その魔法が解ける前に

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第49話

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「壱馬さん、もう大丈夫です」

 壱馬さんの腕の中から、そっと顔を上げた。

 視線を逸らしたまま、少しだけ距離を取るように息を吐く。

 そんな言葉が、嘘にも似たように聞こえたのは、今の居心地が愛おしかったから。

 この静かな空間。
 抱きしめられている温度。

 それが、当たり前のように自分に向けられていることが嬉しくて、離れるのが怖くなっていた。

 “もう大丈夫”という言葉は、気持ちの整理がついたからじゃない。

 むしろ、壱馬さんの胸に耳を預けていたいという衝動を、なんとか言葉で抑え込んだだけだった。

 心臓の音が耳の奥で静かに鳴り続けていて、彼の腕の温度が、背中にじんわりと染みていた。

 今すぐ離れてしまうのは、ちょっと惜しいと思ってしまうくらい、心地よかった。

 だけど、このままでは心が持たない。

 壱馬さんが優しくしてくれるたびに、期待してしまいそうになる。

 それが、怖かった。

 それに、この距離に、安心と同時に、どこか言いようのない不安が生まれる。

 このぬくもりが壱馬さんの気まぐれではないかという疑念が、心の奥で静かに重なっていく。

 この安らぎが一時的なものなら、嬉しさがあとで痛みに変わってしまう気がした。

「えぇ、もう少しこうしてちゃ駄目?」

 その声は、思っていたよりもずっと甘くて、耳元でふわりと響いた。

 心が跳ねる。

 もう少しという言葉が、まるで永遠を願っているように感じられた。

 自分から抱きしめておいて、そんな風に言うなんてずるい。

 私の気持ちを揺さぶる言葉を、何の気なしに口にするなんて。

 駄目と言いたいのに、言えない。

 言葉が喉の奥でつかえて、何も返せずに、ただ彼の体温に身を委ねるしかなかった。

「もしかして、本当にこうしてたかっただけですか?」

 気づけば、ぽつりと問いかけていた。
  想像していた理由は、きっと“慰めるため”だった。

 私が泣きそうだったから、彼は抱きしめてくれた。

 そう信じようとしていたのに、今の壱馬さんの言葉が、その前提を静かに揺らしてしまった。

 慰めじゃなかったとしたら。

 私が泣いていなくても、こうしていたかったと思ってくれていたとしたら…。

「最初からそう言ってるじゃん?」

 壱馬さんの返事はあまりに軽くて、ちょっと拍子抜けした。

 でも、同時に心が静かに跳ねる。

 それは、言葉の軽さとは裏腹に、隠しようもない本音みたいだった。

 理由なんてなくていいって言った言葉は、撤回しよう。

 ちゃんと理由があったほうが、安心できる。

「は、離れてください」

 声が不自然に高くなってしまった。

 喉の奥がざわついて、感情よりも先に言葉が出てしまった。

 心地いいはずなのに、どうしてこんなに複雑なんだろう。

「分かったよ…あ、顔真っ赤。顔にすぐ出るところ可愛いね」

 壱馬さんが笑いながらそう言った瞬間、自分の顔に血が昇っていくのが分かった。

 首まで熱が回る。
 恥ずかしくて、恥ずかしくて、目を合わせられなかった。

 本心を悟られるのが怖いから、
 今まで無表情を装ってきた。

 誰にも気づかれないように、全部、胸の内に閉じ込めてきた。

 なのに、彼はそれを、まるで愛おしそうに“可愛い”と笑った。

 その一言に、また心が揺れた。

「壱馬さんの可愛いの基準がよく分かりません」

 言いながら、目は伏せたまま。

 声は、思った以上に柔らかくて、照れが隠しきれていなかった。

 自分の脆さを見られるのは怖い。怖いはずなのに。

「そういう所も可愛い」

 また、心が跳ねた。
 もう何度目だろう。

 壱馬さんの言葉にこんなにも簡単に揺れるなんて、自分でも信じられなかった。

 でも、壱馬さんの目が、本気でそう思ってくれていることを語っていて、

 それが嬉しくて、また恥ずかしくなった。
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