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鳳凰の翼

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 翌朝、蓮花は難しい声をして、朝食の粥とにらめっこしていた。

「手を貸す、かぁ……何したらいいんだろう」

「蓮花様、粥になにか?」

「な、なんでもないわ」

 いぶかしげなアリマを見て、蓮花は慌てて粥を啜った。

「まぁ、色々と馴れませんものね。食事もお一人ですし」

「そうね、叶狗璃留トゥグリルではみんなで車座になって食べていたものね」

「そうです。それに……なんだか奶茶おちゃを飲まないと調子が狂います」

「あっ……そういえば」

 叶狗璃留トゥグリルではお茶に塩と乳を入れて三食欠かさず飲む。それが体に良いと言われていたし、蓮花も好きだった。なのにこちらに来てからは旺の味のないお茶しか飲んでいない。

「そうよ、道理で変だと思ったのよ!」

 蓮花はバッと立ち上がる。周りの女官はぎょっとして彼女を見た。

福晋ふじん、どちらへ」

「畜舎! 乳を搾りに行くわ」

「ち、乳搾り……!?」

「行くわよアリマ!」

「はい!」

 呆然としている女官たちを尻目に、蓮花とアリマは甕を持って厩舎の近くにこしらえた家畜小屋に向かった。

 そこには連れてきた羊や山羊が柵に入れられている。

「ばぁああああ」

「はい、ちょっと失礼」

 蓮花は雌山羊の後ろ足をつかんで捕まえると、乳を搾る。山羊の乳は特に滋養に良い。

「この子たちの世話のやり方はアリマがしっかり周りに教えてあげてね」

「もちろんです」

 甕いっぱいに乳を搾って、さて戻ろうかとした時だった。

「蓮花、何をしてるんだ」

「あ、劉帆。山羊の乳を搾っていたの」

 朝からどこかに出かけていた劉帆が、側近を伴ってこちらを見ている。

「え……」

「そうだ、劉帆もやってみない? 山羊かわいいわよ」

「い、いや俺は……」

 あからさまに戸惑っている劉帆。もしかすると生きている山羊を見るのも初めてなのかもしれない。すると、隣で黙って見ていた男がまるで蓮花から劉帆を守るように立ちはだかった。

「福晋、みっともない真似はお止めください」

「みっとも……ない?」

「ええ、皇子の妃ともあろう方が、こんなどこぞの農家のおかみさんのような……」

「こら、栄淳。言い過ぎだ」

 栄淳と呼ばれたその男は、少々不満げに劉帆を見ると、一歩下がった。

「これは失礼しました」

「蓮花。こいつは李宋淳りえいじゅん、俺の側近だ。見ての通り堅物だが悪いやつじゃないんだ」

「ふーん……よろしくね、栄淳」

「よろしくお願いします」

 上背のある栄淳は、とても主の妃に向ける目つきでは無い目で、蓮花をねめつけながら答えた。

「殿下、参りましょう」

「あ、ああ……じゃあ、後でな。蓮花」

「あ……うん」

 蓮花はあっけにとられた顔で、栄淳に引っ張られるように去って行く劉帆を見ていた。



「見た?」

「見た見た、お妃様自ら厨房で乳を煮立てて……」

 夜が更けて、密やかに声が交わされる。話題はもちろん新しいお妃様のことだ。

「こないだは魚を吐き出していた。匂いが嫌だとか」

「野菜も。肉ばかりを召し上がる」

「しかも、いくらお止めしても馬に乗る」

「それだけじゃない。生まれたての子羊を寝床に入れようとした」

 つくづく困ったものだ。と、女官や使用人はため息をつく。

「これではいけない。もう旺のお妃なのだから、ふるまいを改めていただかないと」

 そうだそうだ、と皆頷く。また今日も、後宮は蓮花の噂が花咲いていた。



「キャーーーッ!」

 絹を裂くような悲鳴が聞こえたのは早朝のことである。

「んっ?」

 あまりの大声に蓮花も飛び起きた。

「何があったの!?」

 そうして寝間着のまま裸足で外に飛び出したのだが。

「え……」

 蓮花はそこに広がっている風景を見て絶句する。すると、まもなく後ろから劉帆と宋淳も駆けつけた。

「わっ……!?」

 劉帆はソレを見て思わず声を裏返させた。窓の外の庭に面した廊下の欄干に、蓮花の羊が一匹、首を刎ねられ腹を割かれて、串刺しになっていたのだ。臓物を引きずり出された羊のせいであたりは血の海だ。

「なんだこれは」

 大騒ぎが起きている中、女官たちは口元を袖で隠しながらニヤニヤしている。思い通りにならない蓮花を懲らしめようと、下男をそそのかしたのはこの者たちだったのだ。

「ひどい……」

 蓮花はくぐもった声を漏らした。

「そうだな、蓮花。これはあまりにも悪質な……」

「ひどいわ、こんなの! 毛皮が台無しだわ!!」

「えっ?」

「おっしゃるとおりです蓮花様! それにもっと大きく太らせてから食べようと思っていましたのに!」

 アリマも同調する。劉帆は我が目を疑った。皆、血みどろの惨劇に騒いでいるのに、この二人は全く明後日の方向を向いて怒っている。

「全く、ふざけてるわ! ちょっと、そこの人! よく研いだ包丁を持ってきて。それからそっちは金串と鉄板を持ってきて。あなたは庭に薪を組んで火を熾して!」

「え、でも……」

「でも、じゃない! 早く!」

「はいっ!!」

 命令された人間があちこちに散っていく。

「さぁて……」

 その後、包丁を手に入れた蓮花とアリマは羊をあっという間に解体してしまった。そしてよく塩を揉み込み金串に刺して焼いている。

「はい、皆さん。たくさん食べてね」

 しまいにはできあがった羊の焼き肉を誰彼かまわず振る舞いだした。

「おい……蓮花」

「はい、劉帆の分はここ。脂がのってるわよ」

「ありがとう。……じゃなくてだな」

 劉帆が口を開きかけたところに、アリマが鍋を持って現れる。

「蓮花様ーっ、臓物の煮込みができあがりました!」

「わーっ。アリマの煮込みは美味しいのよ。ちょっと劉帆、早くしないとなくなっちゃうわ」

「……」

 朝っぱらから突然に始まった野天の料理会。人々は面食らいながらもそれを平らげた。なにしろ受け取らないと蓮花とアリマがすごい顔をするからである。そうしてしばらくすると、後は骨が残るばかりとなった。

「さて、お腹が一杯になったところで……誰が羊を殺したの」

 蓮花が包丁を片手に立ち上がると、皆すくみ上がった。目配せをしあい、お前か、いや私では……と小声で言い合う。

「正直に出てきなさい!」

 これに蓮花の苛立ちは頂点に達した。蓮花だってどの辺がこれをやらかしたのか見当はついている。事件の張本人の女官達は震えて今にも膝から崩れ落ちそうであった。

「福晋、お言葉ですが、そのように問い詰めれば、誰も口を割りますまい」

 しん、と静まりかえる庭に、栄淳の声が響いた。

「そもそも、何故このようなことが起こったのか、からお考えになった方がよろしいかと」

 宋淳の口調には一切遠慮がない。まるで試すかのように蓮花を見ている。

「……そうね。それも一理あるわ」

 蓮花は頭を掻くと、ぐるりとあたりを見渡した。

「じゃあ、この話はおしまい! 羊を飼うのが気に入らないのなら、直接言いに来なさい! そしてこんなことはもうしないこと」

 そう言って蓮花は自室に戻った。助かった、とばかりに人々の目が栄淳に集まる。

 仕方なしに劉帆は栄淳をたしなめた。

「おい、宋淳。言い過ぎだぞ」

「おや……殿下のお心を代弁したまでですが」

「あのな……」

「この調子で……あのお妃様に何もないといいのですが」

 栄淳は皮肉っぽい笑みを浮かべると、使用人に後片付けを命じた。



***



 アリマからの言伝に、蓮花は頭の中で顔をなんとか思い起こしながら答えた。

泰王たいおう……って第二皇子の?」

「はい。その泰王殿下の正妃様からお茶会のお誘いがございました」

「そっか……小姑さんなのに、ご挨拶もちょろとしただけだものね」

「そうですね。他の皇子のお妃様がたとも親睦を深めましょうとのことで」

 この大きな皇宮にいると忘れてしまいそうになるのだが、彼ら彼女らは親族なのである。義理を欠かす訳にはいくまい。蓮花はアリマにお伺いすると返事を頼んだ。

 そして数日後――。

「衣裳よし! 簪よし! お土産よし!」

 アリマの最終確認を終えて、蓮花は立ち上がった。派手過ぎず、地味すぎない若草色の衣。主張しすぎない簪。贈り物には叶狗璃留トゥグリル名産の毛織物に蛋糕ケーキ。新入りの妃として、ごく無難に仕上がったと思う。

「では参りましょう。アリマ」

 ……ところが、教えられた場所に誰もいない。

「北西の庭園の東屋、で合ってるわよね」

「はい」

「時間は? 未の刻って言ってたわよね」

「はい。お茶の時間ですし」

「そうよね……」

 まぁ待っていれば誰か来るだろう。そう、のんびり構えていたのだが……しばらく待ってみたがそこは無人のままだった。

「私、ちょっと聞いてきます」

 ついにしびれを切らしたアリマが人を探して駆けていった。

「うーーん?」

 蓮花は首をひねった。もしや日にちを間違えたか。そんな風に考えていると、真っ青な顔をしたアリマが戻ってきた。

「大変です、蓮花様。今日はお茶会ではなく昼餐会で……時刻は午の刻だったそうで……」

「え? どういうこと」

「私……何度も確かめたのましたのに……」

 そうか、嘘の時間をアリマに伝えたのか。と蓮花は理解した。どうやら一杯くわされたようだ。蓮花の脳裏にあの女官達のにやけた顔が浮かんだ。

「ど、どうしましょう……」

 アリマはもう泣き崩れそうだ。

「しっかりして。過ぎた時間は戻らないわ。今からでも伺って謝りましょう」

「はい……」

 蓮花とアリマは仕方なく、二皇子・泰王の宮に向かった。



「あらぁ? ずいぶんのんびりしたご来場ですこと」

 二人は急ぎ足で額に汗をにじませながら到着した。その姿を見た泰王の妃はひどく機嫌が悪そうだった。それも無理はない。自分の主催した昼餐会の主役が来なかったのだ。彼女からすれば面目丸つぶれである。

「申し訳ございませんっ。刻限を過ぎてしまいました。時間を間違えていて……」

「ほほほ、いいからこちらにお座りになって」

 すでに昼食は終わり、皇子の妃や皇室の縁戚の婦人たちは、それぞれにくつろぎながらお茶を飲んでおしゃべりをしていたところだったようである。突き刺さるような視線がじっと蓮花に向けられる。

「あ……その……」

 ああ、なんてことをしてくれたのだ、こんな大事な場面を台無しにするなど……。蓮花は女官たちを恨むよりほかない。するとやたらと白粉の濃い泰王の妃は大仰に細い眉を寄せて言った。

妹妹めいめい、わたくしは悲しいわ。せっかく新しい姉妹の仲を深めようと、あちこち声をかけましたのに、こんな仕打ちをなさるなんて」

「そ、それは……ですから」

 蓮花が申し開きをしようと口を開くと、ぴしゃりとはねつける様に声を被せられる。

「ああ! 言い訳はよして。妹妹はわたくしたちのことなんかどうでもいいみたいですから……ねぇ?」

 くすくす笑いながら、泰王の妃がちらりと他の妃たちに目をやるとつられたような笑い声がおこった。この人たち楽しんでるな、と蓮花は思った。実際、後宮の生活は窮屈で単調で、そんな中での蓮花の失態は彼女らにとってはいい娯楽といったところだ。

「まぁ、叶狗璃留とぐりるのような辺境ではそのような風習なのかもしれませんわ」

「そうね。あんな草ばかりのところでは時間なんて関係ないのかも」

 さざめくような嘲笑が、あたりに広がっていく。確かに叶狗璃留トゥグリルの民は時間に大雑把ではある。だが、蓮花はきちんと時間は守ろうとしたのだ。それを証明するすべはないのだけれど……。

「まぁ、あんまり意地悪を言うのはお止めなさいな」

 秦王の妃が、白々しくそう口にする。すると、すかさず別の妃が同調した。

「さすがですわ。大嫂子おねえさまはお心が広い。ねぇ、新入りのお妃様? この方は次の皇太子妃なのよ。つまりは未来の皇后様という訳。ですからね、態度をお考えになった方が良くてよ」

 ……まるで二皇子が皇太子になることが決まっているかのような口ぶりである。

 蓮花は何を勝手に、と言い返したかったが、ただただ黙って耐えることしか出来なかった。



 結局、日が暮れるまで、たっぷり長々と蓮花とアリマは頭から嫌みを浴びた。そしてようやく悪夢のような時間を終えて、二人は自分たちの宮に帰ってきた。

「申し訳ございません、蓮花様」

 散々に顰蹙を買った蓮花を見て、しおれた花のようになったアリマが深々と頭を下げる。

「仕方ないわ。アリマ……少し一人にしてもらえる?」

「……はい」

 肩を落としてアリマは部屋を出て行った。戸が閉まると蓮花はくつをほっぽり出して、寝台の上にあぐらをかき、頬杖をついた。

「ふーむ。どうしたら良かったのかしら」

 蓮花はああいった「敵」は相手にしたことがない。羊を狙う狼や、盗っ人とは勝手が違う。

「はーっ……」

 蓮花は深い溜め息をついた。そして自分は草原の戦い方は知っていても、宮廷での戦い方はまるでわからないと悟ったのだった。

 蓮花は陰謀策謀に長けている訳でもなければ、色香で人を惑わす質でもない。こんな自分に劉帆は一体何をさせようというのか。手を貸せと言われても……自分の復讐どころかお荷物にしかならないのではないか。そんな悶々とした考えが頭の中をぐるぐると回っていく。

「はあーっ……!」

「これまたでかい溜め息だな」

「うひゃあっ!?」

 いきなり真横で声がして、蓮花は心の臓が口から飛びだしそうになった。

「ちょ……ちょっと劉帆! 部屋に入るときは合図して!」

 動揺した蓮花は大声で劉帆を怒鳴りつけた。

「散々声をかけた。それより聞いたぞ。二皇子の妃を怒らせたそうじゃないか」

「ええ……ごめんなさい。女官たちが違う時間を教えたの。アリマにも悪いことしたわ。……私のせいよ」

「蓮花。あまり気に病むな。この宮の者のやったことなら俺のせいでもある」

 慰めのつもりだろう、劉帆はそう言ってくれるが……元々は蓮花のことを下の者が気に入らない故に起きたことだ。

「そんなことないわ。私がお妃様らしくないから……」

「ふーん。蓮花なら引っ掻き回して楽しむかと思った」

「あのね、私そこまで馬鹿みたいじゃないわよ! ほ、ほら一応、私は劉帆の……つっ、妻な訳だし、そのっ、立場があるでしょ……皇子だもの」

 そこまで考え無しではない、まるで人を猿か何かのように言うな、と蓮花はむくれた。すると、そんな不機嫌顔の蓮花を見て劉帆は笑う。

「なかなか殊勝なことを言う……。だがな蓮花、あそここそ後宮の掃き溜めのような場所だよ。彼女らは何らかの権力者の娘たち。その縁戚は皇族との結び付きを得て、不正を働いて美味い汁を吸っている者たちばかりだ。特に……」

 劉帆はすっと窓の外を見た。まるでそこに何か見えない壁があるように。

「特に皇帝の寵姫である江貴妃こうきひとその一族郎党。奴らによって朝廷は汚職にまみれている」

「劉帆……」

 それは劉帆にとって怒りや憎しみの感情を生むのだろう。しばらく彼は虚空を見つめていた。

「ごめんなさい。私、どう立ち回ったらいいかわからなくて」

 蓮花は正直な気持ちをこぼした。すると劉帆はまじまじと蓮花の顔を眺める。その視線が何だかむずがゆくって、蓮花はどぎまぎしてしまう。

「わからない……そうか」

 そう劉帆はつぶやくと、膝の上でぎゅっと握りしめていた蓮花の手を掴んだ。

「ひゃっ……」

「蓮花。知らないことなら知ればいいんだ」

「え……?」

 そのまま燭台を片手に、蓮花の手を引いてすたすたと部屋を出る。

「ちょ、ちょっと! どこに行くの?」

「黙ってついてこい」

 劉帆は建物を出て裏手に回る。そして辿り着いたのは……。

「物置?」

「そうだな」

 首を傾げる蓮花をよそに、劉帆は物置に入っていく。蓮花は慌てて彼の後を追った。

「……ほこりっぽい」

 そこは広いけれども本当に物置だった。使わない物や、壊れた道具が積まれている。

「こっちだ」

 そんな薄暗い中を劉帆はずんずん進んでいった。そして何もない壁の前に立つ。

「どうしたの?」

「蓮花、俺の秘密を見せてやろう」

 劉帆が細い隙間に指をかけると、すっと壁が動いた。隠し扉だ。そしてその隠し扉の向こうにあったものを見て、蓮花は思わず息を呑んだ。

「わぁ……凄い!」

 そこには山のような書物が隠されていた。他にも画や書などもいくつも並べられている。それは圧倒されるような光景だった。

「これ、全部……劉帆の?」

「ああ。本は借りたものや写したものもあるが。画や書も俺の手跡だ」

「驚いたわ。書とかの良し悪しは私には良くわからないけど……。これは歴史書に、こっちは詩集に……法律の本まで」

「軍法の本もあるぞ」

 劉帆は得意げにそう言って、分厚い本を蓮花に差し出した。

「全部読んだの?」

「ああ、大体な」

 これが劉帆が隠していた宮廷で戦う為の武器、そして彼の己の志に対する覚悟。蓮花は胸が高鳴るのを感じる。

「大義なき者に、この国をいいようにさせたくない」

 劉帆のその言葉には憤り、そしてままならぬ苛立ちが感じられた。

「俺は……」

 劉帆はまた、どこか遠くを見る。その眼差しに蓮花は亡き兄バヤルの面影を感じる。バヤルもこんな風に未来の理想を胸に抱いていたはずだ。

「なぁ、蓮花。俺の師を紹介しよう」

「え?」

「柳老師という。この本の出所や書の手本は、皆その先生のものだ」

「私が……」

「彼はこの後宮……いや宮廷のあらゆることにも精通している。どうだ、蓮花。やるか」

 劉帆の挑むような目つきに、蓮花はすぐに頷いた。

「やるわ! 獲物によってやり方を変えるのは、狩りの基本だもの」

 その返答を聞いて、劉帆の口元ににやりと笑みが浮かぶ。

「よし、決まりだな」

「はい!」

 狭くて薄暗い物置の隠し部屋で、二人は向かい合い頷いた。



***



 ──後宮書庫。そこは様々な学術や教養、娯楽の為の書物の管理、また後宮での記録物の作成や保存が行われている。

「わっ、またあそこにいる」

「もう慣れろ、新入り。あの人はずっとあの場所に陣取ってるんだ」

 その一角に、老人はいた。唯一日の差し込む窓の近くに机を置いて、白く長いひげの干物のような爺さんがうつらうつらしている。

「あの人は……まぁ、書庫に住み着く妖怪かなにかと思っていれば。元々は高官だったらしいが政争で敗れてからずーっと書庫の番人をしてるって訳さ」

「ははは、そりゃ情けない」

「な、だから気にするこたぁないんだよ」

 春のまだ芯に冷たさの残る風に吹かれて、老人は眠っている。書庫の同僚が姿を消したあたりで、彼はぱちりと目を覚ました。

「お嬢さん、もう棚の間から出てきてよろしいですよ」

「なんで分かったのっ」

 急に居場所を言い当てられた蓮花は驚いた。

「バタバタ足音がしましたから。そして、軽くて早い。若くて元気なお嬢さんだとすぐ分かりましたよ」

「へぇ……」

 蓮花は気を引き締めた。劉帆が師と仰ぐ人物なのだ。彼からは居場所と名前を聞いたくらいだったが、やはり先ほどの人たちが噂するような老人とは思えない。

「申し遅れました。私は斗武南福晋――蓮花と申します。五皇子、顕王の妃です」

「ほほ、それはそれは……わたくしめはしがない書庫番の爺でございます」

「劉帆から聞きました。柳老師は博識で、きっと力になってくれるだろうと。私はもっと色々なことを知る必要があります」

「そうですか……この後宮書庫には数多の蔵書がございます。福晋の知りたいことはきっとありましょうなぁ」

 どこまでもつかみ所のない様子で、柳老師はのらりくらりと答える。

「ええ。でも、どこから見たらいいか……」

 蓮花が途方に暮れた声を出すと、柳老師はふっと笑って立ち上がった。

「福晋。貴女は叶狗璃留トゥグリルの出、だそうで。草原を征く時、貴女は何を目当てに進みますか」

「うーんそうね……どこに向かっているか知るために星を読みます」

「ですね。知識はそのようなものです。どこかに向かう為の指針となるもの。……福晋、貴女はどこに向かいますか?」

 どこに、と聞かれて、蓮花はしばし考えた。もしこのまま劉帆の横を共に歩むとしたら……ならば、自分の進むべき道は……。

「――鳳凰の座を。私はそれを望みます」

 蓮花は柳老師の問いにそう答え、目を逸らさずに正視した。皇帝の象徴は龍。だとすれば蓮花の居るところは鳳凰だ。平和な世に姿を現すという、伝説の鳥。

 すると柳老師は少し驚いた顔で視線を返した……と、途端にその顔をくしゃりと歪めて笑った。

「左様でございますか。で、あればこの柳賢成りゅうけんせい、微力ながらお力添えをいたしましょう」

 蓮花の回答は、この老人の心を動かしたようだった。この時、蓮花は心底安堵したのだが……ほっと出来たのはそのひと時のみだったのである。

「あの……あ、あのぅ……」

 どんどんと目の前に積まれていく本に、蓮花はただ目を白黒させている。

「ほっほっほ。まだありますよ。基本の歴史、地理。そして儀礼の本。政の知識も必要です」

「そう……ですね」

 確かに、老師の言うことは全く間違ってはいないのだが、そもそも蓮花は旺の言葉を覚えてまだ日が浅い。そこにあまりの量を突きつけられて、彼女はたじろいだ。だが、柳老師はすっと表情を引き締めると、更に書物を追加した。

