その魔法が解ける前に

hayama_25

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第46話

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「か、帰りましょう」

 これ以上何か言われたら、きっと心が持たない。

 壱馬様の言葉が、優しすぎて、真っ直ぐすぎて、
 嬉しいのに、どうしても逃げたくなってしまう。

 だから、帰るという言葉で、そっと距離を取ろうとした。

「えぇ~花澄が止めたくせに」

 壱馬の声は、少しだけ拗ねたようで、でもどこか楽しそうだった。

 茶化すような口調なのに、その奥にある優しさが、じんわりと伝わってくる。

「もう、話したいことは全て話したので、大丈夫です」

 なんとか平静を装って言ったけれど、声が少しだけ震えていた。

 でも、彼は出発しようとしなかった。

 ハンドルに手を添えたまま、エンジンの音だけが静かに響いている。

 その沈黙が、妙に長く感じられて、胸の奥がざわついた。

「壱馬様…?」

 思わず問いかける。

 壱馬様の横顔をそっと覗き込むようにして、声をかけた。

 何か考えているような表情。

 その目が、どこか真剣で、胸がまた高鳴った。

「帰るから、一つだけお願い聞いてくれない?」

 その言葉に、息が止まった。

 お願い…。

 壱馬様が私に何かを頼むなんて、一度もなかった。

 しかも、一つだけなんて、まるで特別なことを言おうとしているみたいで。

 心臓が、静かに跳ねた。

「お願いですか?」

 声が少しだけ上ずった。

 何を言われるんだろう。
 怖いわけじゃない。

 私に出来ることなんて、あるんだろうか。

「だめ?」

 壱馬様の声は、少しだけ甘えているようだった。

 そんな風に言われたら、断れるわけがない。

 彼のお願いなら、きっと。

「私ができることならなんでも…」

 言いながら、視線をそっと伏せた。

 顔が熱くて、壱馬様の目を見られなかった。

 でも、心の中では、何を言われても受け止めたいと思ってた。

 それくらい、彼の存在が大きくなっていた。

 沈黙が落ちる。
 空気が、ふっと静かになる。

 鼓動の音だけが、耳の奥で響いていた。

 そして─────

「俺のこと、壱馬って呼んでよ」

 その言葉が、静かに落ちてきた。
 まるで、柔らかな羽が胸に触れたみたいに。

 優しくて、でも真っ直ぐで。
 私の心の奥に、そっと届いてきた。

 一瞬、時間が止まった気がした。

 本当に、すべての音が消えたような感覚。

 壱馬様の言葉だけが、空気の中に残っていて、それ以外のものが、全部遠くに霞んでいった。

 ずっと“壱馬様”と呼んできた。

 それが礼儀だと思っていたし、距離を保つための言葉でもあった。

 名前で呼ぶこと。
 それは、ただの言い方の違いじゃない。

 壱馬様との間にあった“線”を越えること。
 心の中にあった“壁”を、そっと壊すこと。

 呼びたい。

 でも、呼んでしまったら…もう戻れない気がした。

 壱馬様との関係が、確かに変わってしまう。
 それが怖いわけじゃない。

 彼の隣にいる時間が、
 少しでも長く続いてほしいと願っていた。

 でも、いつか来てしまう日に耐えられなくなる。
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