その魔法が解ける前に

hayama_25

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第31話

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「……ほんとにいいの?」  

 壱馬の低い声が静かな店内に響いた。  

 言葉の余韻が残る。心の奥がざわつく。  

 一瞬、視線が揺れる。

 答えを出すことができなくて、ほんの数秒、躊躇ってしまう。  

 でも、その沈黙が長く続けば続くほど、この場の空気が重くなる。

「はい、一人で食べるのは寂しいじゃないですか」  

 ゆっくりと言葉を紡ぐ。

 微笑みを添えながら、それでも胸の奥で小さな波が立つのを感じる。  

 壱馬の表情を窺うけど、何も変わらない。
 ただ静かに座っているだけ。  

「花澄さんもそう言ってることだし、遠慮なく!」  

 彼女の明るい声が、その微妙な緊張感をかき消すように響いた。  

 店員が気を利かせ、すぐに椅子を準備し始める。  

 カーペットの敷かれた床に、椅子の脚が軽く擦れる音が響く。  

 店員は丁寧な動作で、テーブルの配置をほんの少し整え、自然に莉沙のスペースを作る。  

 それを見ながら、手のひらをぎゅっと握る。
 指先が少し冷たい。  

 椅子がテーブルの横にぴたりと収まる。  

 まるで最初からこの場の流れが決まっていたような、そんな錯覚に陥る。  

 彼女は何の迷いもなく、さっと腰を下ろし、リラックスした様子でテーブルに手をついた。  

 まるで当然のような動き。

 けれど、こちらの視線を気にする様子もなく、軽く背筋を伸ばす。  

 どうすればいいのかわからないまま、じっと指先を見つめる。  

 何か言うべきなのか——
 考えるが、声にならない。  

 やがて、静かに食器が触れ合う音とともに料理が運ばれてくる。  

 銀色のトレイが手際よく傾けられ、皿がテーブルの上に並べられていった。

 鮮やかに盛り付けられた料理が、ほのかな香りを漂わせる。

 食事の時間が始まる——

 その事実が、どこか特別な意味を持っているような気がした。  

 じっと目を凝らす。  

 見た目は美しい。味もきっと美味しいのだろう。  

 けれど、食べることに集中する気持ちが湧かない。  
 視線を皿からそっとずらす。  

 それは、自分だけなのだろうか。  

「かずくんとこうやってレストランで食事するのも、久しぶりじゃない?」  

 弾むような彼女の声。  

 そう言いながら、軽やかにナイフを動かしていた。

 無駄のない動きで、柔らかくステーキを切り分けていく。

 その様子を横目で見ながら、手元に意識を戻す。 
  
 私は、ステーキナイフを握る指先に、いつもより力が入らない。

 刃が肉に沈む感触は確かにあるのに、思うように切れない。  

 握る力が足りないのだろうか…いや、違う。

 心のどこかが緊張で固まっていて、ナイフをしっかりと扱えないんだ。

 小さく息を吐き、もう一度刃を滑らせる。

 しかし、力の入れ方が不自然で、肉の繊維にうまく沿わず、ぎこちなく裂けてしまう。  

 一口分に分けるのに、余計な時間がかかる。

 まるでこの食事が、簡単に進んでしまうことを、心が拒んでいるかのようだった。  


 目の前の皿を見つめながら、ほんのわずかに唇を噛む。  



 彼女の会話が空間に溶けていくなかで、手元にだけ意識が集中する。



 まるで、そうしないといけないかのように。
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