その魔法が解ける前に

hayama_25

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第72話

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「大したことありませんので、」

 そう言った声は、自分でも驚くほど弱々しかった。
 本当は、体が重くて、喉も痛くて、

 目の奥がじんじんと熱を持っているのが分かっていた。

 でも、“大したことない”と言わなければならなかった。

 誰かに心配されることが、迷惑をかけることのように思えてしまうから。

 立ち上がろうとした瞬間───────

「だめ」

 壱馬さんの手が、私の肩にそっと触れた。

 その手のひらの温もりが、あまりにも優しかった。

「ですが、今日はドライブに」

 声が震えていた。

 約束を守りたかった。
 壱馬さんとの時間を大切にしたかった。

「それは、また今度。時間はいくらでもあるんだから。ね?」

 その言葉に、胸の奥がじんわりと熱くなった。

 私は知っている。

 時間は、永遠じゃない。

 人との関係も、約束も、いつか終わってしまう。
 だからこそ、今を大切にしたかった。

 それなのに、結局こうなってしまった。

「…分かりました」

 その返事は、自分でも驚くほど静かだった。
 受け入れるしかなかった。

 時間はあと、どれくらい残ってるんだろうか。

 その問いが、胸の奥にぽつんと浮かんだ。

 誰にも聞けない。
 誰にも答えられない。

 でも、確かにそこにある不安だった。

「お粥作ってくるから寝てて」

 その言葉に、思わず顔を上げた。

「それなら私が、」

 反射的にそう言ってしまった。 

 体は重い。
 頭も痛い。

 でも、“自分でやる”ことが、私の中では当たり前だった。

「病人は大人しくしてなさい」

 その言葉に、胸がきゅっとなった。

 誰かに看病された記憶なんて、思い返しても、幼い頃に数回程度。

 それも、ほんの一瞬。熱が出ても、泣いても、

「静かにしていなさい」と言われるだけだった。

 どれだけ熱が高くても、家事は全部済ませないといけなかった。

 他に使用人がいても、それは“お姉様のため”に動く人たちであって、

 私のために何かをしてくれる人ではなかった。

 だから、私は黙って動いた。

 体が重くても、関節が痛くても、 

 誰にも言わずに、誰にも頼らずに、

 全部を済ませてから、ようやくベッドに戻る。

 そして、誰にも気づかれないように、誰にも迷惑をかけないように、

 布団の中で、ただ熱が下がるのを待つだけ。

 その時間が、あまりにも長くて、あまりにも孤独で、でも、それが普通だった。

 誰かに心配されること。
 誰かが、私のためにお粥を作ってくれること。

 それは、私の人生には存在しないものだった。

「これぐらい、いつも一人で何とかしてきましたから」

 その言葉は、まるで自分自身への言い訳のようだった。

 誰にも迷惑をかけず、そうやって生きてきた。
 それが、私の“生き方”だった。

「もう一人じゃないでしょ?」

 その言葉が、まるで胸の奥にそっと触れてくるようで。

 涙が、こぼれそうになった。
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