「それから貴婦人は風雅を解さねば。古今東西の名詩に素晴らしい絵の写し、挨拶や所作の練習もいたしますからね」

「……はい」

 蓮花は弱々しい声で返事をした。もしや、これはとんでもないことを頼んでしまったのかもしれない。だけど……ここで退く訳にはいかない。蓮花が覚悟を決めた瞬間、更にもう一冊、蓮花の前に本が置かれた。

「そうそう……こちらを忘れておりました」

「これは?」

「房中での手順としきたりの本でございます」

「ぼ!?」

 房中、つまり寝所でのあれやこれやがこの本に書かれているということだ。

「それはっ……その……」

「最も大事なことでございます」

「……はい」

 今度こそ消え入るような声で蓮花は答えた。



 それから凄まじい日々が始まった。とにかく歴史や政治に関しては詰め込みの座学だ。蓮花は机にかじりついて、食事の時間もそこそこに本を読んだ。ある日などは前王朝の皇帝が列をなしている夢を見た程だった。

「妃殿下、足音は猫のように、お辞儀は白鳥の羽ばたくように優雅になさいませ」

「こう……ですか」

「それでは駄馬とアヒルです」

「……」

 その合間に礼儀作法の教授もあった。お辞儀の仕方から箸の上げ下げ、お茶の飲み方に至るまでみっちりと指導される。

「上手くならないのは余計な力が入っているからです。指先まで意識を行き渡らせて、かつ自然でなければなりません」

「はぁい……」

 今度は書の練習。柳老師の檄が飛ぶ度に、逆に蓮花は緊張で体がガチガチになった。



「ふううぅ。今日も疲れた……」

「大丈夫ですか、蓮花様。お茶でも淹れましょう」

「うん……お願い。少し濃い目にして……」

 そんな毎日を送る蓮花は、もはや息も絶え絶え。夕食後まで続いた教練の後、アリマの淹れてくれた熱いお茶をぐっと飲むと、ようやく気持ちがほぐれた。

「庭を歩いてくるわ」

「あら、もう寒いですよ。一枚羽織ってくださいな」

「ありがと」

 蓮花は肩掛けを羽織って庭に出た。満月が朧雲に浮かんでいる。まだ冷たい夜風が蓮花の火照った頭をしんと冷やしてくれる。こうでもしないと、習いたての伝統と格式の重んじられた様々な決まりごとが頭を駆け巡って、とても眠れそうになかったのだ。

 月明かりの庭に白く浮かぶ桃の花。柔らかな風にさらさらと音を立てる笹の葉。蓮花はふっと目をつむる。草木の香りは少しだけ、叶狗璃留トゥグリルの草原を思い出させてくれる。

「……ん? 何か……」

 そんな木々の囁きの合間に、何か別の気配を感じて蓮花は目を開いた。一体なんだろう。蓮花はまるで吸い寄せられるようにその気配を辿り始めた。

 気配のする方をそっと木の陰から覗くと……それは栄淳だった。いつもの紺の衣ではなく、動きやすそうな薄手の麻の軽装だ。そして、そよ風に揺れる木々枝のように、ゆっくりと手足を動かしている。それはまるで舞のようだった。

「何してるの」

「わっ! ……なんですか」

 栄淳はぎょっとして振り返った。相変わらず蓮花に対して妃とは思っていないような態度である。

「なんだじゃないわよ。ねぇ、今何やってたの」

「見ていたのですか。これは武術の鍛錬です」

「武術? あなたが?」

 蓮花はまじまじと栄淳を見た。彼は背丈こそあるが細身だ。繊細で気難しそうな容貌も相まって、根っからの文官だとばかり思い込んでいた。

「悪いですか? 当家に伝わる鍛錬法なのです。私はこれを朝晩かかさず行うことを日課にしています」

「へぇ……まるで踊りのようだったわ」

「体内の気を操って、身体機能を高めるのです。筋肉と力の調律が整えば、小さな力で大きな力に勝つことも出来ます。私は顕王殿下にお仕えするにあたって、身ひとつでお守りする為にこの体術を会得しました」

 栄淳の目指す方向はいつだって劉帆と同じ向きなのだろう。そのために彼はいつでも身体を張る覚悟をしている。

「さ、もういいでしょう。夜風は体を冷やします」

 栄淳はそっけなくそう言うと早足で立ち去った。

「……あ、待って」

 引き止める声を無視して栄淳が消えた方向を、蓮花はじっと見つめていた。



 翌日もあいかわらず蓮花の修行は続く。一日かけて柳老師の熱のこもった解説を聞きながら、ひたすらに哲学の考えを詰め込んだ。

 これでもまったく入り口に過ぎないのだと老師は言う。確かに、脈々と受け継がれた深淵なる賢人の思想を知り、その道を究めようとすれば一生かかっても足りないだろう。知の道は険しい。

 蓮花はそれを実感しながら、今日もまた夜の庭に散歩に出た。そして昨日の場所に向かうと、予想通り栄淳がいた。

「……今日も覗き見ですか」

「人聞き悪いわね。私は気分転換の散歩をしてるだけ。そしてその途中にあなたがいただけ。いいでしょ、一日中勉強漬けなんだから」

「そうですか。……柳老師の授業、思ったよりも続いていますね。てっきりすぐに音をあげるかと」

 栄淳は蓮花に言葉を返しつつも、体を動かすのを止めない。

「当たり前でしょ」

「……いえ。柳老師は厳しい方ですから」

「あら、老師が力を貸してくれるのに、力を抜いたら失礼だわ」

 蓮花がそういうと、栄淳は少しうつむいた。どうしたのかと蓮花は覗き込もうとしたがその表情は良くわからなかった。

「……ならば、良かったです」

 けれど栄淳のその口ぶりはどこか嬉しそうであった。

「柳老師のことを知っているの?」

「ええ、私も柳老師から教えを受けていましたから。殿下と私は子供の頃から共に机を並べていたのです」

「へぇ……」

 そんなに昔から、劉帆と栄淳には結びつきがあったのだと蓮花は驚いた。

「ねぇ、劉帆はどんな子供だったの?」

「そうですね……顔立ちは亡くなられたお母上に似て大変愛らしかったのですが、何を考えているのかよくわからない感じでした。しかし……」

 栄淳はしばし黙りこくった後、口を開いた。

「ある時、詩を……課題で嫌々書いたのです。当然、柳老師からは酷評されました。それが面白くなくて書き付けたものをそこらへんに放っておいていたのです。するとそれを殿下が拾ってじっと見ている。そして私のことを見て『これはひどい』とおっしゃるのです」

 そう言って栄淳は笑っている。こんな顔もするのだ、と蓮花はその表情を眺めていた。

「私は驚きました。……というのも殿下は当時六歳。読み書きをようやく覚え始めたころだったからです。横で筆を持って遊んでいるように見えたのに、実は私と柳老師の話を聞いて理解していたのです。この皇子は浮き草のように振る舞われているが、聡明な方だと気づきました。天が下さった縁と思い、この時に私はこの方に付いていこうと心に決めました」

「そう……」

 ほんの幼い少年のころから今まで。それだけの時間を、この二人は過ごしてきたのだ。この魑魅魍魎の住む場所で。そこにのこのこ現れたのが自分なのだ、と蓮花は理解した。きっとこの栄淳の冷たくて意地の悪い態度も、どこの山猿が潜り込んだ、というようなそんな反応に違いない。

「ま、とにかく少々見直しました。柳老師とのお勉強、頑張ってください」

「もちろんよ。でも……ねぇ、栄淳。私にもその体術を教えてちょうだい」

 蓮花の申し出に、栄淳は目を丸くした。

「あなたがですか?」

「ええ。小さな力で敵を倒せるんでしょ、女の私にぴったりじゃない」

「いや……妃殿下はこれ以上強くならなくても……」

 まぁ栄淳の言い分も分かる。しかし蓮花の武術は道具を使うのが前提。この後宮で威力を発揮するのは難しい場面もあるだろう。

 蓮花だって劉帆を守りたい。少なくても邪魔にはなりたくない。自分の身は自分で守る。それに……それにだ。

「だって毎日毎日机の前でしょ、くさくさするから身体を動かしたいのよ。思いっきり早駆けをするにはここの庭は狭いし」

「それは……そうですが……」

「では決まり! 明日からよろしくね」

 蓮花はそう約束を取り付けると、さっさとその場を後にした。



 それから蓮花は柳老師の教授を受けながら、栄淳から体術を学ぶこととなった。

 栄淳は手取り足取り教えてくれるわけではない。栄淳の動きを真似ていると、たまにそこは違うだの早いだの遅いだのと声が飛んでくるだけだ。けれどそうしているうちに、蓮花は身体の仕組みが分かってきたというか、どう力を込めるかどう弛緩するかが理解出来てきた。

「そうですね、今のが良いお辞儀です」

「えっ、本当ですか?」

 そうすると不思議なもので、所作や書を褒められることが増えてきた。老師も以前言っていた。指先まで意識を行き渡らせろと。栄淳の教える体術はそういう細かい動作に気を配る動きであり、それが効果を現したようだった。

「栄淳、私近頃調子が良いのよ。身のこなしがずいぶん洗練されたって。きっとこの体術で身体の動きが変わったせいよ」

「……そうですね。妃殿下は雑……おおらかでらっしゃいますから」

「何かが体の中を動いている感じがするの」

「それが気です。これを練って身体を巡らせ、力を集めたり散じさせたり操作できます」

「すごい……頑張らなくっちゃ!」

 そんな日々を送る蓮花の前に、絶好の機会がやってきた。



「二皇子のお妃様からお茶会のお誘い……ですか。確か以前それでひどい目にあってここにいらっしゃったんですよね」

「はい、そうです。いかがでしょう、このお誘いお受けしても良いでしょうか」

 蓮花はかなりの研鑽を積んだという自負がある。しかし、それでも不安で柳老師にそう聞いた。

「良いのでは。福晋はずいぶんと成長なされた。お茶会においでになったとて見劣りはいたしますまい」

「よし! やったー!」

 蓮花は諸手をあげて喜んだ。そんな彼女に柳老師は釘を刺す。

「ただし、まだまだ完璧とは言いがたいですよ!」

「はい、老師!」

 老師のお墨付きを得て、蓮花はお茶会に挑むこととなった。



***



「――で、本当ーっにお茶の時間なのね」

 まずはここをはっきりしなくてはならない。蓮花は女官たちをずらりと並べて睨み付けた。

「本当です」

「本当に本当~?」

 息がかかるくらい顔を近づけて、蓮花は女官のひとりの前で首を傾げる。

「は、はい」

「ま、いいわ。嘘だったら貴女たちの耳を削いであげましょう。二度も聞き間違えるような耳はいらないからね。わかった?」

「……はい」

 青ざめて冷や汗をかく女官たち。これだけ散々に脅したので、時間は大丈夫だろう。

「さて、決戦は三日後! 万全を期すわよ、アリマ」

「はい、蓮花様!」

 それから蓮花は一旦勉強はお休みにして、出来た時間はたっぷりと眠り、髪をくしけずり、肌を磨き上げた。

「……婚儀の時よりも入念にしている気がする」

 兎にも角にも、その日がやってきた。

「衣裳よし! 簪よし! お土産よし!」

「……よし」

 アリマの最終確認が終わった。さて、開戦の狼煙を上げよう。蓮花は二皇子の宮へと向かった。



「今度は刻限にいらしたのね、妹妹」

「ええ、先日は大変申し訳ございませんでした。お招きいただきまして恐悦至極でございます」

「ほほほ……あらそう」

「ふふふ……」

 一見和やかな、しかし嫌な空気を醸し出しながらお茶会が始まった。蓮花はお茶と菓子を頂きながら大して面白くもない話に相づちを打っていた。

「ねぇ、ご覧になって。私の実家から贈ってきた香炉ですの」

 その時、二皇子の妃が部屋の奥から女官に香炉を持ってこさせた。どうやら今回はこれを見せびらかしたかったらしい。

「まぁ、素敵な香炉」

「上品なお色ね」

大嫂子おねえさま、さすがですわ。立派なお品」

 そう他の妃は次々と褒めそやす。二皇子の妃はふふんと得意そうな顔をして蓮花の方を見た。

「ねぇ、妹妹。こっちにいらっしゃってご覧になって?」

 その顔には「どうせ分からないでしょうけど」と書いてある。蓮花はにこにこと笑顔で彼女の側に駆け寄った。

「そうですねぇ……うーん」

「こちらをどう思う? 正直におっしゃって」

「……白朝のものでしょうか。写実的な文様がこの時代をよく表していますね。とても精緻で素晴らしい逸品だと思います」

 蓮花はすらすらとそう答えた。二皇子の妃はあっけにとられたような顔をして、はっと口元を隠した。

「そ、そうね……妹妹の言うとおりですわ」

「ほほほ……」

 他の妃も蓮花がまともに返事をするとは思わなかったのだろう。調子の合わない笑い声がまばらに起こった。

 その様子を見ながら、蓮花はよし、と心の中で頷いた。実物の香炉は見られなかったが、この時代独特の文様の写しなら柳老師との講義で見たことがあったのだ。ここのところの勉強の成果が発揮された。

「妹妹、こちらのお菓子はいかが?」

 二皇子の妃は気まずさを取り繕うように、蒸し菓子を差し出した。

「ええ、いただきますわ」

 蓮花は習った通りのゆったりとした礼をしてそれを受け取った。

 まぁ、こんなものかな、及第点だろうと彼女は思った。二皇子の妃から先ほどから痛いほどの視線を受けていることを除けば。

「……そうだ。お……大嫂子おねえさま……?」

 自分でも気持ち悪いと思いながら、くねりと蓮花はしなを作る。弱々しく、かわいらしく頼りなく。そう見せたって決して負けたりなんてしないのだ、と柳老師が言ったのを信じて。

「なんですの、妹妹」

 少しぎょっとしながら二皇子の妃が答える。その反応に、やはり無理があるのではないかと蓮花は思った。

「あっ、ええと。贈り物があるのです。この間のお詫びも兼ねまして」

「あら、そう。でも私は毛織物などいくらでも持ってましてよ。お気持ちだけ……頂くわ」

 先んじて蓮花の行く先を封じるように彼女は言い、鼻で笑った。

「いえいえ、違うんです。贈りたいのは……こちらです。アリマ!」

 するとアリマが壺を持ってしずしずと入ってくる。

「どうぞ大嫂子おねえさま……」

「なんですの……乳?」

 壺の中身を見た二皇子の妃は怪訝な顔をしている。そんな彼女の耳元で蓮花はそっと小声で囁いた。

「……こちら、叶狗璃留トゥグリルかんなぎの秘伝の……美容術ですの」

「……美容」

「ええ、山羊の乳と蜂蜜に山で採れた岩塩と各種の高山にある薬草を煎じたものです。山羊の乳はすべすべのきめの細かい肌に整え、保湿いたします。これを湯桶に入れてつかればよく温まり、お肌はつるつるしっとりに……」

 それを聞いた二皇子の妃の顔色が変わる。

「つるつるしっとり……」

「ええ。ちょうど素敵な香炉がございますから、香を焚いて花でも浮かべてゆっくりくつろがれればよろしいかと……」

 それから蓮花は辺りを見渡して、早口で付け加えた。

「きっと泰王殿下も喜ばれますわ」

「……妹妹。そう、ね。ありがたくちょうだいするわ」

 二皇子の妃はニヤッと笑うと壺を女官に渡した。良かった。どうやら上手くいったようだ。

 蓮花が贈り物の極意を聞いた時に柳老師はこう答えた。相手の欲しいものを用意するのではまだ足りない。相手が欲しいことを気づいていないようなものを見つけ出す。そうすれば相手に深く印象づけられるのだ、と。

 二皇子の妃はあまりに化粧が厚かった。手も家事をしない身分なのに荒れていた。それで蓮花は彼女にはお肌に悩みがあるのではないか、と踏んだのだ。そこでアリマに相談すると、彼女は祖母から伝えられたこの入浴剤の処方を教えてくれた。

 こうして、なんとかお茶会は無事に終了したのだった。蓮花の体面も幾分か回復したのではないだろうか。



 ――後日。二皇子の妃の使いが宮にやってきた。

「……え、山羊の乳を分けてくれって?」

 思ったよりも効果は絶大だったようだ。蓮花はほっと胸をなで下ろした。



***



 さて、后妃の生活というものは、庶民の妻に比べれば生活に不自由はないものの、退屈なものである。形式的な職務や祭祀の出席などがなければ特にやることはない。彼女らの一番の仕事といえば子孫を残すことなのだが、それもなければ暇を持て余すことになる。それは蓮花も同じことだった。

「散歩にでも行こうかしら」

 暇つぶしの定番と言えば碁や刺繍など。あとは散歩だ。宮の中に閉じこもっていても気分がくさくさするし、この後宮は一日で歩き回れないほど広い。ひとつ探索してみよう、と蓮花は思ったのだ。

「アリマ、出かけるわよ」

「はい、蓮花様」

 蓮花はアリマを伴って、宮を出た。後宮のあちらこちらには花樹が植えられており、そこに咲く花が目を楽しませてくれる。暖かい日差しの注ぐ穏やかな気候のせいか、同じように散歩をしている妃の姿もあった。

「ごきげんよう」

「良い天気ね」

 すれ違えばそんな風に挨拶を交わし、川面を流れる花びらのように妃たちはそぞろ歩く。

 放牧された羊の群れのようだ、と蓮花が思いながらそれらを見ていると、どこかで見た顔の妃がこちらに歩いてきたので、蓮花も朗らかに挨拶をした。

「ごきげんよう」

「あら……ごきげんよう……うふふ」

 彼女は蓮花を見るとハッとして、口元を隠し足早に立ち去った。

「……ん?」

 その反応に蓮花は首を傾げる。挨拶の作法は習った通りだと思うのだが、なにかおかしいのだろうか。

「ごきげんよう」

「まぁ……」

 それから何度かそんな風な対応をされて、やはりどこかおかしいのだ、と確信する。

 そこに向かいからやって来たのは二皇子の妃だった。

「ごきげんうるわしゅう、大嫂子おねえさま

「あら、妹妹。ごきげんよう」

 あの一件で、彼女の蓮花への風当たりは緩くなった。しかし、やはり何か様子がおかしい。蓮花は思い切って彼女に聞いてみることにした。

大嫂子おねえさま……。私、どこかおかしいでしょうか。散歩をしているだけなのに、なんというか、こう……ジロジロ見られるのです」

 そう聞くと、二皇子の妃は少しびっくりした顔をしていたが、こほんとひとつ咳払いをして蓮花の耳元に向かって囁いた。

「刺繍よ」

「……刺繍?」

 何のことか分からず、ぽかんとしていると彼女はさらに続けた。

「薔薇の花は皇帝の寵姫でらっしゃる江貴妃がことさら好んでいるの。だから皆、薔薇の刺繍は皆身につけないのよ……。以前に薔薇の刺繍を来た妃は嫌がらせをされたり、親族が降格したりしたわ」

