしたりと羊は様々な料理に姿を変えた。

「それでは、乾杯!」

 劉帆は杯を手にして声をあげた。だが周囲には躊躇いの空気が広がっていた。

「さぁ、祝いの酒だ。ぐっと飲め!」

「殿下……。私たちまでいいのでしょうか」

 蓮花とアリマに引きずってこられて、ここには警備のもの以外、ほとんど全ての使用人が集まっている。

「ああ。いいんだ。いいか、聞け! 俺は今日皇帝陛下から皇太子になれとお言葉をいただいた。気楽な第五皇子の生活はこれが最後だ。だから思いっきり騒ぎたい。腹一杯食らって、酒を飲んで大騒ぎをするつもりだ。誰一人逃さないぞ」

 劉帆は目の前の使用人に無理矢理酒を注ぐ。初めは面くらいながら飲んでいた彼らも、酒が回り始めると後はなし崩しになった。車座になってお喋りに花を咲かせると、あちこちから笑い声が溢れた。そしてどこからか楽器を持ちだした者が出ると、皆歌い、そして踊る。

「よーし、私も」

 蓮花は旺の曲に合わせて叶狗璃留トゥグリルの舞を踊った。座は大きく盛り上がり、手拍子が盛大に起こった。

「はぁ……」

 ひとしきり踊った蓮花は、劉帆の隣に座り込んだ。

「上手かったな」

「ふふ、踊るのは大好き。でもちょっと疲れちゃった」

 そのまま後ろにばたりと倒れ、夜空を見た。秋風が頬を撫で、心地いい。

「厨房から、みんな勝手に食べ物をつまみに持ってきているけど、明日の朝ご飯残っているかしら……」

「ふふ、どうだろうな」

 劉帆は蓮花ののんきな心配に微笑みながら、地面に手をついてその顔を覗き込み、蓮花の頬にかかる髪をそっと払った。

「り、劉帆……人が見てるわ」

 蓮花は頬を染めて顔を背ける。劉帆はそんな彼女の顎を掴んで自分の方を向かせた。

「見てないよ」

 そしてそのまま覆い被さり、唇を重ねた。劉帆の唇は少しかさついて、乾いていた。

「……誰も見てない、ね?」

「う、うん」

 蓮花は真っ赤になってこくこくと頷いた。そして、そうか満願叶ったのだからもう劉帆は願掛けなどしなくてはいいのだと気づく。

「続きは……即位の儀の後で」

「えっ!?」

「だって蓮花は儀式を間違えてしまうかもしれないし」

「そ、そんなことないわよ! ちゃんと勉強するし」

 蓮花はさっそく明日、柳老師の元に向かおうと決意した。

 宴会は深夜まで続き、厨房にあるだけの酒を飲み干して、大いに酔って騒いだ皆は翌朝、二日酔いになった。



 ――その後、取り調べの結果、更なる不正まで発覚し江一族は裁かれることとなった。これにより、四皇子瑞王は流罪、江貴妃と六皇子辰王は冷宮に生涯幽閉となった。



***



 その日の早朝、蓮花はすっきりと目を覚ました。アリマが手に捧げられ持つ盥には洗顔用の水が入っている。そこには金木犀の花が浮かべられ、芳香を放っている。

「特別な……朝ね」

「はい」

 それから蓮花はアリマに導かれ、湯桶に体を浸し、何人もの女官の手によって香油をすり込まれ、足先から手の先まで手入れをされる。

 それから軽く朝食を取った後は、丁寧に丁寧に、髪をくしけずり髪を高く結い上げた。

「本日のご衣裳でございます」

 蓮花の前に広げられているのは今日の儀式で着る衣裳だ。青く染められた絹地と深い緑の絹地を合わせ、金糸銀糸で豪華に鴛鴦や、幾重にも折り重なる蓮の花々などが華麗に刺繍されている。

「まるで、草原の初秋の空のようだわ」

「ええ、美しゅうございますね」

 蓮花もアリマもしばしその衣裳に目を奪われていた。

「蓮花様、私……鳳凰が燃える夢を見たのです」

「そんなこと、前も言ってなかったかしら」

「そうですか? とにかく続きがあるんです。その鳳凰の体は燃えて、消し炭の中から再び新しい鳳凰が生まれたのです。もしかしてこの日のことを、蓮花様のことを言っていたのかな、と」

「だったらいいわね」

 蓮花はそう答えながら、再び衣裳に目を移した。



 あれから正式に劉帆を皇太子として任命する詔勅が出され、様々な準備の果てに即位の儀が今日行われる。

 晴れやかな二人の前途を示すように、空は澄み渡る晴れ模様だった。

 蓮花は今日のための晴れ着に袖を通し、最後の一本の簪が髪に挿されると、すっと立ち上がった。

「兄様……今日は一緒にいてね」

 そう声をかけながら身支度の最後に、蓮花はバヤルの白銀の狼の毛皮を身につけた。

「蓮花、準備は出来たか」

「ええ」

 劉帆の声に振り返る。彼も揃いの青い晴れ着に身を包み、金毛の毛皮を身につけていた。蓮花の母が、故郷を思い出すようにと渡してくれたものだ。それはこの白銀の毛皮と番のもの。今日の日にふさわしい物だと蓮花は思った。



「劉帆皇太子殿下、斗武南皇太子妃のおなりです」

 儀式を終え、二人は正殿の表から外に出る。そこには臣下たちがずらりと並び、頭を垂れている。

「殿下、妃殿下。この度はご即位誠におめでとう御座います!」

「おめでとう御座います!」

 麗しく聡明な皇太子とその妃の誕生を喜ぶ、轟く祝福の声。蓮花は単純に嬉しいというよりも、さらに背筋が伸びるような気持ちになった。

「蓮花」

「……なに?」

 そんな蓮花に劉帆は囁きかけてくる。

「とうとう、ここまで来たな」

「ええ」

 二人はじっと前を向き、視線と笑顔を崩さぬままで言葉を交わした。

「蓮花がいたからだ。……ありがとう」

「こちらこそ……兄様はきっと喜んでくれていると思う」

 そっと蓮花は首元の毛皮に触れる。

「それはまだだよ、蓮花。俺たちがこれから成すものを蓮花の兄上には見て貰わないと。俺たちはここで終わらない。もっともっと遠くまで行くんだ。民が平和に暮らせる国を作る。今までよりももっと険しい道だ」

 そう言って劉帆は遠くを見た。その目は目の前の広場よりもずっと遠くを見つめている。この国全体を。そして叶狗璃留トゥグリルを含むその周辺の国との和平まで。

「いいわよ。望むところよ、劉帆。あなたがどこに行こうとも、私はその横を駆けるわ」

 そう答えて劉帆をちらっと見上げると、彼と目が合った。そして互いにふっと微笑み、共に蒼穹の空を見上げた。





 完

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