その魔法が解ける前に

hayama_25

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第44話

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「…帰ろっか」

 そう言って、壱馬様が手を伸ばし、車のエンジンに指をかけた。

 キーが回る音が、静かな車内に小さく響く。

 その瞬間、空気が変わった気がした。
 まるで、何かが終わってしまう合図のようで。

 まだ何も言えていないのに。
 まだ、その問いにちゃんと答えていないのに。

 このまま帰ってしまったら、今日のこの時間が、ただの“通り過ぎた出来事”になってしまう。

 エンジンの振動が足元からじわじわと伝わってくる。

 それが、壱馬様との距離を遠ざけていくようで、焦りが胸を締めつけた。

 言わなきゃ。
 このままじゃ、きっと後悔する。

 でも、言葉が出ない。
 喉の奥で、何度も言いかけては飲み込んでしまう。

「疲れたでしょ、?」

 壱馬様の声は優しかった。

 気遣いに満ちていて、私のことを思ってくれているのが分かる。

 壱馬様は、何も気づいていないように見えて、きっと何かに気づいている。

 だからこそ、優しく「帰ろう」と言ってくれたんだ。

 無理をさせないように。
 傷つけないように。

 疲れたのは、身体じゃなくて、心。

 それをどう伝えればいいのか分からなくて、言葉が喉の奥で渋滞していた。

「でもまだ、」

 言いかけて、言葉が途切れる。

「いいよ。無理しなくて」

 壱馬様の言葉が、優しく背中を押してくる。

 その声は、優しかった。

 あまりにも優しくて、その優しさに甘えてしまいそうになる。

 私は、壱馬様に優しさを貰ってばかり…。

 手が、勝手に動いた。

 ハンドルに添えられた壱馬様の手に、両手でそっと触れる。

 気持ちが先に走って、頭が追いつく前に、指先が彼に触れていた。

 ハンドルを握る彼の手。
 その上に、自分の両手を重ねる。

「ま、待ってください!」

 声が震えた。
 でも、確かに届いた。

 熱い。

 壱馬様の手は、思っていたよりもずっと温かくて、

 その温度に触れた瞬間、胸の奥がぎゅっと締めつけられた。

 触れてしまった。
 でも、離せなかった。

 指先が震えている。
 それでも、力を込めることはできなかった。

 ぎゅっと握ることも、しっかりと掴むこともできない。

 ただ、そっと…

 彼の手が止まり、エンジンの音が静かに落ち着く。

「…花澄?」

 彼が静かに問いかける。
 名前を呼ばれるだけで、心が揺れる。

 その声に、逃げずに向き合いたいと思った。

 だから、言葉を紡いだ。

「私は、莉沙さんみたいに可愛くもなければ、明るいわけではなくて…壱馬様と一緒にいる彼女を見て、胸が、痛んだんです」

 言いながら、視線は膝の上に落ちていた。

 顔を上げる勇気がなかった。

 でも、言葉だけは、どうしても伝えたかった。

 壱馬様の隣にいる彼女が、あまりにも自然で、その姿が、自分には到底届かないものに見えてしまった。

 その痛みが、ずっと胸の奥に残っていた。

「それって、」

 壱馬様の声が、少しだけ低くなった。

 問いかけるようで、でもどこか確かめるような響き。

 その声に、心がまた跳ねる。
 でも、もう逃げたくなかった。

「自分と比べてしまって、情けなくなって…どうしても、苦しくなってしまったんです」

 言葉がこぼれた瞬間、胸の奥に溜まっていたものが、少しだけほどけた気がした。

 比べたくないのに、比べてしまう。

 誰かと自分を並べて、勝手に劣っていると決めつけてしまう。

 そんな自分が、嫌だった。
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