「ええ……!?」

 薔薇の刺繍なんてありふれたものではないか、と蓮花は納得できなかったが、それが暗黙の了解となっているのならば文句を言ったところで意味はない。

「普通はみな承知していて、妃にそんな衣裳を着せることはないと思うのだけど……とにかく早く戻って着替えた方がいいわ。江貴妃に会ったら大変よ」

「はい、ご親切にありがとうございます」

 蓮花は二皇子の妃に一礼すると、足早に宮へと戻った。

「なんなの、もう!」

 蓮花は帰って衣裳を脱ぎ捨てると、服を用意した女官を呼び出した。

「これはどういうことなの? これを着て歩いたら私が恥をかくと知っていたの?」

「あ、あの……それは、尚服局から持ってこられたものでして」

 先日の蓮花の烈火のごとき怒りを見ていた女官は震え上がりながら答えた。

「わ、私……新入りで、本当に知らなかったんです……」

 床に突っ伏すようにして不手際を詫びる女官を見て、蓮花はもうこれ以上詰め寄っても仕方が無いと諦めた。

「いいわ、今度から気をつけてね」

 とは言え、また同じようなことがあったらたまったものではない。元はといえばこの服をよこした尚服局が悪い。尚服局とは衣服や装飾品を司る専門の部署だ。そこから度々このようなことをされては困るのだ。蓮花はしかたなく直接文句をつけようと尚服局に向かった。

「責任者を出してちょうだい」

 薔薇の刺繍の服を片手に、蓮花はお針子たちが作業をする局の中に乗り込んだ。

「私でございます。何かございましたでしょうか」

 五十がらみの厳しそうな細い目の女性が現れた。

「この服なのだけど、薔薇の刺繍が入っているの。後宮ではこれは江貴妃しか着られないと伺ったのだけど、どういうつもりなのかと」

「ああ、手違いでございましょう」

 しれっとした顔で責任者は答えた。謝罪の言葉すらない。蓮花は苛立ちを押さえつけながら言葉を続けた。

「手違いで済むと思っているの? それとも薔薇の刺繍の意味が分からないとでも」

 さらに蓮花が問い詰めると、責任者は口元に笑みを浮かべて答えた。

「お分かりになってよろしゅう御座いました。かの地は草しか生えてないとお聞きしたもので」

「な……」

 蓮花は絶句した。これではわざと分かってやった、蓮花が田舎者だからと言っているのも同然だ。要するに、皇太子妃にもなりもしない、異民族の妃など軽んじて当然とこの女は思っているということだ。

「もういいわ」

 その場に服を投げ捨て、蓮花は大股でその場を後にした。

「あったまきた! そうくるなら私にも……」

 考えがある、と続けようとして蓮花は足を止めた。あの尚服局に反省させるのに自分は何が出来る、と考えると特に妙案が浮かばない。かといって、このまま引き下がるのもくやしい。

「……そうだ!」

 蓮花は行き先を変更して、後宮書庫へと向かった。



「……と、いう訳なのです。何かお知恵を貸していただけませんか柳老師」

「ふむ」

 相談に行った先は柳老師の元だ。知恵を経験の豊富な彼ならば、何かいい案を考えてくれるのではないかと思ったのだ。

「まぁ、それならば福晋のことを無視できないようにすればよろしいかと」

「そんなこと、出来るんですか」

「そうですね……」

 柳老師はなんだか嬉しそうな顔をしながら、書棚の奥に消え、しばらくすると巻物を手に戻ってきた。

「これは過去の後宮での出来事が綴られたものです。確かこれの……ほら、ここです」

「……これがどうかしたのですか」

「これから思いついたことがあるのですよ。それは……」

 柳老師は蓮花の耳元に耳打ちした。

「そんなにうまく行くでしょうか」

「うまく行かなくてもこちらに痛手はありません」

 それもそうだ、と蓮花は頷いて、さっそくその柳老師の一計を実行に移すことにした。

「確かあったわよね、ああこれ」

 蓮花は花嫁道具を仕舞ってある倉を捜索して、目的の物を探し出した。深く、鮮やかな色合いの絹織物である。

「よし、あとは色男の出番、と」

 それを持って劉帆の元に行く。書斎で何か書き物をしている劉帆は蓮花が抱えている物を見て怪訝な顔をした。

「なんだ、その反物」

「これは叶狗璃留トゥグリルの反物。実はね……」

 蓮花は尚服局から届いた衣裳が江貴妃の好きな刺繍の柄で、笑い者になったこと、場合によっては笑い事では済まなかったこと、そして尚服局はそれを指摘しても蓮花を軽んじていることを伝えた。に

「そこで劉帆にお願いがあるの。これを天下一の妓女、王翠蘭に贈ってちょうだい」

「妓女に?」

「ええ、身分を明かせば劉帆ならきっと会ってくれるわ」

 そう主張する蓮花を、劉帆は変わった生き物でも見ているような目で眺めている。

「夫に廓通いを勧めるのか……」

「妓楼に行ったことくらいあるでしょう。この際、一緒にお酒を飲むくらいなら許します」

 旺に来る道中、蓮花は妓楼にいる劉帆の姿を見た。多分あれは付き添いの官吏の前で馬鹿な皇子を演じるためだったのだと、もう蓮花には分かっていた。しかしそれが出来るならこの頼みだって聞けるはずだ。

 それでもまだ微妙な顔をしている劉帆に、蓮花は自分の企みを話した。

「そういうことなら……」

 なんとか渋々と劉帆の了解を得た蓮花は、今度は自分の部屋に戻る。そして机の上に反物を広げた。

「これでよし、あとは……アリマ! アリマのお裁縫の腕、見せて頂戴」

「そんな……大したことありませんよ。それに刺繍なら蓮花様の方が見事です」

「それはそれでやることがあるのよ」

 蓮花は叶狗璃留トゥグリルから運んできた絹地で服を作ることをアリマにお願いした。本来なら尚服局のお針子に頼めばいいのだが、今回は内密にしたいので頼むことが出来ない。

「さぁ、忙しいわ」

 蓮花はジャキンと反物にはさみを入れた。



 蓮花の企みが、功を奏したのだろうか。后妃の間に誰に聞いたのかこんな話が飛び交った。

「ねぇねぇ、聞いた? 皇帝陛下が宴席に、王翠蘭をお召しになるそうよ」

「おかげで江貴妃の機嫌が悪くて大変らしいわ」

「でも、陛下は彼女が悋気を起こさぬように、と他の妃嬪を侍らさず妓女を呼んだわけでしょう?」

 表向きは美しく装っても、その足下は泥のようなのが後宮である。なにかの折に寵妃の関心が薄れれば、他の誰かが、いや自分が次の寵妃かもしれないとざわつくのであった。

 そしてもう一つの関心事があった。それは呼ばれた妓女、王翠蘭だ。妓女と言っても宮殿に呼ばれるほどの人気の妓女である。ただ美女であるだけではない。教養はもちろん、歌や楽器の演奏も一流。その仕草や振る舞い、そして髪の結い方、身につける服や装飾品の装いを、どうかひと目見たいと思っていた。

 殿方を夢中にさせる為に研ぎ澄まされ、市中で流行っている最先端がどういうものか、誰もが興味津々だったのである。それに皇后や江貴妃の装いを真似るのは気が引けても、王翠蘭のものならば真似ても咎められることなどない。

「あー……やっと出来たわ」

 后妃たちが噂を囁きあう中で、蓮花はようやく自分の仕事を終えた。

「あとは宴を待てば良し」

 そして皇帝の宴に王翠蘭が呼ばれる日がやって来た。彼女が宮殿に入るところを誰もがのぞき見しようとしたし、宴席に出席できる妃たちも彼女に目が釘付けとなった。

「このような席にお呼びいただき光栄ですわ。ひとつ舞をご覧に入れましょう」

 そうして舞った王翠蘭は柳の揺れるように優雅で、花びらの舞うように可憐で、その場の者を魅了した。そして彼女が身につけていた衣裳は深い緑の絹地に、白い紗を重ねたもので、季節の庭を映したかのようだった。

「素敵だったわね」

「ええ、白い肌が映えて」

 そこから緑の衣裳を着る后妃の姿が目に見えて増えた。皆、彼女の真似をしているのである。これで少しでもあの日の王翠蘭の面影を感じて、皇帝や夫の歓心が得られればよいというささやかな女心だ。

「ふふふ、では最後の仕上げといきましょう」

 蓮花は部屋に山となっている手巾を手にした。それは劉帆の手を通して渡された緑の絹の反物と同じものを切って縫い、蓮花が刺繍を施したものだった。

 蓮花はそれを、ほんの少しでも会ったことのある后妃に贈り物として配った。

「さて、散歩に行きましょう。アリマ」

 蓮花はアリマの仕立てた衣裳を着て、後宮を歩き回った。できあがっていたものに少し手を加えて、王翠蘭の着ていた服の形に寄せてある。蓮花は何も言わないが、着道楽な者は気づいたはずだ。あの日の王翠蘭の衣裳の生地と全く同じだということに。もし疑うのなら、蓮花の贈った手巾を見ればわかる。自分の衣裳の緑色とはどこか違うということに。なにしろそれは王翠蘭が来ていた衣裳の布とまったく同じなのだから。

「さて、今頃困っているかしら」

 蓮花は部屋でくつろぎながら尚服局の責任者の顔を思い浮かべていた。

 そしてその日は思ったよりも早く来た。尚服局から見事な仕立ての薄衣の領巾が届いた。それには絹糸で繊細に、白い蓮の花が縫い取られている。

「それじゃ、行きますか」

 蓮花は例の緑の衣裳の上にその領巾を羽織ると、尚服局へと向かった。

「斗武南福晋、ようこそいらっしゃいました」

 こないだとは打って変わった責任者の態度に、蓮花は笑いそうになる。でも、その前に建前の挨拶だけでもしておかなくてはなるまい。

「今朝届いたこの領巾、とても素敵ね。気に入ったわ。特に刺繍が……これを手がけたのは誰かしら」

「私で……ございます」

 どうやら責任者自ら針を手にこれを作ったようだ。

「そうなの。私も刺繍は得意な方だけれど、とても及ばないわ。大したものね」

「はい……」

 責任者はそう答えながらも、蓮花の服に目が釘付けになっている。

「さて、そろそろいいかしら」

 まだるっこしいやり取りは性に合わないのでここまでだ。蓮花は彼女に単刀直入に聞いた。

「この服の生地が何で染められているか分かるかしら」

 そう聞くと、彼女は悔しそうに口の端を歪めて答えた。

「……孔雀石ではないかと」

「そうね、正解よ。でも沢山の孔雀石を急に手に入れるのは大変なことね。なんせ、産出するのは北方の異国ですもの」

「はい……」

 さあ、いよいよ仕上げだ。蓮花は服の布地を撫でながら、微笑んだ。

「いつもは叶狗璃留トゥグリルを経由して輸入しているはず。でも、今欲しいのよね。お妃たちはうるさいから。かといって悠長に手に入るまで待っていたら皆次の流行に移っているでしょうね」

 そうして残るのは用無しの大量の孔雀石。それが帳簿を管理する尚宮局などの目に止まれば彼女の面目は丸つぶれである。

「孔雀石の取り寄せに口をきいてあげてもいいわ」

「本当でございますか」

「ただし、そちらがしっかりと今後はお仕事していただけるのが条件よ」

「肝に銘じまして、お約束いたします……」

 責任者は頭を下げ、深々とお辞儀をした。これで勝った。蓮花は確信した。

「そう、分かっていただけてうれしいわ」

 蓮花は本当は飛び上がりたいのを我慢しながら、尚服局を出た。

「やったー!」

 尚服局を懲らしめるために柳老師が練った策とは、つまりこういうことだった。後宮では過去度々、売れっ子娼妓の装いが流行ることがある。大体は皇帝などの宴に侍った妓女を真似て、というのがお決まりのようだ、と老師は記録から考えていた。

 なので、こちらからその流行を作ってしまおうと考えたのだ。その流行が蓮花の存在を無視できないものだとしたら尚服局はこちらに頭を下げるしかなくなる。

「だからって自分の夫を妓楼に送り込むなんて本当はしたくなかったけど」

 しかしそのためにはそれなりの身分の男から、あの絹地の反物を王翠蘭に渡して貰う必要があった。劉帆から、この反物で仕立てた衣裳を宴に着てきて欲しいと頼んで貰う。皇子からのお願いならば、そう無碍にはしないだろう。上手くいけば妾の一人にでも潜り込めるかもしれない、といった打算が働いたかもしれない。

 だから王翠蘭があの緑の衣裳を着た段階で、蓮花はほぼ勝利していたのだ。

「あー、久しぶりにお昼寝でもしよう」

 肩の荷が降りた蓮花は、さっさと自分の部屋に帰ると穏やかな午睡を楽しんだ。



 一方で、少し困った事態になっている者がいた。

「あの……また手紙が来ています。例の王翠蘭から」

「ん、適当にお前が返事をしておいてくれ」

「……さようでございますか」

 こうして、堅物の側近栄淳は妓女からの色っぽい手紙の返信の文面に頭を悩ませることになったのだった。



***



斗武南福晋とむなんふじん、ごきげんよう」

「あらごきげんよう」

 あれから贈り物をした効果が回り回ってか、遠巻きにしていた他の妃たちなどにも声をかけられるようになった。蓮花のお妃生活も安定してきたといえるだろう。

 かつてのような詰め込みではないが、柳老師の元に通い勉強も続けている。栄淳との武術の練習も日課になっていた。

「充実してるわー」

 蓮花はしみじみと呟き、アリマの淹れてくれた奶茶おちゃを啜った。それを見てアリマも頷く。

「ええ、蓮花様は立派でございます。あとは殿下のお渡りがあれば……」

「ああーーっ!! アリマ、それは言わないで」

 蓮花は両手で顔を覆う。そうだ、そうなのだ。慌ただしさで誤魔化して来たけれども、もはや直視せざるを得ない事実がある。それは婚儀から今日この日まで劉帆は部屋に来ることはあっても、二人の間に夫婦の営みは一切ないということである。

 蓮花はちらりと部屋の隅を見る。そこには柳老師から借りた房中の本例のアレがぽつんと置いたままになっている。蓮花は深くため息をついた。

「なんでかしら? 私そんなに変?」

「いいえ、蓮花様は大変にお綺麗でいらっしゃいます」

「はーっ、そうよね。アリマはそう言うわよね。昔っからそうなんだから」

 蓮花はそれを聞いて余計に落ち込んでしまった。アリマは内心ため息をつきながらそんなことないのに、と思う。艶やかな髪、色白の陶器のような肌、そして吸い込まれるような金の瞳。それに日々運動をしている所為だろう、しなやかに引き締まった体の線。女の自分から見ても見惚れるほどの美貌の自慢の女主人なのだが。

「大丈夫ですよ、蓮花様。殿下はちょっと気が向かないだけではないでしょうか」

「う……うん……」

 それが問題なのだ。確かに後宮は不安定だが……。アリマの慰めの言葉に蓮花はぼんやりと頷いて、深刻そうに眉を寄せるのだった。

「やっぱり妓楼に行ってこいって言ったの怒ってるのかしら……」

 ちゃんと訳は話したけれど、と蓮花は更に頭を悩ませた。



「殿下、市場で仕入れた立派な桜桃さくらんぼでございますよ」

「おお、美味そうだな。どれどれ」

 山盛りの桜桃を籠に入れた女官と出くわした劉帆は、そこから一房つまんで口にする。

「いやですわ、そんなつまみ食いなどして」

「ははは、美味しいよ。今日の食後に出してくれ」

「はぁい」

 他愛の無い、やりとりである。しかし今日はそれをじっと見つめている者がいた。そう、蓮花である。

「ほ、他に女がいるのかしら……」

 劉帆だって健康な男性である。一切欲望を抱かないなんてことはないのだが。蓮花は柱をぎりぎりと掴んでその陰から様子を窺っていた。

「何してるんです」

「わっ!?」

 上から降ってきた声に振り返ると、栄淳が呆れたような顔をして蓮花を見下ろしていた。

「あっ、いやっ……」

「別にいいですけど」

 栄淳は特に興味なさげに蓮花の横をすり抜けると、劉帆に声をかけた。

「殿下、そろそろ参りましょう。西国の使者と会見のお時間です」

「ああ、そうだな」

 そうして二人は連れだって、職務に向かってしまった。

「むむむ……」

 劉帆は親しく栄淳の肩に腕を回していた。自分には決してあんなことをしないのに。蓮花はどうにも納得できない思いに捕らわれる。

「まさか」

 劉帆は女に興味がないのではないか。そう頭に浮かんだ考えを慌てて否定する。

「な、仲が良いだけよ。だって子供の頃から二人は一緒だったんだもの。ずっと……すっと……」

 とは言え、口に出すと急に不安になっていく。蓮花は大きく頭を振って、庭に出た。

「ソリル、ソリル」

 そうして向かったのは厩舎だった。気分の塞ぐ時は愛馬の背に乗るに限る。蓮花はそれからずっと庭中をソリルに乗って走っていた。

「おい、蓮花。蓮花!」

 そうしていると職務を終えた劉帆が庭に出てきた。

「そろそろ夕餉だぞ。一体どうしたんだ? 日も落ちたし戻ろう」

 劉帆はソリルの手綱を掴んで、蓮花の顔を心配げにのぞき込んでいる。

「……そうね」

 蓮花はしぶしぶ馬から下りた。一体何をしているのだろう。自分が嫌になりそうだ。

「ぶるるるる」

「わっ、やめろって」

 そんな蓮花の気持ちを察したのかどうか、ソリルは劉帆の袖に噛みついて引っ張っている。

「おい……蓮花、こいつを何とかしてくれ!」

 そんな困り果てた顔をした劉帆がおかしくて、蓮花はようやく笑った。

 こんな調子では良くない。なんとかしなくてはならない。夕食が終わると、蓮花は劉帆に声をかけた。

「劉帆。後で部屋に来てくれる?」

「どうした?」

「……話があるの」

 くよくよ馬鹿みたいに悩むのはやめた。だからはっきり聞いてみよう、劉帆の気持ちを。結局蓮花はそういう結論を出した。

 それから蓮花は早々にアリマを下がらせて、そわそわと劉帆が訪ねてくるのを待った。

「おい、蓮花」

「は、はいっ」

 来た。いそいそと戸を開けると劉帆が怪訝な顔をして立っていた。

「なんだ、蓮花。話って」

「……とりあえず入ってくれる?」

 戸口で話を済まそうとする劉帆を部屋の中に引き入れる。すると劉帆はますます怪訝な顔をした。

「これ……香を焚いているのか」

「あ、うん。そう……」

 そういった雰囲気作りも大事だと例の本に書いてあった。上質な沈香が焚きしめられた部屋の中で、蓮花と劉帆は向かい合って座った。

「さて、要件は?」

「ええーと……その……」

 真正面から聞こうと決めたものの、いざとなると恥ずかしい。

「蓮花、俺は明日早い予定があるんだが」

「あ、ちょっと待って! 話す、話します」

 蓮花は深く息を吸って、ようやく切り出した。

「劉帆、私たちが婚儀を挙げてどれくらい経ったかしら」

「うーん、二か月くらいか」

「そうね……で、聞きたいんだけど」

 蓮花はそこで言葉を切ると、劉帆の肩をがっしりと掴んだ。

「今日の今日まで、夫婦らしいことが一つもないのは……! なぜかしら!?」

「えっ?」

「えっ、じゃないわよ。どうして寝室に来ないわけ!? 私たち夫婦でしょう」

「ああ……そうだな……」

 劉帆は視線を泳がせ、どうも歯切れが悪い。

「私、そんなに魅力がないかしら?」

「そんなことは……ないよ」

 そう言われても納得なんてできない。蓮花は噛みつくようにして劉帆を問い詰めた。

「それとも他に女がいるの?」

「いないって」

「じ、じゃあ、男の人の方が好きなのかしら。ずっと栄淳と一緒だし……」

「待て待て!」

 また突拍子のないことを言い出した蓮花にさすがに劉帆は大声を出して否定する。

「栄淳はただの側近! そりゃ幼少の頃からそばにいるが」

「だったらなんでなのよ!」

 蓮花は劉帆の首に手を回してのしかかる。二人はそのまま床の上に倒れこんだ。

「わっ、蓮花! ちょっと待て」

「十分待ちました! 大丈夫、ご心配ございません。書物にて学びましたし、馬や羊のそれならいくらでも見たことがあるわ!」

「話を聞けって!」

 劉帆は蓮花を押しのけようとした。だが、どういう訳か蓮花はびくともしない。小さな体から信じられないような力で劉帆を押さえつけている。劉帆は蓮花を押しのけるのを諦め、静かな声で呟いた。

