その魔法が解ける前に

hayama_25

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第56話

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「誰かに乾かして貰うのなんて初めてだよ」

 その言葉を聞いた瞬間、胸の奥がきゅっと締めつけられた。

 壱馬さんの声は、どこか照れくさそうで、でも隠しきれない嬉しさが滲んでいた。

 その響きが、私の心に静かに染み込んでくる。

 初めて。
 その言葉が持つ重みを、私は知っている。

 誰かに髪を乾かしてもらうという、ささやかな行為。

 それは、誰かに身を委ねること。
 安心して背中を預けること。
 無防備な時間を、誰かと共有すること。

 彼の過去の静けさをそっと覗かせるようで、胸の奥がじんわりと熱くなる。

 誰かに甘えることができなかった時間。

 そんな彼が、私にそれを許してくれている。

 私は、ドライヤーを持つ手に少しだけ力を込めた。

「私も、誰かの髪を乾かすのは初めてです」

 そう言いながら、指先が少しだけ震えた。

 壱馬さんの髪に触れていることが、まだどこか現実味がなくて。

 でも、確かにそこにある。

 彼の髪の柔らかさ、
 首筋に落ちる水滴、
 ドライヤーの温風に揺れる髪の動き。

 すべてが、私の手の中にある。

「幸せだなぁ」

 その言葉に、胸が跳ねた。

 壱馬さんの声が、あまりにも素直で、あたたかくて。

 幸せという言葉を、こんなにも自然に口にする人がいるなんて。

 それが、私に向けられていることが、信じられなくて、でも嬉しくて。

 私は、彼の髪を乾かしながら、そっと目を閉じた。
 この時間が、永遠に続けばいいのに。

 この距離が、これ以上近づいてしまうのが怖い。
 でも、離れてしまうのはもっと怖い。

「喜んでもらえたならよかったです」

 壱馬さんの幸せに少しでも触れられたことが、私自身の幸せにもなっていた。

「たまに乾かしてくれる?」

 その言葉に、指先が止まりそうになる。
 それは、これからも隣にいてほしいという願い。

 それを、当たり前に言ってくれるから…。

「私が、壱馬さんの隣にいるのなら、」

 小さな声だった。
 風に紛れてしまいそうなほどの、かすかな呟き。

 でも、私の中では、その言葉が何度も何度も響いていた。

 私の願いであり、同時に恐れでもあった。

 私がいつまで壱馬さんの隣にいられるか分からない。

 この穏やかな時間が、いつまで続くのか分からない。

 お姉様に見つかってしまったら、きっとすべてが終わってしまう。

 壱馬さんが優しくしてくださるから、その優しさに触れるたびに、心がほどけていく。

 ほどけて、ほどけて、

 気づけば、壱馬さんの隣が“当たり前”になってしまいそうで。

 でも、それがいちばん怖い。

 当たり前になったものほど、失ったときに痛みが大きい。

 壱馬さんの優しさは、私の心を癒してくれる。
 その分、いつか来る別れが辛くなる。

 あの時の、あの気持ちは、もう二度と経験したくない。

 彼の髪を乾かす手が、少しだけ止まりそうになる。
 でも、止めたくなかった。

 この時間を、少しでも長く続けたかった。

「え、なんて?」

 壱馬さんが後ろを振り返った瞬間、その動きが予想よりも近くて、

 顔が、ほんの数センチの距離に迫った。

「…っ、」

 息が止まった。

 目の前にある彼の瞳。
 濡れた髪から落ちる水滴。
 少しだけ開いた唇。

 そのすべてが、私の視界を埋め尽くしていた。

 その距離に、心臓が跳ねる。
 でも、逃げられなかった。
 逃げたくなかった。

 この瞬間が、何かを変えてしまいそうで、でも…
 変わってもいいと思ってしまった。

 私は、壱馬さんの瞳を見つめながら、心の中でそっと呟いた。



 “壱馬さん、私は…
 あなたの隣にいたいと思ってしまったんです”
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