私の大好きな彼氏はみんなに優しい

第98話

「ただ…」  

　遥希くんが静かに続けるその声に、私の心臓は再び跳ねた。

　その優しいトーンの裏に、何か特別な意味が込められているのではないかと感じた。

　彼が何を言おうとしているのかを考えると、少し不安になった。

「ただ？」  

　私は問い返した。

　その瞬間、胸がドキドキと高鳴るのを感じた。

　遥希くん言葉の続きを待ちながら、怖いような、でも聞きたいような、複雑な感情が私を包み込んでいた。

「心桜ちゃんがどれだけ頑張って文化祭の準備をしてるか一番近くで見てきた立場としては、最後まで見届けて欲しい、かな。なんて…」  

　遥希くんの優しい声が胸に響く。

　彼の目をそっと見ると、その奥には真剣な思いが込められている気がして、思わず目を伏せた。

　彼は本当に私の努力を見ていてくれたんだ。

　その気遣いが嬉しい反面、それ以上に、自分が文化祭に行かないと口にした弱さが恥ずかしく思えた。

　"行くべき"


　先輩が言ったあの一言が今さら頭をよぎる。

　もしかして、先輩のあの言葉には、こんな意味が含まれていたのかも…。

　あのときは何も考えずに反発してしまったけれど、もしかしたら先輩なりの優しさだったのかもしれない。

　そう思うと胸の奥がざわつく。

　ただの私の思い過ごしなんだろうか。

「本当は、私も…」  

　ぽつりと呟く。

　自分の本心が言葉になる瞬間、胸がぎゅっと締め付けられた。

　行きたくないと駄々をこねていたくせに、心の奥では本当は行きたいと思っている。

　だけど、どうしてもあの男のことが頭をよぎる。

　目をつむるたびに浮かんでくるあの嫌な記憶が、文化祭を楽しむことなんて到底無理だと思わせる。

　文化祭に行ったところで、みんなの笑顔を見ても自分はその輪の中に入れないだろう。

　楽しめる自信がどうしても持てなかった。

「あ、見て、あの雲チューリップみたいじゃない？」  

　遥希くんの声がふいに耳に届き、顔を上げた。

　その指差す方向を見ると、確かにふわっと広がった雲がチューリップの形をしているように見える。

　彼の軽やかな声に少し救われる気がした。

　胸に溜まった重い感情が、少しだけ薄れていく気がした。

「えー、言われてみれば、たしかに、そんな気もする」  

　なんとか口に出したその言葉には、まだ少し力がこもっていない。

「あれは、クマみたいだよ」  

　遥希くんがまた別の雲を指差して笑う。

　その姿を見て、私は少しだけ笑顔が浮かんだ。

　彼のこうした無邪気な一面に、少しずつ心がほぐれていく。

「くまよりは犬に似てない？」  

　私は自然に言葉を返した。

　気づけば、少しだけ気持ちが軽くなっていた。

　まだ完全に悩みが消えたわけではないけれど、遥希くんの存在が私を少しずつ前向きな気持ちにしてくれているのを感じた。

「えーそうかな」  

　遥希くんが首をかしげて言う。

　その表情に、また少しだけ笑みがこぼれる。
　彼の純粋さに救われる自分がいる。

　彼がいることで、重苦しかった心が少しずつ軽くなっていくように感じた。

「だってほら耳がさ…」  

　私は遥希くんに向けてもう一度指差して説明する。

　何気ない会話をするこの瞬間だけでも、不安や恐怖を忘れられる。

　もし、この時間がもっと続けば、きっと私は少しずつ前を向けるようになるのかもしれない。



　そんな淡い期待を抱きながら、雲を見つめ続けた。