「……あのな。俺は願掛けをしているんだ」

「……願掛け?」

「皇帝に皇太子として指名されるまでは、俺は女を断つと決めているんだ」

「ええ……?」

 蓮花の力が緩んだ。その隙に劉帆は蓮花の下から抜け出して立ち上がり、衣服の裾をササッと整える。

「だからな、別に蓮花が嫌いでも他に誰かいる訳でもない」

「……そうなの? でも、夫婦はまた別なのでは?」

 それでも蓮花は不満そうだ。劉帆はしょんぼりうなだれて座り込んでいる蓮花の手を取って立たせた。

「あのな……夫婦だからだよ。もし今、蓮花が孕んだら、俺はまだ守ってやれない」

「え……」

 かぁっと火をつけたように蓮花の頬がそまる。劉帆は薄く笑うと、その額に手をやった。

「だからいい子で今日はお休み」

 そして、そこに口づけをすると、呆然とした顔のままの蓮花の部屋を後にした。

「守ってって……馬鹿じゃないの……」

 蓮花はそう呟いたが、その顔は嬉しそうだった。



「危ない……危ない……」

 一方で劉帆は一人でぶつぶつ言いながら廊下を歩いていた。

「……」

 じっと手のひらを見つめる。そうすると蓮花の華奢で柔らかな体の感触が蘇ってくる。それから頬にかかった長い髪の香りと、あの蜂蜜みたいな不思議な色の瞳。

「ああ! もう!」

 劉帆は頭を掻きむしり、井戸へと向かった。



***



 その知らせはあっという間に宮中を駆け巡った。

「いやぁ、久々ですね」

「忙しくなりますぞ」

 何かというと宴だ。だが、ただの宴では無い。

 皇帝の誕生日を祝う宴の知らせに、誰も彼もが浮き足立った。と、いうのも宮廷はこの三年間、皇太子の喪に服しており、大規模な催しは先日の劉帆と蓮花の婚儀があったのみ。それからしばらく間を置いて、ようやく華やかな遊びが解禁された、というところだ。

「皇帝の宴ってどんなの?」

 庭の東屋でお茶を楽しんでいた時にその知らせを聞いた蓮花は、皆が一斉にそわそわし出したので不思議に思った。すると、そんな蓮花の疑問に栄淳が答えた。

「皇帝陛下の生誕の宴ともなると、数日かけてご馳走をいただきながら、舞や劇などの出し物を見たりして楽しむのです。その準備もあるし、出席する方やそのお付きの方、それから給仕まで衣裳を一新して挑むので……まぁ……大変です」

「うわぁ……」

 それはそうだ。だけど、そんな豪華な宴は見たことない蓮花は少し楽しみだった。だが……。

「で、劉帆はなんでそんな顔をしているの」

 準備は確かに大変だろうが、それにしては険しい顔で彼は眉根を寄せていた。

「それだけじゃないんだよ」

 そう言って劉帆はため息をつく。

「皇帝陛下は誕生日祝いの宴の度に、皇子たちを集めて催しをするんだ」

「催し?」

 いまいち想像がつかなくて蓮花は首を傾げる。

「ああ、何日もかけてまるで品評会みたいに技能や能力を競わせるんだ……」

「どんな競技をするの?」

「詩や馬術や……色々だ。お題は当日のお楽しみということで伏せられてる。ただ、これまでの傾向で多少の予測はつくかな。毎度毎度、俺は適当にやり過ごしていたから問題は無かったんだが……」

 と、言って蓮花を見る。

「蓮花、今回俺は手を抜かずに全力を尽くし挑もうと思う」

「それって……」

「ああ、俺の本当の実力を見せる良い機会だと思っている。ただ……それは他の皇子たちに喧嘩を売ることにもなるんだ」

 なるほど、劉帆が難しい顔をしていたのはこれか、と蓮花は思った。だからこう答えたのだ。

「やっちゃいなさいよ、喧嘩。他の皇子に向かって、一番皇太子にふさわしいのは自分だって見せてやんなさいって」

「……蓮花、これできっと潮目も変わる。覚悟して欲しい」

「私は大丈夫! 手助けするって言ったでしょ。馬術とかだったら私も指南するし!」

 そう言って蓮花は劉帆の背中を強く押した。とうとう他の皇子との争いが始まる。そこで劉帆が力を持てば、蓮花の望み――バヤルの死の原因究明に近づくかもしれないのだ。

「ありがとう」

 劉帆は口元をきゅっと結んだ。



 そしていよいよ迎えた生誕の宴の当日、晴れ渡った青空に盛大な花火が上がった。たなびく白煙を背に銅鑼の音が鳴り響く。宴の始まりとともに、山海の珍味を集めた豪華絢爛な料理が次々と運ばれてくる。

「劉帆、なぁに……これ?」

 この日の為に着飾り、席についた蓮花は見たことのない黒い塊を箸でつまみ上げた。

「なまこ。海の生き物だ」

「何ソレ……」

 と、まぁ見慣れぬものも満載の皿をつつきながら、華やかに始まった楽の音に耳を澄ませた。

 爽やかな風の吹く五月の空。陽気は良く、皇帝はにこやかに微笑みながら、あたりを見つめている。

「あら……皇后様は?」

「……どうやらご気分が優れないらしい」

 皇帝の横には、婚儀の時に横にいた皇后ではなく別の妃が座っている。

「今、皇帝の横にいるのが寵姫の江貴妃だ。四皇子と六皇子の母にあたる」

「あれが……」

 皇帝の彼女への寵愛は深く、この妃はこの王宮で権勢を振るい、一族はみな高官に取り立てられている。宮廷の腐敗の象徴、と劉帆が指摘したのがこの江貴妃であった。

 しばらくすると、劉帆と蓮花が皇帝や皇子たちへ挨拶をして回る頃合いになった。それぞれに栄淳とアリマを伴って移動し、二人は一段高い観覧席に向かう。皇帝と、その寵姫の為の席だ。劉帆と蓮花は跪き、二人に挨拶した。

「拝謁いたします。陛下、ご機嫌麗しゅう」

「うむ、顕王。新婚生活はいかがかな」

「はい、平穏に問題なく暮らしております。そうだな」

「ええ。優しい夫を持って身に余る光栄ですわ」

 先日、夫婦生活のことで盛大にもめたことなどおくびに出さず、いかにも初々しい新妻という顔で蓮花は澄まして答えた。

「そうか、それはなによりだ」

 皇帝はその返答を聞いて満足そうである。

「江貴妃も相変わらずご健勝のようで」

「ええ、陛下のおかげですわ」

 劉帆が江貴妃にも挨拶する。婚儀で会ったはずなのだが、蓮花はまるで覚えていなかった。

 彼女の子供たちはいずれも成人。ということは、彼女もそれなりの年齢のはずなのだが、全くそのようには見えない。目元にしわのひとつも無く、二皇子の妃の方が老けて見えるくらいだった。

「……それはなによりです」

 劉帆は本音などおくびに出さず、笑顔を貼り付けて答えた。

 皇帝の御前を辞し、そのまま脇の席に向かう。そこは四皇子、瑞王と同腹の六皇子、辰王の席だ。

「顕王、久しいな」

「……これは、ご無沙汰しております。先日の婚儀ではお祝いをありがとうございました。このような宴も久方ぶりですね」

 劉帆の顔を見るなり声をかけてきたのは四皇子の方だった。江貴妃譲りの美貌の柔らかな面差しの色男である。だが、薄い口元はどこか酷薄そうな印象だ。

「ああ、辛気くさい喪中もいよいよ終わりということだ」

 四皇子は異母とはいえ兄弟が亡くなったというのに、ようやく清々した、という口ぶりを隠そうともしない。

「めでたい誕生の席だ。食べて飲んで楽しもうではないか」

「はい……そうですね」

 劉帆は口ではそう答えつつも、表情は硬い。

「なんだ、顕王。しけた顔だな」

「兄上、顕王殿下はきっとこの後の競技会が憂鬱なのでしょう」

 ひょっと横から六皇子が口を挟む。こちらも四皇子とよく似ている。まるで双子のようだ。

「ははは、そんなこと気にすることもないだろう」

「そうですね、どうせ兄上が一等でしょうから。あ……でも」

 六皇子の視線が蓮花を捕らえる。それはまるで蛇のようにからみついた。

「もししかしたら、殿下は新婚ですからお妃様に良いところを見せたいのかもしれませんね。嫌ですね、そんな無駄なことをして」

 くくく、と六皇子が顔を歪めて笑う。それを見て蓮花は気分が悪くなった。この二人とも根性が悪い。たとえそう思っていたのだとしても、わざわざ口にすることないのに、と思う。

 だが、蓮花の悪印象はそれだけでは終わらなかった。

「顕王殿下は、奥方にうるさく言われているんですか?」

「いえ、そんなことはありませんよ」

 劉帆はのらりくらりと六皇子の言葉をかわしたが、彼はニヤニヤとした笑みを浮かべたままだ。そこに四皇子の瑞王も乗っかる形で口を出す。

「顕王よ。女は無口な方がいいぞ。やかましいのはかなわんし、余計なことを言うのはもっと悪い」

 そう言って、脇に侍っていた女の腕を掴んだ。

「こいつは先日、敗戦国から奪った奴婢なのだが、舌を切ってある。静かでいいぞ、あはははは」

 瑞王は楽しげに笑っているが、女の方は涙を浮かべていた。吐き気を催す光景に、蓮花は怒りが収まらない。

「あなたは……」

「蓮花、行こう。それではお二方、我々はこの辺で」

 思わず蓮花が文句をつけようと身を乗り出したところで、劉帆はそれを遮り彼らの前から立ち去った。

「妹妹~、宴を楽しんでらっしゃる?」

 そこに声をかけてきたのは二皇子の妃であった。どうやら肌荒れが改善したらしく、上機嫌である。

「顕王。婚礼以来か」

「泰王殿下」

 更にその横にいた二皇子の泰王が劉帆に話しかけた。小柄で痩せている、神経質そうな顔色の悪い男だ。その男に劉帆はさっと手を合わせ、頭を下げる。

北夷きたえびすの姫を娶ってどうなるかと思ったが……案外上手くやっているようではないか」

「は……」

「夫婦は似たもの同士の方が上手くいくと言う。そういうことなんだろうな、ははは」

 泰王は明らかに劉帆を見下した態度で去って行った。

「まぁ、なんでしょアレは!」

 その背中が小さくなっていったのを見届けて、アリマは憤慨していた。

「いいのよアリマ」

「気にするな。ああしなきゃ、自分の立ち位置を示せないのさ」

 劉帆と蓮花は意に介さず、次の皇子の席を回る。

「これは顕王殿下。こちらから伺わず失礼をば」

「いや、気にするな。蓮花、こちらは七皇子の律王だ。覚えているかな」

「ええ」

 蓮花はにっこり微笑んだが、やはりまったく覚えていなかった。七皇子は、縦にも横にも大きくがっしりした体型で、大きな声で話す男だ。劉帆の方が年下に見える。

「殿下は美しい妃を迎えられて、いやはやうらやましいですな」

「律王もこれからだろう」

「そうですな、こういうのは順番ですから」

 と、いいながらじーっとなめ回すように無遠慮に蓮花を見てくる。

「……そろそろ参りましょう」

 蓮花はなんとも言えない居心地の悪さに、劉帆の袖を引っ張ってその場を離れた。

「……私、劉帆が夫で良かったわ」

 蓮花はげんなりして呟いた。成人している皇子は以上だ。つまり彼らが皇太子の位争いの相手になる訳だが、亡くなった皇太子が嘆いたというのも分かる気がした。



 そうこうしている内に、例の競技の時間が迫ってきた。

 皇子たちが広場に集められ、太鼓が鳴り、花吹雪が空を舞う。その煌びやかな雰囲気の中、皇帝が進み出ると、皆一斉に跪き額を地に伏せた。

「皇帝陛下、万歳万歳、万々歳!!」

 皇族や臣下、皆が皇帝の威信の前に平伏し、その存在を賛美した。

「陛下、お誕生日おめでとうございます。末永いご長寿と健康をお祈り申し上げます」

 皇族を代表して二皇子の泰王が挨拶する。

「うむ。皆の者、朕はこの日を迎えられて非常にうれしく思う。歳を重ねるごとに、この国の泰平と安寧を願う気持ちが深まっていく。さて、祝いの席に集まった皆を前に、時代の我が帝国の未来を担う者たちの力量を見てもらおうではないか!」

「はっ!」

「まずはじめの、今日のお題は……書。皇族たるもの美しく品位のある文字を書けないといけません。何を書くかは自由としましょう」

 皇帝がそう皇子たちに語りかけている間にするすると音も無く、机や墨、紙などが設置される。

「それでははじめ!」

 と、ここで盛大な銅鑼がなり、皇子たちは一斉に筆を執った。

「……」

 蓮香は固唾を飲みながらそれを見守る。広場はシンと静まり返り、筆の走る音が聞こえるほどだった。

「……出来ました」

 まず、七皇子が筆を置く。続けて四皇子、六皇子も。少し遅れて劉帆も書き終わったようだ。

「みな書き終わったようだな。それでは書いたものをこちらへ」

 皇子たちの書はそろって皇帝の前に並べられ、その出来を自ら判定するようだった。

「ふむふむ……」

 皇帝は皇子むすこたちの書を一通り眺めると、満足げに深く頷いた。

「それでは品評といきましょうか」

 すると、お付きの者がしずしずと何かを捧げ持ってくる。

「一番出来の良い書にはこちらの硯を与えましょう。瑞王、前へ」

 どうやら一等賞は四皇子、瑞王の手に渡るようだ。瑞王はちらっと後ろの皇子たちを見ると足取り軽やかに進み出た。

「瑞王、古代詩を写したのですね。風流な詩情に柳のような繊細な字がとても良くあっている。これでより研鑽なさい」

「はい、陛下」

 硯を受け取り、四皇子が下がる。

「他の皇子の書も良いものだった。次に良いのは辰王だ。さすが同腹。字もよく似ている。それから……」

 皇帝の視線が劉帆の前で止まる。

「顕王。あなたがここまで達筆とは知りませんでしたよ。素直な良い筆運びです」

「もったいなきお言葉」

 劉帆はどうやら三等のようだ。だが、印象を残したと思われた。

 そして最後に二皇子は筆の勢いが今ひとつ、七皇子の律王はのびのびとした字だが、荒さがあると評して、選評は終わった。

「ふう……」

「お疲れ様、劉帆。惜しかったわね」

 ようやく戻ってきた劉帆に、蓮花はねぎらいの言葉をかける。

「ああ、書の得意な四皇子はともかく、六皇子より良いと思ったのだが……。ま、次で挽回するさ」

 こうして宴の第一日は終わった。



「ん!?」

 宴の二日目。蓮花はスープの壺を前にして唸るような声を出してしまった。

「こ、こ……これなんて香りなの……」

 蓮花の嗅いだことのない得も言われぬ良い香りがあたりに漂っている。それは蓋をとると更に強くなった。不思議そうな顔をしている蓮花を見て、劉帆は苦笑する。

「これは皇帝の宴には必ず出るスープだよ。作るのに一週間もかかるそうだ」

「へぇ……」

「鶏や豚を煮込んでから、干した海鮮を何種類も入れて蓋をして煮込むんだと」

 さすがは大陸一の帝国の宮廷だ。手の込んだものを出すものだ、と蓮花は驚きながら供されたスープを一口、口にした。

「んんん! すごい……なんて美味しいの」

 蓮花は頭の中に花が咲いたかと思った。本来、彼女は海鮮が苦手だ。北の草原ではなかなか手に入るものではないから、食べ慣れていない。どうしても磯臭い匂いが気になってしまうのだ。

 ところがこれはどうだ。まるで洪水のように凝縮された旨味が襲ってくる。少しとろみのある透き通ったスープの中に美味しさだけが溶け出したみたいだ。

 蓮花が絶品のスープを堪能していると、今日は広場に舞台がかかった。勇猛な武将の大立ち回りを鑑賞する。それは見事な演技だったが、これが終わればまた競技なのだと思うと、蓮花は気もそぞろだった。

 そしてジャーン、と昨日のように銅鑼がなり、本日の競技がはじまった。

「今日はね、謎解きをしてもらおうと思う。朕が問題を出すから、分かった者から手を挙げて答えるように」

 今度は謎解き勝負らしい。皇帝はこほんと咳払いをすると、手元の盆の中から竹簡を一つ取りだした。これが問題文らしい。

「さて……まずはこちら。『そよ風ふいて、吹かれて動く、刀で切っても切れ目がない』」

 まずは第一問。蓮花も一緒になって考えてみる。なんだろう……と頭をひねっていると、さっと四皇子、瑞王が手を挙げた。

「陛下。それは『水』でございましょう」

「正解だ、瑞王。さすが機転がきいているな。では次は少し難しくしよう。『見ても見えないが、触れれば分かる。触れて無ければ、皆が悲しむもの』」

「はい!」

 また手を挙げたのは四皇子だ。

「それは『脈』でございますね」

「正解」

 また四皇子が正解した。蓮花はまた答えが分からなくて足をばたばたした。

「ちょっと、劉帆がんばれ!」

「ほら、他の皇子たちも答えなさい。次の問題は……」

 その後、六皇子も正解。さらに四皇子も二問正解した。一問も答えられない劉帆と二皇子と七皇子に焦りの色が浮かんだ。

「では、最後の問題。これは少し難しい。『遠くに見れば山に色あり、近くに聞けば川に音無し、春去りて花なおあり、人来たりて鳥驚かず』」

 問題が読まれると、皆唸ってしまった。蓮花はちらりと四皇子を見たが、難しい顔をしている。

「どうした? 誰も答えられないか?」

 その時である。劉帆がスッと手を挙げた。

「……顕王、これが分かるか? 答えてみよ」

「はい。この答えは『絵』ではないでしょうか」

「正解だ。よく答えたな」

 皇帝は微笑みながら、頷いた。他の答えられなかった皇子たちは恨めしげに劉帆を見ている。蓮花はとりあえず劉帆が結果を出したことにほっとして胸をなで下ろした。

「それにしても……一問も分からなかったわ」

 それはそれで悔しい蓮花であった。



 さて三日目。今日で宴も最終日である。皇帝の長寿を祈って、大きな龍の舞が舞われた。それから、めでたい桃の饅頭を皆で頂く。

「劉帆、これで最後ね」

「ああ、頑張ってくるよ」

 この日に備えて劉帆は遅くまで物置の隠し部屋にこもったり、剣術の練習を繰り返したりしてきた。蓮花は側で見守ることしかできない。

「それでは最後の競技を発表しよう」

 広間に集まった皇子たちは、緊張の面持ちで皇帝を見上げた。

「次は……『騎射』だ。こちらに用意した的に、馬に跨がり矢を打ち込んでもらい、一番の者にはこの玉杯を与えよう」

 そう言って皇帝は翡翠の玉杯を取りだして、掲げて見せた。かなり大きい。相当な価値と思われる。それを見た人々はどよめいた。

「『騎射』ね……アリマ。ソリルを連れてきて」

 蓮花はアリマを呼び寄せ囁いた。

「急いでね」

「はい、分かりました!」

 他の皇子たちの席でも慌てて準備が進む。小一時間後、それぞれの皇子は馬と弓を用意して再び広場に集まった。

「それでは順番はくじ引きといこう。これ皆、朕の前に」

「は……」

 皇子たちはが皇帝が用意したくじを引く。

「ふっ、私が一番か」

 最初の射手を務めるのは四皇子の瑞王らしい。続けて七皇子、二皇子、六皇子ときて劉帆が最後、という順番に決まった。

「さぁて、ここは誰が真ん中を射止めますかな」

 他の皇族や外戚の者などはのんきなものだ。無責任な噂話に花が咲く。

「やはり瑞王殿下ではないですか」

「いや、長幼の序は重んじられるべきです。ここは次期皇太子の二皇子の泰王殿下が……」

「そう言えば、顕王殿下の奥方は騎馬民族の出ではなかったか」

「いやいや……顕王殿下は数年前の競技で的の外に矢を飛ばしていましたぞ」

 そんな囁きを背後に、まずは瑞王が馬に跨がる。広場には的が置かれている。

「殿下、こちらの線から一気に駆け、矢を放ってくださいませ」

「わかった」

 四皇子は馬の腹を蹴ると走り始めた。そして巧みに操りながら、弓を的に向かって矢を放った。

「当たりました!」

 矢は見事に的を射貫いた。六皇子が嬉しそうな声をあげる。

「お見事、では次、律王」

「はい!」

 律王の馬は大きくて立派だ。馬は一声いななき、そして走り始める。

「あっ」

 蓮花は声をあげた。律王はなかなかの腕前だった。四皇子よりも中心に近く的に当たる。

「やりましたぞ」

 ここまで良いところの無かった七皇子は得意げだ。

 続いて二皇子が騎射に挑んだが、それに怖じ気づいたか的ギリギリに当たっただけだった。

「兄上、見ていてください」

 そして六皇子。やってみせると豪語したが、四皇子とほぼ同じ位置にあたり、七皇子ほどでは無かった。

 さて、とうとう劉帆の番だ。もし、劉帆が腕前を見せるならあれよりも中を狙わなくてはならない。

「ぶるるるる」

「ソリル」

 蓮花は厩舎から連れてきた自身の愛馬の首を撫でた。

「お前に掛かっているわ。頼むわね」

 その横で劉帆もソリルに語りかける。

「……本当に頼むぞ」

「ぶひんっ」

「わっ……よだれを飛ばすなよ」

 顔面にしぶきを浴びた劉帆を見て、蓮花は吹き出した。どうもソリルは劉帆をからかうのが好きみたいだ。

「任せろ、って言ってるのよ」

「ぶひひんっ」

「……たぶん」

「ならいいんだが」

 鐙を踏んで、その白い馬体に劉帆が跨がる。

 大丈夫、と蓮花は心の中で呟いた。今日まで、馬術と騎射の練習は蓮花が指導した。物心つく前から馬と一緒にある叶狗璃留トゥグリルの民。その技を短い時間ながら劉帆に叩き込んだのだ。騎射が競技になったのは幸運だった。

