私の大好きな彼氏はみんなに優しい

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第129話

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「私、一人で帰る!」

 絞り出すように出たその言葉は、声にすることでしか耐えられなかった気持ちの断片だった。  

 自分でも驚くくらい、感情が先に動いていた。  
 でも、それが今の私の精一杯だった。  

 一人で帰るなら、沙紀先輩と一緒に帰ることもなくなる。  

 遥希くんを巻き込むこともない。 

 最初からこうするべきだった。

「何言ってるの、心桜」

 柊先輩の声が強く響いた瞬間、体がびくっと反応した。

 その響きに胸がひゅっと縮こまる。  
 まるで子どもみたいに叱られているような感覚。

「そうだよ、一人は危ないよ」

 遥希くんの声は少し焦っていて、でも本当に心配してくれているのが伝わった。  

 だけど、今はその優しさすら胸に刺さる。  

「大丈夫だよ。文化祭まであの男は来ないんだから」

 私は頷くかわりに、小さく目を伏せた。  

 今いちばん怖いのは、あの男よりもこの場の、この空気。

「そういう問題じゃなくて、」

 柊先輩の言葉が、また私の思いを遮るように降ってくる。  

 張り詰めた空気に重ねられる。  

 先輩が何を言いたいのか、私にもなんとなくわかっていた。  

「もう四人で帰ったらいいじゃん。ね?」

 沙紀先輩のその一言は、笑顔を乗せて投げられた。

 一見柔らかくて、親切に見えるその“提案”。  “ね?”と同意を求める、その言い方。  

 それが、断ることが“非常識”かのような空気に包まれていく。  

 私に「空気を読め」と言っているようで、胸がひりつく。  

 そうしているうちに、何が自分の本音で、何が“場を壊さないための言葉”なのか、もうわからなくなっていく。

「それでもいい?心桜ちゃん」

 その言葉は、まるで足元をそっと照らす灯りのようだった。  

 遥希くんは、周囲の空気に流されることなく、ちゃんと私の目を見て言ってくれた。  

 “誰が何を言っていても、最後に決めるのは心桜ちゃんだよ”

 その気持ちが、言葉の端々から伝わってくる。  

 誰の「正解」でもなくて、自分で選ぶ時間をくれたようで、少しだけ胸が温かくなる。

「…うん、」

 小さく返したその一言には、たくさんの感情を詰め込んでいた。  

 我慢、迷い、でも、ほんのわずかな安心。  

 さっきまでぐらぐらしていた気持ちが、少しだけ輪郭を取り戻していく。

「ほら、すっかり暗くなってきたし、早く帰ろっ!」

 沙紀先輩が明るく声を上げて、間を繋ぐように笑ってみせる。  

 でも、それが逆に妙に浮いて聞こえるのは、私の気のせいじゃないと思う。  

 そして、まだ納得のいかない顔をしている柊先輩の腕を、何の迷いもなく引いた。  

「一人で歩けるから引っ張らないでよ」

 柊先輩は、低く落ち着いた声でそう言う。

 それでも沙紀先輩は、笑顔を崩さないまま、柊先輩の腕をそっと引き続ける。  

 まるで、その言葉さえも軽やかに受け流すように。  

 まるで、最初からその反応を予想していたかのように。  

 ふたりの背中がゆっくりと遠ざかっていく。  

 肩と肩が触れるくらいの距離で並びながら、同じ歩幅で歩く姿が妙に整いすぎていて、

 私の胸の奥にぽつんと冷たいものが落ちた。  

 全てが、沙紀先輩の思い通りに動いている気がする。

 あの言葉も、あの誘導も、あの“笑顔”すらも。  

「大丈夫だよ」

 遥希くんの声が、そっと横から届いた。  
 穏やかで優しくて、いつものように静かな声。  

 そして、そっと私の頭をポンポンと撫でてくれた。  

 その手のあたたかさに、呼吸が少し楽になる。

「ありがとう。私達も行こっか、」


 ぎこちなく笑ってそう言った。  



 そうしないと、今にも泣き出しそうだったから。  
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