その魔法が解ける前に

hayama_25

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第82話

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 ベッドの縁に、壱馬さんの手がそっと置かれる。

 その音はしなかった。
 でも、空気がふっと揺れた。

 私の世界に、彼が静かに入り込んでくる。

 その手の位置が、私のすぐそばにある布に触れて、
 まるで、わたしを囲むような体勢になる。

 その瞬間、空気が変わった。

 呼吸が浅くなる。
 鼓動が耳の奥で鳴り響く。

 逃げ道がなくなった。
 でも、怖くはなかった。

 威圧でも強引さでもなくて、ただ、私の心にそっと寄り添うような、静かな包囲だった。

「壱馬さん…?」

 声が漏れたのは、彼の気配があまりにも濃くて、心が震えたからだった。

 私は、壱馬さんの顔が近づいてくるのを感じて、思わず目を瞑った。

 心の準備なんて、できていなかった。
 でも、拒む気持ちもなかった。

 むしろ…

 壱馬さんの唇が、そっと静かに、私の額に落ちた。

 その一瞬、時間が止まったように感じた。

「…っ、」

 声にならない声が、喉の奥で震えた。

 優しくて、温かくて、でもどこか切ないキスだった。

 まるで「ここまで」と線を引くような、優しい拒絶にも似ていた。

 唇の感触が、額に残っている。

 それは、“好き”と告げるよりも、ずっと深くて、ずっと優しい、壱馬さんの気持ちだった。

「…はい、終わり。もう寝な?」

 その言葉はまるで魔法が解けるように、空気を柔らかくした。

「は、はい…」

 声が震えたのは、感情が溢れそうだったから。

 壱馬さんは、私の顔をもう一度だけ見て、何も言わずに、ゆっくりと立ち上がった。

 その動作は、まるで何かを振りほどくように、でも、私を傷つけないように、丁寧で静かだった。

「おやすみ、花澄」

 その声が、背中越しに、まるで風のように届いた。

「お、おやすみなさい」

 私の声は、小さくて震えていて、まるで自分の胸の奥に向けて放ったような、小さな祈りだった。

 壱馬さんの背中が、ドアの向こうへと消えていく。

 ドアが静かに閉まる。

 “カチリ”という音が、私の世界から、彼の気配をそっと切り離した。

 でも、部屋の中にはまだ、壱馬さんのぬくもりが残っていた。

 キス…されるかと思った。

 壱馬さんの顔が近づいてきた時、怖くなかった。

 目を瞑ったのは、拒むためじゃなくて、受け入れる準備だったのかもしれない。

 でも、触れたのは額だった。

 ちゃんと距離を守ってくれる壱馬さんに、胸がぎゅっとなった。

 まだ、“好き”とは言えない。

 でも、“嫌いじゃない”なんて言葉じゃ、もう足りない気がする。

「はぁ…熱、上がっちゃったかも」

 そう呟いた瞬間、自分でも何に反応してるのか分からなかった。

 体が火照ってるのは、風邪のせい?
 それとも……。

 どきどきしてる。
 胸が、ずっと鳴ってる。

 壱馬さんの声が、目が、距離が、全部近すぎて。

 私は、壱馬さんとどうなりたいんだろう。

 これからも、ずっと一緒にいたい。
 隣にいてほしい。

 壱馬さんの声が聞こえると心が跳ねるし、
 その目が向けられると、胸が熱くなる。

 それが、答えなんだと思う。

 でも、壱馬さんの気持ちに、応えていいのかな。

 私に、そんな資格があるのかな。

 私よりも素敵な人なんて、きっとたくさんいる。

 壱馬さんの隣に立つなら、もっと綺麗で、もっと明るくて、もっと自信のある人が似合うんだろうな。

 …きっと、怖いんだ。

 いつか捨てられるんじゃないかと思うことが。

 私が始めさえしなければ、終わりなんて来ないから。

 私の大切なものは、いつもお姉様に奪われてきた。

 私が大事に思っていたものは、全部、お姉様のものになっていった。

 私が欲しいって思った瞬間に、それはもう、私の手には届かなくなる。

 壱馬さんのことも、もし私が“好き”って思ってしまったら、

 きっとまた、誰かに奪われる。

 そんな気がして、その一歩が踏み出せない。
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