「では、いってくる!」

「いってらっしゃい!」

 そう言って劉帆は駆けだした。ソリルは彼を乗せてどの馬よりも速く走る。そう、流星のように。ただし、的とは反対方向に。

「あはは、これはこれは……」

 的からどんどん離れていく劉帆を見て笑い声が起こる。だが、劉帆はひらりと鞍を反対に乗り換えた。

「――せいっ!」

 そしてそのまましっかりとその体を支え、誰よりも遠くにある的に向かって劉帆は矢を放った。

「あ!」

 蓮花は見た。その鏃が的に向かい、ど真ん中を打ち抜くのを。

「おおおっ」

 見事に中心と捉えたのを見て、観客からも大きなどよめきが起きる。最初にもう駄目だと思わせた分、客席は否応無しに盛り上がっている。ただ的を射ても効果は薄い、と劉帆に曲乗りを教えた蓮花は成功の喜びに胸が高鳴った。

「……くそっ」

 その喝采の中で、四皇子は悔しそうに親指を噛んだ。



「顕王、見事であった。この玉杯はそなたにつかわす」

「は……ありがたき幸せ」

 劉帆は皇帝の前に跪き、うやうやしく翡翠の玉を受け取った。

 皇帝はそうして皇子たちを自分の前に呼び寄せる。

「さて、久方ぶりの宴が終わる。息子たちの日頃の研鑽ぶりを見られてなによりだ。……特に顕王。書もなかなかだったし謎解きも見事だった。それにあの弓の技は目を見張るものがあった。妃を迎えてまるで人が変わったようで朕は心強い。これからも兄弟力併せてこの国を盛り立てておくれ。それでは競技を終了とする」

「ははっ」

 皇子たちは跪き、皇帝の前に頭を垂れる。こうして、三日に及ぶ皇帝の生誕の宴は終わった。



「……どう言うことだ」

 宴も終わり、後は帰るばかり。だが、四皇子瑞王は納得のいかぬ顔で劉帆のいた席を睨み付けていた。

「書も謎解きも私が一等だったのだぞ! それなのに陛下は……!」

「兄様。最後がああでしたから気に留まっただけでございますよ」

「お前は黙っていろ!」

「……申し訳ございません」

 兄に怒鳴りつけられ、六皇子は身をすくませた。彼はこの男を怒らせると怖いことを誰よりも身を持って知っているのだ。

「あのふぬけの二皇子を追い落とすだけで皇太子の位は手に入ると思っていたのに……」

 残りは暗愚な五皇子に体が大きいばかりの七皇子。敵では無かったはずだ。その才覚の一片を見せた劉帆の姿に、四皇子の心はざわざわとした。

「に、兄様……それでは私にお任せください」

「お前に何が出来る」

 四皇子はうり二つの顔をして、自分の腰巾着しかできない弟を見下ろした。

「考えがございます」

 そんな兄の耳元に、六皇子は何事か囁く。それを聞いて四皇子はにやりと笑った。

「なるほど……それはそうだ。ではそのように」

 夕闇がせまる中、二人の顔に射したのは日暮れの陰……だけではなかった。



「乾杯!」

 さて一方。帰宅した劉帆と蓮花はささやかに打ち上げの席を設けた。今日はしきたりも行儀も無し。卓に酒菜おつまみを並べて、今日の戦勝祝いといったところだ。

「殿下、蓮花様。とっておきの叶狗璃留トゥグリル乳酪チーズをお持ちしましたよ」

「アリマ、一緒に飲みましょうよ」

「え……でも……」

叶狗璃留トゥグリルではみんな一緒じゃない。ね、劉帆。今日ぐらいいいわよね」

 蓮花がそう聞くと、劉帆は笑って頷いた。

「ああ。では栄淳! お前も来い」

「はぁ……」

 戸惑いながら、栄淳とアリマも輪に入る。

「それでは改めて乾杯!」

 杯を高く掲げ、四人は再びお祝いをはじめた。

「劉帆、皇帝陛下から声をかけられて良かったわね」

「ああ。だが他の皇子から痛い程睨まれた」

「そんなの折り込み済みじゃないの。いいのいいの、とにかくおめでとう」

 蓮花はまるで自分が優勝でもしたかのような喜びようだ。そんな蓮花を見つめていた劉帆はふとあることを思い出した。

「あ……そうだ。蓮花に渡すものがあったのだ」

「え、何?」

「栄淳、あれを持ってこい」

「はい、かしこまりました」

 栄淳が一度奥に引っ込んで持ってきたのは何か棒状のものだった。

「何かしら……」

「見てみろ」

 劉帆はそれを包んでいた布をさっと取り払う。

「剣……?」

「まあな。これは海の向こうから輸入している珍しい刀剣だ。岩をも断ち切ると言われる逸品を商人からようやく手に入れた」

「岩を……?」

 蓮花は半信半疑で鞘からそれを引き抜いてみた。刃は白く輝き美しい。

「片方にしか刃がないわ」

「そう、それは『切る』為にある刀剣なんだ。普通の剣が重さと勢いで叩き切るのに比べて、こちらは『切断する』。その為に刃が湾曲しているし、刀身も細くて全体が軽い。蓮花、お前にぴったりじゃ無いかと思って」

「私に?」

「ああ。蓮花は特に身のこなしが軽くて速いと。それをこの刀なら生かせるんじゃないかと思ってね」

 急にそんな話を劉帆がしだしたので、蓮花は驚いた。

「え、どこからそんな話を?」

「栄淳から聞いた。体術の稽古をしてるんだろう? 栄淳は俺に隠し事はしないからな」

「……なんか恥ずかしいんですけど」

 こっそり鍛錬していたのが、実は筒抜けだったことに蓮花は少し微妙な気分になったものの、贈られた刀を手にした。

「本当に軽いわ。不安なくらい」

「剣とは身体の使い方も違うだろうし、使い方はやりながら覚えていかないとだな」

「そうね」

 蓮花は刀の刃を灯りに照らしてみた。怜悧な美しさのあるその新しい相棒を見つめると、少し背筋がぞくっとした。



***



「見ましたか、顕王殿下のご活躍」

「ああ、頼りない方だと思っていたがご立派なこと!」

「しかし四皇子の瑞王殿下ほどではあるまい」

「ま……それは確かに」

 今日も宮廷の雀はかしましい。

 この間の宴での競技会の話は絶好の話のネタだった。へらへらと軽薄で無能と思われた劉帆の活躍の噂はあっという間に駆け巡った。

「だがお妃は夷狄の姫なのだろう?」

「いやいや、知らないのか? とても見目麗しい聡明な方だよ。顕王殿下と並んでいるとまるで絵のようだ」

「ほうほう……」

 競技の順位は四皇子が一番だったにも関わらず、皆このことばかり話している。これまで愚かな皇子に嫁いだかわいそうな姫、もしくは蛮族の姫を娶った気の毒な皇族、と思われていたのが変わった。

 そして、それが耳に入るのは何も下々の者たちばかりではない。



 不穏な空気に包まれているのは、二皇子泰王の宮である。妃は部屋に閉じこもり、物を投げて当たり散らしている泰王に声をかけた。

「殿下、いい加減になさいまし。子供じゃあるまいし」

「うるさい! 出て行け!」

「もう……」

 呆れた顔で妃が部屋を出て行くのすら気にならないほどに、二皇子泰王は焦っていた。先日の競技で自分はなんの成果も出せなかった。四皇子はまだいい。彼が結果を出すのはいつものことだ。だが……。

「顕王め!」

 泰王の投げた硯が壁に当たり、ひび割れて地面に落ちる。

 そもそもだ、と彼は爪を噛んだ。この国はよほどのことがなければ長子が家督を継ぐ決まりになっている。だから順番で言えば二皇子が次の皇太子のはずである。だが、今まで内々にもそのような話は無かった。二皇子の母の身分が低いからか、それとも彼の才覚の為か。

 とにかく、喪の明けた折の宴での競技会は絶好の機会だったのだ。その話題をかっさらっていったのはまさかの劉帆であったことに、彼は非常に焦っていた。

 そしてまた翌日。気分が空回りばかりする中、二皇子は気晴らしに取り巻きを呼びつけて得意の碁を打っていた。

「泰王殿下。ご機嫌麗しゅう」

「……何をしに来た」

 そこに訪ねてきたのは六皇子辰王であった。容貌にあまり恵まれない二皇子は、女のような柔らかな風貌の彼のことはそもそも好きでは無い。

「いえ、私も碁のお相手でもしていただこうかと。殿下はお強いですから」

「ふん……」

 六皇子が自分に碁を習いに来るのは何度かあった。だが、今でなくてもいいだろう、といらだつ気持ちが沸き起こる。だが、所詮四皇子のおまけに過ぎないこの男に、そう目くじらを立てても仕方が無い、あまり取り乱しているところを見せるのは得策ではないと思い直した。

「ま、いい。座れ」

「はい」

 二人は碁盤を挟んで勝負を始めた。しばらく向き合うと六皇子が音を上げる。

「うーん。私の負けです。さすがです殿下」

「ふん」

 二皇子は、六皇子よりも四皇子がもっと嫌いだ。その四皇子の瑞王にそっくりの顔をした六皇子が降参するのは多少気分がいい、と思った。

「時に、殿下。顕王にはしてやられましたね」

「……たまたまだろう」

「ええそうでしょうとも。ですが、このまま陛下の関心が顕王に向かうと厄介ですね。私も四皇子あにうえもそれを心配しています」

「むむ……」

 二皇子は低い声を出してうめいた。そこに六皇子は畳みかける。

「彼の妃は叶狗璃留とぐりるの出でしょう? 彼が力を持つということはあの国がしゃしゃりでてくるかもしれない。かの国は旺に恭順の意を示していますが、今も北の国境は緊張状態にあります」

「それはいかん」

 ぴしゃり、と二皇子は六皇子の言葉を遮った。

「旺の帝国は旺の民族が支配するべきだ。他の異民族は所詮属国に過ぎん。旺の民族こそが人民を統べる力を持っているのだ」

 二皇子は心底、他国の人間を嫌っていた。得体の知れない物、変わった物を受け入れることを彼は好まない。それに母方の後ろ盾の弱い中、旺の民族が最も優れていると主張することは同じ考えをもつ高官たちの支持を得るために必要であった。

「そうですね……しかしあの叶狗璃留とぐりるの妃は馬だけではなく、山羊や羊まで後宮に持ち込んでいるとか」

「ありえん……とにかく顕王に力を持たせてはならん」

「……ええ。七皇子の律王も同じように申しておりました」

 六皇子は袖の下に、にやりとした笑みを隠した。



 その男が劉帆と蓮花の宮を訪れたのは午後のことだった。

「顕王殿下にお目通りを!」

「す、少しお待ちくださいませ」

 にわかに騒がしい入り口を不思議に思った劉帆が顔を出すと、そこにいたのは七皇子、律王であった。

「……なんだ、どうした?」

「どうしても顕王殿下に申し上げたいことがあり」

 七皇子は劉帆の姿を見つけると、随分な勢いで迫り、大声を出した。大柄な分、やたらと威圧感がある。

「一体何を? 言ってみろ」

「顕王殿下は、勘違いをされているのではとご忠告申し上げにきました」

 七皇子は腕を組み、堂々とそう言い放つ。言われた劉帆はぽかんとして蓮花を見た。蓮花も理解できなくて劉帆を見つめ返した。

「勘違いってどういうことかい?」

 いきなり押しかけて何を言うのか、劉帆はそこまで言いたいのを我慢して答える。

 つい横で様子を見ていた蓮花もカチンときて聞き返してしまった。

「劉帆が何を勘違いしていると言うの?」

「先日の競技会のことです。あくまで勝ったのは瑞王殿下。だというのに世は顕王殿下のことばかり……」

 それを聞いた蓮花はふんと鼻を鳴らした。

「なーんだ、自分が負けてばっかりだったからって文句言いに来たの」

「な、なんですと!? 今回は私の不得手な競技が多かったのです。別の種目ならば負けたりなど」

 情けない! と蓮花は叫び出しそうなのをぐっとこらえた。結局、自分の言うとおりひがんでいるだけではないか、と。それを今更ぐだぐだと言いに来るだなんて恥を知れ、とも思った。

「あー……じゃあ何なら勝てたと言うの」

 蓮花は半ば呆れてそう聞いた。劉帆が勝ったのはそれまで培ってきたものがあったからだし、なんなら運も引き寄せるのが盟主たる者の素質だ。

「そうですな……『角力すもう』などならきっと勝てたと思います」

「あっそ! じゃあ角力しましょう。ね、劉帆!?」

 そこまで言って蓮花はしまった、と思った。頭に血が上って持ちかけたものの劉帆の意見を聞いていなかった。

 だが劉帆は蓮花に向かってニヤリと笑うと、七皇子の前に挑戦的に立ちはだかった。

「いいだろう。では角力で勝負をつけよう」

「ははは、いいんですか? そんなことを言って。撤回は聞きませんよ」

 七皇子は自信満々だ。それもそのはず、七皇子は身丈もあり、恰幅が良い。一方、劉帆は身長こそあるものの、細身。相手を掴んで投げ飛ばす角力だと見るからに不理だ。

「かまわん。ではそこの庭でやろう」

「ああ、そうしましょう」

 これは妙なことになった。と、いつの間にやら野次馬もどこからともなく湧いている。

「七皇子と五皇子の力比べだって」

「それって勝負になるのか?」

「なんだなんだ」

 中には事情の分かっていない者まで混じりながら騒動を見守っていた。

「言っておきますが、手を抜いたりなどしませんからな」

「望むところだ」

「では……」

 七皇子はぐいっと上衣を脱いだ。鍛え抜いた、ただ贅肉がついただけではない、はち切れそうな肉体が露わになった。いかにも逞しい姿に見物人はおお、と声をあげる。

「さあ、顕王殿下も。着たままでは分が悪いですぞ」

「ふん……」

 確かに服を着たままではそこを掴まれてしまう。劉帆は服に手をかけると諸肌脱ぎになった。

「わっ……」

 蓮花は思わず顔を手で隠した。

「ちょっと蓮花様、大丈夫ですか!?」

 横のアリマが蓮花の反応に慌てている。蓮花は初めて見る劉帆の肌に、心臓がどきどきしてしまった。劉帆の身体は、引き締まってしなやかな筋肉が浮かび上がり、服の上から見るよりも逞しい。

「きゃあーっ、顕王殿下!」

「素敵ですわー」

 半裸になった劉帆の姿に黄色い女性の声が飛んだ。蓮花は誰がはしゃいだ声を出したのか、と振り返って眉を寄せ、七皇子はその歓声を静めるように大仰な咳払いをした。

「……こほん。顕王殿下、参りましょうか」

「ああ、いつでも来い」

 劉帆は軽く首と手首をひねると七皇子に手招きをした。二人の間に見えない火花が散るのが見えるようだ。

 劉帆が野次馬の中から一人を審判役に引っ張り出すと、どこからともなく白い布が巻かれた棒きれが出てきて、審判に渡され試合が始まる。

「で……では、はじめ!」

 開始の合図に白い布が振られると、まずバッと七皇子が劉帆に掴みかかる。七皇子は全体重をかけて劉帆を吹き飛ばそうと体当たりを仕掛けた。しかし劉帆は正面からそれを受け止めずに受け流す。次に締め上げようと素早く伸ばした腕。しかし、それはするりと交わされた。

「顕王殿下! ちょろちょろ逃げ回っていては勝負になりませんぞ」

「それもそうだな」

 劉帆はそう言うと、両手を前に構えた。

「さぁ来い」

「くっ……」

 その挑発的な表情が、七皇子は頭にきたようだ。真っ赤な顔をして劉帆に掴みかかる。そして今度は本当に劉帆は避けなかった。

「劉帆!」

 七皇子の手が劉帆の腕を掴んだ時、ああ終わったと蓮花は叫んだ。

 ――しかし、劉帆はその腕を逆方向にぐるりと回す。さらに足をかけてぐっと引き込む。すると、そのままぽーんと七皇子の身体が宙を舞った。

 バタンッ! 地を揺らし、彼の巨体が地面に叩き付けられる。

「……勝負あり!」

 審判役の男が白い布を掲げると、ワッと野次馬たちから歓声が上がった。

「そ……そんな馬鹿な……」

 七皇子はまだ自分に何があったのか理解できていない。呆然として倒れたままでいる。

「俺の勝ちだな、律王」

「こ、こちらの方が身長も重さもあったはず……! 一体何を?」

「そのお前の力を利用して投げただけさ。そういう技があるんだよ」

「なんと……」

 それを聞いて蓮花ははっとした。これは栄淳の体術ではないか。

「栄淳は隠し事しない、か……」

 それなら当然、栄淳の技を劉帆が会得しているのも分かる。なんだ、心配して損した。と蓮花はほっとした。

「そんなことが出来るなんて」

 七皇子は座して劉帆に向き直り、頭を下げた。

「顕王殿下! 失礼いたしました! 降参です」

「いいよ」

 こうして騒動は収まった。勝負の決着を見て野次馬も去り、七皇子も帰っていった。

「まったく迷惑な人だわ」

 蓮花はようやく静かになった庭でため息をついた。

「……まぁ、これは始まりでしかないだろうな。蓮花」

「え?」

「七皇子は力自慢なだけの単純で凡庸な男だ。……次もあるぞ」

 そう言って、劉帆は遠くを見つめた。



***



 鼻を突く臭気。金属……いや、これは血の臭い。悲鳴と、脂汗と絶望の涙の臭い。

「……東にひとひら、西にひとひら、いつまで経っても会えはしない。これなーんだ」

「う……う……」

「答えろ」

 暗く、じめじめとした地下室。そこに縛り上げられ蹲った男を蹴り飛ばしたのは、四皇子の瑞王であった。

「なぞなぞだ。正解したら褒美をやろう」

「お許しください。どうか……」

「お前、自分のしたことを考えろ。この私に偽の骨董品を売りつけようとしたのだ。どうせ分からないと高をくくってな」

 ひゅっ、と瑞王は何度目かの鞭を振るった。それは男の皮膚を裂き、血が噴き出した。

「ひぃっ、ひ……ひ……」

 男は痛みに悲鳴を上げる。その悲鳴に、カツンカツンと石段を下る足音が重なる。

「兄上、またここに居たのですか」

「悪いか?」

 六皇子は薄気味悪そうな顔をして、縛られた男をちらっと見て瑞王の向かいに立った。

「いえ……それよりも報告が。五皇子の件です」

「何か?」

「あの七皇子、真っ正面から力勝負を挑んで負けました」

「ははは! あいつはやっぱり馬鹿だ」

 六皇子は、自分の兄が怒り狂うかと思っていたが、反対に彼は笑い出した。

「……ふん、そんなことだろうと思ったよ。さーて、それより……なぞなぞの答えは分かったかな?」

「……ううっ」

「答えは『耳』。だめだなぁ。これではここから出してやれない」

 瑞王は実に悲しげに、男の耳に囁きかける。

「では特別にもう一問どうだ? 兄弟二人、おんなじ背丈、歩けば喧嘩、喧嘩となれば刃傷沙汰。さぁ答えろ」

「……は、はさみ?」

「正解~」

 瑞王はジョキンと男の耳にはさみを入れた。

「ぎゃあああっ!」

 その悲鳴を聞きながら、彼は静かに微笑む。

「……辰王、我らの二皇子おにいさまはきっとやってくれるさ」



 夜の中庭にヒュッ、ヒュッと空を切る音がする。

「……うーん」

 それは蓮花が劉帆から貰った刀を振る音だった。後宮に入る際に手放したので実際に試すことは出来ないが、蓮花が使っていた叶狗璃留トゥグリルの剣よりもやはり軽い。

 体の小さい蓮花にとっては、それはきっといいことなのだろうが、馴染んだ感触との違いがいまいちしっくりこなかった。

「ふんっ……」

 逆に刀身が軽い所為で、余分な力が入り、振り回されそうになる。これは何度も振って慣れるほかないだろう。そう思ってもう数日、ひたすらに刀を振っていた。

「実際に何か切ってみたらどうですかね」

 蓮花の鍛錬を横で見ていた栄淳がふと呟いた。

「そうですね……そこの竹とか」

「なるほど、切れなきゃそもそも意味がないものね」

 蓮花は中庭に生えている竹を見据えた。大きく上に振り上げ、思い切り刀で切りつける。

「あれっ、あっあっ」

「どうしました?」

「竹に食い込んで、全然切れない……なによこれ」

 ぐっと力を込めるとようやく竹に食い込んだ刀の刃を引き抜くことが出来た。

「本当ですね。ちょっと待ってください」

 栄淳が剣を持ってきて、竹を切ってみる。蓮花の目の前で、バカッと大きな音がして竹は割れた。

「……切れました」

「なによぉ、商人に騙されたんじゃない?」

 蓮花は不満げに自分の刀を見た。せっかく劉帆が蓮花のためにと手に入れたものだったが、使い物にならなければ飾りでしかない。

 それにしても、初めての妻への贈り物が刀剣というのはどうなのだろう。簪とか紅とか、そうでなくても花とかお菓子とか、普通はそういったものなのではないか。

「福晋? 眉間にしわが寄ってますよ」

「は? ええっと……なんでもないわ。残念だけど、これは諦めて普通の剣を用意しようかしら。見た目は綺麗なんだけどね」

「そうですねぇ……」

 そう答えながら、栄淳の目は竹の切り口に向いていた。

「おや、これを見て下さい。切断面が全然違う。剣よりも刀の切り口の方が綺麗です。最後まで切れていないですがね」

 そう言えば、劉帆は刀は切ることに特化していると言っていた気がする。

「ということは、この竹が切れるようになれば使いこなせるかしら」

「ええ、きっとそうです。体術でもそうでしょう。力任せにしても意味が無い。流れと勢いが大事です。それと一緒ではないでしょうか」

「そっか……」

 蓮花は手元の刀を見た。もう一度やってみよう。お洒落でも、可愛くもないけれど、せっかくの劉帆の気持ちを無駄にしたくはない。

「よーし!」

「ちょ、ちょっと待って下さい。一本二本ならともかく、福晋は庭を禿げぼうずにしそうです。竹なら明日用意しますので、今日はもうお休みください」

「そ、そう……」

 栄淳にたしなめられて、蓮花は刀を引っ込めた。

 とにかく、その日は言われた通りに部屋に戻った蓮花だったが翌日からは竹を相手に刀を振るい続けた。そうしているうちに、刀は蓮花の体に馴染んだのだろう。スパッと竹を切り落とすことが出来るようになり、余計な力も入らなくなった。

「今度は動いているものを切れるようになるわ。ほら栄淳、この吊した竹を揺すって動かしてちょうだい」

「はい……あの、でもそこまで殿下も刀を使いこなすとは思ってないのでは……」

 やり始めるととことんのめり込む蓮花に、栄淳はちょっとだけ不満そうに蓮花の稽古に付き合った。



 そんなある日、劉帆と蓮花の宮に意外な来客があった。

「妹妹!」

 二皇子の妃だ。いつものように山羊の乳を分けて欲しいとのことだったが、まさか本人自ら来るとは思わず、蓮花は少し驚いた。

「一体どうしたんですか?」

「そのう……。ね、妹妹。山羊の乳は飲んでも体に良いのよね」

「ええ。乳の出の悪い母親が赤子に飲ませるくらいです。どなたか体が悪いのですか?」

 蓮花がそう聞くと、二皇子の妃はキョロキョロとあたりを伺って小声で答えた。

「秦王殿下が……近頃落ち込み気味で食が細いのです。なので少しでも滋養のあるものを召し上がっていただきたくて」

「まあ。温めた乳は気持ちを落ち着かせるそうですよ。お大事に」

 蓮花は多めに山羊の乳を渡してやった。二皇子もその妃も、決して性格が良いとは言えないが、あれはあれで夫婦の絆があるようだ。

 蓮花はいそいそと戻っていく二皇子の妃の背中を見つめていた。



「殿下、温めた乳をお持ちしましたよ。蜂蜜も入れて甘くしてあります」

 二皇子の妃は山羊の乳を持って二皇子の部屋を訪れた。

「いらん」

「そう言わずに。顕王のお妃から頂いたんですよ」

 悲しそうにそう妃が訴える。が、それを聞いて二皇子は激高した。

「そんなもの飲めるか! 毒が入っているかもしれん!!」

「毒だなんて……わたくし自ら貰って来たのですよ」

「黙れ!」

 二皇子はどん、と妃を突き飛ばす。乳の入った椀は割れて地面に砕け散った。そうして妃を部屋から放り出し、彼は頭を掻きむしる。

「はぁ……はぁ……私は……」

 忌ま忌ましいあの弟夫婦。そこから乳を貰って来るなど、どうかしている。二皇子は唇をギリギリと噛みしめた。

「このままでは……私は……」

 永久に皇太子になどなれない。下の皇子に位を取られ、被るのは無能の冠だ。そうはさせない、そうあってはならないと二皇子は拳を握りしめた。



「ねぇ人間って不思議ね。あれが絆というやつかしら」

 その夜、蓮花は寝台に寝そべりながら語りかけた。……刀に。悲しいかな、今宵も独り寝の蓮花の話し相手はこの刀しかいない。

 蓮花は夜な夜な手にこの刀を取って素振りをしていた。慣れてくるとやはり劉帆の言うとおり、軽くて扱いやすい。ようやく蓮花の体になじんだと言えるだろう。

「そうだ、あなたに名前をつけてあげる。そうねぇ……『ゾリグ』はどうかしら。叶狗璃留トゥグリルの言葉で勇気という意味よ。どう?」

 そう話しかけても刀は返事などしない。しかし、きっとこれでこの刀は蓮花に勇気を与えてくれる、と思った。そしてそのままゾリグを抱きしめて蓮花は眠ってしまった。

「……?」

 蓮花が異変に気づいたのはそれからしばらく後だ。何かがおかしい。蓮花は訳も分からず胸がざわざわとした。と、その手にゾリグの柄が当たる。

 蓮花はそれをじっと見つめると、扉に視線を移した。何かが居るような気がする。そーっと物音を立てないようにして、蓮花は刀を手に扉へ向かい、そっと押す。中庭から見える外の月は大分傾いている。そんな深夜に何者なのか。

「ここ……ではない」

 まさか、と背筋に嫌な予感がした蓮花は走り出した。蓮花が先ほどから感じていたのは殺気だった。この蓮花の部屋の前に居ないとすれば、あとはただ一つ。そう、劉帆の部屋だ。

「……やめろっ!」

 誰かと争う劉帆の声がする。蓮花はバタンと部屋のドアを開け放つと、刀を抜いた。

 部屋の中では劉帆が覆面の黒ずくめの服を着た男に首元を抑えられ、刃物を突きつけられている。

「その手を離して!」

「ちっ」

 そいつは短く舌打ちをすると身を翻して逃げ出した。

「待てっ」

 蓮花はその背を追いかけ切りつけた。が、浅かったようだ。その男はよろめいたものの、足を止めることなく走り出す。蓮花もその後を追ったが、やがて見失ってしまった。

「……くそっ」

 仕方なく蓮花が宮に帰ると、辺りは騒然となっていた。蓮花の姿を見ると、慌ててアリマが駆け寄ってきた。

「あっ、蓮花様! 無事だったんですね。姿が見えないのでどうしたのかと」

「私は大丈夫。劉帆は!?」

「俺は平気だよ」

 人垣の中から声がする。人を押しのけて進むと、劉帆が栄淳に手当を受けていた。

「平気じゃありませんよ。傷が出来てるじゃないですか……跡が残るほどではないようですが」

「痛いっ、そっとやれ……そっと……」

 栄淳は劉帆の頬に軟膏を塗っている。見ればそこに切り傷が出来ていた。それを見た途端、カッとなって蓮花は机を叩いた。

「あいつ……!」

 あの男は劉帆を殺しに来たのだ。改めて蓮花は腹の底から怒りが湧いてきた。

「蓮花……ちょっとこっちへこい」

「何?」

 呼ばれるままに劉帆の側に行くと、ぐっと手を引かれた。その勢いで蓮花は劉帆の胸の中に倒れ込む。

「あっ……」

「蓮花、ありがとう。まさか助けに来てくれるなんて思わなかった。……そっちは怪我は無かったか?」

「う、うん。大丈夫。その……変な気配がしたから私……劉帆の部屋に行って」

 蓮花は顔を真っ赤にして、しどろもどろになりながら答えた。

「そうか、凄いな。本当に狼みたいだ。良かった! 蓮花が妃で」

「そう……そっか……」

 彼女の頭が沸騰するかと思ったその時、栄淳がわざとらしい咳払いをした。

「手当は終わりました。さて、犯人を探さなければなりません」

 そうだ、その通り。と蓮花は居住まいを正した。

「あ……えっと、入り込んだ賊は切りつけたけど仕留め損なっちゃって。そのまま逃がしてしまったの」

「そうですか……」

「見失ったところまでは案内出来るわ」



 深夜の回廊にぼうっと灯がともる。蓮花と栄淳は、犯人が逃げた跡を追っていた。ちなみに劉帆も付いてくると言ったが栄淳に叱られて留守番をさせられている。

「こちらですか」

「うん、この辺までは来たの」

「ふーむ」

 栄淳は手燭を掲げて、辺りを窺う。

「あ、これを見て下さい」

 蓮花が彼が指さす方を見ると、血が点々と床に落ちていた。蓮花は犯人の背中を切りつけた。きっとこれはその怪我の血に違いない。その血の跡を追って行くと辿り着いたのは……二皇子の宮だった。

「やっぱり、ですか」

 栄淳の顔は険しい。もし誰かが劉帆の命を狙うとしたら、いずれかの皇子だとは蓮花も思っていた。

「そこの陰に隠れて……ここは私にお任せください」

 栄淳は蓮花の前に出て彼女を手で制すと、入り口の門に向かった。

 そして二人の門番と何やら話をしている。その間に片方が中に入ったりまた出てきたりとしていたが、しばらくすると栄淳は首を振りながら戻ってきた。

「どうだった?」

「やはり話になりません。一応、夜盗がそちらに逃げ込んだかもしれないとは言ったんですが、そんなものは知らないの一点張りで」

「はぁ……」

 二皇子はしらを切り通すようだ。

「こちらも警備はしていました。それをすり抜けてくるということは、あちらにそういう手の者がいるのでしょう」

 夜陰に紛れて忍び込み、標的の喉元に刃を突きつける。そのような者に狙われている以上、しばらくは守備を固くするしかなさそうだ。

「どうだった」

 仕方なく蓮花と栄淳は宮に戻った。すると、置いてけぼりを食らった劉帆が駆け寄ってきた。

「それが……おそらく二皇子の宮に逃げ込んだと思われるのですがそれ以上は追い切れませんでした。申し訳ございません殿下」

「そうか……」

「相手は手負いだから、しばらくは大丈夫だと思うけど」

「それでも傷が癒えたらまた来るだろうな。うむ……」

 劉帆は難しい顔をした。何か出来ることはないだろうか。蓮花も考えを巡らせた。

「あ、昼間に二皇子の宮に行って、そいつを探してみるのはどうかしら。二皇子は具合が悪いそうだからお見舞いだとかって。あ……でも背中を怪我してる人を見つけ出すのは難しいか。劉帆、犯人に何か特徴は無い? 私は男ということしか分からなかったけれど劉帆は近くで見たでしょ」

 蓮花が聞くと、劉帆はその時のことを思い出したのか手を打った。

「そうだ……その男には左目の下にほくろがあった」

「なるほど。では早速明日行ってみましょう」

 それにしても散々な日だ。窓の外を見ると、もう空は白々と明け始めている。

「とりあえず少しでも寝ましょう」

「ああ……って、蓮花どこに横になってる。そこは俺の寝台だ」

 どさくさに紛れて劉帆の部屋で眠ろうとする蓮花を、劉帆はぐっと押しのけた。

「だってだって、ついさっき狙われたばかりなのよ」

「……相手は手傷を負っている。警戒を強めてるこちらにすぐに来ることはないよ」

 大丈夫だ、と強く言い含められて、蓮花は劉帆の部屋からつまみ出された。



 それはともかく翌日、劉帆と蓮花は栄淳を伴って二皇子の宮に向かった。

「泰王殿下にお見舞いの品をお持ちしました。お目通りを願います」

 ところが客間に出てきたのは二皇子の妃のみだった。

「あら妹妹、ありがとう……でもね、殿下はまだご気分が優れないみたいで」

「そうですか。では贈り物だけ置きますね。大嫂子おねえさまも少し顔色が悪いみたい……お喋りしましょうよ」

「え、ええ……」

 蓮花は未だ、とちらりと栄淳を見た。その意図を察した彼はすっと姿を消す。それからしばらく、蓮花は劉帆と一緒に妃と談笑していた。

「ああ、少し気が晴れたわ」

「良かった。また来ますね。それではお大事に」

 戻る蓮花と劉帆の後ろに、栄淳が合流する。二皇子の宮から距離が出来、人通りが途切れると、栄淳は劉帆に耳打ちした。

「……殿下」

「栄淳、どうだった」

「残念ながら涙ぼくろの男はおりませんでした」

 もしかして傷のためにどこかで伏せっているのかもしれない。それとももうこの後宮から出て雲隠れでもしたのかもしれない。

「別の方法を考えよう」

 三人は一度退いて、次の手を考えることにした。

 だが、宮に帰るなり劉帆はとんでもないことを言い出した。

「え、夜に忍び込む?」

「ああ。昼に正面から行って駄目なら、夜しかないだろう。忍び込んであの賊を探すか、そいつにつながる証拠を探す」

「そんな……劉帆が行かないと駄目なの?」

 正攻法から行っても無駄なのは分かるが、そもそも狙われたのは劉帆なのだ。彼自ら敵陣に忍び込むなんて危険すぎる。

「悲しいかな、こっちには手練れの者はいないからな」

「ご安心ください、私が付いています」

「栄淳……」

「でも福晋は待っていてくださいね。さすがに女性は連れて行けません」

「ええ?」

 当然のようについて行くつもりだった蓮花は不満の声を漏らした。

「蓮花、見つからないよう人数は少ないほうがいい。今回は待っていてくれ」

「……わかったわ」

 蓮花はしぶしぶ頷いた。

 ――そして夜更け。蓮花に見送られて劉帆と栄淳は二皇子の宮へと向かっていった。

「こっちだ」

 目立たぬよう黒い服に身を包んだ二人は、まずは使用人部屋に向かった。そして、寝ている使用人を見て回る。だがそれらしい者はいない。

「あまりじっくり見ていると感づかれます」

「ああ」

 昼間に働いている使用人の顔は栄淳が確認している。怪しい者が居ないようなので、今度は裏庭に向かい、納屋などの目立たないところを探す。

「居ない、か……」

 もしかして怪我で動けなくて人目のないところに潜んでいないかと思ったのだが、期待通りには行かなかった。

「殿下、もう城下に身を移しているのかもしれません。で、あれば繋がりの証拠を押さえたほうが」

「そうだな……」

 劉帆たちがその場を後にしようとした、その時だった。

「何者だ!」

 灯火が、劉帆と栄淳を照らす。しまった、見つかったと思った時には衛兵に四方を囲まれていた。

「く……」

「逃げましょう!」

 二人はすぐにその場から逃走を図る。が、警備の衛兵はすらりと剣を抜く。

「しかたない……」

 劉帆と栄淳も剣を抜いて、立ち向かった。

「どこの者だ!」

「……」

 答えない劉帆の目の前に、ビュンと剣の切っ先がかすめる。その動きに無駄は無く、中々の手練れのようだ。よく言えば慎重、悪く言えば臆病な二皇子は、大金を払って警護に武道に秀でた者を雇い入れていた。

「くっ!」

 そんな者たちの攻撃を躱すうち、劉帆も栄淳も気がつけば裏庭の隅に追い詰められていた。

「……お逃げ下さい。ここは私が。あなたさえ無事なら何とかなります。大丈夫、私も後から行きます」

 栄淳はそう言うが、そんな言葉がどれほど信じられるだろう。劉帆のこめかみに緊張の汗が流れる。

「くせ者め、死ね!」

 更に迫り来る刃に、栄淳がその身をさらして劉帆を守ろうとした。

「ぐっ……!」

「がぁっ!」

 だが、突然に目の前の衛兵たちがバタバタと倒れていった。その背には矢が刺さっている。

「誰だ……!? 一体……」

 そう言いながら最後の一人が倒れる。劉帆と栄淳は何が起こったのか分からず、呆然としてその様を見つめていた。そして月明かりの中、黒衣の人物が覆面を取る。

「……平気? 怪我してない?」

「蓮花! お前……」

 まさかと思い、劉帆は目をこすったが、その色の薄い瞳は間違いなく蓮花だった。

「危なかったわね」

「どうして……」

「やっぱ劉帆が心配だったから。じっとしてられなくて……ごめんね」

 蓮花は申し訳なさそうにしている。だが、その手には弓矢と刀――ゾリグが握られていた。これが衛兵たちを倒したのだ。

「ほら、二手なら見つかりにくいかなって……」

「しかたない……これから書斎を捜索する。そしたらとっとと帰るからな」

 とがめたり叱ったりしている場合ではない。それは後回しだ。劉帆はため息をついた。

「……うん!」

 蓮花の表情がどこか嬉しそうなのはなんなのだ、と思いながら、今はとにかく少しでも手がかりを得ることが必要だと劉帆は切り替えた。

「ここね……」

 三人は二皇子の書斎に潜り込むことに成功した。

「指示書や書簡を探せ」

 そこかしこの戸棚や机の上を探して、何か糸口になるようなものを探す。

「これでは?」

 棚を探っていた栄淳が竹簡を手に駆け寄ってきた。それはまさに殺しの対価に金を支払うという誓約書の写しだった。

「相手は城下の無法者のようです……ここを押さえて、泰王を脅せば手を引くでしょう」

「うむ。もう十分だ。蓮花、帰るぞ! ……蓮花?」

 劉帆は声をかけても反応しない蓮花を訝しんだ。彼女はただ呆然として立ち尽くしている。

「蓮花、どうした」

「……これ」

 蓮花から掠れた声がようやく出た。その視線の先には、月明かりにぼんやりと浮かぶ白い毛皮があった。

「兄様の天幕から盗まれた狼の毛皮……」

「え?」

 それがここにある、という意味を劉帆は瞬時に理解した。蓮花の兄バヤルを殺した下手人が直接……あるいは誰かの手を通してここに持ち込んだ、ということだ。

 蓮花が探していた真実が近い。蓮花は震えながら顔を覆い、うつむいた。

 そしてその次の瞬間、蓮花はその毛皮を掴むと部屋を駆けだしていった。

「おい蓮花!? ま、待て! どこ行くんだ」

 劉帆は慌てて後を追う。すると蓮花はそのまま二皇子の寝室に飛び込んで行き、声の限りに叫んだ。

「どうして! どうしてこれがあるの!?」

 劉帆が一歩遅れて駆けつけると、蓮花は寝台で眠っていたのであろう二皇子の胸ぐらを掴み、ガクガクと揺さぶりながら泣き叫んでいた。

「何だ!? 何なのだ?」

 二皇子は何が起こっているのか理解できないようで、おどおどとした表情を浮かべていた。

「妹妹……」

 一緒に寝ていた妃は、それが蓮花だと気づいて震えている。この騒ぎに使用人たちも駆けつけてきたがどうしていいか分からず、オロオロしていた。

「そ、それは……旺に逆らう北方の不届き者を成敗させた者からの献上品だ」

「不届き者……?」

 蓮花の顔が憤怒の色に染まる。二皇子の寝間着の襟を掴む手に、ぎりぎりと力がこもる。

「なにが不届き者だ! 兄様は旺との和平を何よりも望んでいた! それを……それを……」

 二皇子を問い詰める声に、嗚咽が混じる。蓮花の目からは涙が流れていた。しかし、二皇子はそんな蓮花をあざ笑った。

「はっ、夷狄ごときが旺と共にあろうと言うのが間違いなのだ。人民を統べる力のない野蛮人など滅びればいい」

「なんだと!」

 許しがたい侮辱の言葉に、蓮花の手が刀の柄に伸びる。

「蓮花!」

 だがその時、劉帆の腕が後ろから伸びて彼女を引っ張った。

「それは駄目だ!」

「だけど、この男は兄様を殺したのよ……兄様を……あんなに優しい兄様を……」

 ようやく己の命の危機だと察した二皇子は顔を青ざめさせて弁解をはじめた。

「わ、私は邪魔者を処分せよと申したまでで……」

「黙れ!」

 劉帆の手を払い、蓮花は矢を放つ。その鏃が、二皇子の頬すれすれに掠め、壁に突き刺さった。

「ひっ……」

「お前が殺したも同然じゃないか! 人を殺すのなら殺されても文句は言えないでしょう。違う?」

 蓮花は足下に転がっていた白銀の狼の毛皮を拾うと、それを身につけた。亡きバヤルの無念をその身に宿すように。

「……私はこれ以上、私の大切なものをお前に奪わせない。いつでもどこに居ても付け狙ってやる」

 蓮花は再び弓を引き、矢を放った。その矢は今度は二皇子の脚の間、身体のぎりぎりに深々と刺さる。

「……たとえこの身が滅んだって私は許さない」

 蓮花はつかつかと怯えきった二皇子の前に近づき、その耳元で囁いた。

「……」

 ぼそぼそと何か聞き取れぬ低い声に、二皇子は怯えた声を出した。

「な、何だ……?」

「私の侍女は巫女の家系なの。そこに伝わるしゅをかけた。お前を身の内から滅ぼす呪いの言葉。さて、どうなるか楽しみね」

「ひいぃっ」

「殿下!」

 悲鳴をあげ、顔面蒼白で震えだした二皇子を、妃が抱え込んだ。

「ごめんなさい……ごめんなさい……どうか許して」

 妃がそう助けを乞う姿を見て、ようやく蓮花の中から目の前を真っ赤に染めていた怒りが冷めていく。蓮花が身体を引いたのを見て、劉帆は重たく口を開いた。

「泰王、俺を狙ったことは口外しない。その代わり……このことも忘れろ。叶狗璃留トゥグリルの王子を暗殺したことが知られればお前も色々とまずいだろう」

 劉帆はそう言って、後ろから蓮花を引き寄せて抱きしめる。

「蓮花……すまなかった」

 背に感じる劉帆の体温に、復讐の炎に包まれていた蓮花の心が静まっていく。劉帆は謝らなくてもいいのに、そう思いながら、蓮花は自分を抱きしめている劉帆の腕に手を添えた。

「……ううん。もう大丈夫」

「帰ろう」

「うん」

 蓮花たちが踵を返すと、事の次第を声も出せずに見つめていた、二皇子の宮の者が避けるようにさっと道を空ける。その間を通って彼らは帰っていった。



 ――その後、二皇子泰王は療養の為とのことで、後宮を去り離宮で過ごすことになった。風の噂では、二皇子は何やら夜な夜な悪夢にうなされ、独り言をひっきりなしに言うようになったらしい。

 しばらくすると二皇子の妃からは蓮花に書簡が届き、そこには「これで良かったのかもしれません」と、短く書いてあった。

「呪いって本当にあるんだな。恐ろしいな……」

 二皇子の噂話を聞いた劉帆は身をすくませた。が、それを聞いて蓮花はぽかんとしている。

「え? なにそれ」

「ほら、呪いをかけたぞって言っていたじゃないか」

「ああ、あれ……アレね、実は寺院にお参りする時のお祈りの言葉なのよ。とっさにソレっぽいことを言っただけで……呪いの言葉なんか知らないもの。もしかしたら本人にやましい気持ちがあったから呪いになったのかもね」

 蓮花は少し気まずそうな顔をしてそう答える。その横にには白銀と金毛の狼の毛皮が揃って並んでいた。



***



 その日の朝、劉帆から提案された内容に、蓮花は驚いて声をあげた。

「え、城下町に出る!?」

「ああ、蓮花は旺に来てもすぐ後宮に入ってしまったから帝都をみたことがないだろう?」

 確かに、道中で少しだけ宿から脱走したけれど、あとは花嫁行列の輿の隙間からチラリと帝都を覗いただけだ。

「行きたいけど……でもいいの?」

「もちろん禁じられてる。だからこっそり行くんだ」

「わぁ……」

 見渡す限りの草原とは違う人里の、それもどこより大きなこの都の町並みを見られるなんて、と蓮花の胸は高鳴った。

「でも、急になんでそんなことを?」

「いや……ここのところ色々あったからな、たまには息抜きもいいかなって」

「そっか、ありがとう劉帆」

 こうなったら善は急げと、蓮花は着替えに自室に向かおうとした。

「ああ、蓮花が着るのはこれだ」

 ところが劉帆が差し出したのは、同じく地味だが男物の服だった。蓮花が服を受けとって妙な顔をしていると、そこに栄淳が現れた。

「女人の姿では後宮から出て行けません。殿下と福晋は私のお供ということにしますので」

「栄淳……」

「月に一度の寺参り、ということになっております。お召し替えを」

「分かったわ」

 男装姿でも外出に変わりはない。蓮花は早速着替え、髪を髷に結った。

「開門ー!」

 馬車に乗った栄淳、……と、そのお供に扮した蓮花と劉帆。門兵の声と共に門が開く。

「いよいよね」

「しっ……静かに蓮花」

 劉帆と蓮花は素知らぬ顔で栄淳の乗った馬車の脇をついていく。しばらく黙って歩いてから、人目がないことを確かめると、蓮花はふうと息をついた。

「出られ……ちゃった」

「ああ」

 蓮花たちの目の前には広い通りがあり、そこには沢山の人々が肩をぶつけそうになりながら行き交っている。ひしめき合うその人々の目当ては、ずらりと並ぶ市場の商店の数々だ。

「こちらをお持ちになってください。馬車は市場に入れませんし」

 栄淳は革袋を蓮花に手渡した。

「これは?」

「小銭です。普通の買い物で金貨だの銀錠は使えませんから」

「ありがとう。栄淳はどうするの?」

「私は建前どおりに寺に行きます。坊主に金でもにぎらせておけば、しばし長居しても文句は言わないでしょう」

 そう言って栄淳は馬を出発させて行ってしまった。

「……」

「蓮花、何をぼーっとしてるんだ?」

「え、あ! なんでもないわ」

 蓮花は微笑んでごまかしたが、内心は重大なことに気がついて慌てていた。

 それは――そう、劉帆と二人っきりなのだ。大抵の時はいつも栄淳かアリマがそばについている。だけど今日は本当に二人だけで街を見物するのだ。

「蓮花、こっちに行ってみよう」

 そんな蓮花の胸の内など知らぬ劉帆は、通りを指さして蓮花を誘う。

「う、うん!」

 ごまかすように大きな声で返事をして、蓮花は慌てて劉帆の後を追って駆けだした。

「朝採れたての野菜はいかが? 新鮮だよ!」

「ゆで卵はいらんかね」

「この織物を見てちょうだい、このとおり真っ白だ。質の良い証拠だよ」

 活気のある物売りの声が飛び交う。蓮花はその様子が面白くてきょろきょろと辺りを見渡した。

「蓮花……と、この格好だと呼び名が目立つな。そうだな……兄弟という設定にして、『弟弟ていてい』でいいか」

「……はい」

 なぜかそれさえも気恥ずかしい蓮花であった。

「おっ、いい匂いだ」

 そんな蓮花の気持ちなんて全く気づかずに、劉帆はなにやら鼻をひくつかせている。

「あっちだ。行こう弟弟」

 まるで子供みたいだ、と蓮花は思った。しかし、もしかしたら本当の劉帆はこういう人なのかもしれないなどと思った。皇子という重責から解き放たれた本当の姿は……。

「うわぁ、うまそうだなあ」

 目の前の屋台ではタレを塗られた肉が串に刺されてじゅうじゅうと炙られていた。

「ほんとだ」

「お兄さん方、丸々太った家鴨の焼き鳥だよ」

「二つくれ」

「あいよ」

 革袋から銭を出して代わりに焼き鳥串を受け取る。待ちきれないとばかりに二人は串にかぶりついた。

「うん! 皮はパリパリ、肉は旨味が詰まっている。どうだ、弟弟」

「このタレが美味しい。叶狗璃留トゥグリルの料理は基本味付けは塩だけだから、こっちの味付けは色々あって楽しいね」

 市場には他にも食器を売る店、履き物を売る店、本屋、傘や鋳物の修理屋など様々な店が軒を連ねている。大きな間口の立派な店もあれば、地面にゴザを敷いただけの露天もある。

「何か欲しいものがあれば言えよ」

「うん」

 蓮花はキョロキョロとあたりを見渡す、すると人の集まっているのが見える。

「あれは何かしら」

「行ってみよう」

 人垣をかき分けて行ってみると、それは軽業師の一団だった。まだほんの小さな少年が、玉の上に乗って転がしていて観客の喝采を浴びている。

「ご覧の皆様、これよりこの男女が演舞いたします!」

 シャンシャンと鈴や太鼓が鳴り、一組の男女が前に躍り出る。

「わぁ……」

 蓮花はその光景に目を見張った。女性がくるりくるりと回りながら、男の肩に登る。そのまま倒れること無く、最後は頭の上に手を置いて女は逆立ちになった。

「すごいすごい!」

「たいしたものだ」

 と、見物人一同はその技に驚き、大きなどよめきが起きた。

「お気に召しましたらこちらに銭を投げて下さいまし」

 先ほど口上を述べた男が籠を持って回ると、次々と銭が投げ入れられた。蓮花も一緒になって投げ銭をする。

「大層な見物だったな」

「ええ」

 蓮花と劉帆は、そうして賑やかな都の市場を楽しんでいた。



 そんな華やかな表通りの一方で、打ち壊された壁、饐えた下水の臭い、どこからか来ては彷徨いている野良犬。そんなものに囲まれた貧民窟に栄淳はいた。

「はぁ、お大尽様がこんなところになんの用で」

 ぼりぼりとシラミの湧く頭を掻きながら、栄淳に声をかけられた男は悪態をつきながら答えた。

「お前らの首領を出せ」

 栄淳は低い声を出し、剣をちらつかせて男を脅す。

「――殿下の命を狙ったけじめはつけとかなくてはな」

 そしてその数日後、帝都の堀には一体の死体が浮かんでいた。引き上げられたその亡骸は目の下に涙ぼくろがあった。



***



「ご機嫌麗しゅう、皇后陛下」

「お久しぶりね、顕王」

 劉帆と蓮花の二人は、今日は皇后陛下の元に来ていた。先方からお誘いがあって、お見舞いとご機嫌伺いに伺ったといったところだ。

「まずは殿下のお参りをしましょう。話はそれからね」

 三人は亡き皇太子の霊が祀られている廟に赴き、参拝をした。

「皇太子殿下、今日はお若い二人がやって来て下さいましたよ」

 皇后は嬉しそうにそう呟いて手を合わせた。

「……皇太子殿下は私のことをいつも気にかけてくださいました」

「わたくしが殿下を連れて夏妃のところによく行っていたからでしょうね。殿下はあなたが赤ちゃんの頃から見ていたのよ」

 皇后と劉帆は懐かしそうに目を細めている。

「夏妃という方は顕王殿下のお母様ですよね」

「そうよ。本当に心根の優しい方で、この後宮で気の許せる数少ない相手だったわ。どうして良い人ばかり儚くなってしまうのでしょう……ああ駄目ね、暗くなっては。さぁ、とっておきのお菓子と上等のお茶を用意してありますよ。参りましょう」

 こうして皇后は二人を引き連れて、自分の居宮の中庭に向かった。季節は夏の初め。水色の爽やかな空と、繁り始めた木々の葉擦れの音に囲まれた池の畔の東屋には、心地よい風が吹いている。

「今日はね。二人にお願いがあって呼んだの」

「なんでしょう、皇后陛下」

「あのね、『天苗節』の祭司を二人に務めて欲しいと思って」

「天苗節? ……ってなんですか」

 蓮花は初めて聞く言葉に思わず聞き返した。

「天苗節は種まきの時期に行う祭祀で、豊穣の女神に農作物が健やかに育つよう、豊かに実るようお祈りするものよ。宮廷では国全体の豊穣を祈って、皇族の若い男女が女神の使いに扮して舞うの」

「へぇ……」

 基本は放牧と狩りで生計を立て、農作物は外から買うものだった叶狗璃留トゥグリルの生活には無かった習慣だ。

「あなたたちならぴったりだと思って」

 にこっと笑顔を浮かべる皇后に、劉帆は拱手し答えた。

「かしこまりました。謹んでお受けいたします」

「よろしくお願いします。叶狗璃留トゥグリルで食べられている穀物に旺のものも沢山あります。豊かな実りは私も心から願うことです」

 劉帆も蓮花もその申し出に喜んで首を縦に振ると、皇后はほっとした表情で二人の手を握った。

「なんか嬉しいな」

 帰り道の回廊の途中で、劉帆がふっと呟く。

「どうしたの? 急に」

「皇后陛下が俺を初めて頼ってくれた」

「ここのところの劉帆の頑張りが伝わっているのよ」

 蓮花は励ますように、気恥ずかしいような表情の劉帆の背中をパン、と叩いた。



 ところが、そうすんなりと事は進まないようだ。その日、蓮花は劉帆から聞いた言葉に耳を疑った。

「え、祭司のお役目が中止!?」

「正確には保留、だ」

 劉帆は面倒くさそうにがりがりと頭を掻きながら、長椅子に身を預けた。

 彼の話によると、皇后が皇帝に祭司の役のことを伝えたところ、江貴妃から物言いが入ったらしい。彼女に言わせると、例年は四皇子夫妻が祭司を務めており、今年もそれでいいのではないかと。この言い分に皇帝は強いことを言えずに、話が宙ぶらりんになっているようだった。

「厄介ね……でも……」

 ここで劉帆たちが強硬に祭司の役目を務める益はさほどない。江貴妃の一族にますます目をつけられるだろうし、下手をすれば皇帝の心証も悪くなる。

「だが皇后陛下の面子というものもある。なんというか……陛下は何事も穏便に進めようとし過ぎる」

 劉帆はそう嘆いたが、対処することも出来ず、結局二人は流れに任せる格好になった。

 だが、事態は急に動き出す。

 数日後、部屋で書を読んでいた蓮花は、慌てた様子のアリマに客間に来るよう促された。

「待っておりましたよ」

 そこには白髪の老女が椅子に座って待っており、その横で劉帆が困ったような顔をしている。

 彼女が身に纏っている物は地味な色味ながら、見るからに一級品。只者ではない雰囲気を醸し出すその人の顔に、蓮花は見覚えがあった。確か婚儀の時に一度挨拶をしたはずだ。

「皇太后様……」

「まったくあの子には困ったものです。こんな些細なことをなぁなぁにして」

「あの……こんなところまでいらして、どうしたのでしょうか」

「嫌ですよ、天苗節の祭司の話です。なんでもそなたたちが務めるはずが、あの江貴妃が文句をつけたというじゃありませんか」

「はぁ……」

 だからと言ってどうして皇太后がここに出てくるのだろう。蓮花はちらっと劉帆を見たが、劉帆は黙って首を振るだけだった。

「ですからね、言ってやったのです。例年通りで良いというあの女の言い分も確かに一理ある。だったらいっそ、この宮廷の臣下たちにどちらがふさわしいか決めて貰おうと」

 皇太后の満面の笑みに、蓮花も劉帆も嫌な予感がした。

「御花園の池のほとりにあるクチナシの木、あれにそれぞれの色の絹地のきれを結びつけるの。ほら、そなたらの色は青、瑞王たちの色は赤」

「え、ええ……?」

 蓮花は青い布を受け取ったものの、戸惑った。これはどうしたらいいのだろうか。

「いい? 祭司にふさわしい人格と品を持った方の布を結びつけなさいと触れをだしますからね。選ばれるようにしっかり励むように」

「……はい」

 皇后は言うべきことは伝えた、と席を立つと足早に去って行った。

「これ、どういうこと?」

「つまり……四皇子と俺たちと、どちらがふさわしいか選挙をさせるということだな」

「ええ……?」

「皇太后陛下は江貴妃が大嫌いなんだ。今回の件で大手を振って嫁いびりをするつもりなのだろう」

 そう言って劉帆は頭を抱えた。皇太后の目的がそれならば、自分たちは絶対に負けられない。祭司に選ばれなければ皇太后の顔を潰すことになるのだ。

「はぁ……大変なことだわ」

 こうして、四皇子・瑞王夫妻と蓮花たちとの戦いが始まったのだった。



「なあ聞いたか、あのお触れ」

「ああ、布を二種類渡された」

「なぁどっちにする?」

「いやあ、別にどっちでも……」

 投票の権利は「宮廷の人間なら誰でも」というお触れ通りに文官、武官を問わず、対象は門番や厨の職人、ゴミ捨て場の管理人まで及び、選挙の話はすぐに広がった。だが逆に臣下たちは決め手がないので困ってしまった。

「実際に木を見に行って、巻き付けられたキレの数を確かめないか」

「そうだ、そうしよう」

 幾人かがそう思いついて、そして幾人かはただ面倒なのでさっさと投票を済ませてしまおうと御花園に向かった。そしてそこにある光景に驚いたのである。

「やぁやぁ諸君、ご苦労様だね」

「瑞王殿下……」

 そこには四皇子夫妻が揃って立っていた。

「私たちは例年、心を込めて奉納の舞と祈りを収めているんだよ。なぁお前」

「ええ」

「ああ、そうだ。仕事の合間を縫ってここまでいらした方々に感謝をしないとだ。お前、あれを渡してあげなさい」

「はい、殿下」

 四皇子の妃は漆塗りの重箱を手に、びっくりしている臣下の者の前に進み出た。

「おひとつどうぞ」

「お菓子ですか……ええ?」

 色鮮やかな餅菓子のてっぺんにはよく見れば何か光るものが乗っていた。それは翡翠や珊瑚の玉であった。

「甘いものはお嫌いかな」

「い……いえ、いただきます」

 皆そのようなものを断るはずがない。ありがたくいただいて、ぺっと吐き出した宝玉は懐にしまった。



「何これ……」

 宮の使用人を連れて投票しに御花園に来た蓮花と劉帆は、木を見て驚いた。真っ赤な布が枝のあちこちに結びつけてある。青い布は本当に数えるほどだった。

「うーん、みんな四皇子がいいのかぁ」

「そんなはずはありません、福晋」

 一瞬納得しかけた蓮花に栄淳はぴしゃりと言い放った。

「滞りなく儀式が済めば、誰でもどっちでもかまわない……と思いますよ」

「それって」

「買収していますね」

 金で票を買うなんて汚い、と蓮花は思ったが、さほど重要でもないことに巻き込まれている分、それくらいの旨味があったほうになびくのも仕方ないとも考えた。

「劉帆、どうしようかしら」

「うむ……」

「私に考えがございます」

 そこに栄淳が口を挟んだ。

「票は最終日に数えられます。ですからそれまでにこれ以上の青い布が木に巻き付いていればいい訳です」

「どうやるの? また夜中に忍んで行く? 見張りが居るわ。賄賂には目を瞑ったみたいだけど……」

 蓮花は木の下に待機している衛兵をちらっと見た。あくびをして退屈そうだが、おかしなことをしたらきっと咎めるだろう。

「いいえ、要は皆が殿下たちに投票したくなるようにすればいいのです。例えば……『六日、晴天。クチナシの木は赤い。だがどうだ、顕王殿下は今日は農村に鋤や鍬を五十ずつ贈った』と書いた紙を何枚か撒きましょう。すると読んだ人の中には木に赤い布が多いことに疑問を持つ人もいるでしょう。そして青い布を手にとるのです」

「本当にそうかしら? それに鋤や鍬なんて贈ってないわ」

「これから贈るんですよ」

 栄淳はそれから贈り物の手配をさっさと済ませると、やたらと大げさに劉帆たちを褒め称える文書を書いて匿名で流した。それらは皆に回し読みされ、ああでもないこうでもない、と議論になって、何人かは栄淳の言うとおりに青い布を巻きに行った。

「『十日、木に青も見られるも赤優勢』……ねぇ、ここ青が優勢、って書いたら駄目なの」

「行ったら嘘だってすぐ分かるじゃないですか。それより、今日は寺です。孤児に甘くて美味しい干し棗を寄付、です」

「はいはい、行ってきますよ」

 きっと子供たちは可愛いだろうし、寄付に寺に行くのは別にいいのだが、問題が出てきていた。蓮花は懐から入手した紙を取りだして劉帆に見せた。

「ねぇ、劉帆。これ見た?」

「ああ見た。『貧民窟の堀の修繕に寄付、帝都の齢六十を超えた老人に薬用酒を進呈、瑞王の妃は美しい、丸い額に豊かな黒髪で小鳥のような声で話す』……」

「もうなんだか分からなくなってきたわね」

 蓮花たちの動きを察知した瑞王たちの陣営も対抗してきたのだ。同様に、いかに四王子夫妻が人格と品のある人物であることをかき立てる紙がすぐに出回るようになっていた。

 最初こそ効果のあったこの紙も、おかげで効果が弱まっている。

「だけどあっちみたいに賄賂は嫌」

「同感だ。同じ穴の狢になってはいけない」

 とはいえ明確な打開策はない。とにかく、寺でもどこでも行かなくては差は開く一方だ。

 だが、劉帆たちと四皇子たちが祭司の座を争っている最中に、それは起こった。

 国の中央を流れる大河が先の長雨で増水し、河は溢れ、辺り一面が水浸しになったという知らせが早馬とともにもたらされたのだ。

「畏れながら申し上げます、大河の氾濫により南頌なんしょうの地方が浸水したとのこと」

 大事の報告を受けて、これに対し朝廷は皇軍の派兵を決定した。

「では皇軍を向かわせ、水害の対処と治安の維持に努めよ」

「はっ」

 臣下たちは大急ぎで、派兵の準備に駆けずり回った。

 

「大変ね、心配だわ……」

「ああ、あの一帯は氾濫が度々起こるんだ。治水工事もしているはずだが、監督官は江貴妃の縁戚だ。まともに工事しているのか……」

 劉帆の顔が曇る。汚職と賄賂にまみれたあれらが不正をして、工事が機能していない可能性は十分にあった。

「劉帆、現地に行きましょう!」

「蓮花……」

「禁軍みたいな大規模な軍隊は動くのが遅くなる。行軍よりも馬だけならずっと早く辿り着けるわ」

 蓮花はすっくと立ち上がった。劉帆の返答を待たず、そのまま荷物をまとめようと自室に向かおうとすると、栄淳がその行く先を遮った。

「福晋、お待ちください。今は四皇子との勝負中ですよ」

「そんなのどうでもいいわ。ちゃんと柳老師と地理の勉強もしたもの。南の地方は穀倉地帯でもあるんでしょ、豊穣祭の祭司よりもよほど重大だわ」

 蓮花はきっぱりとした口調で言い切った。しかしなおも栄淳は食い下がる。

「でも馬で駆けつけて出来ることは少ないです」

「それでも行った方がいい。きっと現地の人は不安よ。草原でなにか困った時はどんな人でも助けるの。そうしないと厳しい気候ですぐに死んでしまうから。助けがいずれ来るって分かるだけでも希望になるわ」

「……分かりました」

 栄淳はじっと蓮花の話を聞き、にやりと笑った。相変わらず素直ではない男である。

「栄淳、うちの妃は只者じゃない。我らもすぐ用意をするぞ!」

「ちょ、ちょっと待って下さい。私も行きますー」

 急にせわしなく動き出した三人を見て、慌ててアリマも準備をしだした。



 ここにおいては蓮花とアリマが活躍した。もともと季節によって居住地を変える生活をしている民族だ。騎馬民族の最大の武器はその機動力にある。最低限の装備で早く遠くまで移動する術が、彼女らには身についていた。

「最初は余計なものは持たないで荷物は軽くして。馬の足が遅くなるから。途中の街で馬に乗るだけ差し入れる食料を買って積みましょう」

「金はどうする? 必要だろう」

 蓮花は女官たちも総動員しててきぱきと指示をしている。アリマの動きにも迷いがない。劉帆が荷物を点検しながら聞くと蓮花はこう答えた。

「水害で物がなければお金は役に立たないわ。それなら日用品や衣類の方がいいと思う」

「なるほど」

 劉帆は頷きながら、その生きる知恵に感心していた。旺では物を蓄えた方が良いという考えが強いが、叶狗璃留トゥグリルでは必要なものだけを所有する。その大地の厳しさに磨かれたような生き方は自分たちにはないものだ。

「積んだ荷物にはこの毛織りの布をかけて。雨を弾いて、上着や敷物、簡単な天幕の代わりにもなるわ」

 蓮花が持ってきたのは花嫁道具の毛織物だった。鮮やかな色彩の刺繍が施され、広げると大判で、全身を包む位ある。

「あとは縄と短剣と鍋があればなんとかなるわ。いきましょう!」

 蓮花はソリルの手綱を引くと、劉帆たちを伴って出発した。



 水害にあった南頌の民衆は、高台の寺の周辺に避難している。

 この中には農地が水没した者もいる。それに家を流された者、家族が河に飲み込まれたものもいる。生き残った者で身を寄せ合って、わずかな家財道具を抱えながら不安に震えていた。それにもう何日もまともなものを食べてもいない。

「おい、何か器を持って集まれ!」

 その時、大声でそう叫びながら男があたりに声をかけて回っている。不思議に思った人々は顔をあげた。

「なんだ?」

「粥を配ってる! 肉も入っているぞ!」

 それを聞いた人々は、次々と椀を持って男の指さす方へ向かった。

「はい、並んで並んで」

 寺の境内に列が出来ている。それをさばいているのは栄淳だった。簡易的にこしらえた竈に火をおこし、鍋で粥を炊いているのは蓮花とアリマだ。蓮花は明るい調子で粥の入った椀を住民に差し出す。

「あったかいうちに食べてね。まだあるからね」

「痛った……手を切った」

 その二人の横で干し肉を刻んでいるのは劉帆だ。慣れないことをして、指を切ってしまったらしい。



 粥はやがて寺に避難していた皆に行き渡った。すると劉帆はうずくまる住民の前に立った。

「腹はふくれたか? では聞け。私は第五皇子の顕王。ただいま帝国は皇軍をこちらに派遣している。十分な食料に水、衣類もある。皆、不安もあろうが間もなくの辛抱だ」

 それを聞いた住民は驚いて腰を抜かしそうになった。さっきまで炊き出しを手伝っていた男性が、皇子と聞いてにわかには信じられなかった。

「皇子様だって……? まさか皇族が自らいらっしゃるなんて」

「と、いうことはあの方は……」

 皆の視線が蓮花に集まる。蓮花はそれに微笑みを返した。それを見計らって、劉帆は蓮花の正体を明らかにする。

「妃もこうして同行して、皆の境遇に心を痛めている」

「明日も近くの街から物資を持ってくるわ。元気を出してね」

 劉帆と蓮花の言葉に、どよめきが起こった。膝をついて額を地面につける者、手を合わせて拝む者までいる。

「ああ……なんてありがたい」

 それから数日、蓮花たちは離れた街を往復して、住民たちのために食料や水、衣服を調達して回った。

「ありがと、ソリル。いっぱい働いたわね」

 蓮花が愛馬の首を撫でると、彼は満足げに鼻を鳴らした。

 そして、現地の住民に手伝って貰いながら、寺以外の場所にも支援の手を伸ばす。

 そうこうしているうちにようやく皇軍が南頌に到着した。

「諸君、民の為に救援を頼むぞ」

 劉帆はそう彼らに声をかけ、蓮花達一同は、土嚢を積み瓦礫を撤去する彼らを見守った後に宮殿へと帰った。

「顕王殿下、多大な支援をありがとうございました。これは当寺に伝わる宝物でございます」

 最後にはそう言って高名な画工の残した絵を献上され、それは戻った後に皇帝陛下に捧げられた。

「素晴らしい……」

 風流を愛する皇帝はこの絵を大層気に入り、顕王の働きを大いに褒め、絵を自身の寝室に飾らせた。

「やっぱり行ってよかったわね」

「ああ。皆喜んでくれたし。大変なのはこれからだけど……」

「そうね、頑張って欲しいわ」

 蓮花と劉帆はようやくほっと胸をなで下ろしたが、事態はそれだけでは終わらなかった。

「大変です、大変です!」

「なぁに? そんなに慌てて」

 劉帆と一緒に蓮花がお茶を楽しんでいると、大きな声で慌ててアリマがやってきた。その手には何やら紙が握られている。

「こ、こんなものが今流行っているそうで……」

 それは詩だった。目を通すと、先日の大河の氾濫に女神が舞い降りて衆生を救い、その現世の姿こそ蓮花である……といった内容だった。

「なにこれ、なにこれ!」

 それを読んだ蓮花は羞恥心で顔を真っ赤にする。

 その上、その蓮花たちが水害の被災地に駆けつけたことが世間話として広く伝わっているという。

 劉帆もその話を聞いて困惑を隠せない表情をしている。

「遠くから来た人に物珍しいことを聞くのはどこも変わらないのですねぇ、殿下」

「それにしても話が回るのが早すぎないか。……まさか栄淳」

「さて……何のことでしょう」

 栄淳はしれっとした顔で答えた。

 ――そうして御花園のクチナシの木には青い布が多数はためくことになった。

 女神の化身の蓮花を儀式に出さない訳にはいかない、という意見が多く飛びかったのである。

「善因善果、情けは人の為ならずというのは本当ね」

 これを受けて劉帆と蓮花は二人揃って、無事に天苗節の祭司を務め、祭文を読み豊穣の舞を奉納したのだった。



***



 華やかな天苗節が終わったその夜、四王子瑞王は例の地下牢で椅子に腰掛け、その背に体を預けていた。

「罰杖を。辰王」

 そう横の六皇子に声をかけると、彼は血の滲んだ棒を手にした。

「は……兄上」

 言われるがまま、六皇子は罰杖を振り下ろす。それは木の台に括り付けられた奴隷を打ちすえ、奴隷はくぐもった声を漏らした。

「足らんぞ、それでは」

 瑞王は酒瓶を傾けて中身を呷りながら、六皇子をけしかけた。六皇子はほんの少し不満げな顔をした後、何度も奴隷を叩く。この兄の不機嫌の原因は明らかだ。

「全く……何が女神の化身だ。馬鹿馬鹿しい。これでやつらは皇太后と皇帝の覚えめでたくなった訳だ」

「忌ま忌ましいことです」

「……このままにはさせん」

 そう言い捨てながら瑞王はさらに酒を呷った。その顔は赤く、かなり酒が回っているようだ。

 今回のことで彼らの母である江貴妃の面目も丸つぶれである。皇太后と五皇子顕王の高笑いが聞こえるようで、瑞王はひたすら気分が悪かった。

「兄上、どうしてくれましょうか。呪術師を呼びますか」

 六皇子のその言葉は本気だったのだが、瑞王は口の端をつり上げて笑った。

「はっ……それもいいかもしれんな」

 瑞王は立ち上がり、六皇子の手にしていた罰杖を奪い取ると、奴隷を強く打ち据えた。

 ソレが呻いたり動いたりしなくなるまで、何度も、何度も。



 なにやらきな臭い動きのある中で、蓮花たちはというと忙しい日々を過ごしていた。皇族だけではない。どこぞの高官だの、出入りの大商人だのの接触が増えたのだ。やれ酒宴だ、会合だ、と人が群がり寄ってくる。

「虫のいい話だわ」

 いかに、今まで自分たちの立場が軽んじられていたのかが分かって、蓮花はぼやいた。

 今日は久しぶりに時間が取れて後宮書庫に来ている。そのぼやきを耳にした柳老師は忠告した。

「福晋、新しく近寄る者には十分注意なさいませ。ご威光にすがろうとするくらいなら可愛いものです。中にはよからぬ考えの者もおります」

「……はい、本当に」

 皇太子になる為には、皇帝陛下の関心がこちらに向くことは良いことだ。だが、それを良く思わない者は当然いる。あの四皇子を筆頭にして。

 だから蓮花は爪を研がなくてはならない。あらゆる害から劉帆を守り抜く為に。

「柳老師、本日もご指導お願いいたします」

 蓮花は深々と頭を垂れ、柳老師の講義を始めた。



「あ! お邪魔しております」

「あら……またいらしたの」

 授業を終えて蓮花が宮に戻ると、庭で七皇子が劉帆と組み合いをしていた。あれから彼は時折、こちらに訪れてきては劉帆と栄淳に体術を習っているのだった。彼に関して心配は……まあ、大丈夫だろうと蓮花は思ってはいるのだが。

「いやぁ、顕王殿下のここのところのご活躍、我がことのように嬉しいですな。ここだけの話……殿下が次の皇太子、ということもあるのではないですか?」

 が、すぐに蓮花は頭を抱えたくなった。相変わらずこの皇子には配慮というものがない。たとえそう考えていたとしても、真っ正面から口にされたら答えづらいものだ。

「ほほほ……そんな勿体ないことですわ」

 そう適当に答えて蓮花は逃げるようにしてさっさと自室に向かった。

「ねぇ……もう帰った?」

「ああ、律王か。もう夜だし帰ったよ。それで部屋に引っ込んでいたのか」

 しばらくして蓮花が部屋から出て、こわごわ劉帆に聞くと、彼はその顔を見て苦笑していた。

「だってあの人ずけずけ物を言うんですもの」

「俺としてはあれぐらいスキがある方がありがたいけどな……」

 劉帆はふっと窓の外を見る。こうしてその視線の先に思い浮かべているのは誰の顔なのか。

「……綺麗な月ね」

「今夜は満月か。風が気持ちいいな。よし蓮花、一杯やろう。おい! 酒とつまみを持ってこい」

 劉帆は女官にそう言いつけると、蓮花を連れて夏の草香る庭に出た。

「そら、葡萄酒だ」

「ありがとう」

 受け取った杯に満たされた葡萄酒にはまん丸い月が反射していて、口をつけると、芳醇な味わいが口の中に広がる。だが、今宵の劉帆の誘いは唐突で蓮花は不思議に思った。

「その……急にどうしたの?」

「ずっと……謝らなきゃと思っていて」

「何を?」

「……泰王にとどめを刺すことを止めたことを、きちんと詫びなくてはと。その……もちろんあの場で蓮花が殺していたら大変なことになっていたのだけれど、しかし……あれは蓮花の兄上の仇なのに」

「ああ……そうね。この手で仕留められなかったのは確かに残念だわ。でも……あの二皇子の妃の目を見ていたら……出来なかった気がするわ」

「そうか」

 少し強い風が吹き、蓮花の髪を乱す。月の光を受けて、琥珀の瞳は揺れていた。

「バヤル兄様は……もう帰ってこないもの。それよりも今は私、兄様のやりたかったことを成し遂げたいの。それにはあなたの力が必要。七皇子はあんな感じだし、二皇子はもう……あとは四皇子。でしょ?」

「ああ、その四皇子の瑞王が厄介なんだがな。彼は江貴妃の血を強く引いている。あの、抜け目のない、残酷な女の……」

「そんなに?」

 蓮花はあのとてつもない若さを保った女がそこまでとは思えなかった。皇帝の寵愛があるから好き勝手できるだけであって、ただそれにすがっている女としか思っていなかったのだ。

「江貴妃は恐ろしい女だ。何人もの妃嬪や宮女が彼女に陥れられ、暗殺された。毒殺されたり、簀巻きにして池に沈められたり……それらは握りつぶされて事故や自殺をされたけれど、知っている者は知っている。かつては俺の母も俺も危なかった。ある時、霊廟の像が破損された時、犯人にされそうになったんだ。皇后陛下が一緒にいたと証言してくれたから助かったけれど」

「まぁ……」

「瑞王とその弟辰王もよく似て残酷だ。彼らの宮からは使用人や出入りの者が何人も行方不明になっていると聞く。それはきっと……」

 蓮花は恐ろしい話を聞いてごくりと固唾を飲み、首を振る。

「……そんな人物を未来の皇帝にしてはいけないわ」

「だが、この国は長幼の序を重んじる。二皇子が執務にあたれないとなれば、次の候補は瑞王になる」

 蓮花には、それがどうも納得できなかった。それではまるで愚か者を頭に置いて、滅びの道を突き進むようにしか思えなかったのだ。

叶狗璃留トゥグリルなら、兄弟のうち最も優れた者を後継者にするわ。それよりもっと大事なことは八氏族の合議で決めるの」

「そういうところはいいな。より良い方法を合理的に決められる」

「そうね、でも……旺の社会の仕組みは凄いと思うわ。複雑できめ細かくて、それぞれの役割が明確。だから優れた大きな事業もできる」

「……お互いの国の良いところを取り入れれば良い国になりそうだ」

「本当に」

 蓮花と劉帆は互いに見つめ合い、ふっと笑った。

 劉帆はしばらくじっと手の中の杯をもてあそんでいたが、中身をぐっと飲み干すと、蓮花に向き合ってその手を取った。

「蓮花。改めてありがとう。蓮花が妃で良かった。君と婚姻を結んで俺の運命は変わった。そしてこれからも……。蓮花はこの間『女神の化身』だなんて噂になって照れていたけど、俺にとっては女神そのものだ」

「劉帆……」

「俺が皇太子の位を得るまで……きっとあと少しだ」

 劉帆は蓮花の肩に手を回し、抱きしめた。そして強く力を込めて、その耳元で囁く。

「……すべてが終わったら……その時は蓮花を妻として抱くよ」

「えっ……は、はい!」

 蓮花はその言葉になんだか胸が詰まって泣きそうになってしまった。

「蓮花……俺の草原の花。俺と共に途方もない夢を見よう」

「ええ……きっと」

 ――固く抱き合う二人を、中天の満月が見下ろしていた。



 パタリ、と小さな音を立てて劉帆の自室の扉が閉まる。

「……とうとう言ってしまった」

 劉帆の小さな呟きが暗い部屋に溶けていく。少し酒が酔いすぎたのかもしれない。

 彼は寝台に腰掛けると、一人で目元を覆った。

 そうして思い出すのは皇帝から、叶狗璃留トゥグリルの姫との婚姻話を持ちかけられた時のことだった。

「……叶狗璃留とぐりるですか」

「ああ、一時期の勢いは無いものの、属国の中でも大きな国だ。なにより軍事に強い。その国との繋がりを強固にするのはこの旺にとって必要なことだ。受けてくれるな、顕王」

「はい……謹んで」

 互いの国の人身御供か、とその時は思った。これが皇太子妃などとなれば厄介だが五皇子ならば繋ぎ止めるのに丁度よい、そのように皇帝も思ったのだろう。

「異民族の嫁かぁ。どう思う、栄淳」

叶狗璃留とぐりるは勇猛果敢な戦士の国ですね。丈夫な方が嫁いでこられるのでは」

「丈夫さが売りってのもな……」

 蛮族、夷狄と呼ばれる民の地だ。姫と言ったってたがが知れている。劉帆はそんな風に思っていた。とにかくこれから自分は事を成すのだ。邪魔にならないのならそれでいい。

 皇帝に命じられた劉帆は、しぶしぶ叶狗璃留トゥグリルの地まで花嫁を迎えに行った。

「あの……私です」

「お前か。ふむ……」

 戸惑った顔で自分に声をかけてきた晴れ着の娘を、劉帆はまじまじと見つめた。

 絹糸のような黒髪、抜けるように白い肌、赤い唇、そしてなによりも印象的だったのは大きな瞳の蜂蜜のような色。思っていたのとまったく違う。

「俺は旺の五皇子劉帆だ」

「わ、私は蓮花……です」

 蛮族というからには、日に焼けた厳つい女を想像していたのだ。だがそんなものとはかけ離れていた。

 皇太子貞彰が亡くなってから、劉帆は次の皇太子になるまで女を断つと誓っている。醜女ならば目にいれないで済むと思っていたのに困ったことになった。

「へぇ、叶狗璃留とぐりるの女は初めて見たが、なかなか可愛いじゃないか。良かった、熊みたいのじゃあなくて」

「熊……?」

「はははは! 冗談だ」

 せめて嫌われようと、劉帆はいかにも頭の悪そうな軽口を彼女に叩いたのだった。

 そして次に驚いたのは旺への道中、盗賊に襲われた時だ。

「栄淳、剣を取れ。我らも参るぞ」

「お待ちください、危険です。衛兵に任せましょう」

「しかしこちらには叶狗璃留とぐりるの花嫁がいるのだ」

「しかし……。ん!?」

 外を見た栄淳が、柄にもない素っ頓狂な声を出した。どうした、と劉帆も輿から身を乗り出すと息を飲んだ。

 そこには白馬に跨がり、弓を放つ蓮花の姿があった。

「強い……ですね」

「ああ、動きに迷いがない。まさか女人にあんな……」

 まるで狼だ。と思った。鋭い牙で獲物を仕留める草原の王者。後宮のよちよち歩きの愛玩犬とは格が違う。

 そしてその彼女が、殺された兄の無念を晴らそうとしているのを聞いて、劉帆の覚悟は決まったのだ。こんな姫君などどこにもいない。彼女こそ、劉帆の懐刀。兄弟たちを出し抜く最大の武器になると。

「この決められた盤上をひっくり返す……それが……」

 はじめは互いの目的を果たす同盟のようなものだと、劉帆は理解していた。

 けれど、蓮花の明るい振る舞い、何事も一生懸命な姿を見ているうちにそれが変化していった。

 そして一度、まさかの蓮花の方から夫婦の交わりを迫られた時に、はっきりと自覚した。

 自分は蓮花を好いている。女性として、妻として愛していると。しかし、まだ何も成していない不安定なこの身の上で、それを口にするのは躊躇われた。

 だが、ついに劉帆は思いを蓮花に伝えた。もう、後戻りは出来ない。二人手を取り、この国の玉座に着くのだ。……絶対に。

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